占有に抗う文化のあり方
最近、書く習慣を止めているのでアウトプットの能力がさび付いている。今日は久々に書く。
「地域」と「世界」をつなぐ、と題して近畿大学と弘前大学の学生とともにZOOMでトークセッションを開催した。
弘前大学との関わりは(自分の出身大学だということが一番だが)弘前グローカルアクションの活動に参加するようになったのがきっかけだ。弘前市をフランスと結びつけることで、マルシェを中心とした様々なアクションを仕掛ける学生グループの活動が興味深い。僕はとにかくすぐに影響を受けるので、さっそく学生と地域を考える研究会を立ち上げ、地域から「フランス」を見ることを試みた。その過程で、僕個人を超え、弘前大学と近畿大学の学生交流が始まり、学生の弘前旅行、近大でのオンラインセッションを経て、今日のイベントが実現した。
今日のディスカッションの中でもっとも興味を惹いたのは「地域文化」の価値付けだ。たとえば、ある学生の住む町は市町村合併によって飲み込まれ、拡大した自治体の中にある文化遺産が市民のアイデンティティとして押しつけられた。いわばこれは他者による文化の権威付けだ。自分が成長の過程で地域に感じていた愛着が、より強大な「文化遺産」によって塗り込められ、均一なアイデンティティが外部から与えられることに対し、学生が非常に抵抗を感じていることが覗えた。
弘前市には弘前城という「シンボル」がある。他方、大阪には大阪城がある。大阪城を巡り、人々はしばしばドライな反応を見せる。曰く、大阪城は鉄筋コンクリートであり、観光地化されている、と。そのような意見がある一方で、大阪城を見て育った学生は、大阪城を精神の拠り所としている。そこには「大阪城=鉄筋コンクリート=俗で人工的な観光資源」といった他者の評価は関係ない。歴史的なものであろうと、近代的なものであろうと、文化が個人との関係の中で意味づけられる様子が非常に興味深い。
歴史ある都市の「重要性」、近代的都市の「重要性」、ベットタウンの「重要性」……都市空間は様々な角度から評価され、その一面的な魅力が「圧力」として我々の印象を押しつぶしていく。だが都市への愛着は、個人の関わりの中で、時間をかけて育まれる。言い換えれば個人と都市は様々な「動詞」で繋がっている。「動詞としての文化」は、他者によるアイデンティティの占有に抗い、個々の内面で唯一無二の価値を持ち続ける。
まあ、自治体が「我が町のシンボル」とか言ってるものもやっぱりそれなりに重要なんだけどね。