音楽と人生のオーバーラップ vol3
HELLO TOKYO 金なしツテなしからのスタート あったかいラジカセと隣のおばあちゃん
2001年 4月1日朝6時 バスに揺られ渋谷についた。4月8日の入学式までに家を探すつもりで来た。手持ちは30万円。渋谷のスクランブル交差点を見下ろせるカフェで不動産屋が開くのをまった。東京は朝の6時だというのに行き交う人の数とその様相にワクワクがとまらなかった。
2,3日かけて家を探そうと、住みたい場所はあにぃに勧められた三軒茶屋を目指す。2件ほど不動産屋に回ったが、予算オーバー。一駅隣りの駒沢大学前の物件を勧められた。こちらも予算ちょいオーバーだけど、大家さんが隣に住んでいる古めかしいアパートだった。大家さんも内覧で顔を見せてくれ、「今日からでも住めるよ、洗濯機と冷蔵庫は前の人がおいていったから使ってもいいよ」といってくれた。
半日の不動産屋巡りでも疲弊していた僕は即日で住むことを決めた。その晩大家さんは「何もないと困るでしょ」と布団とラジカセをくれた。東京が冷たいなんて誰が言ったんだろう。とても温かい人情にふれながら、ラジカセから聞こえる音とともに眠りについた。
朝になると窓がガラッとあいた。大家のおばあちゃんがアルミホイルに包んだおにぎりを差し入れてくれた。
このおばあちゃんは「ちょっとスーパーにいくわ」と言いながらコンビニに行くのだけれど、通学の道中よく一緒に歩いた。戦時中に僕の地元に疎開していたらしく、恩返しができて嬉しいと語ってくれた。東京はあったかいのだ。
2年遅れて専門学校へ行く。
4月8日 専門学校の入学式へ。当時は長髪をオールバックでくくり、アニィが作ってくれたパンク革ジャンを来て学校へいった。一人2学年遅れてだったので、少し気後れしていたが、一学年下で入ってきた3人と仲良くなった。僕は一人1歳上だったのでニイヤンと呼ばれた。ヒップホップとレゲエがすきな徳島から来たドレッドヘア、九州からきたロック好きな浅野忠信に似た奴。神奈川の平塚から来た長身でお調子者でクラブ音楽すきな奴この三人とつるむようになった。
高校卒業したての子達とはお酒やタバコが絡んでくると付き合いにくいのでこの4人でいろんな音楽や映画、カルチャーの情報を交換しながら遊んだ。3人共真面目ではないけれども、悪い人ではない。すごく波長があった。また4人というのも良かったのだと思う。3人だと2対1になったりして孤立が生まれるのがそれぞれのシーンで2:2に別れたりできてよかった。女好き2:奥手2みたいな。
しかしながら、生活費も稼がないと行けないのでアルバイトの応募をしつつも急場しのぎに週払いで給料をくれる佐川の仕分けの夜勤バイトに行った。
品川駅から深夜の送迎バスにゆられ、地元とは違う訳アリ気な人たちに囲まれ、思ってる理想のTOKYOとは違う生っぽい東京がそこにはあった。
そしてちょうど世間はカフェブーム、6月新規オープンのカフェのバイトに応募した。
60倍のカフェバイト カルチャーショック
5月 6月に渋谷でオープンするダイニングカフェの新規スタッフ募集の面接に下北沢に向かった。面接場所は下北沢の某コスメ雑貨の店だった。そこのオーナーが新たに渋谷にカフェを出店するという店舗だった。
話をきくと、40代後半のその人はかつてはアパレルのデザイナーで第一線で活躍していたそうで、ツバキハウスなんかがあった時代の東京のカルチャーシーンで遊んでいた人だった。ちょうそそういう文化に傾向していた私は面接というよりそういった時代の事を聞いて興奮したのを覚えている。
「学校へ通いながら学費も必要なので週5で夜勤で働きたい」と伝えた。「うーん夜勤メインのスタッフはすでに知り合いで何人かいるから今回の募集は1人だけなのよね、今で60人程応募があるから二次面接はとにかく来てもらうと思うけど」と言われた。
「アルバイトの面接で二次面接とかあるんだ、これは落ちたな」と思いながら帰路についた。
1週間後二次面接に向かった開口一番「色々面接したんだけどね、あなたで行こうと思っているんだけどどう?」と言われた。「ええええ!」面接というより採用告知だった。倍率の中通った事も、この人に選んでもらえた事もとても嬉しかった。田舎から出てきたぽっと出の僕なんかでいいのかなぁと少し不安も感じた。
「6月のオープンだから5月からたまにはお店に顔出しにきてね」といわれた。このオーナー、すごくまろやかで優しい物腰で、「第一線でやってきただけあって人徳のある人だな」と感じた。
オープンまでの間に何回かお店にいって、年上の社員やバイトさんにオペレーションを指南されたりメニューを覚えたえりした。6月オープンの日はレセプションパーティーだった。こんな洒落た言葉に僕は酔った。
渋谷の宮益坂の方にあったこのカフェのレセプションパーティにはアパレルや音楽業界や出版業界の人たちがたくさんやってきた。思い描いていたTOKYOがここにあった。おしゃれな人達で賑わうなか、どうもドラッグクィーンのような人や、ドリンクを渡す時おねぇぽい人たちがヤケに多く見えた。
年上のバイトさんに聞いた「あの、なんかお客さんオカマのようなひと多くないですか?」すると
「ええ?何言ってるのオーナーもゲイだし、スタッフも何人かゲイのスタッフがいるよ。気が付かなかったの?」
今でさえLGBTがと理解を高めようというものがこの時代、田舎から出てきた僕にはゲイという言葉もだし、そういう人たち出会うのも初めての体験だった。
東京の言葉に慣れていなかった私は、オーナーのおねえな喋り方をただ、東京の優しい大人の人の喋り方と誤解していたようだった。ここはゲイバー?なの?そんな不安と未開の世界のアルバイトが始まった。
カフェと学校は忙しかったら広尾の一軒家に住む。
カフェも週5で夜の20時から朝の5時まで働いて学校へ9時から16時まで通った。駒沢大学→渋谷→半蔵門 結構ハードだった。学校へ行っても眠たかった。授業を受けるがどうも放送寄りの映像制作でPC主体のデジタル映像の授業は少なく、少しがっかりした。
他の生徒もあまり知識もなくどちらかというと僕がみんなに教える立場になっていて刺激がすくなかった。授業がつまらなかった僕は先生にエイフェックス・ツインやビョークのPVを作ったクリス・カニンガムやダフト・パンクやケミカル・ブラザーズのPVを作ったミシェル・ゴンドリーの作品なんかの映像制作手法なんかを解説してもらう授業に持っていったりしていた。代わりにみんなのPCのヘルプをしてお手伝いもしつつ。
特にミシェル・ゴンドリーが好きだった。美しい表現やかっこいい表現というよりも映像の中で時間と空間をコントロールして時空を新しい視点で捉える作品が多く楽しかった。マトリックスが採用したバレットショットを使ったSTONESの「Like a rolling stones」や、最近ではジョジョ奇妙な冒険の4部のオープンニングやもうお亡くなりなられたがパルチザンの野田凪さんのYUKIのPVなんか使っている映像描写の手法の、white stripeのPVで興味のある人は見てみて欲しい。
当時はYOUTUBEなんてものもなく、こういった映像が見れるのはMTVなんかがたまたま放送している時くらいだったなか Directors Labelという映像作家を軸にPV集めたDVDをバイブルのように見ていたし、クラスの女の子達を家に呼んで鑑賞会もしていた。また映像に関しては色々書きたいので違う記事で書こうと思う。
逆にカフェは、元アパレルのスタッフ(原宿のgood enough)や元美容師、バーテンダーなど大人と感じる人たちが多く刺激的だった。お店もゲイバーではなく普通のカフェ。どっちかというとオーナーのセンスもあり、エッジの聞いたセンスの良い上品なダイニングカフェで、ランチから朝5時まで営業していた。お客さんも、業界人や、芸能人、ミュージシャンなど多岐に渡り楽しい接客だった。アパレル系にはゲイの方も多く、店にいるとセクハラもされた。女の子の気持ちがわかった。セクハラ だめ絶対!
細い体格と長髪だった僕はゲイのスタッフの好みとは違っていたこともあり、上手に仲良くなれた。そんな中の一人のゲイのスタッフがニューヨークハウスとその元ネタのフリーソウルやレアグルーヴ系もめっぽう強い自宅DJの男の子がいた。Masters at WorksやNormanJayといったダンスミュージックとフリーソウルが重なったような彼らの今で言うエモーショナル、エモい音楽を色々教えてもらい聞いた。
いつしか彼と僕がカフェのCDを買いに行く予算を毎月1万円もらえるようになった。渋谷のタワレコと、青山のSpiral recordによく行った。お昼はボッサ、フリーソウル、系で夜はハウスやレアグルーヴ系の音楽をかけた。coletteフランスのおしゃれコンピなんかもよく聞いていた。Ladytron 「Playgirl」とか。Movement 98 featuring Carroll Thompson「Joy and Heartbreak」なんかも外苑前を散歩しながら聞くと心地良かった。
けどハードワークだった。
休みの深夜は大家のおばあちゃんの突撃の中Deniece Williams 「 Free」 や paulette tajah「 put a little love away」なんかを暗い部屋で聞いて体を休めていた。
9月やっぱりこのままだと体が持たないので、家賃7.5千円の家を辞めて4万くらいの風呂なしの家に引っ越そうと思った。オーナーに「週4のバイトに減らして欲しい」そう告げた。
「親は支援してくれないの?」
「うーん家の商売が失敗して借金あるんで」
「親を恨んでいないの?」
「別に恨みはしてないですよ、他の人達は親の期待を背負って大学に行くしかない中、僕は好きな事をさせてもらえてるんで」
そう言うとオーナーは
「感動した!今の住んでる家が大きくて掃除も大変だからマンションに引っ越そうと思っているんだけど、その家に住みなさい」と
高級住宅地にある広尾の一軒家の持ち家を家賃光熱費込で4万で住んでいいことになった。イケメンのシェフが千葉から通っていたのでシェフも寝泊まりする家としてシェフと僕に貸してくれた。
シェフは「古い家だからいいや」といって数回泊まりに来たくらいでほとんど僕一人で住んでいた。けどバイトの日数は減らなかったが自転車で10分で職場に行けることもあり、なんとか頑張った。
広尾、青山を抜けて渋谷で働く。楽しい通勤だった。
その1ヶ月後、カフェのスタッフにも僕がオーナーの家にすんでいることがわかり、「彼だけずるい!僕も住みたい!」と二人のゲイのスタッフが上申し、ノンケの僕だけ広尾に住まわせているというのもバツが悪かったのか、「じゃーあんたたちも住みなさい」って流れになり、ゲイの2人と僕との今で言うシェアハウス生活が始まった。そうしてクラブにも遊びに行くようになる。
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