「受け手」としての運営が持つ意味
普通に日常を送っているように見えて、その裏で学会の実行委員長を務めている。今月、近畿大学で開催予定であった日本国際文化学会第19回全国大会は、発表内容のペーパーを専用ページにアップする「書面開催」となっている。報告者のペーパーを読んだ会員は、ブログのように発表原稿に「コメント」をつけて議論を展開していく。
学会では20〜30分程度の時間の発表を聞き、対面で議論を行う。書面開催では発表から「声」が抜き取られ、「文字」での議論に取って代わる。その結果、論文を読んで講評を書くような作業が当たり前のように進められることとなる。声、あるいは表情や仕草といったノンバーバルなものはすべて排除され、純粋な研究の素材が我々の目の前に提示される。それゆえ「聴衆」のコメントも、論考の「核」に直接手を触れるようなものになる。結果、議論は一気に真剣勝負のような雰囲気を帯びていく。
専用ページに並ぶ発表原稿を眺める。真剣勝負の素材として議論の俎上に挙げられている発表者(=プレイヤー)の中に、自分がいないこと——自分が発表しない学会で、自分の考察とは異なる議論が久しぶりに自分の内面を満たしていく。完全に「受け手」となるのはずいぶんと久しぶりのことだ。戸惑いながらも、その感覚が懐かしい。
発表するものがなかった院生の頃、学会で発表を聞き、ひたすら勉強していた日々があった。
実行委員は運営側であり、「場」を作る役割だ。だが今年はその「場」に自分の研究を投げ込む予定だった。本来であれば自分が企画し、発表を務めるシンポジウムが開催されるはずだった。だがコロナによる近大大会の中止に伴い、来年度に企画を延期した。
三月には関西フランス語教育研究会(RPK)の運営があった。しかしその大会も中止となり、議論の「場」に投げかける予定だったラウンドテーブルを延期せざるを得なくなった。自分が企画を延期する中で、大会の論集の編集作業が進み、発表予定者の論考が文章化されていく。そのプレイヤーたちの姿の中に、当然ながら自分は存在していない。
僕にとって運営はプレイヤーと同時進行せねばならないものだった。選手兼監督となり、自分の研究を通じて「場」を構築し、その中で自分の考察を発表することが重要であった。だが、一転して自分は「受け手」となり、自分が準備した「場」に集う発表者=プレイヤーの議論に学ぶこととなった。だから、学ぶ。ペーパーを一つずつじっくりと読み、一つずつ内面に蓄積していく。自分の意見は発せず、学び、疑問を文字化してコメントを付す。この機会が来年改めて企画する全国大会に繋がっていくような予感を抱いている。そしてその予感はなぜか確信に変わりつつある。