「不変の与件」が背景と化す

ゆっくりと日々の出来事を記録しようと思って始めたnoteではあるが、基本的に外出が苦手なので、趣味の読書や映画の感想がメインになってきた。僕自身は仕事以外の場での議論が苦手なので、素直な「感想」を書いているつもりなのだが、職業病のせいで批評のようになってしまう。変に逃げを打つのもどうかと思うので、もはやこのnoteを作品批評として捉えてもらっても構わない。

ということで相変わらず文芸や映像を通じて世界に繋がっているような気になっている。そのような中でロシアのウクライナ侵略のドキュメント映画を見てきた。

マンタス・クヴェダラヴィチウス監督は、昨年のロシアの侵略以前からマウリポリを舞台にしたドキュメントを作成していた。本作においてクヴェダラヴィチウス監督は昨年三月の時点でマウリポリに入り、教会を避難所にして生活をする人々の姿を撮影する。しかし3月30日に親ロシア分離派勢力に捉えられて殺害される。本作は助監督が映像化したものとなっている。

作品では断片的にマウリポリの人々の様子が収められている。廃墟となった町を眺めながら煙草を吸う人や、発電機を拾いに行く人が映され、屋外でボルシチを作る風景が流れる。そのいずれの場面でも爆撃の音が止まない。撮影地からそう遠くないところで砲撃戦が繰り広げられているらしく、煙や焔が映り込む。まるで夏場の雷のように延々と砲撃の音が聞こえ、それをBGMにするように現地の人たちの「日常」が描かれる。

僕は家に「いなければいけない」ことはない。外に出ないことを「選択」できる。しかしマウリポリの人々は突如として砲撃を受け、大きな制約を受ける。

文化論においては、人間の営みはすべて「文化」と見做されるため、この戦禍は否応なく従わざるを得なく拘束性の強い「文化」として解釈できる。自らの意志に反して、人々は「文化」に巻き込まれる。彼らにとって砲撃に包まれる日常は「不変の与件」であり、否応なく引き受けなくてはいけないものだ。

そして作品の中で、砲撃の音はすでに日常化している。人々は屋外に出て、砲撃の音を聞きながら食事を作り、人と話す。

仙台に住んでいた頃に震災に見舞われ、余震が続く屋外を見て回った。市民は所在なげに屋外に出ており、余震に揺られながら人と話し、煙草を吸っていた。昨日は石川県で大きな地震があり、余震が断続的に続く。自らが意図しない現象に従わざるを得ず、次第にそれは背景となる。地震が自然現象である一方で、僕は砲撃を「文化」と見做さざるを得ない事実に愕然とする。

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