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「はだしのゲン」片手のダークツーリズム

「はだしのゲン」は怖いもの見たさの肝試し?
 子どものころ、我が家では「勉強しなくなるから」「部屋が散らかるから」「くだらないから」などという理由で漫画を買ってもらえなかった。テレビアニメはある程度見られたが、やはり漫画も見たかったが、たまにいく病院や歯科や理髪店でジャンプなどをめくるのがせいぜいだった。今思うと初めて第一巻から事実上の最終巻まで読み切ったのは学校の図書室においてあった唯一の漫画、「はだしのゲン」だった。
 世界に知られる日本の漫画の中でも、日本での知名度は極めて高いが、国外で全く無名なものというと「サザエさん」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」「はだしのゲン」の三作品が思い当たる。中でも「はだしのゲン」はボランティアにより二十数か国語に訳されている割には、その知名度はほぼない。しかし自由に漫画が読ませてもらえない小学生の私にとって、何度も何度も繰り返し読んだ最初の漫画作品は、他でもない「はだしのゲン」だった。
 令和の今でも多くの公立小学校図書室に置かれており、小学四年生の倅曰く「怖いもの見たさ」の男子児童の間で「肝試し」的に見られているらしい。とにかく原爆投下後の様子があまりにリアルでショッキングなのだが、私もこどものころ「そんなもの」にびびっては「男失格」と思っていた。ただ女子児童からは全く無視されていたのに男子児童の一部からは妙な人気があるのはこの「肝試し」効果なのかもしれない。

「悲しみの記憶を巡る旅」
 主人公ゲンは昭和二十年に国民学校二年生だった原作者中沢啓二氏そのもので、出てくるエピソードはほとんど中沢少年が直接体験したものだという。原爆投下直後のヒロシマの惨状、熱によってとけた皮膚が指先や臀部から垂れ下がり、幽霊のように歩く人々や、ガラス片が体中に刺さっている人々、爆風で飛ばされ、木の枝に突き刺さった遺体など、見るに忍びない。その描写があまりに残酷だという「クレーム」が来るたびに中沢氏は思った。
「こんな 甘い表現が真に迫っているだろうか。原爆というのは本当はああいうものじゃない。ものすごいんだと。」(「はだしのゲン わたしの遺書」)
 繰り返し読んできたために私の戦中・戦後史の歴史観はかなりこの作品の影響を受けていることを認めざるを得ない。そして六年生の時初めて修学旅行でゲンの生き抜いた、そして周りの人々が殺されたヒロシマを訪れてから、私はしばしば戦跡を歩くようになった。
 2010年代に新たな観光スタイルが私の目の前に現れた。「ダークツーリズム」である。日本におけるそれのパイオニアは井出明氏であろう。氏の「悲しみの記憶を巡る旅」という副題を持つ著書は何度も読んだ。そしてそれこそ私が十一歳でヒロシマを訪れて以来、今まで歩いてきた旅のテーマの一つだ。今回はこれまで歩いてきた「ダークツーリズムスポット」たちを、「はだしのゲン」を軸にして歩きなおし、その意味と可能性を考えてみたいと思う。

広島に滞在する訪日客の特異性
 通訳案内士およびその養成という職業柄、「観光白書」の統計は毎年穴のあくほど見つめてきた。少なくとも2000年代以降、国別訪日客数はコロナ期を例外として中国か韓国か台湾の東アジア勢が上位三位、または香港を加えて上位四位を占めてきた。しかし広島県の訪日宿泊者数を見ると、それよりも「欧米豪」勢のほうが多い。このような都道府県は他にはない。そして実際に平和公園や原爆ドームを訪れると東アジア勢より明らかに欧米豪勢を見る。これにはまずダークツーリズムの持つ「人類が犯した過ちをたどりなおすことで過ちを繰り返さないようにする」というような「崇高な」理念は、「わいわいがやがや仲間とともにおいしいものを食べ、美しい景色を楽しむ」のが旅行の醍醐味というアジア人には受けないからだろうと思ってきたが、歩いているうちにその考えは一面でしかないことに気づくようになった。ここでは手始めに世界で唯一民間人が戦略的に核攻撃を受けたヒロシマを歩いてみたい。

原爆ドームー形あるもの
 原爆ドームは平和の象徴である。しかし訪日客にとってはアウシュビッツと並ぶダークツーリズムの象徴かもしれない。実は我々が思っている以上に訪日客は日本の建造物を知らない。しかし写真を見せられてそれが何か言えるのは、大阪城でも姫路城でも清水寺でもなく、おそらく金閣寺と原爆ドームではなかろうか。あの上空600メートルあたりで炸裂した人類史上初の核攻撃に無惨な体躯をさらし続けるドームも、戦後しばらくの間取り壊すか、保護するかで論争があった。被爆者からするとあれをみると「あの日」のことを思い出すので見たくないという感情は痛いほどわかる。しかし「形あるもの」のおかげでヒロシマは世界中から見学者をひきつけ、平和への思いを新たにするのだ
 「産業奨励館」と呼ばれていたあの建物が反戦反核、平和主義の思いを確固としたものにする「装置」となったのは、1954年に平和記念公園が完成してからだろう。その中核となるアーチ形の原爆死没者慰霊碑の間に「借景」のようにすっぽりと収まる傷だらけの姿をさらすドームの構図を考え付いた丹下健三はやはり天才である。

イサム・ノグチを引き裂く「二つの祖国」
 ただ、これは本来日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた石の彫刻の芸術家として知られるイサムノグチが設計する予定だった。ところが52年に本人に何の連絡もなく、設計者はノグチから丹下健三に変わった。日米のはざまに立たされたノグチだからこそ当初は選ばれたのかもしれないが、逆に「アメリカ人」であることが災いしたのかもしれない。彼は戦時中自ら「日系人」としてアリゾナの砂漠の中のポストン収容所に自ら志願して収容され、半年過ごしたがハーフであることやその要望から日系人社会から孤立し、スパイ扱いすらされて半年で出所した。
 彼が当初設計した石造りの慰霊碑もアーチ状ではあったが、弧を描く空間部分はあまりに小さくドームまで見えなかったろう。そのことを考えるとその出自から一度ならず二度までも「二つの祖国」のはざまに引き裂かれたノグチよりも、アーチの中からドームだけが見えるようにすることで、反核反戦、平和主義を一目で理解できる丹下健三に決まってよかったのかもしれない。
 なお、平和記念公園の南東と南西にかかる橋梁の欄干のデザインはノグチのデザインである。東側、元安川にかかる平和大橋には「子宮」を思わせるくぼんだ丸いオブジェがついているが、それは「つくる(もともとは『生きる』)」、そして西側、旧太田川にかかる西平和大橋には「舟のへさき」をモチーフにしたと思われる三日月状のオブジェには「ゆく」という名をつけた。生まれ、作り、逝くという生死のプロセスを表しているのだろう。
 「日系人枠」に入れられるノグチだが、「はだしのゲン」でも「マイク・ヒロタ」という日系米人の将校がでてくる。その風貌からゲンたちに日本人だと思われると「わたしは日本人ではない アメリカ人だ」と否定し、「日本はハワイにあるアメリカ基地真珠湾をひきょうなだましうちをしておそったからだ そんな卑怯な日本人が原爆をおとされたからといって文句を言う資格はない 反対に原爆を落として日本の戦争をおわらせてやったのだから感謝しろっ」という。
 作品の中では「悪役」ではあるが、彼がどこまで本音なのか、あるいはそう思い込まねばやりきれなかったかは知る由もない。しかし彼もノグチとは別の意味で「二つの祖国」に引き裂かれた人物であろう。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑と朴さん
 被爆者はなにも「日本人」だけではない。当時「日本人」として広島に連れてこられていた朝鮮人も日本人と同じく被爆した。平和記念公園内には韓国人原爆犠牲者慰霊碑もある。一説によると広島の被爆者の約一割が朝鮮人だったという。朝鮮王朝の王族だが日本陸軍少佐として広島にいた李鍝が救助された場所に建てられたこの慰霊碑に来るたびに、「はだしのゲン」のなかでもゲンが困ったときに現れてくれる「朴さん」という二、三十代の男性を思い出す。
 竹槍訓練の最中に酒を飲んで放屁をし、「日本は戦争をしてはいけんのじゃ 軍部のやつらが金持ちにあやつられ武力で資源をとるためかってに戦争をはじめてわしらをまきこんでしまったんだ おまえらは戦争の熱病にかかりだまされているんだ この戦争はまちがっているっ」と竹槍を折り曲げ「非国民」呼ばわりされるゲンの父親が、思想犯の容疑で警察で拷問を受けている間、「世間」から非国民呼ばわりされるゲンたちを励ましてくれたのが朴さんだった。その場面を見た悪ガキたちが「やーい非国民と朝鮮人が仲ようしとるぞ いちばんだめな人間どうしが仲ようしとる!」「朝鮮朝鮮ぱかにするな おなじめしをくってぬくいクソがでる どこがちがうか クツの先がちょっとちがう」と囃されたゲンは「朴さん 先にかえってくれよ 非国民といわれたうえにおまけに朝鮮人といっしょにばかにされたらたまらんよ」と言って別れる。七歳児というのはそんな残酷なことをいうものなのかもしれないが、朴さんのくやしさまじりの顔がなんともいえない。
 出所したらなけなしのコメを持ってきてくれたのも朴さんである。ゲンの母親は「朴さんかわいそうだね いきなりおとうさんといっしょに日本の兵隊さんにつれてこられたのよ おくさんや子どもにあいたくてもゆるされないし」と同情的だ。父親はそれを受けて「朝鮮の人や中国の人が日本の軍備力をふやすためつれてこられ牛や馬のように死んでいく…どれも戦争のためだ 炭鉱じゃめしもろくにたべさせず死ぬまで坑道にぶちこんではたらかせる 北海道の雪の中でうえと寒さで死ぬまでこきつかわれる」とつらそうに言う。

労務者の「追悼行脚」
 どうやらこの言葉と銃剣を突き付けられ、鞭うたれながら働かされる人々の絵にとりつかれたように、私も各地を歩いた。1944年に北海道は明治鉱業の炭鉱に強制連行され、戦後も終戦を知らずに十三年間も北海道の原野をさまよい、1958年に当別町で発見された華人労働者、劉連仁の一面の畑の中に建てられた生還記念碑、夕張の日本人墓地の片隅にひっそり、しっかり建つ朝鮮人労務者の慰霊碑「神霊之墓」、北海道一の工業都市、室蘭のトンネル上に海を見晴るかすかのように、564人の犠牲者を悼むために建てられた天をつんざく鋭角のピラミッド型中国人殉難者之碑、秋田県大館の鹿島組に連行された中国人労務者が劣悪な環境に抗議して立ち上がり、その後の虐待も合わせて四百名もの命が奪われたが、その現場、信正寺の裏に隠されるように建てられた慰霊碑、大戦末期に現長野市松代に移転される予定だった地下大本営を掘らされた朝鮮人労務者の関連遺跡など、思いつくままでもゲンの父親が語った華人・朝鮮人労務者の「追悼行脚」は今も続行中である。
 
丸木美術館とはだしのゲンー朝鮮人の描き方
 廣島が「ヒロシマ」になったとき、家屋に火が回り、夫と息子、娘の断末魔の声をきいているうちに気がふれたゲンの母を救ったのも朴さんだった。しかしその朴さんの父親は体中やけどで右足を失うという瀕死の状態で発見されたが、救護所の軍医からは「朝鮮人をみているひまはない あとじゃ、あと!」「朝鮮人より日本人をたすけるのがさきじゃ」と見捨てられ、亡くなった。いや、「亡くなった」のではない。朴さんはゲンに「わしのおやじは朝鮮人だから殺されたんじゃ」「く…くやしい わしはくやしい」と思いを吐露する。
 埼玉県東松山市の丸木美術館を訪れたとき、このシーンを思い出した。あの三日後にヒロシマで救護活動にあたった水墨画家、丸木位里と油性画家、俊の夫妻が被爆の最中とその後を描いた連作「原爆の図」が展示されているこの美術館は、まさに「地獄曼荼羅絵図」である。その1950年に完成した第一部「幽霊」という地獄絵を覆うのは、血と炎の赤と、煙と煤と絶望のどす黒さである。
 その中で72年に描かれた「からす」という白と黒が目立つモノトーンの作品がある。白は朝鮮服の色、黒は放置された朝鮮服の人々の目や体をついばむ烏たちである。朴さんの同胞たちは生きても死んでも差別され続けたのだ。しかも「同じ被爆者」であったはずのヒロシマの人たちからである。マイク・ヒロタ少尉やイサム・ノグチが「二つの祖国」に引き裂かれた日系米人であれば、朴さんは「一つの祖国」を奪われ、奪った国を「祖国」と呼ばされ、しかしその「祖国」は死んでも自分を差別し続ける存在だったのだ
 ちなみに「はだしのゲン」の秀逸なのは、朝鮮人を「かわいそうな人」として描くだけではない点だ。例えば戦後の闇物資を求めて田舎に向かう満員列車の中に、木刀をもった二人のやくざ風の男が他人の座っている席をどかせるシーンがあるが、その際「お前ら戦争に負けた六等国の日本人がすわるとはなにごとだ はようどけ どかんとたたきのばすぞ」と暴力をふるうシーンも描き残している。一方で朴さんは戦後闇市で商売し、数年後には金歯にサングラスという成金スタイルでゲンたちの前に現れ、米兵のジープを故障させるためエンジンタンクに入れる角砂糖や、原爆の恐ろしさを手記として出版するゲンの保護者の元新聞記者に貴重品の印刷用紙を提供したりするなど、したたかながらも反戦・反核思想をしっかりもった在日朝鮮人として再登場させている。

石を投げられる米兵捕虜
 ところで丸木美術館でどうしてもやるせない作品が71年に描かれた「米兵捕虜の死」である。広島で捕虜としてとらわれていた米兵も、容赦なく「ピカドン」に遭った。うつろな死に顔の白人兵と思われる人物の目玉のない目がこちらを無力にみているような気がしてならない。「はだしのゲン」も被爆直後に被爆者たちが米兵捕虜の死体に石を投げているシーンに遭遇する。被爆者の大人たちは「こいつらのためにわしらはひどい目にあわされたんじゃ」「こいつめ おまえも石をなげてやれ」とけしかけると老婆がよろよろと死体に近づき、「ううう この毛唐めがアメリカの鬼畜めが!これは下じきになって死んだじいさんのうらみじゃ これはヤケドでズルムケになって死んだ孫のうらみじゃ」などと次々と力なく投石しては、被爆者みなで泣く。
 後にドーム脇の相生橋で米兵捕虜が柱につらされていたほか、被爆死した米兵は十数名いたことが分かった。また彼らに対しては同じ人間同士であることの同情を禁じ得ない元被爆者もいるが、投下直後はそれどころではなかったのだろう。この作品の根底にあるのは核や戦争に対するむき出しの怒りを隠さないことなのである。

「幽霊」と御幸橋の母子の写真
 それにしてもここほど恐怖と戦慄を覚える美術館はほかにもあるまい。初期に描かれた大作「幽霊」は、突然天地がひっくり返ったかのような衝撃と絶望の中でなすすべもなく歩き、倒れる「幽霊」が力なくうつろな表情でこちらを見ている。中でも記憶に残るのが、赤ちゃんを抱いた片目がつぶれたように見える母親である。
 人類史上最初の核人体実験直後の写真が二枚残されている。原爆投下約3時間後に地元紙中国新聞の松重美人(よしと)記者が爆心地から2,3キロほど離れた御幸橋のたもとで撮ったものである。2015年のNHKスペシャル 「きのこ雲の下で何が起きていたのか」でその写真を分析すると、そこにも赤ちゃんを抱いている母親がいた。ちょうどその場に居合わせた少女が番組作成当時存命だったというが、黒焦げになった赤ちゃんをゆすりながら半狂乱で「おきてやおきてや」と叫んでいたと証言している。AIで写真をさらに解析すると、子どもの被爆者が多いが、それはトラックに載せて救護所に連れていかれるのは若い男性からで、女、子ども、老人は後回しだったからだ。つまり「使える」人間から助けるというある意味わかりやすすぎる「命の選別」がそこにはあったのだ。おいて行かれた者はヤケドの応急処置に菜種油を塗るしかなかったという。
 「あまりにもむごい地獄の光景に私はその場に立ちすくむ思いでためらいました 断末魔の苦しみにあえぐこの人たちを思うと涙が出てファインダーを通す情景が潤んでいた…」と証言する松重記者。だがその写真はすぐに川の水で現像されたが、戦意喪失するような写真は軍部に握りつぶされるので公表できず、戦後は米軍の落とした原爆の残虐さを知らせるような写真は検閲を受けたためお蔵入りとなっていた。現在の御幸橋は90年にかけ替えられたものだが、橋のたもとにの掲示板にはあの日のあの写真が拡大印刷されている。 
 デジタルアートの空間として特に訪日客に絶大な人気を誇るチームラボ・ボーダレスを初めて体験したとき思ったのは、この被爆直後の御幸橋が再現できないかということだ。例のNHKスペシャルでは画面上で当時の様子が1分ほど二次元で再現されていた。それができるのならば資金さえ投入できれば「当日」の様子が極めてリアルに再現できるのではないか。
 こちらが歩けばあの黒焦げの子を抱いた母親が「助けて~!」と叫ぶかもしれない。うつろな目の被爆者たちが「みずー、みずー」と力なく叫ぶかもしれない。それがいかに世界に向けて反核反戦を訴えてくれるかは想像に難くない。昭和の「はだしのゲン」や丸木美術館の果たした役割に対して令和のチームラボができる世界貢献とはそうしたものではなかろうか。ただあまりにリアルなため、評価は高くはなかろうが。

江波と政二さん
 作品中、生き残ったゲンと母親は、あの日に生まれたばかりのゲンの妹、友子を背負いつつ家のあった舟入本町から海沿いの江波に向かった。そこには母親の親友が住んでいるからという。彼らは山の上の測候所の下の林家を目指すが、歓迎されないどころか親友の姑や子どもらから壮絶ないじめを受ける。「江波のやつらはつめたいのう みんなこまっているのに助けてくれてもええじゃないか…」とつぶやくゲンに対し「どこでもおなじよ みんな自分がかわいいからね」と力なくなだめる母。
 そんな江波にも行ってみた。ここは平和公園周辺のような観光地ではなく、どこにでもある住宅地である。町を見下ろす丘の上の測候所は現在「江波山気象館」となっており見学できる。1934年に完成したモダンで瀟洒な建物ではあるが、爆心地から3,6㎞であり、爆風により窓枠がこわれ、ガラスも飛び散った。現在館内の壁には当時のガラス片がところどころ残っているのが確認できる。「このへんは爆風で窓ガラスや家がかたむいたぐらいでよかったのう」「そうだね 火事になってやけないでよかったよ」というゲンと母親の会話からもそれはうかがえる。
 仕事がないうえに出産したばかりの母親の代わりに、小二のゲンが吉田家という屋敷の被爆者、政二さんの世話をして日当を稼ぐことになる。美術学校で優秀な成績を収め、数々の賞を受賞し、芸術家としての将来を嘱望されていた政二さんだが、原爆によるやけどと放射能で二目とみられぬ姿にされた。するとそれまで優しくしてくれていた兄嫁や、なついてくれていた二人の姪たちからまで邪険にされるようになったが、家に金はあるのでゲンを雇って介護させたということである。
 数日前に原爆による火災で焼死したゲンの父も絵描きであったため、彼は政二さんに絵を学ぶことで心を開かせ、同じく焼死した弟そっくりの原爆孤児、隆太とともに素っ裸になって政二さんの絵のモデルとなることで、期せずして生きる意味を与えることになった。このシーンだけでなく、作品中にはのちに天野星雅という絵描きも出たりして、絵描きを目指して上京するゲンの将来の話の伏線となっている。

信州上田の「無言館」
 ところで長野県上田市に無言館という戦没画学生の慰霊施設兼美術館がある。十字架型のコンクリートの館内に並ぶ絵画は画家としていまだ大成していない「素人」のものだったからか、作品状態はいずれもよくない。しかし徴兵される直前に愛する妻や許嫁、家族、そしてふるさとなどを、これが最後と思って描いたものばかりで、生に執着する鬼気迫る哀しさすら感じる。中沢啓二氏や丸木夫妻のように原爆症におびえつつ死ぬまでにあの惨状を描き続けようというのは例外的であり、これが自分のこの世で描く最後の作品となると思うと、最も愛するものを描きたかったに違いない
 そう思うと政二さんがなぜゲンと隆太という、いわば単なる金で雇われた子どもたちを描こうと思ったのがよくわかる。画家として大成しようとしていた自分の命が尽きようとしていた時、血のつながる親族にそっぽを向かれた。金で雇われたとはいえゲンたちは「オバケ」のようにされた自分の世話をしただけでなく、絵の描き方を教えてくれとせがんできた。可愛くないわけがない。命が尽きるまで、自分が人生をかけてきた絵画の道を次の世代の子どもに残し、自らも人生最後の作品を残したかったのだろう。さらに死体焼却場を見たら突き動かされたように死体を描き出した。自分をこのようにしたピカドンを決して許せなかったのだろう。
 しかし政二さんは急に体調を悪くし、こともあろうにヤケドかケロイドかわからない体をさらしながらリヤカーに乗り、「ガウー、ガウー」と悲鳴をあげながらゲンたちにリヤカーを引かせる。「わしは見世物になってピカのキズをみんなにたたきこんでやるんじゃ わしはこのままだまってみじめにしにたくない かんたんに原爆のうらみをわすれさせてたまるか」という。
 私はそこにダークツーリズムの本質の一部を見つけた。ダークツーリズムの基本は無念の思いを抱きつつ亡くなった人々を悼むことである。しかし衝撃がなければ忘れられてしまう。なぜ原爆ドームが日本の反戦反核、平和主義の象徴になったのか。対岸のレストハウスも被爆建築だが、ヒロシマのアイコンにはなりがたいのは原形をとどめているからである。原型をとどめないほどボロボロにされたドームでなければ人々の記憶に残らず、結果忘れられてしまうのではなかろうか。
 無言館でもこころから戦没画学生の死を悼んだのだが、そこの知名度はいかほどか。静かに悼むことの限界がそこにあるのではないか。「はだしのゲン」や「原爆の図」に限らず、広島ではきれいごとではない怨みをあちこちで感じる。「怨み」といえば、進駐軍に対してゲンたちは被爆者の白骨を売るという、ありえない「商売」を始めるが、保護者代わりの元新聞記者、平松松吉はどくろの額に「怨」という一字を筆で書き、米兵に売らせていたのだ。文字通りの「怨み骨髄」である。この「怨みと怒りのヒロシマ」に対して、ナガサキはどのような思いを持っているだろうか。

ナガサキへー平和祈念像
 浦上に落とされた人類史上二つ目の原爆。浦上はそれまで数百年の間、潜伏キリシタン、隠れキリシタンたちが信仰を守ってきた土地であり、1914年に完成したカトリック教会を誇る町であるが、「それ」はこの町の500メートル上空で炸裂した。東洋一と謳われた聖堂ではあったが、被爆後の写真を見るとがれきの周りに正面周辺のレンガの壁だけ残っている。原爆ドームの半分もおよばなそうだ。長崎市長はカトリック長崎司教と会談し、保存を求めたが、協議の上58年に取り壊された。そのレンガを使って平和公園内に高さ約13mの塔が記念碑として建てられている。
 原爆というとヒロシマであり、ナガサキはそれほどのインパクトがないと言わざるを得ない。広島の2023年の原爆資料館訪問者は約198万人弱(うち外国人約68万人)なのに比べ、ナガサキは約76万人(うち外国人約10万人)である。この差はどこから来るのか。最初に落とされたほうがインパクトがあるからか。あるいは1945年12月末までの死亡者数がヒロシマの14万人前後に比べ、ナガサキは半分あまりだからか。しかし私はそれに加えて「原爆ドーム」に匹敵する傷だらけの、むき出しの悲惨さを訴えるものがないからではないかと考える。たしかに平和公園には55年に平和祈念像が建てられた。ただ平和を祈るあの像と、傷だらけのカトリック教会ではどちらが人の心に刺さるだろうか。
 「わしは見世物になってピカのキズをみんなにたたきこんでやるんじゃ わしはこのままだまってみじめにしにたくない かんたんに原爆のうらみをわすれさせてたまるか」という「はだしのゲン」の政二さんの絶叫は、残念ながら右手を原爆が落とされた上に、左手を水平に伸ばして平和を示すというた平和祈念像からは感じ取れない。
 ただ地元浦上の信徒にとってここは平和を祈る場であるのはもちろんだが、それ以前からのキリシタン弾圧の場であり、聖地であった。自分たちの祈りの場ーそれは全人類が共有できるものとは異なるとしてもーが必要なのだろう。世界は観光客のためにあるのではないことは言うまでもない。むしろ静かに祈りをささげる「普通の場」があのような生き地獄に一変し、それが以前の信仰の場にもどったことが読み取れるかどうかが、ダークツーリズムの本来の意義かもしれない。逆に言えば今日もまた原爆ドームの前で記念写真を撮る人々を見ていると、低俗なダークツーリズムの「観光消費」の対象にされていると見えなくもない。このことを考えるとダークツーリズムは祈りの場であると同時に悲惨さを前面に出すアイコンは安っぽい観光消費の対象にもなることに改めて気づかされる。

「ああ許すまじ」と「ああ あの子が生きていたならば」のギャップ
 「観光消費の対象」としては幸か不幸かヒロシマには及ばぬナガサキではあるが、浦上地区をあるくと、やはり胸の締め付けられるものであふれている。例えば爆心地から至近の山里小学校(国民学校)では、原爆投下当日は夏休みで授業はなかったとはいえ、校区がそのまま爆心地近くだったため児童数1600名弱のうち推定85%が死亡したという。入口付近には「あの子らの碑」がある。この「あの子ら」とはほかでもない、生存者から見たこの学校の子どもたちを指す。この碑は生き残った子どもたちの手記をまとめた永井隆(長崎では「博士」という呼称をつける)が印税をもとに声掛けをして建てたものという。8月9日の平和記念式典では児童たちが「あの子ら」という歌を歌うのが定番だが、ここでは怒りよりも祈りの思いが強い。
 私がヒロシマを初めて訪れた小学六年生の時、バスガイドにならったのは「原爆許すまじ」だった。「ああ許すまじ原爆を 三度(みたび)許すまじ原爆を われらの街に」を繰り返すのがヒロシマなら、ナガサキは「ああ あの子が生きていたならば」を繰り返す「あの子」を歌うのがナガサキだ。ちなみに倒壊を逃れた建物は救護所となったが、その一部が現在も残され、資料館となっており、校舎裏の防空壕とともに開放されている。 
 ヒロシマでも爆心地近くの二つの国民学校が焼け残り、資料館となっている。ドームの南西に残る袋町小学校と、ドームの西に残る本川(ほんかわ)小学校である。袋町小学校は被爆者たちの救護所として家族へのメッセージが薄暗い壁に描かれているのが実にリアルであり、あの日から数か月間の生き地獄を生々しく感じさせる。本川小学校は教職員や児童が四百名ほど亡くなったが、ゲンが戦後転入した「母校」でもある。いずれも平和資料館にある展示物と比べると、規模の小ささからすれば比較にならないとはいえ、戦後に建てられた「ピカドンを知らない」建物とは違い、「あの日も、その前も、その後も」子どもたちを見てきた校舎はやはり訴えてくるものが違う。本物の持つ真実性であろう。そして山里でも袋町でも本川でも、平和教育を行っているのが児童たちの作った壁新聞などから垣間見られるのもよい。

「標本名 中岡君江」
 まったく観光地ではないが「はだしのゲン」に出てくるある象徴的な建物を見に、市内東部の比治山を訪れたことがある。ここには今なお、放射線影響研究所のかまぼこ型の建物が建ち並ぶが、これらは米軍の置いた原爆傷害調査委員会(ABCC)であった。原爆投下は米軍にとって明らかに人体実験の一面をになっていた。それは患者の治療は一切せず、純粋に原爆障害研究のために行っていたことからもわかる。作品内ではゲンの同級生らがABCCの車に乗せられ、丘の上のかまぼこ型の建物で体を隅々まで調べられるが、検査のみで薬もなく帰されたという場面がある。
 ゲンの母親も体調が悪化したため、藁をもすがる思いでABCCに向かった。そこで受け取った紙を見てゲンの母と兄は憤る。「標本採集日 1948年1月6日 標本採集地 広島市舟入本町 標本名 中岡君江」と書いてあったからである。そして「ABCCはピカで生きのこったものはただの昆虫みたいにしかおもっていないんじゃ……」と吐き捨てる。
 しかもABCCに雇われて被爆者の死体を検体に回すように手配する男は酔った勢いで「ABCCにとってはそれらの患者はヨダレがでそうになるほどほしい研究材料なんだ だから医者は患者にABCCへいけと言ううんじゃ 患者を紹介すればアメリカの新薬などをただでくれるんじゃ その薬をこんどは高い値段で患者に売りつけてもけるんよ」と内情を教えるすべてがそうとは思わないが、米軍も医者も一緒になって被爆者を食い物にしていたのだ。科学者には良心というものはないのだろうか。
 
天才科学者オッペンハイマーの歯切れの悪さ
 ところで、2023年に大ヒットし、翌年日本でも公開された米国映画に「オッペンハイマー」がある。「原爆の父」と呼ばれるユダヤ人オッペンハイマーは、ナチス撲滅のために原爆を開発を決意した。天才児と呼ばれた彼の師匠はドイツのハイゼンベルクであるが、ナチスもチェコでウラン鉱山を開発させ、ノルウェイでは化学工場を接収し、オッペンハイマーの師匠ハイゼンベルクが中心となって原爆開発に乗り出していた。ちなみ日本も物理学者仁科芳雄がウランの濃縮実験をして原爆の開発に着手していたが成功には至らなかった。原爆投下直後にヒロシマを訪れ、記録映画を撮りつつ「新型爆弾」が原爆であると確信すると、「文字通り腹を切るときが来たと思う。米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのである。」と日記に記したという。
 さて、期せずして原爆の父となったオッペンハイマーだが、かの天才もそれが原子雲の下にいる人にどのような影響を与えるかなどの想像は欠如していたようだ。私は「天才」とよばれるこうした科学者に、何か根本的なものが欠けているような気がしてならない。どうして科学の力がもたらす恐ろしさに考えがいたらないのだろうか。オッペンハイマーは戦後になってようやく「原子爆弾が善意ある武器であるかのように語るな」と語り、演説では「今誇りは深い懸念とともにあります。もし原子爆弾がこれから戦争をしようとしている国々の武器庫に加わることになれば、いつか人類はロスアラモス(原爆開発の場)とヒロシマの名を呪うことになるでしょう。」と述べた。
 さらに60年9月の初来日に当たってはインタビュアーに対して「原爆開発について後悔はしてはいないが、それは申し訳ないと思っていないということではない。」と歯切れの悪い反省を述べている。科学者としてのせめてもの良心がこの程度だったのだろうか。そして「私たちには大義があったと信じています。しかし私たちのこころは完全に楽になってはいけないと思うのです。自然について研究してその真実を学ぶことから逸脱し、人類の歴史の流れを変えてしまったのですから。私は今になってもあの時もっとよい道があったと言える自信がありません。私にはよい答えがないのです。」と述べる。あの天才科学者にすら白黒つけられないのか。日本で生まれ育った私なら、あれだけの民間人を殺傷し、何十年間も後遺症に悩ませるような原爆開発は間違っていると単純に思うのだが。
 ちなみに彼はヒロシマもナガサキも訪問していない。いささかの良心があったためできなかったのだろう。

永井博士たちの驚愕の会話
 浦上では如己堂・永井隆記念館に行くのを忘れない。ここも一般的な観光客、特に訪日客が行くところではないが、永井博士の出身地が私のふるさと、現島根県雲南市であり、私が通った高校の近くにも記念館があるため、親しみがある。何よりも、浦上各地で「雲南市出身」というと「永井博士のふるさとから来た」ということで待遇がよくなるのを何度も感じた。ちなみに地元では「博士」呼ばわりする人より「永井のたかっさん」と、妙になれなれしく呼ぶ大人も少なくなかったように思う。
 昭和初期、当時最先端の医学であった放射線医学を身につけ、レントゲンで患者の結核を発見する毎日の博士だが、放射能を大量に浴びたせいで白血病になり、余命三年というところで「あの日」に遭遇した。自身も被爆し、大けがをしながらも医師として不眠不休の手当てを続けた。名著「長崎の鐘」の中に、原爆投下後のつかの間の休みに交わされた医学者たちの会話に驚愕した。
「この時おもしろいことは、二つに割れた部分の質量が元の質量より減っているという事実なんだ。(中略)つまり原子爆弾のエネルギーがそれなんだ」
「面白いこと」だって?原爆のエネルギーだぞ?
「(前略)正真正味消費せられた原子の質量は、おそらくは何グラムという小さいものだろう」
「すごいな。だがたくさんの原子核を一時に分割するには中性子をどうして発射する?」
「それがまた都合のいいことには、ウラニウム原子核がフィッションを起こすと、ガンマ線も出るが、大体二個の中性子も飛び出すのだ。(後略)」
「すごいな」だって?恐怖が先ではないのか?「都合のいいこと」?みなこんなに傷ついているのに?
「(前略)日本ではこのウラニウム二三五の純粋分離をやりかけたのだが、軍部から、そんな夢物語みたいな研究に莫大な費用を使ってもらっては困ると叱られて、おじゃんになったともれ聞いている」
「惜しかったなあ」
「惜しかった」って、莫大な研究費用がつぎ込まれて原爆開発に成功すれば、日本が加害者になっていたのに…それに答えるかのように
「犠牲者なくして科学の進歩はないさ」
いやいや、自分たちはその犠牲者を目の前にし、さらに自分たち自身も犠牲者なのに…
「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は――」
もう何も言えない。「偉大」とは…。

軍人以上に冷徹な科学者
 そして永井博士はこうまとめる。
「かねて原子物理学に興味をもち、その一部面の研究に従っていた私たち数名の教室員が、今ここにその原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の被害者となって防空壕の中に倒れておるということ、身をもってその実験台上に乗せられて親しくその状態を観測し得たということ、そして今後の変化を観察し続けるということは、まことに稀有のことでなければならぬ。私たちはやられたという悲嘆、憤慨、無念の胸の底から、新たなる真理探求の本能が胎動を始めたのを覚えた。勃然として新鮮なる興味が荒涼たる原子野に湧き上がる。」
 ヒロシマを代表し、人口に膾炙した作品が「はだしのゲン」ならば、ナガサキを代表する作品、そして歌謡曲は「長崎の鐘」である。そのなかでも特に「原子爆弾の力」という一章に、研究者の狂気を感じる。それは日米を問わず、研究者、科学者というものは加害者にしても被害者にしても科学第一であり、犠牲者のことは二の次になりがちだという点ではある意味軍人以上に冷徹なものではないかとさえ思えてくる。
 もちろん、資料館と永井博士が病気をおしつつ執筆をつづけた如己堂では、「科学者として、被爆者として、信仰者として、そして二人の子どもの親として」の博士がクローズアップされており、オッペンハイマーと同種の「狂気」は極力薄まって紹介されている。
 
神にささげさせてたまるか
 私自身も郷土の生んだ「平和の使途」であり、かの地では「浦上の聖者」として親しまれる博士を誇らないではない。しかし私が納得いかないことがもう一点ある。「長崎の鐘」の「壕舎の客」の章である。
「智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が、同じ神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎み互いに殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。」
 すなわち浦上の地に原爆を落としたのは人類の持つ「原罪」を贖い、神に許しを請うためというのである。クリスチャンではない私には、これが「良いクリスチャン」の考えとして普通なのかどうかわからない。逆にアメリカのクリスチャンがこのようなことを言えば、日本の国民感情を逆なでするに違いないことは容易に想像できる。そして博士は続ける。
 「信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き羔(ひつじ)ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。」
 断っておくが、これはアメリカのクリスチャンの言葉ではない。原爆を浦上で浴びた日本人クリスチャンの言葉だ。犠牲の羊として屠られるのをよしとする考えには、到底賛同できない。この論理を許せば、侵略者のほうが「神にささげるため」として核兵器を使い続けるに違いないからだ。大切な人たちを神にささげさせてたまるか、と思う私はゲンに近いのだろう。
 
アメリカ不在のナガサキ
 「はだしのゲン」にはアメリカに対する怨恨があちこちにみられる。しかし「長崎の鐘」には、まるでアメリカが登場しない。あったとしてもアメリカの科学が進んでいるという程度であり、「科学」にしても「神」にしても、いずれにしても血なまぐささ、いやらしさ、汚らしさが感じられない。また「はだしのゲン」では日本人被爆者が朝鮮人を差別し、米兵捕虜に投石するシーンもあるが、「長崎の鐘」では被害を受けたのが「日本人」ですらなく「人類」としてひとくくりに昇華されているように感じる。
 そう考えるとあの平和祈念像が指さす天が、原爆であると同時に神であり、水平に伸ばす左腕が平和と同時に公平な科学の目のようにも思えてくる「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」は、まさにゲンと永井博士が拡散させ、定着させたのかもしれない。

縮景園の「夏の花」
 広島市の名園といえば縮景園である。江戸時代に作られた浅野家のこの大名庭園は中国・杭州の蘇堤を模したアーチ状の石橋が美しい庭であるが、広島城の東に位置するこの庭園も、あの朝から被爆者たちであふれかえった。あの日ここに居合わせた詩人、原民喜は「夏の花」という手記に当日の縮景園の様子をこう残している。
「その竹藪は薙なぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径が自然と拓かれていた。見上げる樹木もおおかた中空で削ぎとられており、川に添った、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと、灌木の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲っている中年の婦人の顔があった。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出喰わしたのは、これがはじめてであった。が、それよりもっと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰わさねばならなかった。」

渝華園(ゆかえん)ー「重慶と日本」でピンとくるか
 ところでヒロシマにはもう一か所、無名ではあるが小規模ながら中国庭園がある。広島市の姉妹都市、重慶市との友好を記念して1992年に広島城の西に造園された渝華園(ゆかえん)である。2024年に城の南に移転した。ところで「重慶と日本」と聞いてぴんとくる日本人がどれぐらいいるだろうか。中国人ならば反射的に「重庆大轰炸(重慶爆撃)」という言葉が浮かぶことだろう。重慶は中華民国時代、いわゆる「南京事件」の後に国民党政府がおかれた臨時首都であった。そこで1938年から5年間で200回以上の無差別爆撃を行い、一万人以上の生命を奪った。重慶には欧米の租界もあり、後に米軍の日本への無差別攻撃の引き金となったともいわれる。いわば日本で「空襲」といえば東京大空襲だが、中国人にとってのそれは重慶なのだ。そして「平和」を共通項に広島市と重慶市は姉妹都市になったのだ。
 渝華園自体は中華的な雰囲気を漂わすぐらいで、鳥取県の燕趙園などに比べると面白みは少ないとはいえ、やはりここを歩くと重慶について思わないわけにはいかない。例えば読者諸氏は「重慶観光」と聞いて、どんな写真を思い浮かべるだろうか。「北京観光」と聞いて天安門や万里長城を、「上海観光」と聞いてバンドや黄浦江から浦東の高層ビル群を思い出すような「写真」を、「重慶観光」と聞いて思い出す日本人がいたら、中国通でなければ海外旅行通ではなかろうか。試しにグーグルで「重慶観光」で検索してみると、「洪崖洞(ホンヤ―トン)」という断崖絶壁を覆うように建てられた建物群の夜景がずらりと並ぶ。戦跡などはまず出てこない。日本人の脳裏に重慶爆撃のことなどみじんもないからかもしれないが、例えば「広島観光」と各国語で検索するとやはり原爆ドームがトップに出てくるのとは対照的だ。
 一方興味深いのは「长崎观光」を中国語で「百度」画像検索すると、あるいは韓国語で「나가사키 관광(ナガサキ観光)」をネイバー画像検索すると、あるいはNagasaki sightseeingをグーグル画像検索するとどんな結果が出るだろうか。中国語では平和祈念像や平和公園が若干あるほかは、港町が圧倒的に多く、韓国語では港町と眼鏡橋だらけで平和公園は極めて少ない。そして英語だと夜景と平和祈念像とが拮抗し、教会や中華街がその後を追う。訪問者の出身地や言語により、長崎に期待するものが異なるのがよくわかる。おそらく長崎にダークツーリズムを求めるのは欧米系であり、アジア系ではないのが見て取れる。
 
食わず嫌いの「南京観光」 
 ところで諸氏は「南京」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。やはり「南京大虐殺」なのだろうか。丸木夫妻も75年に「南京大虐殺の図」という凄惨な地獄絵巻を描いている。上海、蘇州、杭州などは日本人御用達の観光地だが、蘇州から足を延ばしてすぐの南京を歴史ある古都として観光する日本人が極めて少ないのはそのためなのかもしれない。かくいう私も学生時代に上海滞在中、南京観光に行こうとしたときの目的地はとりあえず虐殺関連の記念館だった。しかし百度で南京観光を画像検索すると、城壁に塔に中国庭園など、悠久の魅力だけでなく、アヴァンギャルドな高層ビルなど、現代文化にもあふれている。
 どうやら日本人観光客は南京を「ヒロシマ型」、すなわちダークツーリズム中心の対象としてしかとらえず、「長崎型」、つまりダークツーリズムもあるが、それだけではなく他にも色々な要素を持つものであることを知らないのだろう。こうした「食わず嫌い」はある意味もったいないような気もする。

顔が見える存在の「日本兵」と見えない存在の「米兵」
 南京や重慶もだが、私はこれまで中国における日中戦争や満洲国関連の史跡、資料館にも訪れた。そのうえでヒロシマやナガサキを訪れると、やはり「被害者のとらえ方、描き方」にあまりに大きな違いを感じないではいられない。重慶のように日本軍による空襲されるというのは主流ではなく、多くの都市や農村は兵隊が銃剣をもって無辜の民衆を突き刺したというイメージがもたれている。つまり中国人にとって日本兵というのは目の前に「顔が見える存在」として現れ、記憶されたのだ。そしてそれは「解放後」の博物館、そして各種媒体でも常に愚劣で残忍で好色な「日本鬼子」として描かれ、定着している。
 一方、日本を空襲し、原爆を落とした米軍は、その存在が地上の人々からはほぼ見ることができない。超低空飛行をしている米軍機のパイロットの顔が見えたという証言もあるが、例外的であり、しかも一瞬のことだろう。とはいえ「はだしのゲン」はあの日、被爆者から石つぶてをあびた米軍捕虜被爆者の死体のことを描いているが、このときはたまたま「目に見える敵」であったにすぎない。
 戦後、ゲンは先述の日系米人ヒロタ少尉に「広島長崎で殺した何十万人の人にあやまれっ 生きのこって今も苦しんでいる何十万人の人にあやまれっ」と、とらわれの身分であることも忘れて叫んでいる。
 ABCCで「標本」扱いされた母親について、ゲンは「あんちゃん アメリカは原爆を落としたあと 放射能で原爆症の病気がでることがわかっていたんじゃのう わかっていておとしたんじゃのう」と米国を恨む。それに対して兄は「原爆をおとされおやじたちを殺されおまけに実験材料にのこのこでかけていくとはわしゃばかたれよ アメリカはひどいやつらじゃ おもいあがっていやがる」と、兄弟でやり場のない怒りをぶつけている。
 また、京都旅行中に母親を原爆症で亡くしたときには「アメリカが原爆でなん十万人の人間を地獄のように苦しめて殺す権利がどこにあるんじゃ(中略)マッカーサーのお母ちゃんや子どもが原爆で苦しみぬいて殺されてみい どんな気持ちがするんじゃ(中略)勝った国のアメリカだって責任をもつのがあたりまえじゃ」と路上で叫んでいる。
 ただこのアメリカに対する「怨恨」は、いくら「はだしのゲン」が普及しても日本人の間に定着することはなかった。やはりそれは空から焼夷弾や原爆を落とすアメリカを「天の視点」として見るからなのだろうか。浦上の永井博士が原爆をなかば歓迎するかのようなことを述べるのも「天の視点」から見ているからなのであろう。それが証拠に「原爆が落ちた」とか、「焼夷弾が降ってきた」という表現を不思議に思わぬ日本人も少なくないのではないか。原爆も焼夷弾も勝手に「落ち」たり「降っ」たりするのではない。みな「落とされた」のだ。ヒロシマ、ナガサキに関しては「核攻撃を受けた」という観点が希薄ではなかろうか。

「ピカドン憲法チューインガム」
 一方「我が国は敵国により破壊され、奪われ、殺された」という視点こそ中国では普遍的な見方である。日本人はそれを「反日教育」というが、それならば日本の多くの学校図書館におかれる「はだしのゲン」は「反米教育」になるのだろうか。実際、戦後日本は陰に陽に「親米」の雰囲気の中に暮らしてきたのではないか。ふと「ピカドン憲法チューインガム」という言葉が思い浮かんだ。日本は米軍に原爆を落とされ、憲法を押し付けられた。しかしそれはそれまでの憲法と比べて民主的で平和主義的に思えた。それと同時にアメリカの大衆文化が大量流入した。ゲンが進駐軍の兵士から手に入れたのはチューインガムだった。ガムはチョコレートやハリウッド映画、ジャズやロックンロール、コーラにハンバーガーなどに手を変え品を変えて日本人の心と体に欠かさざるものとなった。学校図書館で「はだしのゲン」は米軍や日本軍を糾弾し続けたとはいえ、それを上回るほどの親米の流れの中に日本はあったのだ。
 一方、日中国交回復後の中国は日本の技術支援や経済支援もあって立ち上がった。そして高倉健や山口百恵などの映画が流入し、同時に日本の漫画やアニメが中国を席巻した。しかし依然として反日感情はくすぶり続ける。やはりアメリカが陰に陽に支配する日本人の対米感情と、単なる「消費活動」として日本を消費する中国とでは根本が異なって当然なのかもしれない。
 
「おこりじぞう」
 子どものころどこかで「おこりじぞう」という紙芝居を見たことを覚えている。廣島で毎日笑みを絶やさぬお地蔵さまに小さな女の子があいさつしている場面から始まるが、あの日の朝、原爆が落とされぼろぞうきんのようになった女の子は「かあちゃん、みずが のみたいよう。みずが のみたいよう―」と言って倒れる。するとそのときまで安らかな顔をしていたお地蔵さまが仁王のように怒りの顔となっていった。「みひらいた じぞうの目に、いっぱい なみだが あふれてきた。そして、ポタポタポタ……ほほをつたわってながれおちると、かたわらにたおれている 女の子の口に、とびこんでいった。うっくん うっくん うっくん のどをならしてならしてのみつづける」
 女の子の命が絶えると、お地蔵さまの顔は「ちいさな つぶに なって くずれおちると、 あたり いちめんに ちらばってしまった。」
 この物語は実話をもとにしている。そのモデルとなるお地蔵さまは当時放射能を浴びながらも必死で傷ついた人々を看病し、「いのちの塔」と感謝された広島赤十字原爆病院あたりで拾われたという。首なしではかわいそうということで、戦後あらたに首をつけたが、怒っているように見えるということから着想したのだという。75年まで広島市内にあったが、それを保管していた女性が亡くなり、実家である松山市の龍仙院という寺院に引き取られている。車体をこすりそうなほど狭い坂道を運転しながら仲間たちとお参りに行ったところ、絵本の中では立っていたお地蔵さまが、実際は座像だった。そしてまわりには多くの千羽鶴が奉納されていた。

「ダークツーリズム」から「ピースツーリズム」「ホープツーリズム」へ
 ところで「『おこり』じぞう」という名の通り、ここにも「怒り」の思いがこめられている。しかし1979年にかかれたこの作品のお地蔵さまにこめた怒りはアメリカに対する怒りではない。核兵器に対する、戦争に対する怒りである戦後の日本は反米を乗り越え、人類が人類に対して行った愚行として、「人類全体が反省すべきもの」と昇華したとも考えられるし、日本人がそう考えてくれたほうが米国人としても「免罪符」が与えられたような気もするのかもしれない
 しかしダークツーリズムのあり方として見ると、国家責任を不問にして、「人類が人類に対して犯した罪」にしてしまってよいのだろうか。一方で中国の戦跡の資料館のようにこの視点をはなから無視し、日本帝国主義をいつまでも断罪するスタンスしか許さないのはいかがなものだろうか。「悲しみの記憶を巡る旅」を通して、残るのが憎しみだけであれば、ダークツーリズムの意味自体が疑問である。ダークツーリズムを行うことの意味とはなにか。答えは一つだけではないだろうが、少なくとも「マッカーサーのお母ちゃんや子どもが原爆で苦しみぬいて殺されてみい どんな気持ちがするんじゃ」というゲンの叫びと、「互いに憎み互いに殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神にお詫びをせねばならないでしょう。」という永井博士の祈りのバランスをとることを学ぶことがその意義の一つではなかろうか。ちなみに広島ではそれを「ピースツーリズム」と呼び、福島では「ホープツーリズム」と呼んでいる。

その後のゲン
 ゲンは1953年3月に中学校を卒業する。その後、仲間や恋人との永遠の別れがあるが、その年のうちに一家はそれぞれ自立して、ゲンは東京に絵の修業に行くことにした。D51で東に向かうシーンで全十巻は終わる。ゲンは車窓から麦ふみをしているのを見て、亡き父の口癖を思い出している。「元 麦はのう 寒い冬に芽を出し何回も何回も踏まれ根を大地にしっかり張ってまっすぐに伸びやがて豊かな穂を実らせるんじゃ…おまえも麦のようになれ 踏まれても踏まれてもたくましい芽を出す麦になれ」
 蒸気機関車と父親といえば、終戦直前にゲンの兄が非国民と罵られることから家族を守るためにも予科練に志願し、広島駅から汽車で鹿児島に向かうシーンがある。反戦主義者の父親は息子の志願に猛反対で、最後まで許さず、見送りもしない。「非国民の子」として町内からも白眼視されていたため、出征兵士の見送りもない。母と兄弟だけに見送られる浩二だが、着流しにたすき掛けで線路沿いに仁王立ちになって「中岡浩二ばんざーい」と繰り返し万歳をする男がいた。父親である。戦争には猛反対だ。しかし生きて帰ってほしいという親心がそのようにさせたのだろう。
 評論家の古谷経衡氏は「大東亜戦争」や「天皇」を断罪するこの作品を許さないという「ネトウヨ」に限って本作品を読み込んでいないという。例えば上記のシーン、つまり子の無事を願う気持ちをこういう形でしか表せない不器用な父親の姿などは、親子の情に厚い保守派が最も心を動かされる場面ではないかという。
 ところで麦踏みの季節は晩秋から初冬にかけてなので、ゲンが広島を後にしたのはおそらく53年11月か12月ごろになる。その数か月後にあたる54年3月1日、世界を震撼させる大事件が起きた。ビキニ諸島の水爆実験で乗組員たちが全員「死の灰」を浴びた第五福竜丸事件である。米ソ冷戦が先鋭化するなか、ソ連も49年に原爆実験に成功したため、それに対抗して米軍は比較にならぬほど強力な水爆実験を始めたのである。それはおそらく中沢氏がその後「東京編」としてまとめるはずだったのだろうが、構想段階で亡くなった。どうやら上京した後はゲンに芸術家としての道を歩ませながら核廃絶や平和運動をさせるつもりだったという。

第五福竜丸ー怒りをあらわにしない沼津
 第五福竜丸事件というと、丸木美術館にはヒロシマ・ナガサキだけでなく第9部「焼津」という作品もある。どちらかというと地味で記憶に残りにくいかもしれないが、焼津の港でねじり鉢巻きの漁師とあねさんかぶりの家族たちがこちらをじっと見つめ、何かを訴えかけている。それに続く第10部「署名」という作品は、核廃絶の願いをこめて署名をするセーラー服の少女やねんねこばんてんの庶民、赤子を背負った母親、白衣の医師や看護婦など、民衆の声を代弁している作品だ。
 第五福竜丸を送り出し、迎え入れた静岡県の焼津に行ってみた。日本一のマグロ漁港として知られるこの町の歴史民俗資料館には第五福竜丸コーナーがある。第五福竜丸の模型や、「風評被害」によってマグロが売れなくなったため検査済みの証明書をつけたチラシなどとともに、事件の顛末が紹介され、例によって千羽鶴がささげられている。しかしここの展示品にそれほど大きな怒りは感じられなかったのが正直なところだ。
 第五福竜丸は1947年に完成し、日本独立後は遠洋漁業用に改造してマグロ漁に使われたのだが、54年3月1日に現マーシャル諸島のビキニ環礁海域で米軍の水爆実験に遭遇し、23人の船員全員が被爆した。久保山愛吉船長はその半年後40歳の若さで亡くなった。船自体も放射能汚染されたため、調査し、除染したのち、56年から東京商船大学の練習船として使用され、67年に廃船となり、江東区夢の島に廃棄されていた。それを有志が寄付を募って、また手弁当で修理し、保存されているというので夢の島に行ってみた。

正義なき米国
 大きな建屋ぎりぎりに、あの放射能を浴びた、そして満身創痍で船員たちとともに焼津に戻ってきた第五福竜丸が「つまって」いた。やはり「ほんもの」が持つ存在感は違う。これはいわば海を渡って戻ってきた「原爆ドーム」のようなものではないか。
 展示内容は「死の灰」の実物や、焼津に到着した三月十四日の日めくりなど、うならせるものも少なくない。またパネルには日米交渉の記録が淡々と記されており、焼津市歴史民俗資料館に比べると静かな怒りを感じないではいられない。なぜ地元焼津市には怒りが感じられなかったのか。焼津は現役のマグロ漁港である。「事件」以降のマグロは「原子マグロ」と呼ばれて大量に破棄された。それをいつまでも想起させるようだとマグロで栄えている町としてマイナスになるからなのだろうか。
 夢の島の第五福竜丸展示館の解説をみながら思った。日本が連合国から独立して数年たつにもかかわらず、1954年以降の日米関係も対等とは到底言えず、特に米国の正義に反するやり方には怒りを通り越してあきれてしまう。例えば被爆当日、船長は焼津にそのことを打電しなかったが、それは米軍に傍受されたら「死人に口なし」とばかりに船ごと攻撃を受ける可能性があるととっさに判断したからだ。そしてその判断は結果的に正しかったようだ。事件後、米国は第五福竜丸を除染したら沈めるように示唆してきたのだ。もちろん証拠隠滅のためであるが、日本の科学者たちだけでなく、丸木美術館でみた「署名」の図のように金も力もない市民たちが立ち上がってこれを守ったのが今目の前にあるのだ。
 そして久保山愛吉船長が放射能症により死亡しても、米軍はそれを核実験との関連はないとして突っぱねた。さらに日本側は米国政府に賠償を求めたが、米国はそれに応じず、代わりに「見舞金」、つまり法律上の責任ではなく人道的考慮と厚意に基づくものとし、それ以上は被害者が亡くなっても追加の金はびた一文出さないことで日本側と合意し、200万ドルを「手切れ金」として握らされた。それだけではない。第五福竜丸以外にも被爆した船はあった。汚染魚の廃棄量は合計486トン近く、合計856隻もの船舶がその海域にいたのだ。
 さらに戦慄を覚えるのは、米軍はビキニでヒロシマ型原爆の一千倍の規模といわれる核実験をした際に、あえてロンゲラップ島という離島に避難命令を出さず、人体実験として人身御供に祭り上げたことだ。米軍は「人類の福祉と、戦争を終わらせるために新型爆弾の実験を行う」と島民たちに通告しておきながら、科学者たちは被爆者を治療する目的ではなく、観察対象としてしか見ていない。ヒロシマでABCCがゲンの母親たちを「標本」として扱ったときと同じではないか。放射能をまともに浴びて苦しむ島民を見殺しにしておきながらワシントンに対する報告書は「地元民たちは元気で、幸せそうに私の前に現れた」と記している。満洲国時代にハルビン郊外の七三一部隊の人体実験をした石井部隊もそうだが、やはり一部の医学者には人間を生物学上の存在としてしかみない輩が一定数いるらしいことが、残念ながらここでも確認できた。
 ちなみに「原爆の父」オッペンハイマーは核開発をしてしまったこと自体にある程度反省してはいる。そして52年に米国が水爆実験開始したときにそれを指揮したのは彼のライバルであるローレンスである。厭戦的なオッペンハイマーは「赤狩り」の対象になり、ローレンツは米国政府に対して水爆実験に関与させぬようにしたからだ。
 なんともやりきれず、館外に出ると久保山船長の遺言が石碑にしたためられている。「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
 しかし核による被害者はそれだけでは終わらなかった。「核の平和利用」とはいえ、2011年の東日本大震災により3月15日、福島第一原発が爆発してしまったのだ。中沢啓二氏はかねてから技術的な面で反原発であり、政府に情報公開を求め続けていた。日本で最後の被曝地となるはずの、「フクシマ」と表記されるようになった福島県浜通りに行ったときのことを思い出しつつ書き記そう。
 
いわき市ー「隣り蔵建ち、うちは腹立つ」
 2020年2月、コロナ騒動が始まったばかりのころ、フクシマに「ダークツーリズム」に行った。いわき市湯元温泉で、タクシーの運転手さんに原発のあった双葉町や富岡町にはどう行けばいいかを聞くと、「ロッコクでも常磐道でも大丈夫だよ」とのこと。「ロッコク」という表現を聞いてホッとした。私の住んでいる茨城県南部でも、幹線道路国道六号線を「ロッコク」という。福島の原発は遠い地のことだとなんとなく思っていたが、近所を走る「ロッコク」の先での出来事だったと改めて気づいた。
 レンタカー店舗で地元いわき出身の若者にこんな話をきいた。「富岡に行くんですか。富岡の友人が避難でこっちに来て、東電の補償金で豪邸を建てましたよ。しかも五人家族なんで、毎月五十万円もらえてうらやましい。でもその同級生がエラいのは、ちゃんと仕事してること。あぶく銭でパチンコとか酒とか女とかに走る人もいっぱいいるのに。」
 確かに市内のあちこちに築浅の邸宅群を目にする。原発で避難した人は、全員ではないが住み慣れた土地や海を奪われた代わりに、邸宅と働かなくてもよいほどの現金をもらった人もいる。しかし原発から30㎞以上離れたいわき市民は、放射能に対する恐れはあっても「補償金」はもらえない。「隣り蔵建ち、うちは腹立つ」というが、単なる嫌味な成金に対してのやっかみではなく、故郷を失っても豪邸と現金をもった群衆が隣人となった人々とはどのように接すればよいのか。また、新住民も「この気持ちはいわきの人たちにはわかるまい」と頑なになり続けたとしたら、両者の気持ちはすれ違うばかりだろう。
 そういえば第五福竜丸の被爆者が米国から屈辱の「見舞金」を受け取ったときすら、周囲の人から妬まれたという。夫を戦死で亡くした妻が「うちの人もどうせ死ぬなら死の灰をかぶって見舞金をもらった人がよかった」などと口走る人もあれば、「見舞金」すらもらえないヒロシマ・ナガサキの被爆者からすら複雑な眼差しで見られたりもした。焼津市の資料館で全体的に怒りのトーンが低いのも、地元に残った被害者やその家族たちに向けられる複雑な眼差しをおもってのことかもしれない
 こうした「筋違い」の妬みとは別に、原発事件以降、被災者に対する同情と裏表の偏見が県外に広まっていた。一時期いわきナンバーだけでなく、被災地とはいえない福島ナンバーや郡山ナンバーですら偏見の対象となったことは記憶に新しい。「はだしのゲン」でも、被爆者のゲンたちは「ピカの毒がうつる」として同じ広島の被害の少ない地域でいじめられた。 

土も泣いている
 車で常磐道を北上し、広野町・楢葉町のJヴィレッジに寄った。ここはサッカーナショナルチームの大本営として1997年に東京電力の寄付で造営された。広大な敷地に、町の規模からすると考えられないほどの巨大なアリーナやフィールドが並ぶ。1971年に原発が完成して以来、東電は原発と原発マネーと雇用先とともに、「文化」をももたらした。これは広島市民が市民球場をなけなしの「樽募金」で集め、「市民球団」広島東洋カープを支えていったのとは大きく異なる。
 福島県の政治(=県庁)、経済(郡山)と交通(新幹線・東北自動車道)は中通りに、歴史文化(会津若松・喜多方)と自然(磐梯朝日国立公園)は会津に偏ったが、太平洋側に面した浜通りには、いわきの常磐炭田と漁業を除いてはとり立てて産業がなかった。その炭田も原発ができた60年代には下り坂だが、東電の「天領」となることで、特定分野における先進地域となれたのだ。サッカーというグローバルなスポーツで住民が世界につながったことの喜びは想像に余りある。しかしそれもうたかたの夢と消えた。 
  ここが東日本大震災の日から自衛隊と東電と警察と除染の「大本営」となり、2017年にようやく東電のもとを離れた。東京五輪は本来「復興五輪」と言われ、聖火リレー出発地はここであったが、ここが会場になるわけではない。訪日する選手たちからすると、「フクシマ」とは忌まわしき地名であり、県民がどんなに復興しようとする姿を見せたがってもここでプレイすることに拒否反応を起こされることを慮ってのことだろう。
  広大な駐車場から出て、ロッコクを北に進んだ。民家近くの農地に、黒い塊が見える。汚染土を詰め込んだフレコンバッグである。それが10mほどにも積み重ねられ、グラウンドの面積以上に広がっている。小規模なものも合わせると道路沿いに点在しているのだ。これで「安全」といえるのか?と諸外国の選手たちに言われても、返す言葉はない。
 黒い塊を初めて見たときは私も嫌悪感がなかったと言えば嘘になるが、見ているうちにこの土も、地元のお百姓さんたちが代々大切に守ってきたものであることに思い至るようになった。人々に恵みを与えてきた土が、原発によって「穢土」とされ、忌み嫌われる。土も被害者ではないか。土も泣いているのではないか。第五福竜丸事件の後に大量廃棄されたマグロの魂が築地市場に「マグロ塚」として弔われ、それが一時的に夢の島の第五福竜丸展示館前におかれていることを思い出した。思わず車を停めて、「汚染土」が成仏するように念仏を唱えた。「山川草木国土悉皆成仏」である。

「富岡は負けん!」 
 車は富岡町に入った。ロッコク沿いに「ふたばいんふぉ」という観光案内所があったので寄ってみた。この辺りは津波で跡形もなく流されていたが、行政やスーパーが集中するこのあたりだけは復興が早かった。案内所で聞くと、たまに訪日個人客が「フクシマ」としての福島県浜通りを訪れるらしい。ただここではこうした「ダーク・ツーリズム」ではなく、希望を込めて「ホープ・ツーリズム」と呼んでいる。
 売店でタオルが売られていた。「富岡は負けん!」とやけっぱちな字体の殴り書きがなされている。双葉町に向かおうと外に出ると、ロッコク沿いの横断幕にもこの「富岡は負けん!」と大きく書かれている。それもそのはず、ロードサイドはパチンコ店や電機店、飲食店なども少なくないが、この時点では帰還困難地域が多かったため、店が開ける状態ではない。また、ロッコクから枝道に曲がろうとしても、警備員に許可証を求められる。土地という「面」が、ロッコクという細長い「線」にされたのだ。「それでも負けん!」という気概がなければ、先祖伝来の土地に入れないというこの現実に押しつぶされることだろう。

浪江の訪日客
 車は浪江町に入った。ここは役場の近くに「まち・なみ・まるしぇ」という施設がある。仮設住宅を人々のコミュニケーションの場として提供し、クリーニング店や商店、食堂、カフェなどが数店舗並ぶ。そこにB級グルメ「なみえ焼そば」を提供する店があったので、昼食をとった。プレハブをこぎれいにした感じの店内は、20名ほど入れそうである。あの津波と放射能でバラバラになった住民たちが、2013年に力を合わせて泣きながら挑戦したこの焼そばは、B級グルメグランプリで優勝した。道理で実に濃厚な味わいである。
 店内に首から通訳案内士登録証をつけたガイドが、9名の欧米人を案内して入ってきた。時間を割いてもらって話しかけると、ゲストは社会や環境に関心のある、「志し高い」若者たちだとのこと。東京経由でフクシマにやってきて、あの世界史に残る大災害がなんだったのか、体で感じたいアメリカ人たち。彼らこそ県が提唱する「ホープ・ツーリズム」の顧客である。やはりこのような人々も世界に目を向ければいるのだ。
 食べながら思った。これはただの焼きそばではない。あの大災害の後の仮設住宅という「舞台」で、災害を乗り越えた「役者」が作った「伝説の」ソウルフードなのだ。食味にこだわる「グルメ」に対して、社会的・文化的背景を理解しながら、各地の食を楽しむことを「ガストロノミー」と呼ぶならば、人々の汗と涙と負けん気を成分とした、仮設住宅でいただくこの焼きそばこそガストロノミーであろう。原爆の焦土のなかから夫を亡くした婦人たちが子どもを背負いながらお好み焼を焼いて生計を立てたのを思い出す。
 災害を観光化することへの賛否はあろうが、たとえ批判されてもこのような視点で旅をさせる会社や案内士がいなければ、「フクシマ」は世界の人々の忘却の彼方に追いやられてしまう物見遊山ではなく、再び過ちを犯さぬための旅だからだ。訪日客が事前準備を必要としない東京や京都の観光ではなく、ある程度勉強した人がそれ以上のものを求める旅の実践が見られたことがうれしかった。食べ終わってから請戸(うけど)港に向かった。

「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ。」
 双葉町の観光案内所で、原発が最もよく見られるところを訪ねると、「テレビではよく浪江町請戸漁港からの風景がでますね。」とのこと。工事用のダンプがひっきりなしに往来するロッコク(国道六号線)を北上し、帰還困難区域をようやく抜けて東に進路をとる。カーナビは最新のものではないため、復興したはずの漁港がない。仕方なく勘で進むと、一面の荒野だ。数百メートル向こうに鉄筋コンクリート造の廃屋が見える。この広大な荒野もかつては集落で、住民たちはあの日、ここで津波に呑み込まれたのだ。住む家を、家族を失った人々には絶望の淵に立たされる人も少なくなかったろう。突然あの世のカミュとカフカとサルトルといっしょの旅につき合わされたかのような不条理を感じた。そしてそれからは見るものすべてが「フランス現代思想モード」になってしまった。
 ようやくお目当ての請戸漁港の展望台を探し当てた。展望台とは言っても10mほどの防波堤の上に、物見台が置かれているだけだ。「浪江町の復興は請戸漁港から」という横断幕が掲げられている。「ペスト」の一節に「絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ。」というのがある。横断幕のスローガンはむなしく響くが、「旗印」は洋の東西を問わずあきらめそうな人々を奮い立たせるに違いない。「はだしのゲン」しかり、「原爆の図」しかり、第五福竜丸展示館しかり、ダークツーリズムスポットはみな絶望になれることを拒否することを教えているではないか。
 その展望台に上ると、7、8㎞南に「テレビでよく見る」四本の排気筒が遠くに見えた。立春の黒潮がもたらす南風に吹かれながら、私はその四本を見ていた。あれが爆発したとき、私は東京にいたが、まるでカミュとサルトルがテレビ局を支配したかのような不条理さを感じていた。画面ではだれが見ても爆発している。しかし枝野官房長官は「3号機から煙が出ているという可能性があって、爆発の起こった、あるいは爆発の恐れがあるのではないかと…」と歯切れ悪く言葉を濁した。カミュの「ペスト」でも、有識者が「我々はこの病気がペストであるかのように振る舞う責任を負わなければならないわけだ。」と述べ、これが「ペスト」であると断言せず、あくまで「仮定」の話としていた。そして東電も政府も、あの爆発がメルトダウンであるかのように「振る舞い」だしたことは忘れない。それは米軍が第五福竜丸の放射能症被害者の死を水爆実験の結果と認めなかったようなものだろう。

「ある朝、起きてみたら原発被災者になっていた。」
 津波で海岸部はすべてが失われたこの地にいた人に追い打ちをかけるように、避難命令が出された。行き先が決まらぬままバスで十数時間もたらいまわしにされ、避難所に送られた人も少なくなかった。ある朝起きてみたら毒虫になっていた「変身」を書いたカフカ流にいうなら、「ある朝、起きてみたら原発被災者になっていた。」とでもいおうか。不条理すぎる。そして「変身」の毒虫が、当初は家族から驚かれつつも大事にされていたが、そのうち疫病神扱いされるようになったのと同様、当初は同情されていた原発被災者に対する一般被災者の付き合い方も変わり、一般国民の関心も薄れていった。
 なすべきこともなくなり立ち尽くす排気筒を遠くに見ながら、ふとサルトルならこうつぶやくだろうかと思ったりした。「核エネルギーが何のためにあるかというのはあらかじめ決まっているのではない。ただ、現にこの世にあるものなので、それが何のためなのかという意味は自分たちで生み出さないと。これがexistentialismだ。」「人間は自由だ。逃げるのも自由だが、あえて自分の身体を縛るもの(engagement)の中に身を置くことで、自分を生かすことができるのではないか。復興のために働くのも自由であるが、いずれにせよ我が身を投げ出すことが自分を生かす道だ。これをprojectという。」
 そう、ダークツーリズムも美しい風景の中でリラックスしておいしいものが食べられるというのを拒否し、あえて人間の醜さ、不条理さの中に身を置くことに意味があるではないか。あの排気筒の下では、今の今も数多くの人々が放射能の下で、それこそ我が身を投げ出して働いているはずだ。

四本の墓標
 あるいはカミュ曰く「ペストと戦う唯一の方法は誠実さです。…私の場合は自分の仕事を果たすことだと思っています。」仕事を通した社会貢献。あの塔の下で生命のリスクを冒しつつそれをやっている名もなき人々が今あそこに確かにいるのだ。科学者はどんなに冷徹でも、人間らしい誠実さを持つ人がいることを知る。これだってダークツーリズムで得られるものだ。
 それら100m以上の排気筒はその後まもなくして撤去されたが、それらがまるで失われた墓標のように思えてきた。あれが起動したのは、私の生まれた1971年、いわば私と同級生だ。その後40年、だらだらと安眠をむさぼって好きなことしかしなかった私に比べると、「奴」は各家庭の家電を省エネモードで動かした石油危機の後も、お立ち台を照らすライトきらめくバブル経済のころも、COP3京都議定書によるCO2排出の際も、働きづめだった。しかし40歳になると誰も助けてくれないまま爆発するや、世界中から忌み嫌われるアイコンとなってしまった。
 古神道では人々に恵みを与えてくれる太陽や雨など自然現象を「和魂(にぎみたま)」、災いをもたらす日照りや洪水などを「荒魂(あらみたま)」のなす業と考えた。原発は瞬時にして和魂から荒魂ぶりを発揮したのか。しかし荒ぶる神は人々から供養され、鎮魂の対象となるが、「奴」は人々の怨嗟(えんさ)の的となったまま葬られつつあった。誰からも百メートル級の「針供養」をされないままに。
 ダークツーリズムの世界では「人は二度死ぬ」という言葉をよく聞く。一度は殺されたとき。二度目は不条理な戦争や災害などによって命を奪われたことが忘れられたときである。そのためにもやはりドームや第五福竜丸のような「墓標」がわりの目印になるものが必要となるのだ。やはり本物の持つ重みには勝てないと思うからだ。その意味で四本の「墓標」の撤去は残念である。
 しかしそもそもなぜフランス現代思想なのか。学生時代にフランス現代思想をファッション的に読んだだけの私には、彼らの思想もシールでペタッと貼りつけたような付け焼刃に過ぎない。ただ、借り物の思想とはいえ、ダークツーリズムを考えるに最も適したのが60年代前後のフランス現代思想だったことに、フクシマを歩きながら気づいた。しかも中沢啓二氏が66年に母親を原爆症で亡くし、68年に被爆者をテーマにした初めての漫画「黒い雨に打たれて」を発表し、73年に「はだしのゲン」が発表されるまでの間に日本は原子力発電を推進し始め、この原発も完成した。そしてそのころ日本の知識人に衝撃を与えたのがフランス現代思想だった。さらにゲンは将来東京からフランスに芸術修業に行くという構想だったという。フクシマでフランス現代思想を思うのも、それほど外れではなかったかもしれない。ゲンにフランス現代思想を読み直せと言われているかのような気すらした。

「われ思う、ゆえに我ら反抗す」
 展望台から下りて、荒野を走り、浪江町立大平台霊園に寄った。津波の後に造成されたこの霊園は、津波で亡くなった人も少なくないが、墓がみな海を向いている。墓石に「海」と一文字だけほる人さえいる。津波という「荒魂」を恐れつつも、やはり恵みをもたらす「和魂」の海を愛しているのだ。偶然「髙田家之墓」を見つけたので、知己ではないが手を合わせた。墓石の亡くなった日を見ると、60代の男女と、90代の女性が2011年3月11日に亡くなっており、さらにその2年後、90代の男性が亡くなっている。つまり、おじいさんが、老妻と息子、そして嫁を90代で亡くし、老体に鞭打って避難し、2年後に亡くなったということだろう。私はその2年間のおじいさんの心中を察しつつ、ひたすら念仏を唱え、車に乗った。
 荒野を走りつつ、十数本の木々が、海とは反対のほうに傾いて地面にへばりついているのを見た。あの大海嘯にもへこたれず抗う木々の姿に「ペスト」のクライマックスの名言、「われ思う、ゆえに我ら反抗す」を思い起こした。不条理をそんなものだと受入れ、慣れっこになり、みなが抵抗しなければ、本当に不条理な世の中が定着してしまう。横断幕の言葉よりも、木々の抗いのほうに勇気づけられた。そして同時にゲンの父親のメッセージ、いや中沢啓二氏が最も読者に伝えたい思いがこもったセリフを思い出す。「元 麦はのう 寒い冬に芽を出し何回も何回も踏まれ根を大地にしっかり張ってまっすぐに伸びやがて豊かな穂を実らせるんじゃ…おまえも麦のようになれ 踏まれても踏まれてもたくましい芽を出すむぎになれ」

紙屋町バスターミナルの「ヒロシマ」と「ふろすま」
 改めて秋口のヒロシマを歩いたあと、原爆ドーム至近の紙屋町バスターミナルに向かって家路についた。老夫婦が周囲を意識したような出雲なまりの言葉で話している。この人たちもここから高速バスに乗って中国山地をこえ、出雲に戻るのだろう。山陰で育った私にとって、広島とは中国地方最大の都会であった。それはいわば東北人にとっての仙台であり九州人にとっての博多のようなもので、その表玄関が紙屋町バスターミナルだった。久しぶりにこのルートで山越えをする前、ターミナルのレストランで食事をしているうちに、昔の感覚がよみがえってきた。
 カタカナの「ヒロシマ」とは世界初の被爆地であるが、私にとってズーズー弁の「広島(ふろすま)」とは最寄りの大都会であり、この感覚を分かち合える人は中国地方の人々だけだろう。前者のアイコンが原爆ドームであることは言うまでもないが、後者のシンボルはそこから東に400mほどの、この紙屋町バスターミナルのような気がしてきた。ドーム周辺では英語やフランス語など、各国語と日本語が入り混じって聞こえるのに対し、ターミナルで耳にするのは広島弁と出雲弁とそれらの影響でなまった共通語である。
 山陰人がここにくるときにはドームには向かわないかもしれない。私も高校時代に「高校生クイズ」に参加したり、広島大学の大学院を受験しに行ったり、友人に会いに行ったり、中国語検定試験や通訳案内士試験などの国家試験を受ける目的でこのターミナルにおりたったが、その都度ドームを見ていたわけではない。
 ターミナルを出るといつも広電の路面電車である。「はだしのゲン」でもあの日の数日後、爆風でふき飛ばされた電車にどろどろの死体が連なり、ウジがわきハエがたかっていた光景が描写されている。実はその運転士たちの多くが芸北や島根県の農村から「広島(ふろすま)で働きながら勉強させてもらえるけん」と、現在のゆめタウンの北側にあった広島電鉄家政女学校に籍を置いていた十代の少女たちだった。田舎の少女たちにとって戦時下とはいえ都会での学生生活はあこがれだったろうが、原爆投下でその多くが死傷した。しかし被爆者の中で軽傷だった少女たちが中心となって三日後に一部区間で営業を再開させたことはヒロシマのレジェンドとなっている。

ダークツーリズムの可能性
 ついついダークツーリズムのほうに引きずられそうになるが、ここから54号線で中国山地を超えると、昔から別世界が存在したことは事実だ。ゲンの兄の昭が疎開に行かされたのも県境の村である。原爆投下後、ゲンが出会った兄弟も松江のおじさんのところに向かって歩いて行った。私のふるさとは当時空襲など珍しい「別天地」だったようだが、紙屋町バスターミナルはそんな場所とつながっている。ここはいつ来ても訪日客はいないが、ダークツーリズムを考える上で大切なのは、「こんな普通の人たちの行き来する普通の町でありえないことが起こった」ことに対する驚きであり、同じことが普通に暮らしている私たちに再び起こるのではないかということを再確認することである。
 ドームに平和公園だけだと「生活感」がない。実はあの朝まで、平和公園は繁華街だったのだが、現在は「聖地」ではあっても一大観光地である。そして観光客は不謹慎で無責任なものだ。物見遊山で原爆ドームに来ている人も少なくない。現にドーム前でピースサインをして写真を撮る若者を何度も見た。まあ、「ピース(平和)」を祈っていればよいのだが、写真撮影の時にはピースサインをしてしまうのが日本人なのかもしれない。
 小6の修学旅行できたこの原爆ドームを皮切りにあちこちダークツーリズムを歩いてきた。これが物見遊山とどう違うかということに、ようやく自分なりの解答ができてきた。物見遊山には準備も振り返りもいらない。写真を撮ればそれで終わりだ。しかしダークツーリズムはできれば旅マエの学習がほしい。ただ、なくてもいいが、あったほうがダークスポットで得られる情報量に違いが出る。ただ、大切なのは情報そのものではない。フランス現代思想並みに不条理な運命と、人間の卑小さや愚劣さ、社会のメカニズムの恐ろしさを理解し、その犠牲となった死者を悼むことで現に今世界のどこかで踏みにじられている人々への共感をもつこと。そんなことを旅アトに深めることが、ダークツーリズムのもつ意味であり、可能性ではなかろうか。

「はだしのゲン」とともにダークツーリズムを
 中国や韓国ではそれを愛国心を植え付けるために国家単位でやっているが、ヒロシマやナガサキと異なるのは、日本ではそれが決して愛国主義につながらないことだそもそも近代社会に国家が国民に押し付けた愛国心そのものを疑わさせねば、いつまでも特定の国を敵視し、憎悪の連鎖がとまらない。それでいてはダークツーリズムが政治の道具に堕落し、ピースツーリズムやホープツーリズムに昇華しないだろう。
 ここまで考えて、ようやく中国語と韓国語の通訳案内士でもある私が、アジア系の観光客が少ないのかわかってきた。自国で教えられている「日本悪役論」という単純明快な考えが揺らいでしまうからだ。自分の信じてきたものがくずれる。それは痛みを伴うものだろう。しかし憎悪は新たな憎悪を呼ぶ。そして世界はつながっている。ヒロシマやナガサキを歩くことを通じて、不条理なまでに虐げられた人に対する思いが育てばと思わん限りだ。
 その際に通訳案内士をはじめとする「日本人」は、自分の立場を明確にしつつも「私の立場はこうだが、あなたはどう思う?」と訪日客に問い続けるというスタイルがよいのではないか。「立場」とは、ある人は被爆者であり、ある人はその子孫であり、ある人は帝国陸軍の兵士の子孫であり、ある人は科学者や医師であり、ある人は芸術家であり、といった客観的なものであり、それに基づき目の前の事象をどうとらえるかというのを口に出してみることである。
 それを語り合うことなしに、一方的にAIが答えそうなことを言っても意味はない。これまで自らの立場は差し置いて中国共産党の「公式的」な見解を中国人からしばしば聞いてきたが、自分の立場を深掘りしたうえでの見解を考え、相互理解が深まるのであれば、それこそダークツーリズムがピースツーリズム、ホープツーリズムに「昇華」したといえるであろう。それでこそ人間の、社会の本質がわかってくる。そんなことを教えてくれた「教科書」が私にとっては「はだしのゲン」だった。これからもこの全十巻を片手にヒロシマやナガサキだけでなく、犠牲者を悼みながらもこのような相互理解を深めていくことがいちばんの供養になるのではないかと思いつつ、新たなるダークツーリズムー悼む旅ーを歩んでいこうと思う。(了)


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