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【ショートショート風エッセイ】理想の街

2024年9月25日。

石川光太郎(いしかわ・こうたろう)は、妻の麗子(れいこ)と先月生まれたばかりの娘である梨花(りんか)と共に、近所のスーパーへ出かけた。普段は車で買い物に出かけるのだが、9月も終盤を迎えてすっかり涼しくなったため、ベビーカーを押しながらゆっくりと歩いている。

「梨花、見える?大きな公園だよ。大きいお兄ちゃんたちが野球をしてるね」

麗子は、ベビーカーで眠る梨花に優しく声をかけた。

「うおお!取れるだろ今のは!」

「ごめーん!もう一回!」

この辺りで一番大きな公園の中を通るのが、徒歩でスーパーへ向かう際の近道だ。
夏休みが終わってからは、毎日16時ごろから公園のグラウンドで大きな声が聞こえる。

「家まで届いてたのはこの子達の声だったのか。元気だなぁ」

光太郎たちは6月にこの住宅街のある通葉市西井戸町(つばし・にしいどちょう)に引っ越してきたばかりで、毎日聞こえる声がどこから届いているのかは全く知らなかった。引越しして2ヶ月で梨花が生まれたため、落ち着いて近所を散策することもできず、今日ようやく転居後初めての散歩の機会を得たのだ。

「立派じゃないか。こんなに大きな公園があれば、遊ぶところには困らないな」

梨花の健全な成長を期待してこの街に移り住んだ光太郎は、大きなグラウンドとどこまでも続く広い空を見つめながら言った。

「あー、うぅ」

「あら、梨花も大きな公園があって喜んでるわ。大きくなったらここでお友達と遊びたいって言ってるのよきっと」

麗子がニコッとするのを見て、梨花もぎこちなく笑った。

鳥の鳴き声と虫の声、そして子どもたちが公園で遊ぶ声だけが聞こえる、静かな住宅街。
特に大きな用事もなく、まったりと歩くだけ。
「過ごしたかった休日」が、ようやく手に入ったような気がした。


「都会の雑多になんて、二度と触れるもんか」


この街に引っ越してくる前、光太郎と麗子は通葉市の中心地である「通葉口町」に住んでいた。
「通葉電鉄」の複数の路線が乗り入れる大きな駅を中心とした大きな街である通葉口町。
百貨店やショッピングモールをはじめ、プロ野球チームやプロバスケットボールチームの本拠地もある。
中心地から徒歩で5分ほどのところにはたくさんのマンションがあり、光太郎と麗子も結婚して以来そこで暮らしていた。

「ねぇ、前に住んでたところとは全然違って、本当に静かね」

麗子は、通葉口町に住んでいた時には出したことのない穏やかな声で光太郎に言った。

光太郎は、ただ頷いた。
便利ではあったが、夜中まで車や電車の音や酔っ払いの声が聞こえっぱなしの「眠らない街」。全てのことが徒歩圏内で事足りたあの街から、車がなければどこへも行けないような住宅街に移り住んだ理由を、ゆっくり噛み締めながらベビーカーを押す。

(キィーン)

「うわぁぁぁ、ごめんなさーーい!」

野球をしている少年が放った打球が、光太郎の目の前に落ちてきた。バックネットはちょうど光太郎たちがいるのと反対側にある。超特大ホームランだ。

光太郎はボールを拾い上げ、全力で投げ返した。



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