「学問のすゝめ」-諭吉とその師匠、弟子の足跡を歩く
豊後中津-城の破却を提言した諭吉
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」という、大人なら誰でも聞いたことのある名フレーズから始まる「学問のすゝめ」。明治時代に超ベストセラーになったこの本の著者は、おなじみ福澤諭吉である。同時代の他藩に比べても封建制の強い豊前中津藩で下級武士として生まれ育ったため、学問的な実力はあれどもなかなかそれを世のために生かすチャンスを与えられなかった彼は、後に「門閥は親の敵」とまで述べている。
ある年の年末に大分県をまわり、最後に中津を訪れたことがあった。山国川のデルタ地帯に発展したこの城下町の中心は、桃山時代に秀吉の軍師としてその名をはせた黒田官兵衛(如水)が築城した水城である。関ケ原の後、黒田家は福岡城に移転し、変遷を経た19世紀には奥平家が城主となっていた。
現在見られる天守は1960年代に想像によって建てた模擬天守であり、諭吉の時代にはなかったものだ。中津城のホームページにはこうある。「中津城は、154年間に渡り奥平家の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けたのです。廃藩置県の際には城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続する事になりました。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまったのです。」
実は中津の繁栄を見守り続けた建造物を、まだ新しい御殿を残して破却するように提案したのは当時の日本一のオピニオンリーダーだった諭吉先生だったというが、「先生」がこの町のシンボル的存在の破却を提案したのでは都合が悪いからか、それについては記述されていない。彼にとってこの町は、出生地ではあっても「ふるさと」という郷愁を感じさせるものではなかったのかもしれない。そしてそれは言うまでもなく中津が理不尽なまでに封建制の強すぎる藩だったことによるものだろう。
ご神体を投げ捨て、お札を踏む「科学的」悪童?
東に10分足らず歩き、その名も「福沢通り」を通り過ぎ、「福沢公園」の前に現れた藁ぶき屋根の家が福澤諭吉旧居である。実に風通しのよさそうな家屋である。大坂の中津藩屋敷で1835年に生まれた彼がこの家に「戻った」のは1歳の時。それから長崎に蘭学(砲術)を学びに行くまでの約20年間、鬱屈した青少年時代を過ごしたのがここである。
少年時代の彼は、学問好きではあったが、母親の影響もあってか宗教心は薄かったようだ。もっと言うならば非科学的なことは「迷信」と考え、一笑に付したようだ。例えば大人が一生懸命拝んでいた近所のお堂の戸を開けると、ご神体がただの石ころだったので、それを投げ捨てて代わりに路傍の石ころを入れておき、事情も知らずそれを拝む大人を嗤ったりとか、神社のお札を恐る恐る踏んでみたりしても罰が当たらなかったとか、当時の基準では神仏を恐れない「科学的」な悪童だったようだ。
そこで私はピンときた。彼の家系は浄土真宗ではなかったろうか、と。実は真宗ではお札やお守り、ご神体の存在などは認めない。唯一無二の阿弥陀如来に帰依することで、来世極楽浄土に往生することを願うのがその教えである。これは主に農民や商工業者、穢多・非人とされた被差別民など、非支配層中心の宗派であったが、はたして下級とはいえ武士階級だった福沢家も浄土真宗本願寺派だった。
旧居からJR中津駅まで歩く途中に寺町を歩いたが、数多く建ち並ぶ寺院のうち、少なからぬ真宗寺院を見た。この地域はどうやら非常に真宗が盛んな地域のようだ。それならば神仏をも畏れぬような「罰当たり」な行いに走ったのも納得がいく。とはいえ、だからといって彼が極楽浄土の存在を信じていたかというと、少なくとも著書に浄土への憧れや悩みを書かなかったことからして、おそらく非常に希薄だったのではなかろうか。
とはいえ冒頭の名言「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」というのは一般的に米国独立宣言から来たものだというが、もしかしたら深層心理のなかで浄土真宗の説く「身分に関係なくどんな人でも阿弥陀如来は救ってくださる。」という教えが息づいていたものではと思えてくる。
諭吉の学問のルーツ
いずれにせよ、当時の武士の子たちはすべてそうだったろうが、彼もこの町で社会秩序を重んじる漢学を学んだ。しかし現行の封建制度には猛烈に反感を感じていた。とはいえ、庶民とは異なり死後の極楽浄土を夢見たわけでもなかった。彼は極めて現実的で、桎梏(しっこく)から自らを解放させるべく、ようやくつかんだ長崎留学のチャンスを無駄にしないよう、夜に日を継いで熱心に学んだ。ちなみに彼が長崎で当初下宿していたのも光永寺という真宗寺院で、境内に「福澤先生留学之址」という記念碑がたてられている。
そこで勉強には身が入らないが中津藩家老の息子というだけで派遣されてきた青年にあった。その人物とは反りが合わなかったが、そのような学問上全く進歩のなさそうな人間関係は、彼が最も憎んだものだった。そして「合理主義」「実利主義」こそ彼の生涯を貫くモットーになっていったのだ。
そしてその家老の息子の策略で、中津の母が倒れたという偽りの知らせを受けて一年ほどで帰郷せざるを得なくなったが、母親の無事を確認したらすぐに大坂に学問をしに向かうことにした。長崎で灯った実学への火を、出身地とはいえ身分と人間関係がすべての中津に滞在することで消すわけには行かなかったのだろう。
それは年老いた母親を見捨てるということにつながりかねないと知っていながら、彼は新天地でもあり出生地でもある大坂での可能性に賭けることにしたのだ。
「実学」を愛する庶民の町、大坂
1855年、二十歳の諭吉は生まれた町、大坂に向かった。幕府のおひざ元で諸藩の大名屋敷連なる江戸や、帝のおひざ元で神社仏閣ひしめく京都とは異なり、そこは町人たちによる成熟した近世都市だった。
もともと中世以来のこの町の繁栄は庶民的宗派として知られる浄土真宗の本拠地、石山本願寺が蓮如によって築かれたことに始まる。その後、一世紀にわたってそこを守った庶民たちは天下人信長の十年にわたる包囲にも屈せず、交渉によって本拠地を変えた。信長亡き後にここを根拠地とし、大坂城を築いた秀吉も御承知の通り百姓の出である。そして実力によって這い上がって天下人となり、贅の限りを尽くした彼は、今なお大阪では人気者である。
江戸時代になると、大坂の陣の後に幕府はここに城代をおいたが、浪速っ子たちは誰一人としてこの町を城下町とは考えていなかっただろう。というのも「城下町」というのは城を中心に発展した町であるが、大坂は町人の町の片隅に「新参者」の幕府が城を築いたに過ぎないからだ。
そこで元禄時代(17世紀後半)、日本史上初めての町人による文化が生まれた。特に「好色一代男」、「心中天網島」、「世間胸算用」などといった色恋や心中、カネなど、人間の欲望を描き切った井原西鶴という異才を生み出しただけでなく、淡路島から人形浄瑠璃を持ち込んだ植村文楽軒もこの町で「文楽」を初めて大好評となり。さらに越前から来た近松門左衛門はそのシナリオライターとして活躍した。非支配層だった庶民による元禄文化が爛熟期を迎えたのだ。
「三代住んでも京都人にはなれないが、三日住めば大阪人にはなれる」と言った人があった。言いえて妙だ。この町は西日本各地から人材を呼び寄せ、彼らを「大阪ブランド」で庶民に対して発信することで発展をとでてきたのだ。そしてこの町のそんな「風通しのよさ」が若き日の諭吉をひきつけたのは言うまでもない。
大塩平八郎と緒方洪庵
しかし諭吉がこの地で生を受けた1835年当時、大坂のみならず日本中が天明の大飢饉に苦しめられていた。翌年1歳児だった彼は親に連れられて中津に戻るのだが、そのころ自給自足が不可能な大消費地の大坂では飢餓に苦しむ人々が続出していた。
その一方で収賄により私腹を肥やす幕府の役人たちも少なくなかった。それに心を痛め、義憤に駆られた幕府の与力(犯罪捜査官)がいた。「知行合一」、すなわち行動の伴わない知識は無効という陽明学に心酔していた大塩平八郎である。役人の腐敗に嫌気のさした彼は、職をなげうって陽明学の塾を開き、同志を募って庶民を救うために、1837年に立ち上がった。「救民」の旗じるしを掲げた彼らだが、失敗して遁走の後、自害し、見せしめに遺体をさらされた。
江戸時代を通してみても、幕府の役人がその地位を捨て、庶民のために立ち上がった町も大坂だけではなかったろうか。浪速っ子たちは自分たちのために命をなげうった彼のことを決して忘れない。
しかし儒学の崇高な精神はいささか敷居が高い。全国各地に藩校が建ち、武士の師弟たちが学問にはげんでいた当時、大坂で最も有名になった教育機関は蘭医学を研究し伝授する適塾だった。現岡山市足守出身の緒方洪庵がこの町に蘭医学の学校を建てたのも、漢学のような「崇高な学問」よりも生活に必要な「実学」のほうが、人々に必要とされると考えたからだろう。「学問のすゝめ」にも「もっぱら勤むべきは人間普通日常に近き実学なり」と述べている。
また当時医師というのは必要とされながらも身分は低かった。血や病いに触れるため「穢れ」とみなされたこともあったのだろう。しかしそのようなことは病気やケガが治ることになによりもの価値を見出した浪速っ子たちには関係なかった。現にそのころ天然痘が大流行し、各地でバタバタと倒れていったが、その際緒方洪庵は蘭書で読解した「ジェンナー式種痘」を実践して人々を感染から救った。諭吉は「学問のすゝめ」の中で「身分重くして尊き者」の筆頭として医師を挙げている。
学ぶなら「実学」である。「役立ってなんぼ」。これが浪速っ子の価値観だ。蘭学塾を日本中のどこよりも認めてくれるであろうこの地に置いたのは、やはり緒方洪庵の慧眼であったろう。そしてこの蘭医学の塾の名は全国にとどろいた。そして諭吉もその門下生の一人だった。
適塾での諭吉
淀屋橋駅から徒歩数分で関西の金融街として知られる北浜地区だ。そこに適塾もある。周りは瀟洒なビル群だが、ここだけ瓦屋根の町家建築が残っている。中に入った瞬間から空気が異なっているのを感じる。時が止まったようなのだ。いわゆる「ウナギの寝床」の町家建築で、真ん中に中庭を配し、畳敷きの教室がいくつか並ぶ。かつてはここに全国から来た塾生たちであふれていたのだ。
二階には学生たちに一人一畳ずつ割り当てられた雑魚寝の大広間や、「ヅーフ部屋」と呼ばれる三畳ほどの小部屋が残っている。「ヅーフ」とは、当時日本唯一だった筆写版の蘭日事典である。塾にワンセットしかないこの辞書を見ようと、数多くの塾生が徹夜で列を作って順番を待ったという。今はこざっぱりした部屋だが、当時は若者たちの汗や体臭、人いきれで息苦しかったに違いない。
柱に傷跡が残っている。みな単なるガリ勉などではなく、バカなことも時にはやらかすという意味で普通の若者たちだったのか、うっぷん晴らしに塾生たちがチャンバラを始めたときにつけられた傷という。若さがほとばしる空間だ。
ここで諭吉は最年少の塾頭となった。それほど必死になって蘭医学、特にその基礎となるオランダ語を習得したのである。私も通訳案内士試験を英中韓三言語分合格する程度には語学はやってきたつもりだが、あのような辞書と文法書があるだけの塾で死ぬ気で学んだ彼とは、気迫において比べ物にならない。
彼の場合、封建的な中津を離れて大坂で学ぶには、徹底的に学びぬいて、学問で身をたてるしかなかった。ちなみに彼は長崎時代に学んだ砲術を学ぶという「虚偽申請」を藩にだしてまでここに来たが、そこまでして学問に没頭し、自分の人生を切り開かねばならなかったのだ。好きで学んだ語学というより、新しい人生を獲得するためのツールだったのだろう。
横浜での衝撃と「今日から英語だ!」
新しい時代の「実学」を求めて全力投球した彼の実力は藩からも認められ、日米修好通商条約が締結された1858年に江戸に赴き、蘭学を教授することになった。これが後の慶應義塾である。
翌59年、横浜(神奈川)が開港すると、彼は自らのオランダ語能力を試すべく、居留地に向かった。英語話者などほぼいない昭和末期の奥出雲でNHKラジオ講座を聞きつつ英語を学んだ高校生の私は、年に数回ALTと会話できる日に合わせて、必死で会話内容を「暗記」していたものだ。よってドキドキしたであろう彼の気持ちは私も分かるつもりだ。
しかし果たしてご自慢のオランダ語は通じなかった。おそらく何人にも話しかけたことだろう。通じない理由は文法や発音や語彙に問題があるのではなく、横浜居留地では長崎の出島とは異なり、みな英語を話していたからだ。今までの苦労が水の泡、とぼうぜんとしたことだろう。しかし彼は瀬戸内海気候の中津の出身らしく、カラッとした性格である上に、「実学」志向の強い性分だ。くよくよしていても始まらない。「今日から英語だ」と、あっさりと英語学習を始めたのだ。
この変わり身と決断の素早さは、彼の人生で何度か見られる。節操がないと思われたかもしれないが、「役に立つこと」をよしとするプラグマティスとからすると、役に立たなくなったオランダ語にいつまでもこだわっていても無駄以外のなにものでもないのだ。良くも悪くも打たれ強いというか、とにかく「絶望」とは無縁の人生なのだ。
しかも、自分だけでは独学もままならないため、英語学習仲間を巻き込み、学んだことを分かち合い、さらには長崎生まれの英語が分かる少年に頭を下げて発音の手ほどきを受けたりもした。学ぶ上でいかに仲間が大切かということを知っていたのだ。
そして翌1860年には日米修好通商条約の批准書をかわすために渡米する咸臨丸に、何とかつてをたどって同乗させてもらった。勝海舟率いる日本人の運転による船で、初めて怒涛の太平洋を横断し、本物の「西洋」を、「文明」を見たのだ。これを含めて幕府が滅亡するまで三度にわたって洋行し、同時代人としては誰よりも早く「世界」を知ることになった。
咸臨丸でアメリカへ
秋雨の合間に東京・三田の慶應義塾大学に向かった。立派な門をくぐり、坂を上がると、立派なレンガ造りの洋館が現れる。福沢諭吉記念慶應義塾史展示館である。ここには彼の輝かしい「表」の人生がつまっている。
咸臨丸での米国滞在は1ヵ月ほど。蘭学を通して近代技術のメカニズムは理解していたため、テクノロジーに対する驚きはそれほどでもなかったようだ。しかし解せなかったのは、例えば米国人がワシントン大統領の子孫がどこで何をしているか、だれもしらないことだったという。
徳川家康の子孫が江戸城にて将軍職についていることを知らない日本人はいないはずなのに、米国ではそれに相当する人物がどこで何をしているか知らないことが不思議だったのだ。そして彼は封建制を脱却し、まがりなりにも選挙制度を取り入れて自国のリーダーを決める国では、初代大統領だからといって子孫は別人格であることに思い至った。
もう一つ、エピソードがある。咸臨丸の中で貴重な水を勝手に使用した米国人が日本人に捕まった。すると同船していた米国人責任者が、彼をかばうどころか射殺するように日本側に提案した。彼にとっては日本、米国関係なく、共同の船の宝を盗むものは許せないというのだ。身内だからと言ってルールを曲げないという公平な姿勢に、諭吉は感銘を受けた。
「西洋事情」と上野戦争
翌1862年、幕府の遣欧使節団としてユーラシア大陸を船で西に進み、スエズで初めて機関車に乗って、地中海を渡り、マルセイユに到着した。そして欧州各地を歴訪するのだが、その折りにも男女の関係が日本の武家社会のような主従関係ではないことに驚く。さらには国会で野党と与党が丁々発止の議論を戦わせることで国事を決めていくのを目の前で見るに至っては、故郷の中津はもちろん、幕府でさえもあり得ないことだった。
このような体験を通し、彼の英米に対する憧憬は深まっていき、このような民主的な世の中を「祖国」でも実現したいと20代半ばの青年は心に誓ったのだろう。そしてそれは生涯を通して続いたようだ。
そして帰国数年後の1866年、これらの内容をまとめて「西洋事情」として出版した。展示館にもその扉の部分が開かれて展示してあるが、蒸気船や蒸気機関車、ビルに橋梁など、日本の未来像が実に明瞭に描かれている。
大政奉還後の1868年、江戸の町は新政府軍に囲まれていたが、そのような折りに彼は現在の浜松町あたりに洋学を伝授する私塾を開いていた。これが「慶應義塾」である。時あたかも幕府の無血開城に対して異を唱え上野寛永寺にたてこもった彰義隊と、新政府軍との砲声が鳴り響くころだった。展示館内の掛け軸には和室内で講義する和装の諭吉が描かれていた。よく見ると窓の向こうは煙が上がっており、数人の生徒たちがそれを眺めている。その時の慶應義塾を描いたものだ。
江戸中が戦火に包まれるか否かで勉強に身が入らないが、諭吉は米国の経済学者ウェーランドの書物を講義していた。いずれ戦争が終わる。その時にこの国を背負って立つのは洋学を学んだ諸君自身であるということを悟らせたかったのだ。彼一流のプラグマティズムはここにも発揮された。戦争中からすでに終戦を見越して学問に投資させていたのだ。
「学問のすゝめ」―啓蒙書の大ベストセラー
展示館での最大の見ものは、「学問のすゝめ」の初版本であった。これは一冊の本というよりも、リーフレットが1872年から76年にかけて十七冊発行された一連のシリーズものである。世界を見てきた男が、列強に伍して国を繁栄させていくために必要なものは、学問、そして個人の独立において他はないと説いたこの本は、近代最初の大ベストセラーとなった。
「一身独立して一国独立す」、すなわち周囲に依存せず、自分のなすことに責任を持つ人材になることにより、日本は列強から干渉を受けないようになるというこの言葉は、明治初年のリアリズムであった。「お上に頼る」といった他人任せの態度を彼が否定するようになるのも、国家の存亡がかかっていると考えたからだ。
三田演説館
館外に出てキャンパス内を歩くと、なまこ壁の大きな建物を見た。一見米倉のようだが、こここそ日本における弁論の発祥の地、三田演説館である。そもそも江戸時代にはスピーチという行為自体がなく、意見があれば文書化するというのが基本だったのだ。
例外的に人々の前で論拠に基づいて自説を述べていたのは、お寺の住職が檀家の人々に向けて説法をすることぐらいだったかもしれない。そういえば諭吉の家は浄土真宗だったことは先に述べた。真宗は他の宗派より、機会あらば人々を集めて極楽往生への道を説いてきた。もしかしたら幼少時代の彼もその体験があったのかもしれない。しかも彼の実家は寺町のはずれにある。
また「演説館」とはいっても、ただスピーチを訓練するだけではない。ある争点に対して賛成派、反対派に別れ、それぞれの立場で意見を戦わせる「ディベート」までやっていたのだ。これは彼が洋行の折りに議会で見て、衝撃を受けたものの一つだったが、それをここから普及させていったのだ。中を見ることはできなかったが、各地の方言丸出しで各々の思うところを述べ、口角泡を飛ばして激論する若者たちの姿が偲ばれた。
しかし展示館でもここでも、中国語や韓国語の通訳案内士である私が福澤諭吉に対して持ち続けてきた「わだかまり」を解くカギとなる展示は見つからない。そのわだかまりというのは、彼は後に「脱亜論」すなわち日本は隣国とは縁を切り、欧米列強の一員として歩むべしという内容の文章を書いていたという認識があったからだ。
展示館内にはそれに関する資料はほぼ展示されていない。あるいは目の前のこの演説館でも、「日本は清朝、朝鮮とは縁を切るべきである。」というテーマで学生たちが議論を戦わせたのだろうか。せっかく日本ディベート発祥の地に来たのだ。このテーマで諭吉が肯定側に立ったとして、否定側の論客の意見を聞きたかった。
展示館が隠す朝鮮との関係
博物館や資料館を見るときは、いつもの癖で「何をどう展示するか」というのと同じくらい、「何を展示しないか」「何を隠すか」にこだわってしまう。慶應義塾大学の福澤諭吉の展示館を訪れるにあたって最も気にかかっていたのは「脱亜論」をどう展示するか、またはしないかであった。
世にいう「脱亜論」というのは、諭吉が1882年に発刊した日刊新聞「時事新報」のなかで、1885年に書かれた二千数百字の社説である。もっとも有名なくだりを以下に抜粋してみよう。
「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。」
これが書かれた背景を説明しよう。「時事新報」発刊前年の1881年、慶應義塾は日本で初めて二人の朝鮮人留学生を受け入れた。諭吉は日本の発展に目を見張る彼らを見て、かつて幕末に洋行した自分も欧米文明の全てに驚愕したことを思い出した。目の前にみる朝鮮人留学生に、二十年前の自分の姿を投影したのだ。
そして真摯なる学問により文明を身に着けることで個人が独立し、その個人が国家を独立させることができるという彼の信念を、二人の朝鮮服を着てたどたどしい日本語を話す若者たちに伝えたいという使命にかられたのだろう。
その後ますます朝鮮人留学生は増えていったが、彼らの中で日本をモデルに朝鮮を清朝のもとから独立させ、近代化させようという人材が育っていった。その中でも知られているのが開化派で現在の韓国の国旗「太極旗」を発案した朴泳孝(パク・ヨンヒョ)や、金玉均(キム・オッキュン)たちである。
「時事新報」の発刊されたころに東京に来た彼らはこの慶應義塾に寄食した。そして一時帰国の後に再度来日した金は、井上馨の口利きで運動資金を集め、翌83年早くも朝鮮初の新聞「漢城旬報」を発刊するなど、朝鮮の近代化に務めた。隣国も近代化することで、欧米に対して共闘できるというのが諭吉の布石だったのだろう。
金玉均のクーデター失敗
諭吉からの影響もあり、1884年に朝鮮を清朝から独立させ、独立した近代国家を目指すクーデター、「甲申事変(政変)」を企てた金は、成功したかに見えたが文字通りの「三日天下」で終わった。そして日本に亡命したが、朝鮮の後ろ盾となっていた清朝との不和を望まない日本政府は積極的に亡命を受け入れるわけにもいかず、亜熱帯の小笠原から亜寒帯の北海道にまで相次いで流された。「時事新報」にこの「脱亜論」が掲載されたのは、まさにこのような時期である。そしてこの論説はこのようにしめくくる。
「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」
ここでいう「悪友」とは、諭吉が手塩にかけて育てた金たちの「義挙」を阻害した、朝鮮およびその背後の清朝を指す。しかし、実はこれには署名がなされていない。つまり諭吉直筆の文章であるという決定的証拠はないのだ。また、生前の1898年にまとめられた「福澤全集」にも、1925年編纂の「続福澤全集」にも「脱亜論」は掲載されておらず、1933年の全集にようやく掲載されている。発表後半世紀は無視されていたものなのだ。そしてそれがアジア侵略に対する反省を含む文脈の中で取りざたされたのは1950年代以降という。果たして本当に諭吉が書いた文章なのか。
いずれにしても、「学問のすゝめ」時代のプラグマティックでカラッとした彼の思想からすると、これはヒステリックに思えさえする。しかもいくら明治時代とはいえ、現代から見ると隣国を「悪友」扱いするのは「ネトウヨ」のヘイトスピーチそのものだ。事実、「脱亜論」を引用して隣国を誹謗するネトウヨによる記事は極めて膨大である。ただ、他人が著した文だったとしても、その掲載を認めたのは諭吉である。責任の一端はあろう。
彼が支持した金は日清戦争直前の1894年3月、清朝の李鴻章に会いに上海へ向かったが、ホテルで朝鮮人の刺客、洪鐘宇(ホン・ジョンウ)に銃殺された。彼の遺体は朝鮮側が清朝と掛け合って「祖国」に戻させたが、それを文字通り「八つ裂き」にして各地で五体ばらばらのままさらされた。文京区本駒込の真浄寺には「朝鮮國金玉均君之墓」と彫られた墓がたてられているが、これは彼の衣服や遺髪を持ち帰った甲斐軍治という写真家が、諭吉経由でこの寺に納めたものだ。
この「野蛮な」処置に対する諭吉の怒りと悲しみは並々ならぬものだったろう。彼はこの愛弟子の葬儀を自宅で行い、真宗大谷派寺院であるこの寺に納めた。やはり真宗寺院が幼いころからなじみがあったのか、あるいは彼らしくはないが極楽浄土に往生してほしいと思ったのかは分からない。
諭吉と女性の社会進出
慶應義塾の記念館で、もう一つ気になるのは、諭吉を今でいうフェミニズムに理解のある人物であるかのように描かれていることだ。彼は欧米でレディ・ファーストを守る夫を見て、日本との大きな違いを感じた。そして「学問のすゝめ」の中にも「男も人なり、女も人なり」という言葉を残している。つまり学問をして独立し、国家を支えるのには男女関係ないという意味であろう。また、江戸時代に福岡の貝原益軒が婦人のあるべき態度をまとめた「女大学」を、封建思想そのものとして徹底的に批判した。一見女性の社会進出に理解がありそうな発言だが、そのころ人口の約8割が農民であって、農民の場合は男女関係なく生涯はたらいていた。今とは別の意味で「社会参加」せざるを得なかったのだ。
一方でそのころ世間を騒がせた足尾銅山鉱毒問題に関しては、鉱毒に苦しむ農民が徒党を組んで政府に訴えようとする「百姓一揆」のようなことは受け入れられないと彼はいう。だがここにはそのような展示解説はない。農民が生活の独立を求めて立ち上がるのは彼にとって「一身の独立」ではないらしい。それよりも銅を産出することによる「一国の独立」を最優先するというダブルスタンダードがある。
ちなみに館内で最も気になるものの一つが彼の洋行土産として子どものために買ってきた乳母車である。いかにも「子煩悩なパパ」だったことをアピールするようなこれらの展示を見て、正直引っかかるものがあった。明治時代の家庭で子どもに舶来品の乳母車を購入できるような家庭は、子煩悩というよりも特権階級だったことの証しではなかろうか。
やはり私には、上流階級は男女平等を目指し、農民に関しては我慢を強いているようにみえるのだ。とはいえそれも21世紀の視点であり、明治時代には彼も極めて斬新な考えの持ち主であったことは間違いない。それでも批判をするのは、やはり権威に対しても批判の手を緩めず意見を述べるディベートをこの日本に導入したのが諭吉だったからだ。
慶應義塾大学および卒業生による運営なので、諭吉を讃えるのは分かるのだが、諭吉のスピリットを本当の意味で受け継ぐのであれば、功罪両面から展示したり、あるいは女性や農民や朝鮮人・中国人の立場から多面的に論じたりしてこそ、供養になるというものだろう。神も仏も信じない諭吉を神格化することほどのブラックジョークはない。そしてそのような「ちょうちん持ち」的態度は彼が一身の独立を妨げるものとして最も嫌ったものだったではないか。
熊本のアジア主義者、宮崎滔天
金玉均の葬儀を東京で執り行ったもう一人の人物がいた。熊本出身の宮崎滔天である。自ら女房子供もちでありながら無職の運動家だった彼は、金の亡命生活を支援しただけでなく、清朝打倒のために孫文ら革命派を支持したことで知られている。彼は義侠心に厚く、カネはなくとも同志らを募り、八つ裂きにされた2か月後に浅草本願寺にて葬儀を挙げた。
諭吉の広め始めたディベートは、肯定派・否定派に分かれて意見を戦わせることで、より真理に近づけるというものだ。よって諭吉を「合わせ鏡」で見るためにも、滔天について語りたい。
幕末・明治の激震地、九州
幕末から明治時代にかけての九州はあらゆる意味で激震地となった。長崎は日米修好通商条約および安政の五カ国条約による開港と、それにともない幕末の志士たちが集結した。佐賀は隣接地長崎より西洋文明を取り入れ、独自に大砲などを制作して「雄藩」の一つとなったが、江藤新平らが反乱軍として鎮圧された一方で、国会開設に奔走した大隈重信らも輩出した。鹿児島は「雄藩」の中心として大政奉還を果たすが、西郷は征韓論で下野して乱を起こした一方で官僚制度を作りあげた大久保利通らも輩出した。
さらに大分県は福澤諭吉を輩出し、彼の助力で日本初の細菌研究所を芝公園に建てたのが熊本出身の北里柴三郎である。ここらまでなら歴史の教科書に出てくるが、日本史上ずっと海外への出入口であり続けた九州には、それ以外にも外国と関わり続けた民間人が少なくない。そのなかでも熊本で忘れてはならないのが先に紹介した荒尾の宮崎滔天である。
全てが諭吉と正反対の滔天
諭吉と滔天。二人とも19世紀の九州で生まれ育ち、外国語を学び、金玉均の朝鮮半島における改革を支援し、アジアの振興に努め、新しい国造りにまい進したという点では共通する。しかしその根本的な生き方、もしくは価値観が百八十度異なるのが興味深い。そもそも二人は外観が違いすぎる。すっきりと頭を分け、きれいにひげをそった清潔感あるのが諭吉なら、のび放題の髭とぼさぼさの髪に、よれよれの服。写真を見るだけで匂ってきそうなのが滔天である。
英語の他に中国語、韓国語の通訳案内士の私は、滔天が気になる。ある年の暖かい暮れの昼下がり、彼のふるさと、荒尾を訪れた。田園風景の中、立派な門構えの家に「宮崎兄弟の生家」という板に墨書した看板がかかっている。武道の道場のようでもある。
滔天が熊本の荒尾に生まれたのは1871年、ちょうど諭吉が洋行で得たものをまとめあげ、「学問のすゝめ」の第一巻を執筆し始めたころだ。つまり彼らには親子ほどの年の差がある。それは、諭吉は幕藩体制のしがらみや不条理さを骨身に染みて知っているが、滔天は新時代の近代人であることを意味する。
諭吉は儒学を上下や男女の別を強いる封建的なものとして毛嫌いする一方、下級武士という身分から脱却するためにオランダ語、英語を学び、欧米にわたって欧米の文明を普遍的なものとし、それに一体化することを理想とした。
滔天は明治人としては当然のこととして漢学を重んじたが、学歴は東京専門学校中退で、諭吉ほどの学力はない。時代の違いもあるが、漢学においても諭吉のほうが滔天を上回っていたろう。そもそも彼は学者ではなくアジアを股にかけた社会運動家である。
サラブレッドの民権運動家にしてアジア主義者
入口の看板に書かれていたのが「宮崎滔天の生家」ではなく「宮崎兄弟の生家」というのには理由がある。彼を彼たらしめたのは、母と兄たちだったからだ。彼の一家は学問よりも社会変革に燃え、中江兆民の訳した「民約訳解」を読んで自由民権運動に走った彼の兄、八郎は、思想は異なれども新政府に対する不満から西南戦争では西郷側に立って戦死した。しかも彼らの母親こそ大した女傑で、兄の死に続けとばかり「畳の上にて死するは男子なによりの恥辱なり」と、滔天に言ったという。
もう一人の兄で欧米に蚕食されつつある清朝を見た弥蔵は、自由民権思想に基づいてアジアを理想の国にすべく、中国語を学び、中国服に身を包み、革命の準備をしていたさなか、日清戦争直後の1896年に結核で亡くなった。そしてその兄たちの遺志を継いだのが滔天だった。つまり彼はサラブレッドの民権運動家であり、アジア主義者だったのだ。
ここでいうアジア主義というのは、おおむね「脱亜論」とは対極の思想といっても過言ではない。「脱亜論」が、中国や朝鮮と断交することで、欧米の一員として認められ、日本の地位を高めることを信条とするならば、「アジア主義」は欧米の前で餌食とされつつある日本、朝鮮、中国、インド、東南アジアまでみな手を取ってこれに対抗せんという思想である。民権運動家というのは国権よりも人々の暮らしの向上を考える。それが国境を越えてアジア人同士の連帯によってアジアから欧米列強を追い出し、自分たちの暮らしをより良いものにしようという考えである。
ちなみにそのような潮流は文化面においても顕著で、岡倉天心が「東洋の理想」で「アジアは一つなり」と叫んだのも同時期(1903年)であった。
現実主義者の諭吉
ちなみに諭吉も「脱亜論」以前は少なからずアジア主義的要素を持っていた。つまり朝鮮も日本のように西洋文明を取り入れることによって近代化することは、アジア全体の地位を底上げできる。そうすれば東アジア全体が欧米に伍していける侮れない存在になり、ひいては日本の国益にもつながるからだ。そのような打算も含めて彼は金玉均らを支援していた。しかし甲申事変で改革が失敗すると、諭吉は態度を豹変させた。
そして「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」つまり「あいつらと一緒につるんでいて、同じ穴の狢だと欧米人に思われたら大損だ。清朝や朝鮮とはもう付き合うのはよそう。」といいはじめたのだ。
諭吉は良くも悪くも「変わり身が早い」のは、オランダ語に心血を注ぎ、適塾一のオランダ語の使い手になったが、横浜で世界は英語だと知った直後に、オランダ語を捨てて英語を学んだことにも表れている。とはいえ、彼は後年になってもオランダ語のほうに慣れていたと述懐しているが。同じように、金を通して朝鮮の改革に心血を注いだが、一度の失敗で方向転換してしまったのだ。
節操がないというより、これ以上つぎ込んで大損するよりも埋没費用を少なくして「損切り」するのがうまいのが現実主義者諭吉の諭吉らしいところだ。彼にとって学問は投資に他ならない。一方で「文明は猶(なほ)麻疹の流行のごとし」と述べていることからして、欧米を絶対視していないかにも見える。欧米が弱くなれば、また新たな思想に乗り換えるのだろう。
宮崎家の女たちのすごさ
しかし滔天にとってはそうではない。「勝ち馬に乗る」という気も、強いほうに従って「コバンザメ商法」をしようという気もない。そもそもそんな生き方はあの「女傑」の母堂が許さない。息子たちが日清戦争で死んだら中国革命ができないから、徴兵忌避をする方策を話し合っていたら母親に激怒されたというエピソードが残っているほどだ。
宮崎邸内に入ってみると、大きな蔵や屋敷が並ぶ。蔵の梁の太さからして、家柄が推測できる。しかし彼の家は上級武士ではなく、普段は農業に携わり、何かあれば刀を持ってはせ参じるという「郷士」である。諭吉も下級武士だったが、親の教育によってここまで価値観が、そして生き方が変わってくることが分かる。
滔天は中国革命に一生をかけ、方々から融通してもらった金も家にほとんど入れず、革命につぎ込んだ。東京を拠点としているときは、赤貧洗うがごとしであっても中国の革命家たちを家に呼び寄せ、飯を食わせた。奥さんは家計が火の車でもやりくりをして、なけなしの金をかき集めては革命家たちを食べさせた。革命家たちも分かっていた。本当に偉いのは滔天ではなく奥さんであることを。宮崎家の女は、母にせよ妻にせよ、筋金入りの厳しさと優しさ心の広さを持ち合わせていたようだ。
勝ち馬に乗った諭吉と自分の信じた馬に乗った滔天
荒尾の屋敷の奥に回ると、床の間のある和室の座卓をはさんでのび放題の髪と髭面の滔天のマネキンが座っている。彼と向かい合い、硯と筆で筆談している洋装の紳士が辛亥革命のリーダー、孫文である。掛け軸には「天下為公」という「礼記(らいき)」の一節にして孫文のキャッチフレーズが書かれている。
「世の中はみんなのもの」。これは宮崎家に流れる民権思想そのものである。ちなみに孫文が中華民国成立時に掲げた「民族・民権・民生」からなる「三民主義」は、宮崎家の人々もこよなく愛読した中江兆民の「民約訳解」によるものだ。
孫文は滔天に初対面の1897年、この家を訪れ、二週間ほど過ごした。そして清朝を倒した後の1913年、感謝の意を表するため荒尾のこの家を再訪した。そのときまで孫文は失敗に失敗を重ね続け、そのたびに仲間たちを失い、信頼も失った。それでも最後には清朝を倒すことができ、帝政から曲がりなりにも共和制に移すことができた。
「脱亜論」時代の諭吉は「欧米」という勝ち馬に乗ったつもりだったろうが、滔天は自分の信じた馬に全人生をかけた。彼は生涯定職に就かず、血沸き肉躍るこのネタを「商売道具」にして、浪花節をうなりつづけて、残りの生涯を赤貧ながらも豊かに終えた。
アジア主義者と現実主義者の割合
宮崎兄弟の資料館に、新聞の切り抜きが展示されていた。「福沢諭吉 脱亜論 侵略主義かリアリズムか」。滔天の記念館なのに、正反対に見える諭吉の展示をあえて出すというのは、やはり正反対の価値観をもち、生き方をした二人を「合わせ鏡」にして見なければ、時代と本質を知ることにはならないからだろう。
思い起こせば大学を卒業するや、当てもないままカバン一つに荷物と本を詰め込み、東シナ海をフェリーで大陸に渡り、中朝国境の町で日本語教師をやりながら中国語や朝鮮語を学び、現地で滔天の浪花節的自伝「三十三年の夢」を読みふけった私のような人間は、心情的にはアジア主義者である。一方でロマンや情熱だけでは自己満足になる。少しでも現実的視点を持たねばならないと思うようになった。
そして英中韓通訳案内士としての私の目指すところは「滔天2:諭吉1」ぐらいだろうか。諭吉は社会的に成功したために日本の私学の雄を作り、日本を、世界を率いる弟子たちを育てたが、滔天は自分だけ面白すぎる人生を生き抜き、教育機関で教えることはなかった。彼は金銭的に成功したので、同じく熊本の北里柴三郎に土地を提供できた。そしてそれがあったから伝染病で亡くなる人々を抑制したり、治したりすることができたのだ。
私も歳を取ったもんだ。そんなことを思いながら荒尾を去った。
備中足守―山陽の小津和野?
諭吉と「学問のすゝめ」の旅を締めくくる場所に選んだのは岡山である。岡山といってもここに諭吉の足跡があちこち残っているというわけではない。後楽園などからはかなり離れた、備中の足守(あしもり)という山ぎわのひなびた場所がある。藩政期には二万数千石の小藩であったが、藩主木下家は秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の兄を藩祖とする。
ある年の暮れ、前から気になっていたこの小さな城下町を訪れた。城下町といっても堀や石垣に囲まれた城郭の跡があるわけではないが、その代わり侍屋敷や陣屋脇には小さいが数寄屋造りが池に溶け込む隠れた名園、近水園(おみずえん)が残っている。
なまこ壁の蔵が道路沿いに並ぶ通りを歩きながら思った。山陽にいるはずなのに山陰の、例えば津和野にでもいるような寂寥感を感じる。津和野が「山陰の小京都」ならば足守は「山陽の小津和野」とでもいうべきか。近水園は紅葉の名所でもあるが、その季節から一月後に訪れたため、見学者は誰もいない。「見渡せば花ももみじもなかりけり」の心境である。ただ、私が山陰の人間だからか、このような淋しいところのほうがしみじみと性にあう。
福澤諭吉先生の先生、緒方洪庵
19世紀の津和野が軍医にして文学者である森鴎外を輩出したように、この町も江戸時代最高の蘭医学者を生み出した。それが緒方洪庵である。足守川の東に彼の生誕地が保存されており、1928年には記念碑がたてられている。彼のへその緒や遺髪などをおさめたこの記念碑の除幕式には慶應義塾大学の総長も参加したことから、「福澤諭吉先生の師匠」としての緒方洪庵の存在の大きさが分かる。
1810年にここで生まれた洪庵は、15歳の時、藩命で大坂の蔵屋敷の管理に向かう父に従ったが、体の弱かった彼は大坂で武道よりも蘭学や医学を学んだ。二十代の間は江戸や長崎で蘭医学の修業に励み、特に長崎ではオランダ人医師のもとで今でいえばインターンとして臨床医学の経験を積んだ。28歳で大坂に戻り、独立して医療を開始するとともに蘭医学を教え始めるが、そこが後に適塾となった。
天然痘が毎年のように流行していた当時、天然痘患者の膿を他の人に接種することで人為的に軽い天然痘に罹患させ、抗体を作らせるという実験が行われていたた。彼も足守にいた五歳の甥と二歳の姪に接種したところ、二人の腕は腫れあがり、発熱した。大事にいたらずに済んだとはいえ、これではまだリスクが高く、その方法をとるのは控えた。
後に牛の痘苗をワクチンとして接種する蘭医学の知識を得たが、長崎経由で入手した牛痘を大坂で接種し、多くの人を救おうとした。その矢先、迷信を信じる当時の人々の中には、種痘すると牛になるというデマが流れため、洪庵は私財を投じて子どもたちに菓子を与え、それを「エサ」に接種を繰り返した。今でいうならワクチンパスポートで特典が得られるようなものだ。
また「目には目を、迷信には迷信を」で、風評を一掃するため、白い牛にまたがった元気な子が、槍(=ワクチン)で赤鬼(=病)を退治するというビラを刷って配り、イメージ戦略にも努めた。その結果、接種を受けた子供は感染しにくいという実証を得た大坂の人々は、我も我もと接種しだした結果、集団免疫が得られたようだ。
彼が四十歳になった1850年、足守藩主に呼ばれて故郷に戻り、生家近くの葵橋たもとに除痘館、すなわちワクチンセンターを建てた。ちなみに幕府がこの防疫法を認めたのはその八年後。それを考えると、まずは模範として藩主の子から接種をはじめたのが注目に値する。こんな小さな山里の藩主とはいえ、科学的視野を持っていたことは驚きだ。そして藩領に住む千五百人の領民に接種した後、隣接する藩の五千人以上の人々に接種を施し、多くの人々の命を守った。
諭吉が受け継いだもの、受け継がなかったもの
迷信を信じず、科学的視野で接する彼の開明的、合理的な在り方は、その五年後に適塾の門をたたいた諭吉を感涙させたことだろう。なお、諭吉が腸チフスにかかった際、問診をし、処置の仕方を他の医師に伝えたのも洪庵である。いわば命の恩人だ。そして若き諭吉の才能と努力を買い、引きたてたのも洪庵である。いうならば諭吉の人生に最も影響を与えたのが洪庵であり、彼の生涯思い続けたふるさとが、この備中足守だったのだ。
洪庵が塾生たちに教えた「医戒之略(医師の心得)」が残されている。その中でも気になる箇所を抜粋してみると、「脱亜論」に関して言えば師の言いつけを必ずしも守られていない諭吉の姿があぶりだされる。
「(一)医の世に生活するは人のためのみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふしべし。」諭吉は近代化できない隣国のために一肌脱いだのは確かだ。しかし甲申事変以降は清・朝鮮と絶縁した。近代化できず停滞する中国を指す「東亜病夫」という言葉が中国にあった。国家が、民族が「病」におかされているという比喩である。とするなら諭吉は「病人」を救うことをあきらめたのではないか。
「(二)病者に対しては唯病者を見るべし、貴賎貧富を顧みることなかれ。(中略)(五)不治の病者も仍(なお)其の患苦を寛解し、其の生命を保全せんことを求るは医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。」
「脱亜論」では清・朝鮮を文明できないものとして断罪し、いわば賎しく貧しい「病気の」国々を見捨て、一緒にいることさえ同じ穴の貉として「尊く富んだ」西洋から見られるのを恐れ、これらを拒んだ。
諭吉は洪庵の「不肖の弟子」だったかもしれない。しかしその諭吉に学んだ洪庵の「孫弟子」ともいえる男が1855年、隣接する備中庭瀬藩に生まれた。その名は犬養毅である。
備中庭瀬 犬養毅のふるさと
岡山市は四つの区に分かれており、うち面積最大の区が北区である。北区は中心部から山側の足守、そして田園地帯にある庭瀬までを占める。この庭瀬の田園地帯を、初秋の頃レンタサイクルで走ったことがある。山陽新幹線の高架のあたりからあぜ道をアスファルトにしたかのような細く曲がりくねった道を行った川入という集落に犬養毅の生家がある。「犬養木堂記念館」という表示に沿って進むと、大きな門が現れた。想像以上の大邸宅である。
彼は武士ではなかったが、この地方最大の庄屋の家柄である。また備中一宮として知られる吉備津神社の随神の家系ということになっているため、同社の駐車場には彼の銅像もたっている。要するにこの地方一の名家の生まれなのだ。
1855年、緒方洪庵が天然痘ワクチン接種のため東奔西走し、諭吉が適塾の門をたたいたころ、彼はこの屋敷で生まれた。幼いころから漢籍に親しんできた彼は、能書家でもあった。記念館内には力強い自筆の言葉であふれている。諭吉が伝統的な東洋文化を身につけながらも「封建社会の遺物」としてこれに距離をおこうとしたのに対し、犬養毅は自分のルーツである漢籍と書を大切に保ち続けたのだ。政治家でありながら文人的風貌があるのも納得である。
いや、彼に言わせれば中国や朝鮮では文人こそ政治家になるのであり、日本のように武士が政権を握ることが常態化する国のほうが東アジアでは稀なのかもしれない。
慶應義塾と西南戦争
1876年に上京し、慶應義塾に入って諭吉の薫陶を受け始めた彼は、名家の出でありながら新聞社「郵便報知(現読売新聞)」でアルバイトをする苦学生でもあった。新聞社とはいっても配達員ではない。幼いころからたたき込まれた漢学の知識を縦横無尽に駆使し、書生でありながら知識層をもうならせる名文を書く言論人だったのだ。
翌1877年に西南戦争が勃発すると、今でいう「報道特派員」として九州に赴いた。その理由は学費に事欠き、慶應義塾卒業までの学費を出してもらえるという話がでたからだ。「学問のすゝめ」にある「一身独立して一国独立す」の精神が身に染みていたのかもしれない。
そして自ら命を賭して熊本・田原坂から鹿児島・城山など激戦地を取材してまわり、臨場感あふれる記事で日々の紙面を沸かせた。特に政府に反旗を翻すことで地元を荒廃させた張本人の西郷隆盛を慕う南九州の人々の姿を克明に描くなど、他紙のような新政府側の「ちょうちん記事」とは一線を画す文を書いた。
「学問のすゝめ」にも「ただいたずらに政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。」とあるが、報道の自由を得るためにはあくまで政府からは独立した報道機関であらねばならなかったのだ。
戦地から戻ると、諭吉から「学生の本分は勉強である」と、学問が遅れたことを叱られた。しかし戦場特派員として仕事をしたのだから、卒業までの学費は「郵便報知」から保証されるため、学問に打ち込もうと思った矢先、新聞社の経営不振を理由にそれを反故にされた。また成績が首位でなかったことなどから、彼は卒業間近で慶應義塾を中退してしまった。誰よりも残念なのは諭吉だったろう。ただ慶應義塾大学の資料館には、OBの筆頭として彼の名は挙げられている。
永田町でも役立ったスピーチ能力
その後の犬養毅はジャーナリストとして本領を発揮するが、1882年に大隈重信が打ち立てた立憲改進党に入党した。そして彼のもとで学んだあと1890年の第一回衆議院議員選挙で岡山県選出の代議士となった。犬養木堂記念館の敷地には、これを記念した楠の巨木が今なお豊かな葉を生い茂らせている。ちなみに「木堂」というのは「論語」にある「口下手でも真のしっかりした人物には思いやりの心があるだろう」という意味の「剛毅木訥近仁(ごうきぼくとつはじんにちかし)」から来ている。しかし彼は「朴訥(ぼくとつ)」どころか舌鋒鋭い能弁家だった。もちろんその基礎は、慶應義塾の「三田演説館」で身に着けたものだろう。
諭吉は「学問のすゝめ」のなかでスピーチに至るまでの五段階を以下のようにしている。
「①観察 ②推理 ③読書 ④議論 ⑤演説」つまり、「よく見て、なぜそうなるのか考え、それを裏付ける資料を読み込み、議論によって反論に対する準備をし、そして明るくわかりやすく説くべし」というのだ。犬養毅のスピーチはまさにこれを踏襲していた。そして一方的な意見を何より嫌った。
「学問のすゝめ」には「およそ世に学問といひ、政治といふも、みな人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば不用のものたるべし」、つまり人と人との交流こそが学問であり、政治なのだ。
アジア主義者としての犬養毅
薩長藩閥に強く反対した彼は、国内では盟友尾崎行雄とともに憲法を守る議院内閣制を堅持する「護憲の神」と呼ばれた。そして対外的には金玉均を支援して朝鮮の近代化に助力したり、辛亥革命の際には孫文を最後まで支援し続けたりするアジア主義者でもあった。亡命してきた孫文を、熊本の宮崎滔天のもとにかくまってもらうよう指示を出したのも、孫文の革命に資金を回したのも犬養毅だった。幼いころからの漢文と書で培ってきたアジアへの共感を基礎に置き、中国がアジア初の共和制国家に移行する際の「縁の下の力持ち」でありつづけたのは、恩師諭吉がなしえなかったことだ。
1925年、普通選挙法が成立すると、護憲派加藤高明内閣の逓信大臣だけでなく、議員も辞した。しかし岡山県の有権者たちは本人の許諾無しで彼を担ぎ出し、立候補させて選ばれた。憲政史上、これほどの「珍事件」もまずなかろう。彼はしぶしぶ引き受けたものの、長野県富士見町の白林荘という別荘に隠棲してしまった。付近には「帰去来荘」という別荘もある。気分は宮仕えから離れた陶淵明だったのだろう。彼には「文人」という言葉が実によく似合う。ちなみにこのころの彼のスタイルは、着物の裾をはしょって杖をついていたが、それも晩年の諭吉そっくりである。
度重なる右翼テロ
1929年、山口県出身で政友会総裁の田中義一が亡くなると、犬養毅がその後釜に座ることとなった。翌1930年には高知県出身の濱口雄幸首相がロンドン海軍軍縮条約を締結すると、犬養毅は鳩山一郎とともに濱口の「統帥権干犯」を非難した。その年の暮れ、濱口首相は東京駅で右翼に狙撃され、翌1931年に亡くなった。これをきっかけに首相を中心とする政府の中枢が凶弾に倒れることが相次ぐようになった。
濱口内閣を引き継いだ島根県出身の若槻禮次郎による内閣は、在任中に満洲事変が勃発し、それを抑えることができぬまま、わずか八か月で総辞職した。その政権内で大蔵大臣を務めていた井上準之助は、三井財閥総帥の団琢磨とともに翌年三月に暗殺された。いわゆる「血盟団事件」である。
こうした流れのなか、若槻内閣の後で満洲問題を解決すべく首相となったのが犬養毅だ。その時の彼の演説が録音で残っているが、彼ははっきりとこう言っている。「いかにして日本の産業を統制し、合理的に発達させることができるか…」産業の「合理化」。合理性を愛する諭吉の精神はこのようなところにも生きていた。
それにしても昭和初期においては山口を除いても中四国出身者の政権が続くことには驚かされる。
「話せばわかる…」か?
また、アジア主義者である犬養毅は満洲で関東軍が起こした「事変」によって成立した満洲国を国家として認めることは決してなかった。それどころか満洲を中華民国に返還し、日中共同による開発を考えていた。日本に満洲を経営するほどの力量がないことを知っていたのだ。そこで軍部と対立することとなり、1932年5月15日、首相官邸でくつろいでいたときに海軍青年将校たちに押し入られた。
このとき泰然自若として賊を奥の座敷に案内し、葉巻をすすめ、茶をすすめた。まさか本当に殺されるとは思っていなかったのか、それとも死ぬべき時が来たと悟っていたのか分からない。ただ、「話せばわかってもらえる」という信念があったのだろう。しかし賊の「援軍」たちも来て囲まれると、「問答無用!」の一言で撃たれた。ところが賊が逃げてからも「さっきの若いのをつれてこい。話して聞かせてやる。話せばわかる。」と言って息を引き取った。
「話せばわかる。」これはおそらく彼が慶應義塾の三田演説館で、徹底的にスピーチを鍛えたことから出た結論だったろう。しかし現実は「話そうとしたら撃たれた」のだ。さらにこの「話そうとするやつを撃ち殺せ」という流れは、その後十数年間、この国でのスタンダードになってしまった。
犬養毅は神格化されているのか?
木堂記念館を含む戦後の世の中では、犬養毅は満洲国を認めない、日本とアジアの平和を願う平和主義者であるということになっている。私も原則それに賛成である。しかし実に皮肉なことに、軍隊を統率する権利は天皇にあるのだが、「軍縮」の名のもとにそれに政府がとやかく言うことは許さないという「統帥権干犯」の威力を軍部に教えたのは、他でもない、犬養毅と鳩山一郎ではなかったか。現に、鳩山一郎は終戦後その咎(とが)もあり、侵略に加担したとして公職追放されている。また、彼は陸軍に対しては軍備費を惜しまなかった。その資金が関東軍に流れることも推測できたはずだ。
犬養木堂記念館には残念ながらそれに関する展示は見当たらない。やはり「おらが村の木堂先生」が「自業自得」のような展示はできないのだろう。どうやらこの国では、ふるさとの都合が悪い人間は「いなかったこと」にし、誇れる人間は神格化する傾向が強い。しかしやはり政治家に対しては「清濁併せ吞む」という態度で接するほうが現実的かもしれない。
なお、2000年代初期に松江市の中学校では「おらが村」の若槻禮次郎首相にも満洲事変の不拡大に失敗したことについて、責任があるかいなかについてディベートをさせていたことがあった。このようなタブーをおそれず中学生なりにでも真実を究明しようとする態度こそ、若き日の諭吉が目指した教育だったのではなかろうか。
「学問のすゝめ」を読み直すべきころ
緒方洪庵のころは「話しても分からない」江戸時代だった。だから彼は「論より証拠」で、種痘によって伝染病が食い止められるということを証明する必要があった。それが福澤諭吉のころになると慶應義塾を開き、「学問のすゝめ」や「三田演説館」で「話して分かってもらえる」世の中を作ろうとした。
それを踏み台にした犬養毅は、大正デモクラシーを通して「話せばわかる」時代の到来を見たが、そのような時代は不断の努力で繋いでいかねばならなかった。それを踏み台にしてさらに良い世の中にしようとする者たちは、軍靴で踏みにじられることとなったのはいうまでもない。
諭吉の人生を歩いた後、彼と正反対の不器用な道を歩いた滔天の人生を歩いた。そして諭吉の師匠、緒方洪庵と、諭吉を師匠とする犬養毅の人生を駆け足で歩いた。諭吉の理想を詰め込んだ「学問のすゝめ」は、明治時代から戦後間もないころまでならそのまま通用したかもしれない。しかし「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」というだけで、学問をした人間が上に立てる世の中では、自己責任を求められ、セイフティネットは二の次の「新自由主義」的な世の中では不安定極まりない。
一方で現在博士号をとっても職がない人があふれている。全く持って「宝の持ち腐れ」である。学んだ者にとってよい世の中でもないのだ。ただ、「学ぶ」、「自由」、「独立」という彼のキーワードを自分なりにまとめなおすと、「学ぶことによって自由を知ることができ、それが独立につながる。」となるのが、今時点の私の結論だ。あらゆる意味でもう一度「学問のすゝめ」を見直す段階に来ていることを再認識した。(了)
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