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コメ二スト宣言ー旨いコメが喰いたい!
「コメ二スト」
希代の美食家、北大路魯山人はいった。
「元来米というものはうまいものである。うまいものの極致は米なのである。うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。特にうまい米は、もうそれだけで充分で、ほかになにもいらなくなってしまう。」
言いえて妙だ。日本人は「コメ二スト」である。旨いコメが喰いたい!老若男女そう思っているはずだ。炊きたての新米に味噌汁、それにノリの佃煮や梅干し、納豆でもあれば充分に満足できる人の割合などという妙な国際統計(?)があったら、日本人が一番になるような気がする。と思って、日本人は一人当たり年間どれぐらいコメを喰っているか気になったので調べてみるとバングラデシュを筆頭にして、以下は圧倒的に東南アジア勢によって占められていた。それどころか、中国よりも韓国よりもインドよりも少ない消費量だったのが衝撃だ。
それでも私は日本人を「コメ二スト」だと論じたい。それはコメの物質的な消費量ではなく、コメにモノ以上の何かを感じ、普段はパンや麺でも、ここぞというときにはコメを喰って力をもらうからだ。
蹴り飛ばされたコメ
90年代半ば、22歳から24歳まで、中露朝三角地帯の吉林省延辺朝鮮族自治区で高校教師をしていた。そこは満洲国時代に「内地」の寒冷地米が日本人や朝鮮人によって植えられており、今なおその子孫たちが懐かしい日本のコメの味で舌を楽しませてくれた。ある冬のこと、アパートの外でいやなものを見た。土埃の舞うグラウンドの片隅で、「白米饭」が三合ほど落ちていた。誰かが学生食堂で白米飯とおかずを買い、途中で落としてそのままにしておいたに違いない。あなたは土にまみれた白いメシを見てどう思うか。私はとっさに不快に思った。なにか見てはいけないようなものを見てしまったような気がしたので、見て見ぬふりをしてその場を立ち去った。
翌日外に出た。男子生徒たちが朝鮮語で叫びながらサッカーをしていた。しかし蹴っているのはボールではなかった。前日の白いメシが氷点下の屋外で凍り付き、それをボール代わりに蹴って遊んでいたのだ。それは最大級の衝撃であった。中国ではそれまで色々とカルチャーショックがあっても、大体を異文化ジョークとして受け流してきたのだが、これだけは看過できなかった。生徒たちに「お前たち、なにやってんだ?」と中国語で聞くと、「サッカーですよ。先生もやりますか?」と返す。頭がくらくらする。すぐに片づけなさい、といって部屋に戻ったが、学生たちは不可解な様子だった。
コメにはカミが宿る。それを粗末にすると、目がつぶれるなどしてばちが当たるのは、コメ二ストの常識である。(決して盲目の人について言及しているのではない)kome=kamiで、子音のkとmが共通するのは、もしかしたらコメはカミだからなのではないだろうか。
数日後、日本語学科で私が教えていた生徒たちにそのことを言うと、日本文化について詳しいはずの彼らまできょとんとしている。生徒曰く「それは落ちているから食べられません。」なるほど、喰える、喰えないという問題か。いや、でも蹴らなくてもいいじゃないか、バチが当たるぞ!と返すと、「それは迷信です。」ともっともな答えが返ってきた。もちろんあの生徒たちに悪気は全くなかったのは分かっている。しかしあの行為は異文化とかいう問題ではなく、私にとっては自分の信仰のようなものを踏みにじられたような気すらしたのは確かである。
「日本一南に位置する北国」、奥出雲の農村で育ち、実家の隣は五円玉の図柄のように稲穂が首を垂れる水田だったが、うちは非農家なのでコメ作りは体験程度しかしたことがない。そんな自分でもコメを蹴って遊ぶ生徒たちのことを、三十年経っても忘れられないのはなぜか。それは私もコメ二ストだったからに他ならない。
今回は日本の北国を歩きつつ、日本人にとっていかにコメが大切なモノか、またこれまで当然とされてきた腹いっぱい旨いコメを喰うことが、今後、いや、もうすでに当たり前でなくなりつつあることについても考えたいと思う。
日本米発祥の地へ
旨いコメについて考えるにあたり、今回は私の生まれ育った出雲から歩きなおそうと思う。というのも、日本のコメについて考えるにあたり、ここはそのルーツの一つだからだ。
縄文時代にも陸稲はあったが、今我々が口にする水稲によるコメとは似て非なるものだったろう。従来通り、水稲が伝わったときから「弥生時代」が始まったとすると、それはおそらく海流の関係で九州から山陰にかけて到着した人々がもたらしたものに違いない。福岡空港の脇にある板付遺跡が日本最古の水田跡とも言われているが、隣県佐賀県唐津市の菜畑形跡ではそれより若干古い三千年以上前の縄文晩期の水田跡が見つかっている。そこの末盧館という資料館ではそれぞれ容貌の異なる縄文人と弥生人が共生し、コメを食べているジオラマが見られ、興味深い。ちなみにここで見つかった炭化米はジャポニカ米である。今のところこここそ「考古学上」日本米発祥の地といえよう。
ところで現存最古の史料といえば「古事記」であるが、そこに天上界の高天原を除き、コメに関する間接的な記述が出てきたのが奥出雲は斐伊川である。スサノオノミコトがこの地に降り立つと、川から箸が流れてきた。箸だからといってコメ作りをしていたかは不明だが、上流でヤマタノオロチに苦しめられる老夫婦と末娘のクシナダヒメの表記の一つが「奇稲田姫」であった。「稲田」すなわちコメである。さらにオロチ退治に酒を醸造したが、おそらく口かみ酒であろう。とするならやはり原料はコメだ。それを思うと奥出雲は「神話上」日本米発祥の地といって差し支えあるまい。
唐津にせよ、奥出雲にせよ、田園風景が広がり、そこで農作業をする人々が弥生人や神々の子孫であるかのような妄想が膨らむが、なかでも私の育った現雲南市木次(きすき)の棚田が広がる一帯に鎮座する「印瀬の壺神」とよばれる神社を紹介したい。ここはオロチ退治の酒づくりをしたと言われるところだ。「八口神社」と書かれた額のある小さな石の鳥居に入っていく。イネの穂を編んで作った注連縄の結界で一礼して石段をあがる。あるのは酒を醸したという小さな岩と小さな祠だけだが、なかなかの雰囲気がある。賽銭箱の横にコメがそのまま置かれているのを見た。神々に賽銭代わりのコメを捧げているのだ。私が子どもの頃から出雲各地に散らばる小さな神社で神々に捧げられた生米を見てきた。ようやくわかった。なぜ凍ったコメを蹴って遊ぶ生徒たちのことが忘れられないのかが。私はこうした環境で生まれ育ってきたのだ。
田んぼで先祖と繋がる青少年
JR木次駅の裏に同級生が住んでいる。屋敷の裏手は棚田である。秋には赤とんぼが飛び交う棚田の下で生まれたその同級生は、子どものころから農作業を手伝ってきたのだが、高校一年生のころの彼が書いて発表した国語の作文の内容を今なお覚えている。
「この田畑で農作業をしていると、僕は先祖のことを考える。僕の親も祖父母も曾祖父母もみなこの田畑を耕してきた。自分もこの土地を耕していると、先祖と繋がっているような気がする。」
確かそんな内容だった。それを聞いた我々悪童どもは爆笑した。16歳の高校生の発想にしてはあまりにもジジ臭いからだ。先生まで笑いをかみ殺していたのを覚えている。と同時に、少なくとも私はしんみりとした、ややうらやましい気にもなった。今になって気づいたことだが、田畑は不動産でもなければ資本(カネ)でもない。先祖から引き継いで子孫に残すものであり、いわば「生産性のある墓」なのだ。だから伝統的なお百姓にとって、田畑を売ることには痛みを伴う。先祖とのつながりはもちろん、きちんと手入れさえすれば一生収穫が可能なのに、売ってしまったのでは一生分のコメ代を費やして閉まったに等しい。
その後大学時代には新潟の農家出身の後輩が飲み会の時「おじいさんが私を大阪の大学にやるために田んぼを何枚か売った」と言ったことがある。その時のさみしそうな、申し訳なさそうな顔を思い出す。バブル崩壊直前なだけに、一緒にいた京阪神の学生たちは、単なる不動産売買ととらえ、彼女の想いにあまりピンとこなかったかもしれないが、彼女は自分が大学に行くために先祖とのつながりが一部切れたかのような気がしたことは非農家出身の私でも容易に想像できた。
ムラ社会を作った稲作
田畑を守って生きていくというムラの生き方、死に方は、今なお日本の隅々にまで根を下ろしている。例えば実家の鎮守の神である安来市赤江八幡宮では、五月にお田植えまつりなるものがある。早乙女に扮した地元集落の男性たちが豊作を祈って拝殿で踊りを披露するが、その時「ドン、ドン、」という太鼓に合わせて床を踏みしめる。出雲にもいくつも太鼓集団があるが、それらは太鼓の音で天を震わせ、眠っているかもしれない天の力を目覚めさせて雨をもたらさせるという神事から来ているらしいが、ここでは床も踏みしめるので、地の神をも覚醒するという意味があるのだろう。
この祭りの見ものはその直前に行う「駄使(だつか)い」という道化役による、農耕牛で田を耕すパントマイムである。14世紀、南北朝時代から続いているというが、それ以前の平安時代にすでに田植えおどりはあったらしい。ただそれは一定のリズムで田植えをしやすくするための労働歌であった。それが滑稽な田楽となったが、そのエッセンスを取り入れ、能楽を大成したのが14世紀の観阿弥・世阿弥という。中央では狂言に吸収された「笑い」の原型がここではまだ見られるのだ。そして最後に「早乙女おじさん」たちが大きなおにぎりをほおばって終わりとなる。
その他安来では五月に「虫祈祷」という虫送り行事がある。イネにウンカなどの害虫がつかないように祈祷するものだが、場所によっては「サネモリさん」ということもあるようだ。凶作や飢饉を避けるための祈りであるが、害虫だからといって根絶やしにすることはない。害虫と言えども魂があると考えるからだ。ウンカの発生のメカニズムは今なお解明されていないというが、こうした年中行事を通して村人たちが常に集まり、何かあった時にはすぐに駆け付ける体制をつくるのも、稲作社会ならではだろう。
こうした諸行事は出雲だけではなく、北海道や沖縄、大都市を除けばどこでもやってきた。稲作だったから絆ができた。それは、非農家の私の家でも農業用水の管理までしなければならないという同調圧力にもなるが、祭では同じ釜のコメを喰い、ハラに力をためて神輿を担ぐ。その絆が取れたての野菜や煮しめをもって近所を回っては高齢者を見守ったりすることに役立ったり、いざというときには消防団として災害時には動いたりもする。逆にそれがなくなると地域の崩壊につながる。日本の農村社会がコメづくりを仲立ちにしているのがよく分かるだろう。
ファストフードの握りずしとスローフードの押しずし
それだけではない。コメは実に私たちの暮しを豊かにしてくれた。海外でも和食の代表とされるすしであるが、彼らの考えるすしはなぜか「ファストフード」のような握りずしか巻きずしぐらいだ。しかし安来の隣の米子には「五左衛門寿司」という北海道の昆布で包んだ鯖ずしがある。鯖は足が速い。海に面した米子では酢でしめた鯖を押してつくるが、中山間地の木次では焼鯖ずしが名物となる。いずれにせよその味をしっかり受け止め、芳醇な味にしてくれるのが地元産のコメであることは言うまでもない。
ところですしのルーツは琵琶湖のふなずしに見られるように淡水魚のなれずしという。そこから富山のマスずし、金沢のかぶらずし、岡山のままかりずし、大阪のバッテラや小浜の鯖ずしなど、西日本にはその土地その土地の魚とコメで作った郷土色豊かな「スローフード」としてのすし文化がある。だがどうやらこうしたすしを好んで食べるのは西日本人の特徴らしく、海外ではほぼ好まれないだけでなく東日本でも西日本ほど好まれることはないようだ。江戸前の握りずしはネタが主役、シャリは脇役だが、西日本の押しずしは一体化しており分けられない。それだけにメシのうまさがモノを言うのだ。
出雲の次に、コメに関して考えるうえで大切な場所として、次は北陸は石川県を歩きたい。
金沢ー加賀百万「石」の城下町
前近代、特に江戸時代の日本でユニークなのは、カネよりコメのほうが「基準通貨」であったことだ。武士も俸禄をコメでもらっていた。「加賀百万石」という言葉がある。金沢を代表する六月の祭りは「金沢百万石まつり」であり、金沢城や兼六園等の観光ルートを一周する通りを「百万石通り」というように、これは加賀藩の国力を端的に表す言葉である。一石は当時の成年男子一年分のコメの消費量で、玄米換算で約150㎏ほどという。つまり「加賀百万石」は「加賀百万人」を意味する。いまでいう「GDP」の基本単位がコメの生産量だったことに留意したい。ちなみに今なら一石で成年男子三年分になるくらいコメそのものの消費量が減った。コメ中心の戦国時代から江戸時代にかけて、人々は今の三倍もコメを喰ったのだ。
戦国時代というと、稲作が普及すると同時に戦が続いたことを特筆しなければなるまい。「魏志倭人伝」ではそれを「倭国大乱」と呼んだ。戦の原因はコメをもつ者ともたざる者の間の「コメの取り合い」である。そして「コメの取り合い」は「イノチの取り合い」となった。このときから日本列島では「コメ=イノチ」になったようだ。結局列島で最も「コメ=イノチ」の上に君臨するようになったのがミカドであり、そのミカドのコメ=イノチを「預かる」形で君臨したのが平安貴族であった。
とはいえ粥中心で体を動かさない平安貴族は短命なものが多かったのに対し、坂東武者はこわ飯に麦にケモノに魚に、つまり何でも雑食で喰い、体を鍛えた。そしてそのうち貴族の管理していたコメ=イノチを支配下に置いた。大切なのは坂東武士はもともとお百姓だったということだ。彼らは貴族から奪ったコメを子分たちに分けた。貴族がコメの強奪者だったのに対し、武士はコメの分配者となったのだ。雅やかな貴族と荒々しい武士のイメージは多分に創作だろう。
コメを制する者が日本を制する
金沢という町の大きな特徴は、そうした武士の棟梁たる前田氏が、一方で能楽や陶芸、染物など京都の貴族文化を独自の形で発展させたことだ。またここは日本海側に勢力を伸ばした近江商人の根拠地でもあった。コメはバラバラだと食糧だが、一か所に集めれば「資本」となる。それを制する者が日本を制するのだとしたら、近江商人は江戸時代に加賀百万石はもちろんのこと、日本のコメを、その抜群の輸送力で右に左に移しかえてきた。つまり日本中のコメ=イノチを一手に引き受けた近江商人こそ、「ラスボス」ではないのかとさえ思えてくる。オモテの前田氏、ウラの近江商人である。
彼らの子孫の本拠地となるのが今の近江町市場であろう。観光客は海鮮丼に目がないが、私はその「海鮮」以上にコメのメシが気になる。それ以上に気になるのが、とろろ昆布のおにぎりである。北陸ではよく見るタイプなのだが全国ではなぜかさほど知られていない。ただ、これこそ北前船で遠く蝦夷地までコメを運び、蝦夷地からとろろ昆布をもって来た時代の名残である。しかも素朴な旨さが口に広がるのはたまらない。
コメを制する者が日本を制するのならば、加賀百万石の真の主人はやはり商人たちだったのではないかと改めて思う。
白米千枚田
金沢から七尾経由で奥能登に向かう。2024年元日の震災の一年余り前のことだ。奥出雲の田園風景そっくりの道を走り、ようやく輪島にたどり着いた。ここでも朝市のおばあさんが握ったとろろ昆布のおにぎりをほおばり、白米(しらよね)千枚田に向かう。日本海に向かって上から下に連なる数々の細長い棚田は、世界農業遺産に登録されている。
みながカメラを向ける絶景の撮影スポットのはずだが、正直、私は気が重かった。奥出雲・雲南で生まれ育った私にとって、棚田というのはよく見る光景だった。懐かしさもある。しかし非農家出身の私でも農機が入らない棚田を維持することの大変さは想像できる。しかも現住所は日本最大の関東平野の地平線でも見えそうな茨城県だ。棚田と平野では「どちらがラクか」つい比較してしまう。根っからの都会人ならばこの光景を気に入るかもしれないが、農業の現実を考えてしまう私はここの管理をする人々の苦労を思う。もっというなら、故郷の駅裏の棚田で先祖と向き合いながら農業を支えているだろう同級生たちを「置いてけぼり」にした思いがないわけでもない。
そしてこのような棚田の面積は日本の田園の約1割を占めるというが、その多くが耕作放棄地になろうとしている。ただ水田は単なる食糧供給地ではない。畦から畦に水を貯えるダムとしての役割もあり、またビオトープとして多様な生物の住処ともなっている。さらに、仮にここの水田がすべてなくなったら、栄養分のない土砂が一気に日本海に流れ落ちる。有機物のかたまりたる棚田だからこそ、栄養豊富なプランクトンが海に育ち、それを求めて小魚が、小魚を求めて大きな魚がやってくるはずだ。能登半島沖合の漁場を生かすも殺すもこの棚田次第である。
ただ人口減少と超高齢化によって維持が困難なここの棚田は独自のオーナー制度を実施していて、土地自体は手に入らないが外部の人でも一定の金額を支払えば田植えや稲刈りが体験できる「オーナー」になれるという。そのようにして資金を集め、交流人口を増やすのだ。おそらく「オーナー」さんの多くは私のような面倒な感情とは無縁の都会人ではなかろうか。
とはいえやはりここは美しい。棚田は石積みと泥と水でイネを育て、結果的に沖合の魚を育てる自然風の人工物だ。ふと押しずしみたいだと思った。つまり棚田で育てたコメと沖合の魚をぎゅっと凝縮したものが押しずしになるからだ。逆にこうした土地のコメと魚を喰うことで陸と海の食物連鎖を守るためにも、オーナー制度のような取組は必要なのだ。しかし前提として、ここがフォトジェニックだから都会の人々が来てくれるのであり、どこにでもあるような棚田だったらどうなるだろうか。国内あちこちで棚田を見るが、田園総面積の一割をも占める棚田の活かし方が、待ったなしの課題として突きつけられている。
コシヒカリのクオリティ
日本全国でコメを喰ってきた。つい昨日も千葉県のある食堂で定食についてきたコメを喰わされた。カミでもあるコメにケチをつけるのは畏れ多いとは知りながら、やはりうまくないと思った。もそもそしているうえに水分が多すぎた。古米だからか。保存の仕方か。炊き方が悪いのか。いや、それ以前にコメの種類が原因であることは明らかだった。私の舌にはコシヒカリが「標準的」に感じられているようだ。
思うに物心ついたころからコシヒカリが我が家の食卓に上っていた。思い返すと80年代初め頃、小学校の同級生たちと家で何のコメを喰っているか話すと、多くがコシヒカリだった。そしてそれを家で喰うことにいささかの誇りを感じていた。新潟育ちの米「コシヒカリ」は、当時すでに日本津々浦々で普及し、高く評価されていた。実際、新潟を旅することの楽しみのひとつにコシヒカリを喰い、地酒を飲むことがある。コシヒカリに限らず「普通酒」まで旨い地酒を呑ませてくれるのが新潟米のクオリティだ。
ただ色々調べてみると、私が生まれる前の60年代以前は東日本と西日本ではコメのうまさに対する好みが異なっていたらしい。具体的にいえばササニシキは東日本の味で西日本ではそれほど受け入れられなかった。小学校の担任も「コシヒカリはうまいがササニシキはまずい」と贅沢なことを言っていたことを覚えているが、戦前生まれの担任の正直な感覚だったのだろう。思えば我々は小学校の頃からコメの食味にこだわる「コメ二スト教育」をうけてきたらしい。現在そのような東西の差が少なくなったとすると、コシヒカリとその子どもや孫やひ孫たちの普及のおかげかもしれない。
気候に左右されるコシヒカリはおおむね北緯38度以南、つまり新潟・福島以南で栽培される品種であるが、あきたこまちや西日本のひのひかりの「血筋」も半分はコシヒカリである。平成の宮城県が生んだひとめぼれは四分の三、昭和のササニシキですら四分の一はコシヒカリの「血筋」である。コシヒカリは元々栽培が難しい品種で、特にイネの大敵であるイモチ病に弱く、茎が倒れやすかったが、それをそれぞれの土地に根付かせて「子孫」を増やしていくのが本州、九州、四国における二十世紀後半の稲作だったといっても過言ではない。
「まずい新潟米」の汚名返上
とはいえコシヒカリ発祥の地は、新潟ではなく福井の農業試験場である。大戦末期にその研究は新潟で始まったが、もちろん時代を反映して「旨いコメ」ではなく「大量に穫れるコメ」を目指して人工交配による新たな品種を模索していたが、思うような成果が得られなかった。その種籾が福井県に移され、品種改良の過程で、コシヒカリの元祖、「越南17号」が誕生した。ただ福井平野の湿田では根腐れが発生しやすく、その育成は困難だったため、「こんなのをお百姓さんに植えさせては迷惑がかかる」と遠慮したため普及しなかった。だが戦後それが新潟に「里帰り」し、越後の地でしっかり根を下ろし、「コシヒカリ(越光)」、すなわち「越の光」という名で瞬く間に日本人のコメのスタンダードを作り出していったのだ。
ただ新潟でコシヒカリの栽培が本格化した1952年当時は「質よりも量」の時代だった。ただ当時は新潟米はまずいということで知られていたが、その「汚名返上」をしたのがコシヒカリだった。それはイネが倒れやすいという最大の弱点であった。イネが倒れると水分や栄養分のパイプが折れてしまい、コメが育たなくなってしまうのだ。そしてその克服には四半世紀の時間がかかった。それと並行して農業の機械化が進む中で、コシヒカリは機械化とも相性が良いことが確認されたのも全国制覇に寄与した。
魚沼ー「天の時、地の利、人の和」
9月初旬、収穫が始まる直前の魚沼地方を車で走ったことがある。黄緑色の稲穂がたわわに実り、風に揺れる。ただ、あの日本一有名なブランド米のふるさとにしては狭い。どこかに似ていると思ったら、仁多(にた)米の産地、奥出雲にそっくりだ。関東平野の広大な稲作地帯に住んでいる私からすると、この狭い中山間地の、お世辞にもコメの大量生産には似つかわしくないこの地の農業指導者とお百姓たちの、文字通り「知」と汗と涙が「泥の中の真珠」魚沼産コシヒカリを生み出したのだった。
ここが元々コメどころではなかったのは一目瞭然だ。冬に訪れたことはないが、厚さ数メートルもの雪に閉ざされるといい、裏作も期待できない。そもそも大地を掘ればすぐに石ころが出て、水はけも悪かったという。こんなやせた土地の「救世主」として現れたのが狭い畑でも比較的多くの収穫が期待できるコシヒカリだった。出穂(しゅっすい)から収穫までの平均気温が24度あまりという気候も、コシヒカリの栽培に味方したという。
何ごとも「天の時、地の利、人の和」が必要とされるのなら、まさにここは地の利に恵まれ、指導者もお百姓も一体となって栽培に取り組んだ上に、時代が後押しした。62年には新潟県知事が音頭を取って「日本一うまいコメ作り」プロジェクトが始まり、50年代から60年代にかけてとにかく増産に増産を重ねた結果、コメ余り現象が起こったのだ。漬物や佃煮やノリでどんぶり飯をかきこみ、味噌汁で流し込むのは長い間庶民の夢だったのだが、これは高度経済成長期の二十年間でほぼ達成され、69年には政府が「自主流通米」を認めるや、減反政策を打ち出した。
食管制度と自主流通米
「自主流通米」とは死語である。というのも令和の今にして思えば不思議なことだが、昭和のコメ作りは長らく「食糧管理制度(以下「食管制度」)」によって窮屈ではあったが政府により守られてもいた。太平洋戦争が始まった翌1942年、国家戦略としてコメを国家が集中管理し、より端的にいえば戦地における兵士の糧食を確保し、残りを国民に分配するためのこの制度は、なんと平成初めの1995年まで続いた。
それによってお百姓が作ったコメの大部分は農協や全農に引き取ってもらい、どんなコメでも重量当たり同じ価格で現金化できた。逆に農家が良質のコメを個人的にコメ問屋などにコメを売ったら、それは「闇米」と呼ばれ、日陰者の存在だった。それが減反政策と相まって「自主流通米」と名を変え、可能になったのだが、そうすると「まずいコメ」から淘汰され、「旨いコメ」が生き残ることになる。その時の負け組の代表が北海道産米となり、勝ち組の中の勝ち組が新潟のコシヒカリとなった。
コシヒカリの快進撃は自主流通米の許可とともに広がり、ついに79年には栽培面積で日本一となり、奥出雲でも定着した。小学校の頃の私たちが「うちはコシヒカリだ」と誇らしく語っていたのはその直後のことだ。一方、かつての王者格であった「ササニシキ」も、コシヒカリの血筋をひく「ひとめぼれ」などに取って代わられたことは先に述べた。
ただそれには天地を相手にしてきたお百姓軍団とは思えないほどの綿密なマーケティング戦略も功を奏した。東京進出にあたり集中的に選んだ地域は世田谷区や杉並区の高級住宅地だったからだ。食味には自信がある。そこで店舗に他のコメより若干高めに販売するように頼んだら比較的富裕層から火が付いた。つまり多少高くても旨いコメが喰いたいという層に的を絞ることで、ブランドとしての地位を確立したのだ。
ティッシュ代わりのタイ米
その後も「コシヒカリ帝国」は順調に版図をつかんだかに思えたが、平成になってから大きなターニングポイントに遭遇した。アメリカがコメ市場を開放させようとしてきたのだ。この「日米経済摩擦」において焦点となったのがコメとオレンジと自動車だったが、特にコメは日本人のナショナリズムを刺激した。そうした最中に起こったのが93年の「平成の米騒動」である。冷害による作況指数は北海道が40、やませの影響が大きかった岩手、宮城各県は三割、青森県に至ってはそれ以下だった。
米屋からコメが消えた。政府はタイ米などを導入した。しかしバブルがはじけた後であっても私たちはタイ米をコメとはみなさなかった。そもそもタイ米はパラパラさせた古米のほうがうまい。しかしコメ二ストの日本人にはそんなのは通用しない。町を歩くと広告付きのティッシュ代わりにタイ米を配っているケースさえ見ただけでなく、タイ米が大量に捨てられていることがニュースにまでなった。日本米ではないとはいえ、こんなコメの扱い方はないだろう。
だがここではっきりとわかった。コメなら何でもよいわけではない。昭和の発展を通して、我々が「コメ」とみなすのは、日本生まれの粘り気とあまみのある「旨いコメ」になったのだ。そうでないコメがチェーン店のカレーライスや牛丼や備蓄米などになるのはそのなかでも上々のもので、食糧庫に移し、海外への支援物資となるものも少なくない。
ちなみに私が新潟県を訪れ、南から北まで自転車で走ったのはそのようになる直前の92年の晩夏のことだった。高田平野や越後平野などを歩き、収穫を待つその黄金色のさざ波の連続に心打たれたが、あれは平成の米騒動の前年で、それから数年後の95年には食管法も改正され、まさにコメ作りのターニングポイントに来ていたのだった。
その平成の米騒動でも収穫量があまりへらなかったコメがある。庄内平野で当時うまれて間もない「ひとめぼれ」である。旨いコメを求めて歩く旅、次はその庄内平野を歩いてみよう。
庄内平野ー「せめてなりたや殿様に」
「出羽富士」鳥海山と、出羽三山の見おろす庄内平野は、東北地方とはいえ日本海側なのでやませが吹かない。つまり冷害が少ないため、江戸時代にはすでにコメどころとして知られていた。江戸時代以降この町を支配したのは鶴ヶ岡城を居城とした酒井氏というより、日本一の大地主、本間家であった。北前船を活用して豊富なコメを上方に、江戸に、そして蝦夷地にまで送り、巨万の富を得た本間家の繁栄は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という都都逸でも知られる。繰り返すが、江戸時代はコメを制する者が国を制したのだ。現在も酒田では本間家旧本邸や別館の「御店(おたな)」、本間美術館などだけに往時の繁栄が偲ばれる。
その他、市内には、米どころ山形県内の米が集積されてきたことの証人として山居倉庫が残されている。土間には塩を敷いて突き固め、屋根を高くして暖気は天井近くに、冷気は床側に流れるようにした。さらに戸外には日本海側の風雪に耐えるべく41本のケヤキの巨木を植え、さらにその蒸散で周りを冷やす。電気も使わず湿気と温度上昇を防ぐ、これらの理想的な倉庫は19世紀末に完成したが、何と2022年まで使われていた。まさに明治、大正、昭和、平成、令和の五つの時代を生き続けたのだ。私が最後に訪れた2010年代も、庄内の富の象徴たるコメ袋が倉庫内からどんどんベルトコンベアに乗って出てきてはトラックに積まれていくのを見た。
それが銭となってこの町の豪商に蓄財され、町一番の料亭「相馬楼」でもその銭が回ってきた。ここでは京の舞妓にならった「舞娘(まいこ)」や芸妓が唄い、舞うのが体験料金で楽しめた。紅で染めた妖艶な畳の上で舞う彼女らと、竹久夢二の描いた大正の女たちの絵画、京風にお内裏様お雛様を並べた雛壇、そして陰翳のおりなす和室と中庭は、うたかたの夢を見させてくれるに十分だ。
おしんの家の貧困の理由
1982年春、脚本家橋田壽賀子はこの町を訪れた。彼女は山居倉庫の存在は知らなかったが、コメどころ庄内のシンボルとしてドラマに使えると確信した。その場で少女がいくつかの米俵で酒田に奉公に出され、この倉庫に運び込まれる米俵の多さに驚くというプロットを思いついたという。それがNHK史上最高の視聴率を誇る『おしん』となった。まちには今なお「おしん」の聖地としてのポスターが貼られている。しかし思うに山形県の近代は、まさにお百姓たちが文字通りコメ作りに命を懸けつつも農政に翻弄された歴史だった。
「白河以北一山百文」という言葉がある。白河の関を越えた東北地方は、今の感覚でいえば「東北は山一つが一万円でも買わないやせた土地だ」などという新政府側からの蔑視を込めたまなざしを代表する言葉だ。戊辰戦争後負け組とされた東北は、温暖な地域の西日本人や関東人から、それ以降新政府による国策により穀倉地帯に変えられていったが、東北人に選択肢は与えられなかった。それは途中で官軍に寝返り奥羽の仲間と「同士討ち」をせざるを得なかった秋田県も同じであり、亜熱帯植物であるイネを寒冷地で栽培するというある意味自然の道に反することを要求されたのだ。その結果やませに苦しむ奥州側はもちろん、江戸時代からコメどころとして繁栄してきた山形県まで被害を被った。おしんの家や村が貧しかった背景にはこうした政治的な失策があったのだ。
「娘身売の場合は、当相談所へ御出で下さい」
何度も凶作に見舞われたが、近代史において特にひどかったのが1931年から断続的に続いた大凶作である。中高時代の歴史の教科書に「娘身売の場合は、当相談所へ御出で下さい 伊佐沢村役場」という写真が掲載されていたことを覚えている。そしてその年からの「東北大凶作」により、娘の身売りの他、学校に弁当を持っていけない欠食児童があふれた。山形県に限らず、汽車から外に投げ捨てた駅弁を狙って子どもたちが線路沿いにたむろしていたほどだという。さらに松の木の皮をはいで粘り気のある薄皮を炭酸漬けにして団子にして飢えをしのぐ者も少なくなかった。
33年には豊作ではあったが三陸大津波で太平洋側では2500人ほどが死亡した。続く34年は大凶作となる。この時代在京東北人たちが街頭募金で義援金を集め、大財閥や、満洲国という傀儡政権を作られた中華民国からすら義援金が届いた。しかし当の日本政府はというと、その後の軍事費は増大するばかりで、飢餓に苦しむ人々を救う方向には向かわず、日中戦争にまい進していき、国を滅ぼした。数十年経っても明治末期のおしんの時代と全く社会構造が変わっていなかったのだ。
30年代の娘身売りの背景の一つに、世界恐慌に見舞われた1929年、日本政府が財政難を解決するため、それまで黙認されていた民間人による国有地耕作を払い下げた失策がある。国有地で耕作するお百姓に対し、営林署が一方的にカネを出して払下げに応じるように言うが、まとまった金がなければそれまで耕作してきた土地から立ち去るしかなかった。「お目こぼし」でしか生きていくすべのないお百姓たちは、娘を売り、息子は軍隊にとられた。
調査によると1934年ごろ東京にいた約七千人の娼妓のうち、半分近くが北海道と東北出身で、十六歳で酌婦、十八歳で娼妓にされることが多かったという。とはいえ注意したいことがある。例の張り紙があった伊佐沢村というのは米沢盆地北部の現長井市東部に該当するが、狭い盆地ではあってものどかな農村だ。ここの役場に「相談」にいったのは、今の人々の考える「身売り」、すなわち娼妓とは実態が異なるようなのだ。つまり村を離れることが「身売り」なのであり、その職種のうち「醜業婦」は推定一割で、その他は女工、女中、子守りなどの出稼ぎだったらしい。また「相談」=「あっせん」と思いがちだが、場合によっては遊郭に売られそうな娘を「正業」につかせることもあったという。ただセンセーショナルな表現で発行部数の増加を狙うマスコミのために、こうしたダークで興味本位な見出しになった可能性も否定はできない。
コメに振り回されるコメ二ストたち
一方、男子たちは鉱夫として炭鉱などに送られたり、または兵隊に取られたりした。今の見方でいうと特に兵隊にとられるのは辛かろうと思うのだが、意外にも評価は悪くなかった。軍隊では厳しい訓練の代わりに一日三食コメの飯が喰えたからだ。東北のお百姓の息子たちは、生産者でありながら白いおまんまにありつけることは滅多になかったのだ。「コメを制する者が国を制する」のならば、将軍が日本中のコメを供出させて子分たちに配ったのと同じことを、昭和になってもやっていたのだ。
同じころ、山形県からは出来たばかりの満洲国に渡るものが少なくなかった。満洲に渡って数年開墾すればその土地が自分のものになると信じていたのだ。県北東部に金井町という町がある。そこからも地元で暮らしていけず満洲にわたった人々が多かったが、ここに「日輪舎」という、曲げわっぱの上に菅笠を乗せたような木造2階建ての建物が残されているので行ってみた。60人いれば1日で作りあげられるといわれるこの家屋は、満洲についたばかりの開拓団でも、その日のうちに作れるようなものだ。これは満洲ではなく1943年にこの地に作り、渡満前の研修に使用したものという。しかも当時の中流の家屋の1割ほどしか費用が掛からなかった。このような即席の家で酷寒の地の気候に耐え、山形以上に寒冷地である満洲でコメなどを育てた。私が敗戦五十年後に現地で食べていたのはそれらの子孫だったのだろう。
このように近代日本の資本主義は農村、特に東北や「裏日本」からコメと若い男女の労働力と兵隊を収奪するというあからさまな搾取構図があった。そしてそのシステムを打破しようとしたのが、東北の置かれた窮状を東北出身の部下たちから聞いた青年将校たちだった。36年の二・二六事件の大きな要因はそれまで五年間断続的に続いた東北大凶作に対する政府の無作為だった。まさにコメに振り回されるコメ二ストなのだ。
県内の道の駅ではなんどもおにぎりを買った。もちろん機械が作ったコンビニのものではなく、作った人の温かみが伝わるようなしっとりとフワフワした甘みのあるものばかりだ。ここまでくるのにどれだけの人を犠牲としたのか。コメのうまみが最もよく引き出せる塩にぎりをほおばりながら、塩味がお百姓の涙の味にも思えてきた。
死肉さえ喰らった大飢饉
山形県の昭和初期の窮状の現場を歩いてきたが、江戸時代に東北を何度も襲った大飢饉のうち、上杉鷹山が治めていた米沢藩は、1783年の天明の大飢饉の際、備蓄米と借金で買い入れたコメを領民に安価で払い下げ、餓死者をださなかった。上杉家はもともとコメどころの越後が発祥の地だけあり、また庄内を治めていたこともあり、コメの大切さをよく知るコメ二ストの家系だ。あの上杉謙信も戦に大切なものとしてまずコメを準備していた。彼が軍勢を動かすときには兵糧米を必ず持参したため、占領地の農作物は守られたが、山国の武田信玄はコメは少しだけしか準備できないため、しばしば占領地で徴発した。彼が甲斐では英雄だが、占領地ではそうでもない理由がそこにある。
しかしコメで民のいのちを守りきった上杉鷹山のような人材は、残念ながら奥羽でも例外である。そして正反対の藩が岩手県中部、北部から青森県東部にかけての南部氏十万石(幕末には二十万石に)の盛岡藩である。
江戸時代中期に奥羽を何度も襲った飢饉のうち、特に元禄(1695年)、宝暦(1755年)、天明(1783年)、天保(1832年)を指して「四大大飢饉」と呼ぶことがある。いずれも悲惨なものであったが、特に1783年の天明の大飢饉では餓死者数十万を数え、犬、猫はいうまでもなく、南部藩では死者の人肉まで喰らうものすらいたという。江戸では田沼意次が羽振りの良い積極財政をとり、清国に中華食材の俵物や銀などを輸出して一部ではあるがバブルを楽しんでいたころ、奥羽ではまさに生き地獄の様相を呈していたのだ。辛うじて生き残った者もチフスやインフルエンザで倒れていったという。
悪いことは重なるもので、奥羽の南西の境に位置する浅間山が大噴火を起こし、その灰が南風にのって北上し、奥州全体を覆った。直前にコメのほとんどを上方に出荷していた南部藩は窮地に立たされた。コメが藩から流出するのを防ぐ「穀留めの法」を取っていた周辺の藩からはコメが入らなかった。盛岡市東顕寺にはその際の餓死者供養塔がある。その数四万人、さらに弱体化した体を襲った疫病による死者は二万四千人、さらに田畑を投げ捨てて流民となる逃散(ちょうさん)を選んだ者も三千人を数えた。ちなみにそれまでの盛岡藩の総人口は推定三十万人というから、四、五人に一人が犠牲者となっている。
わんこそばの陰に
同じころ、江戸に近い関東地方では幕府や藩による「お救い米」が出されたが、南部藩では餓死者が続出しても年貢を取ろうとした。まさに人災である。しかもコメを作らぬ武士や商人は餓死せず、餓死者はほぼ生産者たるお百姓だった。あまりにも理不尽である。
それによって改革がなされたかというとそうでもない。続く1832年の天保大飢饉では、太平洋側で起こった三閉伊(さんへいい)一揆で、領民一万数千人が決起した。そして近江商人によるコメの買い占めの撤廃はもちろん、漁師に対する重税の軽減や人頭税の撤廃、公共工事のお手伝い普請の撤廃、そして藩主の更迭まで要求した。この城下町の中心にあるのは実に立派な不来方(こずかた)の城郭である。十万石には似つかわしくないほどの巨石を存分に並べたこの城塞は、北上川と中津川を外堀としており、市内各地で清水が湧く。籠城にはもってこいのこの地形に築城するということは明らかに籠城のことを考えている。しかしこれもみな領民を「お手伝い」の名目で、低賃金で働かせた結果である。
一揆勢は国境の仙台藩に越訴(おっそ)、つまり訴えて仲裁を求めた。下々の者がお上の政策に口出しするのはもってのほか、という時代である。仙台藩としてはこのようなことは幕府に報告する義務がある。幕府からすると、南部藩の領民に対する悪政を放置すれば、幕藩体制の崩壊につながりかねない。南部のお百姓のこの戦略は功を奏した。しかしいわゆる対処療法で、藩政の根本、すなわちイネの北限であった南部地方での水稲栽培や大豆栽培の見直しには至らなかった。コメではなく「雑穀」を栽培すれば餓死は免れたはずだ。
ただしその「雑穀」とみなされたものの中から名物が生まれた。わんこそばである。たとえコメのメシは腹いっぱい喰えなくとも、蕎麦ならたらふくくえるときもあった。大正時代にこの町が生んだ「平民宰相」原敬は、大の蕎麦好きで、事あるごとにふるさとの蕎麦を外部の人にも食べさせ自慢した。それに閉口した人が「コメが穫れない貧弱な土地だから蕎麦しかないんじゃないですか?」と言ったところ、ばつの悪そうな顔をしたとか、しなかったとか。ちなみに俳人でもあった原敬は自分を「一山(いつざん)」と称した。「白河以北一山一文」から来たものである。藩政があまりにもひどいと立ち上がった南部の百姓の子孫である彼が、藩閥政治を牽制するに際して付けたこの号には南部人、東北人としての反骨精神が現れている。
南部でも2010年代になってようやく旨いコメ、つまり食味に関して特Aのランキングを取得したものが出てきた。その名も「銀河のしずく」である。やはりいつものように塩にぎりを口にほおばると、甘さとしょっぱさが口の中で広がった。ここにくるまでの長い長いお百姓たちの辛苦を思いつつたいらげた。
「猪飢渇(いのししけがつ)」
青森県といえば津軽のイメージが強いが、その「対抗馬」が南部である。実は南部藩の支藩が八戸にあったため、県東部を「南部」と呼び、独自の文化圏ではあるが、県をまたいだ岩手県との関りが強い地域でもある。ここもまた藩の失政によって大いに苦しめられた。ただここから一人の思想家が育った。日本人にとってコメとはなにか考えるにあたって、彼ほどユニークな見解を持つ思想家はいない。いや、そもそもコメを思想として見る者など、それまでいなかった。そうした意味でのコメ二スト、安藤昌益を紹介したい。
現秋田県大館市に生まれ育った彼は士農工商といった身分社会だけでなく、文明そのものをも否定した。そして八戸に移住し、医師として生計を立てつつコメこそ全てであることを、「統道真伝」、「自然真営道」などの著書で弟子たちに伝えた。八戸市内では地元の造り酒屋が彼を顕彰して安藤昌益資料館を開いており、入口で端正に正座した昌益先生が迎えてくれる。
彼が八戸にいた1750年代、南部藩は「猪飢渇(いのししけがつ)」という猪による獣害に悩まされていた。その理由は江戸が都市として成熟してくると、今の千葉県の野田や銚子あたりで醤油を生産するようになったからである。そこで必要となる大豆が大量に必要とされ、商品作物としての大豆を一手に引き受けたのが南部藩だった。今なお盛岡市の納豆及び豆腐の消費額が全国の県庁所在地として首位を誇るのは、きれいな水だけではなくもともと大豆の一大産地だったからだ。
とはいえ当時大豆は焼き畑だったから、耕作地も数年で放棄された。そこにワラビやクズなどでんぷんを含む植物がしげるようになったが、それが猪の大好物だったのだ。さらにそれらを喰いつくした猪たちは、田畑の農作物を狙い、人里を襲うようになった。1751年3月のみで八戸藩は三千匹のイノシシを仕留めたという記録が残っている。一日百匹だ。そしてそれが数年後の宝暦の大飢饉になっていった。ある意味南部藩のお百姓は当時なりの「近代資本主義」の被害者だったのかもしれない。
「コメは宇宙だ!」
そのような惨状と藩の失政を目の当たりにした彼の「コメニズム哲学」をいくつか抜粋し、私なりの超訳を試みたい。
「その糠を去るなれば、米粒の貌、すなわち転定の全体なり。南北に長く東西にせまり、南ひろく北せまし。中正にして肉は北に厚く南に薄し。(もみ殻を取った後のコメの姿は宇宙の全メカニズムそのものだ。宇宙というのは南北に長く東西に狭く、南のほうが広く北はすぼまっている。腹のあたりはでっぷりとしていて、北から南に「ボン、ボン、キュッ」となっている。)」『統道真伝』
あなたはコメ粒を見つめたことがあるだろうか。この文章に出会うまで、私はほぼなかった。改めて米びつのコメを一粒とり、じっと見つめてみた。安藤昌益もそのようにして、コメ粒に宇宙を見たのだろう。私はというと、宇宙には見えなかったが、最初は山手線の形に、次は台湾の形に、そのうち変形した地球の形には見えてきた。要するに彼が言いたいのは「コメは宇宙だ!」ということなのだろう。
コメを作らぬお釈迦様より作る人間様
「釈迦をはしめ、穀を食せずして一言をなすべきか。ただ穀を食いて満腹し、精神、心の血気の盛んなるところに、思案も出、心の働き、説法もなり、仏ともなるなり。ゆえに説法、成仏、如来といえることは穀精の神感なり。ゆえに直耕して貪らず、安食、無欲心にして自然とともに生死一道なればすなわち真人なり。ゆえに直耕する人は自然妙真なれば、説かず、説くことを聞かずして、ただちに真なり。(お釈迦様だってメシにありつけていたから教えを伝えられたじゃないか。メシを喰ったおかげで心静かに菩提樹の下に座り、悟ったらその教えを伝え、如来様になれたのだ。何が言いたいかっていうと、悟りだの教えだの仏さまだのいっても、結局おコメ様あってのことなのだ。だから汗水たらして耕し、欲張って人様のものに手を伸ばしたりしなくてもコメの飯にありつく。それこそお釈迦様も真っ青の「人間様」ってやつだ。自然のサイクルに従い汗水たらして野良仕事に励んでいれば、悟りだの教えだのを飛び越えてそれだけで立派な「人間様」なのだ。)『統道真伝』
彼はお釈迦様でも容赦しない。「喰えるから生きられる」、よって「生きるとは喰うこと」であり、直接田畑に入って汗水たらさずメシを喰らうのはとんでもない。人間様なら悟りだなんだと分かったようなこと言わずにコメ粒の一つでも作ってみろ、と怒鳴っている。もちろんこの際お釈迦様などはどうでもよく、お百姓を犠牲にしてのうのうと暮らす武士に対する批判であることは疑うべくもない。そしてトマトやキュウリやネギといった簡単な家庭菜園以外汗水たらして作らない私自身を大いに恥じつつも、旨いコメを喰いたがる自分がここにいる。
死ぬも生きるもおコメ様の出入り
そして彼のコメニズムの最も基本的なコンセプトが次のものである。
「人の生死は米穀の進退にして、人の生死に非ず。転定の、小に凝りて米穀と成り、米穀の精神進み見はれて人と成り、人老いて米穀を食すること能はずして死するは、米穀が転定に退くなり。人死するに非ず。故に米穀進んで人生じ、米穀退きて人死す。故に人の生死は米穀の進退なり。(生きるとか死ぬとかいうけれど結局は人間中心の見方で、よく考えるとおコメ様が口に入ってケツから出ていく、それだけのこと。小さなコメ粒が人体を形成し、元気に働いていたと思ったら、歳をとってコメのメシが喰えなくなる。するとおコメ様に出ていかれてしまう。死ぬってそういうことなんだ。生きるとはおコメ様が体に入ること。死ぬとはおコメ様が体からみな出ていくこと。ワシらの身体って結局おコメ様が出たり入ったりする通路に過ぎないんだ。)」『統道真伝』
私にとってこれは衝撃だった。人間様がコメを喰うのではない。おコメ様が人間の体を通っているというのが本当だというのを無知な我々が知らないだけなのだ。そんな馬鹿な、とも思うのだが、コメニズムの論理からするとそのほうが正しいのかもしれない。ただ、私たちはコメだけでなくパンや麺といった小麦も食べる。だから「コムギ様」が出たり入ったりしているとも言える。しかしそれには感覚的に無理があることに気づいている。なぜなら日本人のほとんどがパンやうどんやラーメンやパスタを食べる時、ほとんど「コムギ様」そのものがのどを通っているとは考えないからだ。しかしコメの飯にノリや漬物や佃煮をそえて口に運べば、「おコメ様」が感触的にのどを通ることに気づく。それは小麦は粉にしてから変形させるため原型をとどめないが、コメは原型のまま食べるからかもしれない。
ワシも死んだらコメになる
そして最後に彼が遺言代わりに残した言葉を紹介したい。
「吾れ転に死し、穀に休し、人に来る。幾幾として経歳すといえども、誓って自然・活真の世となさん。(ワシもここらでお暇して土に帰ったらコメにでもなって、また人間様に喰ってもらうとでもするか。このサイクルを何回も繰り返して、この世の中が本当の意味で人間が自然に従いながらも人間らしく生きていける世の中にしてやる。)」『自然真営道』
このように言われると、生きるとか死ぬとか考えることすら愚かしく思えてくる。しかし想像するだけでも楽しくはないか。実は自分も人間ではなくコメの通り道で、死んで土に帰ったら改めてコメになる。自分の来世がコメになり、人様に食べられて人の身体になる。私は人間を食物連鎖の最上位に位置付けるのが当然と考えていたが、安藤昌益の時代には弱った人間が飢え死にした人間を食べていた時代だったのでその前提が崩れていたことに留意したい。
今、この文章を書きながら平成末期まで「鳥も喰わない」とされた青森のコメ、「まっしぐら」を炊いている。このブランド米をご存じだろうか。どうやらコメが大好きなコメ二ストでも地元民以外には知られていないかもしれない。岩手も青森も北海道も、農業が盛んであるにもかかわらず2015年まで食味ランキングにおいて特Aをとれるようなブランド米がなかった。哀しいかな、コメには目のないコメ二ストではあっても、あまりピンとこない土地のコメは興味本位以外では食指を動かされないのが普通だ。そこでランク付けにおいて特Aをとろうと血眼になる。この「まっしぐら」は2023年に特Aではないが、Aの評価は受けており普通に旨い。とはいえ県内での普及度は高いが全国的知名度は低い。ちょうど20世紀の北海道米が全く評価されなかったかのように。
ようやくコメが炊けたので、コメを喰ってコメになるというサイクルを楽しむとしよう。もしかしたら私の口に入るのが安藤昌益の生まれ変わりのコメなのかもしれないと思うと、正直ありがたいようなありがたくないような気もするが…
英語でriceとは何をイメージするか?
青森のコメ「まっしぐら」を腹いっぱい喰ったので、次は津軽海峡を越えて北海道に渡りたい。北海道は日本一の農業地帯であり、1873年に初めて現北広島市にて初めて稲作に成功したとは言うものの、その後アメリカの農業指導者たちの意見を取り入れ、稲作よりも畑作、酪農を中心に行ってきた。そもそもイネは中国雲南省やラオス、カンボジアあたりが原産地と推定される亜熱帯植物である。コメを英語でriceというのは常識だが、英語通訳案内士ですらriceといえば日本のようなご飯をイメージする。しかし試しにGoogleでriceという単語を画像検索してみてほしい。トップテンの過半数が細長いインディカ米ではなかろうか。
世界のコメはタイ米に代表されるパラパラしたインディカ米と、日本のコメに代表されるもっちりしたジャポニカ米に大別される。日本ではインディカ米はマイナーだが、世界的な生産量でいえば8:2の比率でジャポニカ米のほうがマイノリティである。そしてジャポニカ米には東南アジアの熱帯ジャポニカと、東アジアの温帯ジャポニカに大別されるが、日本のコメは暑い東南アジアから長江経由で伝わってきたらしい。このことを考えると、北海道で稲作を行うということは、イネが生育するには不適合ともいえる酷寒の地の果てでの栽培という、世界的に見ても技術を要することだったことが前提の挑戦であることが分かる。
北海道での低アミロース米の研究
そうした中でも研究に研究を重ね、1961年には生産量において新潟県を抜きトップの座に躍り出た。しかし日本のコメにしてはあまりにパサパサしていて食味が劣るため、「内地」では他のコメと混ぜ、「味をごまかして」食べられていた。さらに70年に政府から水田面積の実に四割以上の減反が求められたため、七十年代、八十年代にかけて生き残りをかけて優良米の開発が進められた。
コメの主成分の約三割がタンパク質、脂質、ミネラル、ビタミンなどで、残りの七割が炭水化物のデンプンである。そしてデンプンはさらにアミロースとアミロペクチンに分れる。このうちアミロース値が低いとつやと粘りがでるが、これこそ日本人の多くにとっての「旨いコメ」であることを突き止めた。アミロース率はおおまかにいえば以下のとおりである。
もち米:ゼロ(ねばねば)
コシヒカリ/つやひめ:一割半(もちもち)
あきたこまち/ゆめぴりか:二割弱(ふっくら)
きらら397:二割(すっきり)
ささにしき/ななつぼし:二割強(あっさり)
タイ米(インディカ米):三割前後(パラパラ)
ねばねばのもちごめとパラパラのタイ米を太極におき、コシヒカリとその血統を受け継ぐものがふっくらもちもち、北海道産はすっきりあっさりというオノマトペでたとえてみた。きららはかつてインディカ米のアミロース含量に近かった北海道産米をいかにふっくらもちもちのコメに近づけるかという挑戦だった。そして八分の一コシヒカリの血統を受け継ぎつつ、その先陣を切ったのがきらら397だったのだ。
きらら→ななつぼし→ゆめぴりかの快進撃
90年代に北海道産米としては一応の成功を収めたとはいえ、本州では主に牛丼チェーン店で使用され、味そのものを楽しむ品種とはまだ言えなかった。つまりコシヒカリをコシヒカリとして楽しむ人はいても、きららをきららとして味わう人はまれだったのだ。とはいえ北海道産米の進化の「一里塚」として、かつての上川農業試験場後にはきらら397のモニュメントが建てられている。
北海道産米第二弾として2000年代に内地に渡ったのは北斗七星をイメージしたネーミングの「ななつぼし」である。北海道を代表するコメどころの空知で食味、耐冷性、収穫を吟味して数えきれないほどの交配を繰り返して十年がかりで完成したこの品種は宮城県の「ひとめぼれ」の血統を受け継ぐもので、2010年には北海道産米として初めて食味ランキングで特Aを獲得するほどの評価を受けた。
第三弾はアイヌ語の「美しい」からその名をとった「ゆめぴりか」である。山形の「つや姫」のルーツをひくものだが、つゆ姫が庄内ブランドで売れたのに比べ、ブランド性のなかった北海道産米は認定に苦心した。しかしついに「ななつぼし」と同じ2010年に特Aを獲得するに至った。きらら397が標準的だとすると、これでふっくらめのゆめぴりかにあっさりめのななつぼしと、北海道産米でも全国に通じる選択肢が増えたということになる。
魯山人のブランディング論
ところで北大路魯山人はブランディングに関してこう述べている。
「例えばここにある種の大根がある。こんな時、正直に名もない大根ですと言わずに、これは尾張の大根です、と言ってすすめる。すると彼は、尾張の大根は美味いという先入観念があるから、これは美味いと自分だけの能書つきで美味く食うのである。」
私もこれにはしばしば思い当たるふしがある。私自身、産地やアミロース値といった「能書き」を気にするからだ。2010年代になって北海道産米を認めた内地人は、かつてほど新潟ブランドや山形ブランド、秋田ブランドなど、産地にこだわらなくなったのかもしれない。しかしコシヒカリの味が基本にある私にとって、これら三種類はいずれもユニークだ。がっつりとした食感とでもいおうか、「北海道そのもの」が口の中に入ってくるダイナミックさを感じる。それでいて旨い。
こうして東南アジア発のコメは、旅に旅をかさね、北東を目指した。そして研究に研究を重ね、北海道は新潟に次ぐコメどころとして、量だけでなく質も担保できるようになった。たが、その背景にもこうした研究者と農民の「知」と汗と涙があったのだ。
食糧自給率100%の吉里吉里国
旨いコメを求めて北国を歩く旅の終わりに、今一度東北地方に戻りたい。とはいっても宮城県と岩手県の間にあるとされる架空の場所「吉里吉里国」である。井上ひさしの小説「吉里吉里人」は73年から断続的に書き連ね、80年に完成を見た空想小説である。ある日、政府の農業政策をはじめとする諸政策にふりまわされることを拒否した東北地方の過疎地が、人口四千人あまりの「吉里吉里国」として独立し、二日後に鎮圧されるというストーリーが、ズーズー弁の「吉里吉里語」で語られる荒唐無稽にして捧腹絶倒の物語だ。ここで私が注目するのは、日本政府に対する吉里吉里人の農政批判である。例えば吉里吉里国が独立が可能な根拠として、食糧自給率の高さを挙げている。
「田圃ば大事にすてるお蔭で、全国民の喰い扶持ばここで穫れる米っこで充分に賄うことが出来るんだがらねっす。」
これは現在の日本が抱える問題でもある。カロリーベースの食糧自給率はすでに四割を切っている。日本の米の自給率は1960年代半ばにすでに100%に達していたが、高度経済成長がもたらした食生活の多様化により、総合的な食料自給率は徐々に低下していくことになる。具体的なイメージだと60年には漬物や味噌汁でどんぶり飯をかきこむのが庶民の食生活だったならば、麺類やパンも主食にし、その他さまざまな副食品を食べ、それだけでは栄養が偏るので少しだけご飯を食べるようになったのが70年の食生活なのだ。
輸入食糧の増加に伴う食料自給率の低下の中で、「身土不二」という概念が復活した。生まれ育った土地のものが、もっとも体にいいというのだ。その意味では食糧自給率が100%の吉里吉里国は、いざ戦争になっても「国民」を飢えさせなくても済む。戦争は国民の飢餓問題を解決する手段でもあったというのは、弥生時代から始まり、武田氏の諸国への侵攻や満洲国建国などを見るとよくわかる。
神聖なコメは文化であり、生き方のサイクル
それ以外にも日本のコメ農家はさまざまな政策に振り回されてきたが、特にこの作品が書き始められた70年代初頭の減反政策は、コメ農家の自尊心とやる気を奪った。コメ二ストにとって、コメは他の穀物や野菜や果樹とは異なる神聖なものであり、その生産に従事することが誇りだったからだ。なぜ四月に新学期が始まるのか。桜の咲くころに気分を一新して新学期を始めるというのは都会的な発想であり、戦後まもなくまで人口の過半数を占めたお百姓にとって、地域やイネの種類にもよるが、おおむね四月から田植えを始める所が多かったからに他ならない。
コメは文化であり、生き方のサイクルである。神前に供えるのはコメであり、餅であり、酒であり、稲わらを編んだ注連縄であり、つまりみなコメの化身である。非科学的な呪力と言われようが、ここぞというときパンよりもおにぎりや餅を喰うと力が出そうな気がしないか。近代の農政の結果、「日本米」はナショナリズムの象徴とみなされ、旨いコメを喰うことで「日本人」としての連帯感を感じるようになった。天皇の新嘗祭もこのコメ文化のシンボルとして位置付けられるように思える。
コメ作りはいのちの問題
昨今は大型農業法人の相次ぐ倒産や、外国人労働者への依存度の高まりが目に余るほどになっているが、例えば北海道の酪農や畜産のように、コメ作りまで大規模な企業化が一手に委ねるのに適しているかどうかは議論の余地がある。それはいのちの問題でもあり、生き方の問題でもあるからだ。コメだけは自給100%とはいうが、それを支えるのが外国人だらけだと、彼らに帰られたらコメはどうなるのか。「防衛費」と銘打って米国の役にも立たない飾り物の軍用機を買わされるより、日本人が日本のコメを作ることのほうが防衛上最優先ではなかろうか。吉里吉里人たちはこうしてアメリカの尻馬に乗り、自国のお百姓を無視する日本政府に対しても厳しい。
「まず農水省のお役人は、アメリカさんの農業技術ば日本の農業さ取り入れる様にと指導したのっしゃ。広くて乾いだアメリカの農場でやられて居る機械だの技術だのを、日本国の狭くて湿った水田さ、そっくりそのままもって来たわげだ。日本国の田んぼはアメリカさんの機械の寸法さ合せで作り変えられだ。(中略)牛馬の出す堆肥の代りに化学肥料が入って来た。百姓は、田の草取りは疲れる言って除草剤ば撒ぎ散すた。田んぼの土は瘦せ衰えだ、作物さは農薬が浸み込んだ。だども、百姓衆は『これこそ農業の近代化だ』とかえって嬉しがり、この直輸入農法さコロッと乗さっちまったのす」
これに関しては、異論もある。草取りの苦痛から農民を解放し、そのおかげで昭和にはよく見かけた腰の曲がったおばあさんを令和には滅多に見なくなった。しかし除草剤が食の安全性を脅かしていることは事実である。また、1970年代初期からみてわずか30年前、東北人の約1%が満洲開拓に送られていた。現地の農業のあり方を無視して「内地米」を植えたことのしっぺ返しをアメリカから日本が受け、そのしわ寄せを吉里吉里人(=日本中の庶民)が受けているという構図を想起させる。
百姓どすては甘い
しかし吉里吉里人は日本やアメリカだけを責めているのではない。意識の低い自分たちを含む日本のお百姓への自己批判も忘れない。
「敗戦直後、農地改革で、それまで地主さ支払って居た小作料ば払わねくても良ぐなった。日本国の百姓衆よ、そん時、貴方がだが、自分のものさ成った地代所得ば何さ使ったべな。田畑さ投資為たべが。そうではながんべ。貴方がたの大部分は、地主の暮らし振りばそっくり真似はじめだのっしゃ。家ば新築する。それも地主の家の真似為て、馬鹿でかい玄関に瓦屋根。床の間さ掛け軸。畳の上さ虎の皮。婚礼ど葬式さ、大金かげで……俺ァ、貴方がだの気持コ、よぐ判る積りだ。(中略)それまでの暮し振り、あんまり惨めで哀しいものだったもん、憧れの的だった地主の暮し振りば真似為た言って誰が責められっぺ。(後略)」
ついこないだまで村の娘たちが町に売られていたという悲惨さを忘れるかのように、戦後は一斉に小地主然とした屋敷をもち始めた。思えば私の実家もそうだった。それも農地改革のおかげではあるのだが、右や左の家々が次々に新築を始めると我が家だけ古いままでは格好がつかない。その気持ちは分かるのだが、吉里吉里人はその意識の低さを批判する。
「・・・日本国政府の『農業近代化』にホイホイと乗さったのも、百姓どすては甘い」
自らのリスク管理の甘さを痛烈に自己批判しているが、あれから半世紀たった令和の今、私が歩いてきたおそらく全ての農村部では、高齢化により生産者の数が激減し、耕作放棄地が増加している。以前は近隣の農家に土地を譲ることができたが、その農家もまた高齢化し、農地を維持することが難しくなっているのが現状だ。
吉里吉里人は今の私たちそのもの
例えばイギリスも一時食糧自給率が低下したが、後に回復した。それは食生活があまり変わらず、自給率を上げるためには小麦を国内で増産するだけで良かったからだ。日本人も戦前は地主階級のものとされた洋食や中華や麺類、パン類ではなく、コメを喰い続けていれば、米の増産によって総合的な自給率を高めることが可能だっただろう。しかしアメリカや中国、その他各国の食を受け入れる旺盛な胃袋のおかげで、そう単純にはいかなくなった。そして何よりも、先進国に対するコンプレックスの裏返しかなにかは知らないが、日本人自体がコメよりもパンのほうが健康で文化的で頭がよくなると信じていたのだ。
食糧安全保障に対する解決策として、多少高くても学校給食に地元の農産物を回すなどの地域密着型の取り組みがある。またスイスでは65歳以下のお百姓にのみ補助金を出す政策を導入しており、その結果、農民の平均年齢は40代後半と若返りを図っている。こうした外国の事例を参考にしながら、日本もまた高齢化対策や農業支援策を見直していく必要があるだろう。
ここまで来て、「誰かがやるだろう」とばかりにコメを北国のお百姓たちに作らせていることに気づかなかった都会人が多いことに愕然とする。令和に入るとついに日本の農業人口は100万人を切り、高齢者も七割以上である。新規就農は極めて少ない。年齢を考えるとこのままでいけば2050年にはわずか36万人になると推測されている。コメ作りは他人事ではない。安藤昌益風にいえば、「自分で自分の喰いぶちぐらい作らないやつは人間じゃない。」となる。それぐらい切羽詰まった状況に置かれているのが今なのだ。吉里吉里国は昭和の東北人の寓話ではない。令和の私たちのあり方そのものに警鐘を鳴らしているのだ。
グルメツアーとガストロノミー・ツーリズム
旨いコメを求めて北国を歩き、東京に戻ると色々なことが見えてきた。特に訪日客相手の「グルメツアー」なるものが盛んであるが、ただ「おいしい」ものを食べ、飲み、わいわい騒いでSNSにアップする「浮ついた」ものがほとんどのようだ。しかも訪日客に人気の料理といえば、すしにラーメン、カレーライスにお好み焼き、鍋物などに限られ、奇しくもそれらはほぼ小学生に人気の料理と合致する。確かに和食は外国でも市民権を得てきた。しかし本当に旨いコメの味が認められたわけではない。おにぎりが人気とはいえ、日本人がコメを味わうのに対し、訪日客はツナマヨなどの具のほうを楽しむ。それが証拠に「味がないから」といって茶碗のメシに醤油などをかけて食べる欧米人が実に多い。
無理もない。本国の日本レストランでしか和食を味わったことのない人にとっては、あの西日本の鯖ずしの発酵した芳醇さは分からないだろう。まして春の日に奥出雲仁多産コシヒカリの上に乗せたフキノトウ味噌をみてよだれが出るわけはなかろう。そこまで深く文化としての食を追求すると、グルメツアーではなく「ガストロノミー・ツーリズム」となる。これがグルメツアーとどう違うかというと、食を媒介にして味の向こうにある文化や社会を感じられるかどうか、ということになるのだと思う。
訪日客に対して日本とはなにかを説明する通訳案内士ですら、「食」とは何か、だけでなく「喰う」とはなにか、和食の本質は何か、などということを普段からは考えず、ただニーズに合う店の予約方法や、原料と作り方ぐらいしか知らない、というレベル止まりが多数であることも知っている。「食」に、「喰う行為」に、そして「生きる」ということの意味について特に考えず、ましてフードロスや食糧安全保障などとは無関係の世界でただ「小学生向き」の料理をうまいうまいといって食べさせていないだろうか。
コメを通して、食とは、日本とは何かを考えることで、旅はこんなに豊かなものになる。たとえ一つのおにぎりでも、食を知ることでその文化への理解が広がり、深まる。なぜなら「食即ち生」だからである。
ごま塩のコシヒカリの向こうの日本
最後に、私自身が喰った最も旨いメシの思い出は、冒頭ででてきた二十代の頃の中国滞在中、新潟からの留学生が実家から送ってきてもらったコシヒカリの新米を、日本人十人ほどとともに分けてもらって食べたことである。おかずはなにもなく、ごま塩をまぶしただけだった。それでもそれは涙が出るほど旨かった。日本から来た仲間たちもみな涙を出さんばかりだった。私たちは確かに、炊きあがる前のにおいや音から、口に運んでかみしめ、吞み込むまで、当時簡単には戻れなかった日本海の向こうのくにを思った。日本を五感で感じさせてくれたのだ。他には何もいらなかった。
「吉里吉里人」の中に主人公古橋にとっての「祖国」は何かという自問自答について、このようなくだりがある。
「源氏物語が外国文学になろうが、北斎が外国人画家になろうが一向にこたえない。が、たとえば沢庵が『外国』の食物ということになってしまったら、これは淋しい。また美空ひばりが『外国』のポピュラーソング・シンガーになったらこれまた寂しい。古橋は、食い意地と音楽に関しては超のつく国粋主義者なのであった。」
あの日のごま塩のコシヒカリは、まさに私の「祖国」だったのかもしれない。ただその場に居合わせた日本語学科の朝鮮族の学生にもおにぎりにして食べてもらったが、全く感動してくれない。それどころか「日本人は金持ちなのに、なんでご飯をまるく作って食べて泣きますか?」と問われた。そのころは「コシヒカリのごま塩握りの旨さはやはり中国人には分かるまい」と思い、「理解されない大切なもの」を共有していたことを日本人同士確認して悦に入っていたが、今ならこう答えるだろう。
「我々はコメをカミとして尊び、旨いコメがあれば幸せになり、旨いコメのためなら人生をかけることが出来るコメ二ストだからね」
と。
さて、文章を書き終えたところで、これから東北にコメに会いに行こう。旨いコメを求めるガストロノミー・ツーリズム、出発進行!(了)