ラグビーのリアリズムに直面する

日曜は軽めに。

リーグワンの花園近鉄ライナーズvs横浜キヤノンイーグルスの試合に行ってきた。

今さら言うまでもなく、ラグビーはとても面白い。同時に東花園という土地においてラグビーは大きな存在感を持つ。市民にとって身近なスポーツであるゆえに、Division 1に昇格したライナーズが直面している壁が切実なものとして意識される。

前節のクボタスピアーズの試合と同様の完敗だ。ディフェンスが有効に機能せず、ボールを持った相手選手の突破を許してしまうような場面が多く目につく。自陣深くに入ってきた相手フォワードの突進を止められず、ペナルティが続き、トライが積み上げられていく。あれよあれよと70失点だ

ラグビーを見て気づくのは、サッカーのような番狂わせの不在だ。サッカーでは不確定要素が多いこともあってか、試合はまさにやってみなければわからない。相手のシュートが「たまたま」入らないことも少なくはない。圧倒的なチーム差は、しばしば90分の偶然性に耐えられない。他方でラグビーに感じるのは徹底的なリアリズムであり、地力の差は残酷なまでに露わになる。

試合は最後までわからないと言うが、あえて批判されそうなことを言うと、試合開始前から結果の予測がついてしまうことも少なくない。そのようなときに番狂わせを願ったとしても、現実は覆らない。選手はリアリズムを受け入れながら、それでも試合で勝利を願い、ファンはスタジアムにかけつける。

リアリズムと対峙し、それでも前に進むことができるか。勝手な想像を許してもらえば、それはままならぬ世の中をそれでも生きることと同義だ。ただしラグビーの世界は、漫画版ナウシカのような希望の失われた世界ではなく、リアリズムの超克は絶対に可能だ。むろんそれはライナーズが抱えている問題のように、決して簡単に解決するものではないだろう。さて我々は、サッカー的ファンタジーに生きるのか、あるいはラグビー的リアリズムに生きるのか。

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