現実と夢想の狭間に立つ
原稿の類いを月の半ばまでに終わらせたため、少なくとも締切に追い立てられることはない。毎年、年末は意識的にゆっくり過ごすことにしているが、子供たちがいるとテレビの権利を奪われるために映画をゆっくり鑑賞することもできず、読書も邪魔をされるため、何もせずに時間が過ぎていく。
この一年のテーマは「生と死の狭間」だったように思う。二月のシンポジウム、七月の学会発表のテーマはともに堀辰雄における折口信夫とマルセル・プルーストの受容であった。内容は「生の世界にあって感覚を研ぎ澄ませると、自然の風物を通じて死の世界を見通すことができる」といったもので、これをアカデミックな議論に載せるために文化触変モデルの枠組みを利用した。生死の話を一般化すると、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」の対立であり、このテーマが「大人」へのウケが悪いのは『星の王子さま』を半分も読めば理解できる。
九月に星野道夫の写真展が京都に来たため、約十年ぶりに彼の作品や文章に触れてきたのだが、星野においても目に見えない世界への関心は徹底している。野生動物の世界に隣接するアラスカを拠点として、目に見えないものへのアプローチを続ける星野の作品群は、今年の研究テーマを背景にしたこともあってか、強く共感するものばかりだった。
以上を背景として、日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』について少し考えてみたい。高度経済成長期の端島(軍艦島)と、2018年の東京を巡る物語は、石炭産業が終わりを迎える中での青春群像劇とまとめることができる。最初に断っておくが、僕は炭坑と昭和レトロを偏愛しているため、作品のテーマやストーリーと関係なく、本作の描写がツボだった。
少し含みのある言い回しだが、逆に僕にとって「老人が若い頃の恋愛を思い出し、人生の本質を知る」といった80年代トレンディドラマの老人向けリヴァイヴァルには関心がない。従って少なくとも僕は、端島の食堂で働く朝子が若い頃の思い人である鉄平を忘れられず、現代の冷え切った家族関係を問題視し、鉄平に似た若いホストを迎え入れることで家族を再生させるといった物語構造には共感しない。
ただし、これは「捉え方」の問題でもある。本作を「昔の日本の家族コミュニティと純愛の物語」と捉えることも可能だが、僕はもう少し別の観点から本作を視聴していた。それこそが「目に見えるもの」と「目に見えないもの」の関係性であり、言い換えると「現実」と「夢想」の対立だ。
エネルギーの転換により、端島の炭坑が閉山に向かう中、朝子は過去を置き去りにし、本土での新たな生活へと繰り出した。朝子の生活の変化は本作に十分に描かれていないが、過去としての端島からの漸進であることは疑いようがない。朝子が屋上緑化事業で成功したのは、端島の過去をアップデートしたためであり、現在は過去からの脱却と漸進によって構築される。物語の本質は、朝子が現在の到達点から目に見えぬ夢想としての過去を探究する点にある。経済的成功によって乗り越え、目に見えぬものとなった過去が、再び見出されることによって現在の強度を高めていく。これを過去の恋愛の昇華と見なすことも可能だが、僕は「現実」の背後に潜む「夢想」を現出させ、相互のコミュニケーションを打ち立てる試みとして理解したいのだ。
最終回において廃墟となった端島を訪れた朝子は、過去の幻影と対話し、すでに死去した鉄平が作ったグループホームは庭のコスモス畑から端島を一望できる作りになっていた。切り捨ててきた過去=夢想は現在に並ぶ強度を獲得し、現実のそこかしこに過去が入り込む。副主人公・玲央は、朝子の過去を引き受けるように旅をし、過去を現在に重ねることで日々を生き直す。過去に拘泥するのではなく、失われぬ過去を認め、見据える視点を獲得することにより、現在は新たに意味づけられていくのである。
過去を見出すこと、夢想に立ち止まること、死の世界を身近に感じること−−これらの試みは僕にとってそれだけで価値がある。過去が息づいていることそれ自体が重要だ。そしてその当然のことが奇異に語られる現在が、ひたすらに通り過ぎていく。