個々を隔てる壁に対峙する
村上春樹の新作『街とその不確かな壁』は、過去の作品『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に基づく構成だ。主人公の惹かれる女性が語る世界に迷い込んだ主人公は、そこで自分と「影」を分離させ、図書館で「古い夢」を読む。現実感を喪失した世界は、壁に囲まれており、人々は自身の役割を果たすだけの簡素な生活を送っている。
学生時代に『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだときは、簡素な役割に終始する不可思議な世界に強い憧憬を抱いた。
「図書館」というガジェット(?)は、社会生活に面倒さを抱える若者にとって魅力的である。いわば自己の精神に埋没し、他との接続を拒絶することへの憧憬だ。大学や文学といった精神への埋没による社会との断絶を志向することを「モラトリアム」と呼んでもよいかもしれない。
村上春樹の社会に対する態度は、「コミットメント」「デタッチメント」の用語で広く知られている。社会に入り込むか、距離を取るか−−一般に村上の作品は、初期=デタッチメント、90年代以降=コミットメントとして理解される。その評価の是非、そして作家自身の試みの是非を問うつもりはない。僕の関心は、人間がデタッチメントとコミットメントを往還せざるを得ないこと、言い換えると自己と他者(社会)のあいだに穿たれた「壁」にある。その点において本作は「壁」が主題化されたものであり、僕の興味を強く惹く。
村上春樹と同時期の作家で、まったく違う作品を生み続けているのが北方謙三である。両者は「団塊の世代」であり、学生運動を目の当たりにした。北方の『水滸伝』は60年代の学生運動の美学の反映として読解可能であろう。権力を持った官軍の暴挙に、梁山泊軍が反抗し、やがてその理想は破れていく。むろん円熟を迎えた北方の作品は安易な青春に終始することなく、梁山泊は一つの「国」として独特な経済システムを持ち、オルタナティヴな国家を打ち立てる。そこには既存の社会の「アンチ」にとどまらず、別な社会の創造を企図する態度が見て取れる。他方で山に閉じこもり、内面へと向かいながら武術を追究する王進は、梁山泊にゆるやかに関わりながらも、社会との接続を拒絶する。王進を「デタッチメント」と見做した時、梁山泊の「コミットメント」は「社会運動」への参加(学生運動的なアンガージュマン)ではなく、「社会構築への参加」であることが読み解ける。
北方の補助線を踏まえると、「社会」が一律のものではなく、「他者と構築する共同空間」であることが理解できる。梁山泊も周囲の共同体も、本質は変わらない。誤解を恐れず簡略化するならば、自己を脅かすものに反発する運動的な「アンチ」を「コミットメント」と見做すのではなく、他者との共同空間に参与し、構築することが重要となる。さらにわかりやすいディスクールに落とし込むと「コミュ障は程々に」だ。
その際に超えねばならぬものはやはり個の精神の内に潜む「壁」であろう。壁の向こう側にいる他者とどのような関係を紡ぐのかが本質的な問いとなる。「影」は社会秩序に合わせて他者交流をする際の「表面的な自己」であり、その内奥に潜む真の「深い自己」は「影」を捨てることによって意識される。
壁の内側への移動は他者との断絶であり、影との決別は自己への埋没を表象している。コミットメントとは、自己への「閉ざし」と他者への「開き」の二つの力学を自覚し、その耐えざる運動を受け入れることだと言い換えられるかもしれない。村上の新作は、作家が未だに「開き」と「閉ざし」の動きの中に身を置いていることを示している。この態度は先日批評した村上龍『ユーチューバー』における老人の性愛の変奏曲であり、老成してなお過去の女性遍歴を語り、特定の女性とのいくぶん精神的な恋愛を楽しむことで他者へのチャンネルを開こうとする態度と呼応する。村上龍と比較するとしたら、村上春樹の今作は「開き」の力学を考慮せざるを得ない社会的存在による、痛切なまでの「閉ざし」の希求の物語だ。
村上の態度は他者関係に疲弊しては小説世界や映画館に閉じこもろうとする自分自身の「弱さ」に繋がる。老成し、社会へと開かれる必要性を感じながら、自己に埋没し、自己の外側の世界を象徴する女性を求めていく−−この態度は珍しいものではなく、日本社会に蔓延する中高年の「弱さ」そのものだ。その「弱さ」のこじれが社会の中で陰湿な暴力として発露する様を僕らは日々目の当たりにしている。デタッチメントの力学に引きずられ、女性を求めて安堵する作品に「やれやれ」と脱力感を覚える僕らは、つまるところ自分の弱さを隠蔽して社会にコミットメントしたフリをする。村上春樹の新作に没入し、あるいは批判的な態度を取ったとしても、問題は依然として春樹作品が照らす自分の「弱さ」にある。その意味で僕個人の課題も、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に憧れていた青年期から根本的に変わっていないようだ。