従属と脱却の二つの力学
誰かの目を気にして働いたところで他者の心中を動かすことはできないことなど少し考えればわかりそうなものだが、諦めと共に実感するにはそれなりの時間を要する。人目を気にしたところで印象は他者に委ねられる。それならば自分の好きなように振る舞う方が精神的にも楽だ。僕が遊んでいるように見えるなら、他者の評価を諦めたのだと思ってほしい。
他者の目や評価を逃れて逃げ込む先は、図書館に美術館に映画館だ。そこでは自己の目を通して他者の世界を知ることになる。最近も印象派やモダンアートに触れてきたが、社会変革が暴力性を生む中で自身の内的世界を研ぎ澄ませる様に深い共感を覚える。個々の世界は差異に満ちており、その差異が僕らの普遍性を示すのだ。
トマ・カイエの『動物界』は、人間を動物へと変化させるウイルスが蔓延した世界の物語だ。妻が動物化した主人公フランソワは、やがて息子エミールの動物化を目の当たりにする。物語は人間と動物化する人間(新生物)の衝突であるが、変質していく人間を「病」と見做す態度そのものに暴力的な力が見え隠れする。
言うまでもなく、僕らはテクノロジーにより身体と精神を拡張させ続けてきた。途方もない距離を日帰り出張し、室内からオンラインで世界へと繋がり、AIを介して複雑な思考を育む。スマートフォンを所持することがスタンダードとなり、膨大な情報を持ち運ぶ僕らは、すでにゼロ年代の生活を忘れてしまっている。アプリ無しには見知らぬ町を散策できず、友人との待ち合わせすらできない僕らは、テクノロジー無き人々を無慈悲に切り離す。動物化する身体を目の当たりする我々は、都合の悪い身体の拡張を「病」と切り捨てるのだろう。
息子エミールが動物化することに気づいたフランソワは、その病気を隠そうと試みる。その一方的な庇護は、動物化以前よりフランソワが見せていた態度に他ならない。子供の判断を蔑ろにし、自己都合で生活を決めていくフランソワは、息子の病の発症前後でいささかの変化も見せていないのだ。息子の存在ははじめからフランソワにとって「動物的身体」である。息子が動物化しなかったところで、親と異なる新たな価値観により拡張していく息子の心身は無慈悲に切り捨てられていくだろう。父の権力は、人間が動物を制圧するように、いとも簡単に子供を覆い尽くす。
社会は進展し、テクノロジーによって身体は拡張する。身体拡張はスタンダード化し、自らの変質を自覚できない人間は、他の仕方での拡張や変質に違和感を抱く。弱き存在は他者の権力に萎縮し、価値観に合わせて変質を試みる。「多様性」とは結局のところスタンダードとされるものの枠内に存在する微細な差異に過ぎぬかもしれない。結末において、支配的な力に反して拡張し続ける息子の身体を目の当たりにしたフランソワは、ついに息子の庇護を解き、外の世界へと動物的身体を解き放つ。むろんそれは純粋なハッピーエンドではなく、人間の文化と隔絶した動物たちの世界はあまりにも不気味で危うい。社会への従属も、社会からの脱却も、等しく危険を内包する。安易な正解などあろうはずもない。人間でありながら獣でもあるエミールの姿が象徴するように、結局のところ僕らは権力への従属と脱却の二つの力学の中で迷い続けるしかないのだろう。