アンノン族に発見された小京都
「小京都」とは?
日本には「小京都」と呼ばれる町が少なくとも数十ヵ所存在するらしく、私もこれまでそのうち半分以上回ってきたようだ。「ようだ」というのは、実はこの文章をまとめる段になってようやく「小京都」だったことに気づいた伊賀上野や、訪問した時には「小京都」だったが、そののちに全国の小京都が参加する「全国京都会議」から脱退した金沢や高山のような例もあるため、どこが小京都でどこが違うかというのは流動的だからだ。とはいえとりあえずは「小京都らしさ」を定義するために「全国京都会議」の加盟基準を見てみたところ、以下の通りである。
①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある
②京都と歴史的なつながりがある
③伝統的な産業、芸能がある
1985年に26市町村と京都によって結成し、2024年現在38市町が参加するこの「会議」だが、そのうち私は26か所、約七割訪れていた。これらの町を歩いた末に、私が思い当たる「小京都」をオノマトペで表現すると「ゆったり、しっとり、ずらり、すっきり、わいわい」である。また、色彩的に表現すると、「白黒藍緑茶」だろうか。今回はこれらのうち、特に特徴のあるまちを十か所選び、それぞれ二ヵ所ずつ「対決」させることで、小京都の本質を見ていきたいと思う。
東の横綱、角館VS西の横綱、萩
京風の地形と天然の要塞、角館
全国を見通すと「小京都」の分布は西日本に偏りがちだが、その「東の横綱」はどこかと考えると、やはり秋田県仙北市の角館であろう。各種旅行雑誌やテレビ番組での扱いが別格なのだ。初めてこの町を訪れたときは武家屋敷の西側を流れる桧内(ひのきない)川の2kmにも及ぶ堤防にまずたどりついた。「日本のさくら 100選」にも選定されているこの堤防はソメイヨシノがずらりと並ぶ。JR東日本の駅に貼られる観光ポスターでしばしばお目にかかる光景であるが、ここは1930年代の東北の大凶作のおり、失業者対策の公共事業として桜の木を植えたという。
地図を改めてみると、西側の桧内川は町の南東を流れる玉川と合流するが、まるで京都の西を流れる桂川が南東を流れる宇治川と合流し、さらに木津川とも同時に合流して淀川を形成するのを思わせる。そして町の東には小高い丘が連なり、いわば東山である。地形が非常に京都に似通っている。「小京都」の名に恥じない地勢である。
さらに地図を観察すると、実に地勢を巧みに利用した城下町であることに気づく。武家屋敷の北側に古城公園があるが、ここにあった城が1615年の一国一城令で廃城となり、芦名氏から佐竹氏の城下町に変わっても、まちじゅうが丘陵と河川という天然の防御であることが見て取れる。城郭なきこの城下町に橋を渡って入り、駐車した。普段は静かなはずだが、初めてこの町を訪れた九月初旬は、おりしも「角館の祭」の開催中だったため、普段は少ない若者でまちじゅう賑わっていた。特に「秋田美人」というほど美人の代名詞となっている秋田女性だが、おそらく各地からこの日のために戻ってきたのだろう、多くの艶やかな女性たちが威勢よく歩き回り、「ハレの日」であることを実感した。
「いぶし銀」の渋さたたえる武家屋敷
町の中心にローソンがあった。昔は火が回っても木造家屋群では消化する手立てはなく、延焼を防ぐために「火除け」と呼ばれる防火帯を設けたのだが、ここではこの通りを境に南北に分かれる。ちなみに北側が内町地区(武家町)、南側が外町地区(商人町)である。その内町地区こそ観光パンフレットなどによく出てくる枝垂桜の武家屋敷街である。街を歩くと歩道が車道と同じ高さのため歩きやすく、道路わきの側溝もかつてのコンクリートから石積みにし、耳をすませばせせらぎの音が聞こえる。なによりも道路が黒いアスファルトではなく薄灰色で、歴史的景観に配慮しているのがわかる。「小京都」の彩(いろどり)はアースカラーが基本なのだ。
17世紀中期に角館入りした佐竹義隣(よしちか)は京都の公家出身であり、身についていた都人の風雅をこの地に移植すべく京都の枝垂桜をこの通りに植え、今やその総数は四百本という。ちなみに彼はこの地の山を「小倉山」、川を「賀茂川」と名付けたという。
現在見学できる武家屋敷はそのうち数ヵ所だが、例えば樹齢三百年を誇るケヤキが特徴的な石黒家、「解体新書」の人体絵図を描いた「秋田蘭画」創始者小田野直武の資料を展示する青柳家、大正時代に当主の学友だった宮澤賢治から送られたユリノキが見守る河原田家など、渋く黒光りする門の中には日本海の風雪に耐えてきた萱葺の大屋根がならび、中に入るといずれも黒光りする柱や梁だけでなく、随所にみられる遊び心のコントラストに驚かされる。
それらと比べるといささか質素なのが岩橋家である。説明によると芦名氏から佐竹氏に藩主が変わっても、旧藩主に対する義理立てから芦名氏に仕え続けたため、大きな門や玄関もなく、屋根もトタン葺きであるが、その質素さがかえって良い。2002年の山田洋次監督「たそがれ清兵衛」の舞台となったというが、まさに「いぶし銀」のような渋さである。
「たそがれ清兵衛」といえば、うだつの上がらない主人公が内職として虫かごを作っていたが、この町の武士たちは本当に内職に励んでいた。それが樺細工である。武家屋敷の随所にもそれが見られるだけでなく、町内には桜皮細工センターまであり、見学できる。樺というのは山桜の樹皮を指す。樹皮の筋が横に、あるいは縦に走る樺細工の中でも、特に茶筒にその素朴な美しさが引き立って見える。
戊辰戦争では「官軍」として攻撃を受けた角館
京都といえば寺院だが、角館の寺はそのほとんどが武家屋敷街の南東、山と山の切れ目か、南西の桧内川東岸に集中している。これは事実上の寺町で、町を敵に襲われた時の出城の役割を果たしたものだろうが、その中の一つに「常光院」 という曹洞宗寺院がある。そこには戊辰戦争時の官軍墓地がある。私は一瞬耳を疑った。その時秋田県に入る直前まで、丸二日間米沢や庄内等、「奥羽越列藩同盟」の跡をそこここで見てきたため、秋田藩がそこからいち早く離脱したことを失念していたのだ。つまり秋田藩に属する角館も薩長土肥の率いる官軍と戦ったと誤解していた。戊辰戦争の時に秋田藩を焦土にしたのは官軍ではなく庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍だったのだ。
そもそもこの同盟は幕府の命により朝廷のために京都守護職として忠義を尽くしながらも薩長から逆賊扱いされていた会津藩を、奥羽および北越が支持し、「官軍」に申し開きをしたことに始まると理解している。「白河以北」の東北のもつ連帯感ではあるが、そこから「イチ抜けた」を決め込んだと思われた秋田藩こそ薩長以上に怨みを買ったというのは容易に理解できる。実際、同盟軍によって秋田藩のすべての町の約三分の二が焦土と化したことから、その激しさは推して知るべしである。そのことを思うと心が痛まないではいられない。なにせ、「官軍」を相手に負け戦を続けていたかに思える同盟軍が、ほぼ唯一「官軍」に対して一矢報いた相手が、同じ奥羽の仲間だったのだから。
とはいえこの角館は庄内藩の総攻撃を受ける直前、大雨で玉川が増水したため、同盟軍は撤退した。東北の城下町の災難は戊辰戦争、繰り返す三陸地震、空襲、戦後の乱開発であるが、それらを全て乗り越え、1976年には初の重要伝統的建造物群保存地区(以後「重伝建」)に指定された。前近代の街並みを点ではなく面で保存するこの動きが七十年代に起こったということは、全国的にも当時から見て百年以上前の街並みがすでに貴重になっていたことを表している。ちなみに同時に重伝建として選定されたのが、信州木曾路の宿場町「妻籠」、飛騨の山村集落にして後に世界遺産となる白川郷荻町集落、京都の門前町産寧坂と、茶屋町の祇園、そして長州萩の武家町、堀内地区と平安古(ひやこ)地区である。このことからも角館がいかに価値が高いか分かるというものだ。
「女の旅」を変えたアンノン族
戦後の経済発展にまい進する日本人は、同時に大切な精神文化を失った。それを「再発見」すべく若者たちが旅に出た。昭和40年代、男性たちは横長の大型リュックに荷物と夢を詰め込み、北海道などを旅して歩いた。列車の通路を歩くとき、リュックが座席に引っかからないように横歩きすることから「カニ族」と呼ばれた彼らが、ユースホステルに泊まりつつ「知床旅情」「襟裳岬」「宗谷岬」など、北海道の岬をテーマにした流行歌を口ずさんでいたのもそのころだ。そしてそれから30年にわたって毎年作成された映画のシリーズが「男はつらいよ」であり、これも旅のシーンが大半を占めた。
一方、女性たちの旅行といえば、子どもの頃は親か教師に引率され、結婚しては夫に、子供が成長したら子供に連れられて旅行に行くのが「常識」だったが、それを打ち破ったのが1970年、71年に相次いで発刊されたan-anでありnon-noであった。それらはカジュアルなファッションを身にまとい、女性同士で各地を旅し、グルメに舌鼓を打つという旅を提唱したのだ。「アンノン族」と呼ばれた彼女らの旅立ちと時を同じくして「小京都」という概念が旅人の中で広がり始めたらしい。「小京都」とは経済発展に取り残された、派手さはなくとも都会人がどこかに置き忘れた静かな日本人のこころのふるさとだったのだろう。
次にそのころ「東の横綱」角館と互角の勝負をしてアンノン族がこぞって訪れた「西の横綱」萩を訪れて両者を「対決」させてみたい。
初めての旅先、萩
私が初めて「小京都」という意識をもって訪れたまちは萩・津和野・山口市だった。中学時代、なぜか旅に憧れた私は、親を説得し同級生の友と二人で島根県最西部の益田市の知人宅を拠点に訪れたこの三つのまちは、期せずしてみな「小京都」と呼ばれていた。それは私が初めて親や先生から離れ、保護者抜きで行った旅だった。
出雲から山陰本線のディーゼル列車に揺られて四時間あまりで萩についたはずだが、出雲に住む私にとって比較的手ごろな距離だったというのもある。ただ同じ時間をかければ広島や岡山、関西といったよりメジャーな街にも行けた。ただ14歳の少年にはこの「小京都」という響きに何か感じるものがあったからに違いない。それにしてもなぜ最初の旅先がみな小京都だったのだろう。また、そこの数カ月前、「全国京都会議」が発足していた。私の旅人生はなにやら「小京都」と縁がありそうだ。
近代日本を作りあげたという政治性
そんなことを思い出しながら三十数年後に仲間たちと歩く何度目かの萩は、「小京都」などというノスタルジックな言葉を忘れさせてくれるほど、「政治的な香り」を強く感じざるを得なかった。それはひとえに、私が初めて萩を訪れたころから学んできた中国語や、後に学ぶことになる朝鮮語によって作りあげられた「東アジア界隈」に対する見識のためだろう。
まず、長州藩の首府、萩と東北秋田藩の小さな城下町、角館とでは日本史における位置づけがあまりに異なる。角館は日本史の教科書にほぼ出てこないのに対し、萩は近代日本成立に最も貢献した長州藩=山口県の城下町であり、特に萩市民にはその自負心が強い。例えばこの町は吉田松陰「先生」を送り出した。山口県で「先生」というと第一義には松陰先生であり、「吉田松陰」と呼び捨てにするのははばかられるという。彼が学び、一時期教鞭をとった藩校「明倫館」は、後に明倫小学校となったが、ここでは1981年以降松陰先生の言葉を朝礼時に暗唱させているという。
またたまたま投宿したビジネスホテルでは、「聖書」代わりに吉田松陰語録が置かれていた。このように松陰先生は批判できない存在となり、松陰神社に神として祀られ、受験生からは学問成就の神として合格祈願の絵馬がずらりと並ぶのを見た。後に彼の弟子を中心とした長州藩閥の存在もあってか、山口県は日本一の総理大臣輩出県となった。ただ各総理大臣の旧居や記念館を訪れ、萩、そして山口県がある大切なことについて口をつぐむことに気づいた。それはここのリーダーたちが中国や朝鮮などで行ったことである。
例えば松陰神社に隣接する伊藤博文別邸では韓国統監時代の写真や「安重根の凶弾に倒れる」の一言ぐらいはパネルに書いてあったが、彼も実は韓国を近代化させようとした事実に関する記述はない。また、萩を離れた彼の出身地、山口県光市の農村にある伊藤公資料館では、輝かしい履歴とそれに関する品々が展示されてはいるものの、韓国統監としてからの記述がほとんどない。そしていきなりハルビン駅で凶弾に倒れたこととなっており、誰が撃ったかの記述はない。完全に安重根を、そしてなぜ凶弾に倒れなければならなかったかという経緯を無視しているのだ。
錦鯉と鍵曲りと近代史の隠蔽
また、初めて訪れた「小京都」の中でも14歳の私が特にこころ癒されたのは旧家前の幅2mほどの堀に石橋をかけ、錦鯉がたわむれる藍場川だった。四十代になってもう一度ここを訪れたとき、近くに桂太郎旧居があったので入ってみた。桂太郎とは伊藤の死後の翌年、日韓併合時に首相をつとめていた人物だ。旧居内ではドイツ留学で近代の軍事を学んだことや首相に三選されたことなど華やかな経歴はあっても、日韓併合を断行した件に関する説明は全くない。
次に14歳の私が好きだったのが「鍵曲(かいまがり)」とよばれる城下町独特の曲がりくねった町並みで知られる平安古(ひやこ)地区である。関ケ原の戦いで中国地方全体の支配者から防長二ヶ国の田舎大名にまで格下げされた長州藩は、毎年正月になると藩主とその取り巻きが、今年は幕府に反旗を翻すか否か話し合い続けたという。いわば二世紀半にわたり、「通常国会」の議題が幕府攻撃の是非だったのだ。よってこの萩が戦場になることを前提としたため、町並みをこのように鍵曲にすることで物陰に隠れて相手を討とうとしたのだ。
さて、この平安古地区には昭和初期の首相、田中義一の邸宅があるので行ってみた。彼は第一次大戦中にシベリア出兵をした際の陸軍大臣でもあり、首相在任中に満州で起こった張作霖爆殺事件に関東軍は関与していない旨を天皇に奏上し、昭和天皇を激怒させたため内閣総辞職したが、彼が軍を統制できなかったところから軍部の暴走が始まり、満州事変、日中戦争、太平洋戦争につながっていった。しかしそうした事実の記載は広い邸宅内のパネルには見られない。
「臭いものには蓋」でいいのか
これは萩だけの傾向かと思えば、そうではない。郷土の先人が近代日本を作ったことは伝えても、アジア外交に関しては全県にわたって「臭いものには蓋」だと思ったのは、岸信介、佐藤栄作兄弟と、二人の首相を輩出したことが自慢の田布施町郷土館を訪れたときのことだ。戦後日本の外交の基礎を形作ったのがこの兄弟ではあるのだが、例えば岸が戦前・戦中にかけ満州国を良くも悪くも法治国家として整備しようとしたという事実がすっぽり抜けている。職員に尋ねたところ、スペースがないからとのことだが本当なのか勘繰ってしまう。
近代日本の政策が「内には立憲と殖産興業、外には膨張と富国強兵」だったとしても、各首相に関する記憶は内向き」なのだ。それは時代が変わったからなのか、あるいは日本海の向こうの「隣国」からあれこれ言われるのが鬱陶しいからなのか。
松陰先生は「孟子」の名言「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」、すなわち真心を込めれば人を動かすことができるという言葉を座右の銘とした。彼の後輩にあたる首相たちが海外で行った近代化事業までも覆い隠すようでは、松陰先生も草葉の陰で泣いているというものだろう。
どうやら小京都を歩くつもりが、批判的になり過ぎたようだ。とはいえ四十代になっても十四歳のころと同じように古き良き日本のたたずまいを楽しむだけというのも芸がない。あるいはどうやら私は純粋にたたずまいを楽しむことができなくなったようだ。とはいえ藍場川も平安古も昔ながらの面影が保たれ、昔ながらの土塀から夏みかんが顔を出す光景に安堵したのはいうまでもない。「江戸時代の地図がそのまま使える」「まちじゅう博物館」といった観光用のキャッチコピーは今なお健在である。
アンノン族に見出された小京都と周回遅れの私
このまちがここまで昔のたたずまいを残せているのには、東北諸藩のような戊辰戦争による焼失も、南九州のような西南戦争による焼失もなく、また大震災も空襲もこの街とはほぼ無縁だったことによる。唯一、戦後の乱開発に対しては、60年代に市民による町並み保存運動が盛んになった結果、1972年には全国初の歴史的景観保存条例が制定されたのが功を奏した。そして条例の施行を待たずして、モータリゼーションによる赤字路線を抱えた国鉄が巻き返しのために70年「ディスカバー・ジャパン」と銘打って列車の旅を提唱し、それに呼応した「アンノン族」が、小柳ルミ子の大ヒット曲「わたしの城下町」を口ずさみながら「発見」されたまちの代表が萩のまちなのだろう。そして城下町特有の狭い町並みをレンタサイクルで回るという新しい旅のスタイルも定着していった。
そして彼女らは歴史の教科書に出てくる松下村塾や長州藩の根拠地だった萩城よりも、水路を屋敷の中に引き込み生活用水として利用し、水に親しむ藍場川地区や、明治以降、士族の内職として、あまり手がかからず農作業に不慣れな旧士族が育てた夏みかんの木が土壁からひょっこり顔を出す武家屋敷街の堀内地区など、市内各所をレンタサイクルで回った。訪問地の選択は2010年代以降の「インスタ映え」する場所にも似ている。そのピークは山口百恵が「いい日旅立ち」をヒットさせた78年ごろには過ぎていたらしいが、そんなことはあずかり知らぬ14歳の私は、今思えば男子中学生でありながら周回遅れのアンノン族のように日本社会がバブルに突入しようとする85年にこのまちから小京都巡りを始めたのだ。
2010年代からは特に戦国時代や幕末期に興味を持つ「歴女」と呼ばれる人々が、維新の中心となったこのまちに訪れるようになった。以前と比べ、電柱の地中化や、アスファルトではなく自然の砂利などを混ぜた自然色舗装を施しているのは角館、そしてその他の重伝建地区と同じである。
さて、ここらで角館と萩では「小京都」としていずれが魅力的か比べてみよう。伝統工芸に関して言えば角館に樺細工があれば萩には萩焼がある。武家屋敷街のたたずまいにしてもいい勝負だ。一方「小京都」としての地形面は、いずれも二本の河川と山で守られているが、そもそも萩は東に松本川、西と南に橋本川、北は日本海に挟まれた三角州に発展した町である。その点では角館のほうがより京都の地形に近いと言えよう。ただ萩市内には武家屋敷街だけでも数か所ある。 また、「小京都」の一般的な定義にないものを萩は持っている。それは近代に限るとはいえ数多くの政治家を輩出したことである。「近代史の隠蔽」という問題はあるが、それを差し引いたとしても、「京都」とは長きにわたって日本一の政治都市でもあり、そうなるときれいごとでは済まないことも多々あったはずだ。そのような点も加味して、やはり萩に軍配を上げたいと思う。
「山陰の小京都」津和野VS「西の京」山口
次はJR山口線上に位置する二つの「小京都」、萩とともにアンノン族に「発見」「消費」された「昭和の小京都」津和野と、中世から「西の京」とされてきた「元祖小京都」を対決させてみたい。
私は島根県の東の端、安来市が本籍だった。そして津和野は島根県の西の端である。二百キロ離れているとはいえ、同じ県内だからか何かの折に津和野という名を見聞きしてきたが、特に印象に残っているのが鷺舞と流鏑馬の光景を映したテレビCMである。もう一つは小学校の国語の副読本だったか道徳の教科書だったか記憶は定かではないが、戦時中に堀割の鯉が何者かに盗まれたが戦後は一生懸命鯉を育てた話が記載されていたことを覚えている。
初めてこのまちを訪れたのは、萩を訪れた翌日、1985年の8月だった。同じ県内とはいえ、我々が日常使う出雲弁は使われないことは、前日隣り合った益田市の知人の家に泊めてもらったときに感じていたこともあり、気取って標準語めいたものを話していたのが面映ゆい。津和野駅に着いたらここにも萩と同じくレンタサイクルがあり、タンデム自転車など、初めて見る「七十年代風俗」が新鮮だったが、今思うと当時まだ「アンノン族時代」の残り香があったようだ。
風を切ってペダルを踏み、堀の鯉にカトリック教会や乙女峠マリア堂、森鴎外旧居に津和野城に対小谷稲荷など、一通りの観光地は歩いたはずだ。それらを見て私の「小京都観」ができたとすれば、それは山や川に挟まれた小さな古いまちなみ、とでもいおうか。それから三十年近くたって再訪した時には、この「小京都観」があながち間違いではないことを確認した。
このまちは実に京都的要素が散りばめられているという意味で「小京都的」である。例えば初詣の日には参拝者が列をなす千本鳥居で知られる太鼓谷稲成神社はもちろん伏見稲荷大社を勧請したものであり、また弥栄(やさか)神社の鷺舞も京都の祇園社(現在の八坂神社)と関係が深い。実は私が「本物の鷺舞」を見たのは津和野ではなく京都の祇園祭のほうだった。というのもその起源は祇園社であり、それが室町時代に大内氏の本拠地である山口に伝わり、さらに当時この地を治めていた吉見氏に16世紀に伝わったものである。両者は姻戚関係にあったのだ。
ちなみに祇園社の主祭神は山陰勢と考えられるスサノオである。そしてその後祇園社の鷺舞は廃れたため、津和野から八坂神社に奉納する形をとっている。いわば出雲の神が京都を代表する神社の主祭神となり、そこから山口経由で山陰・津和野に伝わった鷺舞が巡り巡って京都で奉納されるという。まるでビリヤードの玉のように弾かれてやってきて定着した京都文化。京都の失った文化がこの地にあるというのは、中国の失った禅や儒学や老荘思想や茶道などが日本にはしっかり根付いていることを想起させる。このように京都との交流の頻繁さがこのまちを「小京都」と呼ぶ所以である。
「鯉の住むまち」<「鯉と住むまち」
改めてこのまちを歩くと、十代の頃と比べ異なった点に気が付く。例えば全体的に活気がなくなったが、こざっぱりとしてきたということ、そしてシニア旅行者が中心になってきたということだ。駅前にはメルヘンな絵本作家として知られる安野光雅の美術館ができていた。彼も津和野の人なのだ。そのうち重伝建に指定された地区を歩くうちに観光客が増えてくる。このまちの「顔」ともいえる数百匹もの錦鯉たちが堀割に戯れているのだ。もともとこの堀割は関ケ原の戦いで東軍側として軍功を開けた坂崎出羽守直盛が津和野城に入城した際、京風の町割りを施し、防火のために堀割をめぐらせたのだが、鯉を放流すれば飢饉のときの食糧対策にもなるし、そうでなくても蚊よけのためボウフラを食べてくれるからということらしい。
その後、ずっと鯉がここにいたかは定かではないが、本格的にまちの「顔」としての鯉を活用しようと提言したのは1930年代にここを訪れた民俗学者にして地方創生のプロ、宮本常一ともいわれるが、これにも諸説ある。戦後の食糧難にもかかわらず、町民たちは自分のご飯を減らしてまで鯉に食べさせていた。この鯉は地元の有志が集まり、地元民の楽しみのために寄贈したもので、個人の「ペット」ではない。とはいえ「公共の財産」というような公的な存在でもなく、しいていえば「まちの仲間」なのだ。例えばすぐ近くの中学生は給食の残飯を与えたり、学校活動として堀の掃除をしたりと、言い換えるなら「同じ釜の飯を食った仲」なのだ。
それが「客寄せパンダ」のようになってきたのが1970年代の「アンノン族時代」からである。特に73年には百万をこえる観光客を受け入れたが、その多くが鯉を写真を撮ったり餌を与えたりして楽しいひと時を過ごす「観光資源」として見ていた。その中には「鯉のまち、津和野」というキャッチフレーズを「鯉料理が名物」と錯覚した観光客もいた。そもそもこのまちでは身内同然の鯉を食べる習慣はほぼなかった。鯉を食べなくても日本海が近く、魚介類は豊富だったからだ。しかし鯉が「外貨稼ぎ」の観光の目玉となると、そうも言ってはいられなくなった。そこで町外の鯉を使って鯉料理を始めるようになったのだ。もちろん地元民は食べないが、鯉料理を出す店が他の町民から白い目で見られるということもあったという。たとえ津和野の鯉は使わないとはいえ、それで「免罪符」になるのか、ごまかしではないのか、というのだ。
ただ、鯉をさばく板前も、誇りをもってさばくのではなかった。他の魚はともかく、鯉の時には「なまんだぶなまんだぶ」と念仏を唱えてからさばく板前もいたというほどだ。逆にいえば生活のためとはいえ、鯉をまな板の上にのせることに対する罪の意識がよくわかる。それと同時に「観光」という消費活動が地元の風習を無視してゆがめ、悪しき資本主義の論理でカネになることは地元の人の心を踏みにじってまで断行させたのだ。さらに残酷なことにその選択を地元の人にゆだね、手を汚させ、孤立させ、しかしブームが去ると手を汚した人だけ馬鹿を見るという構造を作ってしまった典型的な例である。「鯉の住むまち、津和野」というキャッチフレーズは「鯉と住むまち」としたほうがより正確なのに。
石見人森林太郎
ところで「小京都らしさ」というとまちにゆかりある文化人の存在があってしかるべきだが、萩における吉田松陰、山口における雪舟に該当する津和野の文化人はだれか。やはり夏目漱石と並ぶ明治の文豪、森鴎外がこのまちを代表する文化人の筆頭というのには異論はないだろう。津和野川沿いには旧居がそのまま残り、記念館も併設されており、特に「郷土の偉人」としての鴎外にスポットを当てた展示がうれしい。
それとは別に、町を代表する永明寺には彼の墓があるので、久しぶりに墓参りにいった。「森林太郎之墓」と刻んである。「しんりん・たろう」ではない。「もり・りんたろう」が、彼の本名である。このまちを少年時代に離れ、東京で文豪と軍医という二足の草鞋をはいていずれにおいても頂点を極めたこの男であるが、墓石には華麗なる修飾語は全くない。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」というのが遺言だからだ。
つまり人生を通して受けてきた名誉も栄達も捨て、ふるさと津和野の少年に戻りたいという願望があったのだろう。「本来無一物」という禅語を思わす言葉だが、私はこの中で特に「石見人」という表現が引っかかる。藩閥が当然だった明治時代に薩長土肥の出身者以外に出世できた人はさほどいないが、その例外的存在が鴎外であり、また川向こうに生まれ育った哲学者西周(にしあまね)である。そんな鴎外がいう「石見人」というのは薩長土肥に対するマイノリティとしての石見人なのだろうと思っていた。
しかしここに来てふと思ったのが、もしかしたら彼は「出雲人」に対して「石見人」と言ったのではないかと思えてきた。彼は東京で勤務するうち、出身地は「島根県」というのに抵抗があったはずだ。なぜなら1872年に上京するまでの彼は、津和野藩で生まれ育ち、津和野が「浜田県」になってはいたが、津和野をふくむ石見国が「島根県」になったのは1876年なのだ。そして現在石見人が「石見」を意識するのは圏内のマジョリティである出雲人に接した時のようだ。しかしそのような事情を知らぬ東京人または他地域から上京してきた人々にとっては、鴎外を「島根県民」としてカテゴライズするのだろう。そこで「違うんだけどなあ」と思いながらもいちいち訂正するのも面倒なため、なじみのない「島根県民」を演じてきたかもしれない。しかしこの世を去るに当たって出雲人を中心とした島根県民ではない石見人としての自分を遺言に残すことで、少年時代の自分に戻りたかったのかもしれない。
おそらく私がそのように思うに至った理由も、同じ県民とはいえ200㎞離れた津和野は「県内の異文化圏」であっても、完全な標準語を話すほど「御他人様」ではないこのまちの人々なのだ。出雲弁を多少残しながらも標準語めいた中途半端な言葉を使ううちに、石見の人々の間にあるであろう「御他人様ではないが仲間と外野の境界にいる出雲人」である自分の存在に気づいたからである。
マリア聖堂ー旅人は見たいモノしか見ない
永明寺の近くには乙女峠マリア聖堂というのがある。それだけでなくこのまちにはメインの殿町通りにも日本におけるキリシタン史跡として後世にまで名を遺す聖堂がある。大政奉還直前の1867年、長崎・浦上の隠れキリシタンの存在が大量に発覚し、翌年新政府の支配下にある西日本20藩22箇所に分散して監禁のうえ棄教させることとなった。萩や津和野はその中でも過酷な扱いをしたところとして知られ、計153名が送り込まれた津和野の場合、雪が降り薄氷の張った池に飛び込ませたり、飢餓に陥らせては食糧で誘惑したり、90㎝四方の檻に閉じ込め続けたりの拷問を繰り広げた。その場所がこのマリア聖堂のあったところである。
目の前の池がその時の「氷の張った池」である。結局生存者が浦上に戻れたのは禁教令が解かれた1873年、つまり鴎外が物心ついたころから津和野を離れるまで、ここではキリシタンに対する拷問につぐ拷問が繰り広げられていたのだ。
おそらくアンノン族の中で教会を目指す人は長崎や平戸などに向かっていたはずであり、津和野のような小京都にそれを求めはしなかったろう。マリア聖堂のある場所では合計37名が殉教したということだが、むしろ地元石州の赤瓦を使った和洋折衷のこの聖堂は素朴な趣をたたえ、何も知らずにこの地を訪れたアンノン族からすると「かわいい」と思われ、被写体とされたことだろう。長崎や平戸に向かう旅人ならばキリシタンの歴史について小耳にはさむことぐらいはあろうが、「小京都」に求められる「観光的要素」は経済発展に取り残された古き良き伝統を守っている日本であり、乙女峠という近代に投げ込まれたばかりの日本が行った残虐な黒歴史とは異なる。求めるものが異なればその旅先に埋もれている別の価値、あるいは宝も写真をパチリと撮っておしまいになりがちなのかもしれない。「旅人は自分がみたいモノしか見ないもの」というのは観光に携わるものとしての常識であることを今更ながら思い出した。
津和野城跡と赤瓦と郷愁
実をいうと14歳の頃このまちを訪れたときの城郭マニアの私にとって最大の関心事は「小京都」であること以上に「三本松城」と呼ばれていた津和野城跡だった。昭和のレトロ感満載のリフトで山頂につき、本丸を目指して山歩きをする。本格的な山城である。改めて歩くとあちこちに瓦の破片がある。赤瓦だったのは幕末、黒瓦だったものはそれ以前のものが中心というから驚く。十分ほど杉林のなか、瓦の破片を踏みしめ踏みしめ歩いていくと、突如石塁が現れる。竹田城にせよ月山富田城にせよ、山城には渋い石塁がよく似合う。
ようやく城下町が一望できる展望スポットについた。町の地形的なものは京都盆地をグッとつぶして細長くしたような感じか。そこを南北に津和野川が流れるので、北を海に面した三角州の萩よりも「京都らしい」といえよう。そしてそれよりも「京都らしい」のは、目の前にある青野山が比叡山を思わせる点だ。「京都らしい」からといって特に心動かされるわけではないが、久しぶりに登って城下町を眺め、こころに響いたのが刈入れをまつ緑の田んぼの周りに点々と続く赤瓦の屋根たちのまぶしさだった。どんよりとした日々の多い山陰には、あの明るい石州の赤瓦がぴったりで、田んぼの緑と実にマッチしていた。さだまさしの1977年のヒット曲「案山子(かかし)」を思い出した。
「城跡から見下ろせば 蒼く細い河橋のたもとに造り酒屋の レンガ煙突 この町を綿菓子に 染め抜いた」
「山の麓煙吐いて列車が走る凩が雑木林を転げ落ちて来る銀色の毛布つけた田圃にぽつり置き去られて雪をかぶった 案山子がひとり」
生まれ育ったふるさとを思う若者の郷愁と、都会に出ていった弟を思う兄の心がうたわれたこの曲は、実にノスタルジーを呼び起こしてくれる。こんなときに折よくSLやまぐちが走ってくれれば絵になるのだが、その時間を確かめてから登らねばなかなか難しい。さだまさしは長崎モンだと思われているが、実は父親は現浜田市三隅出身の石見人二世、妻も浜田出身である。この歌の原風景はこの津和野城跡からの風景だという。
まちを去る前に町を見下ろす9号線沿いのレストランに入った。いかにも昭和のドライブインという雰囲気で、観光地への入り口にしてはくたびれ果てていた。ここも「アンノン族時代」にはさぞはやったであろうと思いながら、昭和四十年代に日本初の「観光立町宣言」をしたはいいけれどアップデートしきれていないこのまちの「もがき」を見たような気がした。そしてその「もがき」はこのまちだけでなく、多くの「小京都」が抱えるものであるということをかみしめつつ、中世以来の「元祖小京都」山口市を目指した。
「西の京」山口ーその地形と文化
津和野から山口市まではJR山口線でも国道九号線を走っても一時間ほど。県庁所在地としては人口20万人を切る小都市である。三十数年ぶりに山口駅前を訪れると、初めて訪れた1985年に比べあまりの衰退ぶりに驚いた。しかしここは紛れもなく室町時代に起源をもつ「元祖小京都」である。それは守護大名大内弘世がまちづくりを始めた1334年、町割りを京風にしたこに始まるが、現在の大内氏居館があった龍福寺西の堅小路にその面影が残る。地図を見ると、その近くを南北に流れる桜の名所、一ノ坂川は鴨川に、その南を流れる椹野(ふしの)川は淀川に見立てられている。さらに居館の周りは完全ではないとはいえ京都の碁盤の目のつくりを意識しているのがよく分かる。
大内氏居館は平成期に檜皮葺きの建造物と、それに連なる庭園も復元されている。大内氏は「源平藤橘」といった日本の名家の子孫ではなく、自らを百済の聖明王の子孫、多々良氏と称し、その親近感から朝鮮貿易をはじめとする対外貿易を独占したこともあった。最盛期の戦国時代には中国地方西部から九州北部までをその版図とし、石見の銀や瀬戸内海の船舶から徴収する関税、博多港での日明貿易の利益など、巨万の富を独占したのだ。こうした経済力を背景として京都をモデルとした都市を構築していった。
山口は京都と同じく盆地である。そこに八坂神社を勧請して祇園祭を行ったり、北野天満宮を勧請して古熊神社を建てたりもした。外観だけでなく、なんとまちの人々に京言葉を使わせ、山口弁を「矯正」させたりすらしたという。当時の雰囲気が最もよく残るのはつんと反り返った檜皮葺の庇が池に映える、知る限りでは日本一優美な五重塔を誇る瑠璃光寺である。その後応仁の乱から逃れる公家を受け入れ、戦乱で荒れ果てた京都にも勝るとも劣らぬ文化都市を形成したのだ。
雪舟のパトロン、大内氏
山口の文化水準の高さを語るのに必要な人物として挙げられるのは、京都相国寺の画僧、雪舟であろう。大内氏をパトロンとして遣明船に乗って明国に留学し、寧波の景徳寺では「四明天童山第一座」の称号を得たり、北京では最も有名な日本人画家としてその名をはせたりもした。さらに中国各地の山水を写生して帰国後に描いたのが「秋冬山水図」や「四季山水図巻」などである。彼の作品は6点が国宝に指定されているが、彼ほど国宝の指定を受けた芸術家はいない。そして彼の才能を支えたのが大内氏の財力だった。
現在山口市内の常栄寺には彼が作庭した庭が残されている。歴史の教科書では雪舟は東山文化を代表する画家と言うことになっているが、彼は山口のみならず勢力圏にあった石見の益田にも名園を複数残しており、そこには彼の墓地まである。いずれも見る者のこころを吸い込み、内省的にさせるほどの名園である。よほど山水画という二次元の表現を庭園という三次元で表現したかったのだろう。もしかしたら彼にとって山水画は庭を造るための下絵だったのかもしれない。超一流の画家が作庭した庭など、ガーデンシティの京都にさえない。
サビエルの選んだ山口
そのような文化の成熟した町だったので、鹿児島に漂着したサビエルも布教を求めてこの地にやってきた。市内にはサビエル記念聖堂が丘の上にそびえる。彼の来訪の400周年を記念して、1951年に白亜の聖堂が建てられた。彼の故郷、スペイン・バスク地方のサビエル城を模したというその聖堂を見たのは私が14歳の時。「異教徒」の少年も、荘厳さに息を呑むほどの美しさだったが、あいにく1991年に失火で消失した。焼け落ちる聖堂をTVニュースで見ながらも涙が出るほどショックだった。
新しくできた聖堂はポストモダン風で、十字架にしても現代アートっぽい。しかし箱モノが大切なのではない。要は信仰であろう。日本美術史上最高の地位にある雪舟が自らの山水画を立体化した庭園。カトリックの布教を記念する聖堂。そして美の極致を誇る五重塔など、それら全てが大内氏の保護のもとにあった。大内氏は戦国大名である前にビジネスマンであり文化のパトロンだった。中国の王朝で言うなら、他の戦国大名が武力にモノをいわせる元朝ならば、大内氏は経済的繁栄と文化的成熟を誇った南宋といえるのかもしれない。銀行を探しているとその名も「西京銀行」という名の地銀があった。山口は今なお文化力を誇る西ノ京である。
「2024年に行くべき52か所」
このように周囲が山に囲まれていると盆地に京都由来の有形・無形の文化が今なお残ること、さらに地銀の名に見られるように西の京だったことに対する誇りなどから紛れもない「小京都」であろう。とはいえ、特に重伝建のまちなみもなく、古い面影の家がまばらにあるだけであり、萩にも津和野にも「小京都らしさ」としては劣る。1985年当時の中学生が旅行先に選ぶにしてはあまりにも地味だと今なら思う。おそらく当時の自分がここを「小京都」と認識していたかどうかさえ定かではない。むしろ五重塔と雪舟庭園という「点」が京都らしいのであって、まち全体、つまり「面」として京都らしいとは思わなかったはずだ。
しかし2024年に入るやインバウンド業界の人々も耳を疑うようなニュースが入った。「ニューヨーク・タイムズ(以下「NYT」)」が発表した「2024年に行くべき52か所」のリストのうち、3位にこのまちが挙げられていたのだ。山口「県」ではない。「市」である。前年は盛岡市が2位にあげられたばかりではあるが、マイナーで知られていないところばかりランキングの上位かと思いきや、一位から五位までのラインナップは以下のとおりである。
1. 北米(皆既日食への道)
2. パリ
3. 山口
4. 列車で旅するニュージーランド
5.ハワイ・マウイ島
いずれも世界に名だたる観光地であるが、正直なところ山口だけは解せない。ホームページを見ると紅葉のトンネルに見返り美人のアングルでたたずむ紅白牡丹柄の振袖を身にまとった二十代らしき女性の写真が、いかにも見る人のオリエンタリズムを刺激しそうだ。なぜNYTが山口市を選んだのか。その選定理由はおおむね「瑠璃光寺五重塔・窯元・おでん屋・湯田温泉・祇園祭・喫茶店・オーバーツーリズムと無縁」ということだ。
このうち、私は最近できた洞春寺内の窯元や、おすすめの喫茶店は知らなかった。これなら萩や津和野のほうがもっと世界の観光客にすすめることができる。しかも山口市のシンボルはと言われてピンとくる日本人が県外にどれだけいるだろうか。いかに素晴らしいとはいえ瑠璃光寺五重塔の写真を見てどこにあるなんという寺院か即答できる人がどれくらいいるか。国内における知名度も圧倒的に低い上に、致命的なのは2024年は大内文化の都、山口の生き証人たるこの五重塔すら工事中で見ることはできないのだ。
さらに興味深いのは、NYTがこのまちを推薦するうえでカットしたものである。それは先述したザビエル関連と雪舟庭園、そして幕末にこのまちが長州藩の事実上の首府となり、討幕の中心基地となったという歴史的事実である。日本のクリスチャンにとって、中世文化や明治維新に関心のあるものにとってこのまちがいかに大きな役割を果たしたかは言うまでもない。それなのにNYTに盛岡、そして山口を推薦したクレイグ・モド氏にとって、あるいはそれを採用した編集長にとってこれらは興味の対象外なのだろうか。
「裏日本」としての山口
しかし彼の文章をよんでいくうちに、彼が求めるのはオリエンタリズム的な「小京都」とは異なることに気づいた。京風文化そのままの文化財や明治維新発祥の地にこころを動かされるのではない。モド氏曰く、
If Kyoto and Kanazawa and Hiroshima are the A-sides of Japan, Yamaguchi and Morioka are B-sides — the side often containing the understated genius of a record.(京都や金沢、広島などが「表日本」とするならば、才能や誇るべき過去がありながらもひけらかさない盛岡や山口は「裏日本」である。)つまり、京都顔負けの五重塔や庭園が素晴らしいからこのまちを推薦したのではない。「ハレ」の観光資源よりも世間の中で助けられながらもつましく生きる人々の姿、いいかえれば「ケ」の日々の暮らしに惹かれたからなのだ。そう考えると、「オーバーツーリズムとは無縁のまち」というのが選考理由にあるにもうなずける。
モド氏のまなざしは、名所旧跡や温泉での団体旅行を拒否して「自分らしい旅」を模索したアンノン族の焼き直しなのだろうか。私はそうは思わない。訪日客というのはわがままなもので、自分も観光客でありながら、観光客でいっぱいの場所は避けたがる傾向にある。このランキングに従って地味な良さを持つ山口や盛岡のようなまちを巡りだしたら、そしてそれが一定数以上になり、社会現象になったら「令和訪日アンノン族」が大量出現するような予感がする。
さて、「山陰の小京都」津和野と「元祖小京都」山口ではどちらが「小京都」としてふさわしいか。このモド氏のまなざしに従って、山口市、ではなく津和野にしたい。「小京都らしさ」とは生活の息吹あふれる場所と観光地の狭間にある。津和野の例えばパンフレットに見られるあの鯉の群れが「表」なら人々の鯉への「愛」は裏であるといえよう。同じように鴎外にとっての薩長土肥や出雲が「表」ならば「石見人」であることは「裏」である。そしてキリシタン迫害の歴史も、都会に出ていった弟に対する思いも、みな「裏」である。モド氏は裏日本としての山口を評価したが、私は津和野のほうがさらに裏だと見た。現に、戦後のアンノン族によるあの賑わいがつかの間の「表」だとしたら、今の「裏」がこの上なく際立つ。そしてあの記事を見て山口を訪れる人が増えれば山口市が「裏の表」となり、その恩恵が受けられるかどうかわからぬ津和野は「裏の裏」となろう。そうした「裏的要素の高さ」で、私は津和野を評価したい。
「小京都卒業生」高山VS金沢
山口が「西の京」ならば「東の京(もちろん「東京」ではなく)」はどこかといえば、思い当たるのが金森氏が京都を模して築き上げた飛騨高山である。そしてこのまちと戦わせたいのが「加賀百万石の城下町」として栄えてきた金沢である。「アンノン族時代」には彼女らがこぞって馳せ参じ、「小京都」の名で観光客を集めてきたが、2008年にはともに全国京都会議から脱退して独自路線、特にインバウンド路線に走ったという共通点がある。まずは高山から歩いてみよう。
「飛騨の匠」とは
「飛騨の匠」というと職人技、名人技の代名詞である。その由来ははるか奈良時代にさかのぼる。8世紀に朝廷は全国から米や特産品などを現物で徴税する法律を普及させたが、山国の飛騨ではそれらが十分に納められなかったため、飛騨の人材を奈良の都に派遣させ、建築業務に従事させた。そこで高い技術を身につけた職人たちが「飛騨の匠」と呼ばれる日本を代表する職人集団となっていったというのだ。
飛騨には白川郷など、「合掌造」とよばれる日本最大規模の民家建築も少なくない。積雪に備えて雪の重みで家がつぶれないように屋根の勾配を急にした、高さ15mを誇るこれらの茅葺き民家も、奈良や京都の高層建築を建ててきた匠の子孫の技が伝えられているのだと考えると納得がいく。そしてその匠の技の集大成といえるのが高山祭の屋台である春と秋に行われるこの祭りはユネスコ無形文化遺産にも登録されている。屋台のことを思い出すとうずうずしてくる高山の人たちはまさにこの日のために生きていると言っても過言ではない。ただ屋台が高山の町を練り歩くのは一年のうち数日だけ。残りの日にこの町を訪れたとしても、この高山の魂が詰まった動く芸術品が一堂に会するのが屋台会館である。
金森氏の京風文化
さかのぼれば高山は戦国時代公家出身の姉小路氏の支配下にあった。つまりこの地は僻地かもしれないが京文化に造詣の深い人物のお膝下にあったのだ。桃山時代になると秀吉の家臣だった金森氏が高山城を築いて統治していたが、その間に京風文化が本格的に高山に導入された。まず、ここも京都と地形が似ており、高山盆地に北から南に向かって宮川が流れる。祭の屋台などにしても、祇園祭顔負けである。特に二代金森重親(宗和)は大徳寺で禅を修め、古田織部、小堀遠州らにインスパイアされて独自路線の茶の湯を生み出した茶人であり、また京焼の野々村仁清を見出し、木目の美しさが際立つ飛騨春慶塗を完成させるような文化人であった。その文化の高さに舌を巻いた加賀藩三代藩主前田利常から召し抱えたいとの声もあったが断り、代わりに息子を遣わし加賀藩の茶の湯を大成させたという。17世紀末に出羽上山に国替えとなったが、金森氏百年の善政を慕って庶民は幕府に嘆願書を送ったとの美談もある。
さんまち通りの造り酒屋と高山祭の屋台
現存するさんまち通りには造り酒屋が建ち並び江戸時代そのままの雰囲気に圧倒されるが、その多くはその後の建築である。金森氏の国替えの後、高山は天領となり、この地を支配した政庁が高山陣屋である。日本唯一の現存する陣屋建築に入ると、重々しい玄関のわきには「お白州」つまり裁判所があり、奉行が高座に、取り調べを受ける者は地べたに座らされていた。ここでは時にはお上に意見を述べただけの人々も処罰されていたはずだ。自白の強要に使った拷問道具の展示も生々しい一方、裏手には美しい庭が広がる。
1770年代から80年代にかけて17年間も断続的に代官大原氏の圧制に対する百姓の怨念が爆発し、幕府に対して命がけの直訴をし、首をはねられた。世にいう「大原騒動」である。さんまち通りは素晴らしいが、当時の造り酒屋は高利貸しを営んだところが多く、彼らは農民に金を貸し、返せなければ土地を担保として取ったことを思い出さずにはいられない。そしてそれまで自作農だった者も小作に転落し、彼らが作った米が酒となったため、この通りには造り酒屋が多いという。「小京都」らしい郷愁を感じさせるさんまち通りの造り酒屋の片隅で、証文を書かされた農民たちは涙ながらに土地を失っていったこと、そしてお白洲という地獄と庭園という極楽が共存するこの陣屋で、代官と豪商らが結託し、高山を支配したことも忘れてはなるまい。
大原一揆だけでなく恒常的につのった農民たちの不満から目をそらさせようとしたのが祭であった。祭の熱気と魅力は農民たちの思考力を麻痺させるに十分だったのだ。祭の屋台を引くのは高山の町の人よりも周辺の農民が多かったのもそのためだ。それは失政に対する庶民の不満をサッカー大会やカーニバルで発散させる中南米の為政者の手口とも相似する。
しかし見方を変えれば高山の代官や豪商による搾取と圧政がもたらしたものが重伝建の街並みや祭の屋台、陣屋といった後世観光資源として「現金収入につながる」文化資産であった。それらは内外の客を引き寄せる。だからといってあの圧政に感謝せよというのか。「塞翁が馬」という言葉が心に去来する。
「小京都」だけではない高山
ところで観光地としての高山は、その時その時の観光客のニーズを満たすことで生き残ってきた。例えば1934年には高山線が開通し、同年乗鞍、穂高、槍ヶ岳を含む中部山岳国立公園が制定されると、高山は北アルプス乗鞍岳の登山口を兼ねた小京都として、戦時中を挟みつつも多くの登山客を集めた。そしてノスタルジックなさんまち通りが高度経済成長で失われた日本のこころのふるさとと思われた70年代には、アンノン族のメッカとなった。同時に1973年6月には乗鞍スカイラインが開通すると、さらに観光客が増えた。しかし激増した観光客がゴミを捨てたりすることもあり、それを防止させるために同じく「小京都仲間」の津和野が鯉を堀に放っている事にヒントを得たのか、ここの宮川にも鯉を放流した。津和野とは異なり、ここの鯉はゴミから街を守るためのものだのだ。そしてアンノン族時代が過ぎ去ろうとしていた79年、150メートル、南北約420メートルの通称「三町(さんまち)」が重伝建指定を受けることになった。
その後は全国京都会議に参加しながらも低迷を続けたが、2007年にミシュラングリーンガイドで三ツ星観光地となると、もはや「小京都」であることのメリットに見切りをつけるかのように翌2008年には同会議を脱退し、折からの観光立国路線、すなわちインバウンド路線に切り替えたのだ。その甲斐あってか、さんまち通りは浅草の仲見世かと思うほど外国語であふれている。
さらに2010年代には高山市出身の米澤穂信氏原作のアニメ「氷菓」がヒットして市内のそれと思しき学校や施設が「聖地化」したり、「君の名は。」の主要舞台、「宮水神社」が市内の日枝神社と推定されると、聖地巡礼ノートを設置したりして、アニメファンたちの対応をいち早く行った。登山基地で食えるなら登山基地として整備し、小京都で食えるのなら小京都の冠をかぶり、インバウンドのチャンスが到来したなら全世界に情報を発信し、アニメが流行ればその対応もする。なんとも観光に関する割り切ったプロフェッショナルさを見せてくれる。津和野のようないつまでも山陰の小京都という座にあぐらをかきたがるのに比べると、小気味よさすら感じる。
観光地としての高山のしたたかさ
しかしもう一つの見方もある。客層の変化によってスタンスを変え続けるのは、あまりに振り回され過ぎなのではないかという点だ。もっと言えば、古くからの顧客が求めているものを無視して、今の大口顧客に合わせるというのは節操なくはないか。例えば1970年代に津和野を訪れた20代の女性が、半世紀後孫娘に連れられて津和野を再訪しても、かつてと同じなつかしさが残っていそうだが、訪日客だらけ、アニメファンだらけの高山を見て、かつてのアンノン族おばあちゃんはどう思うか。
これに対して私はこう考える。アンノン族は一過性の「消費活動」でもあった。そしてたとえポスト団塊(1950年代生まれ)の若者とはいえど、an-anやnon-noを片手に、このまちを、そして日本中の「小京都」を闊歩したは、当時の標準的学歴だった高卒ではなく、短大や大卒という恵まれた一部の女性が中心だったといえる。当時の流行語でいうなら「プチブル」のお嬢様なのだ。
都会の洗練されたファッションに身を包んだお嬢様が、自分を引き立ててくれる「舞台」としての小京都なのではなかっただろうか。それは70年代から始まった「DISCOVER JAPAN」という国鉄のキャンペーンに登場する女性は常にファッショナブルで、その「舞台」は古き良き、といえば聞こえがよいが、そうしたお嬢様たちが捨て去ったものだったからだ。そしてどんな時代であれ、客の求めるスタイルを提供するという態度を守り続けた高山市民のしたたかさにこそ脱帽せざるをえないのだ。
金沢―加賀百万石の城下町
次に金沢を歩いてみよう。北東に浅野川、南西に犀(さい)川、これらの二本の川に挟まれた小立野(こだつの)台地の先端部分が金沢城と兼六園である。日本三名園の兼六園はまぎれもなく金沢文化を代表しており、そこから東に目をやると卯辰(うだつ)山が見え、京都でいえば比叡山に見立てられるのかもしれないが、そもそもここは盆地ではなく台地である。高山と同じくこの金沢も2008年まで全国京都会議のメンバーだった。しかし現在、「小京都」と呼ぶより「加賀百万石の城下町」との呼称のほうが一般的になりつつある。金沢はもはや京都のコピーではないという自覚と自信があるからだろう。
ただ例えば兼六園の入口にある県立伝統産業工芸館では、金箔、九谷焼、輪島塗といった前田氏の殖産興業政策に基づく工芸文化の集大成が見られるが、もとをただせば京風の華やかさである。また観光パンフレットでおなじみなのは、祇園に匹敵するひがし茶屋街など、やはり京風である。名園や工芸品、、町並みだけでは京都のミニチュアにとられかねない。しかし実際に街を歩いてみると、この街のオリジナリティは京文化の模倣のみではないことがわかる。それを最も感じるのは前田氏の居城、金沢城である。
金沢城の美意識
ここの最大の見ものは天守ではない。全国各地に天守が復元されているが、ここはそれらとは一線を画している。まず目に飛び込んでくるのが戦国時代様式の野面積みから過渡期の打込みハギ、江戸時代の切込みハギや六角形の亀甲積みなど、歴代の石垣様式が「石垣博物館」の様相を呈しており、さらに令和になって復元が完成した鼠多門から玉泉院丸庭園に進み、そぞろ歩くと、滝のように細長い長方形の「色紙短冊積み石垣」だけでなく、同じ面に六角形、四角形など芸術的センスを駆使した、後の近代欧州で一世を風靡したキュビスムのような「石垣風作品」までお目見えする。ここまで実用性を無視したアヴァンギャルドな石垣は他では見たことがない。
それにしても「石垣博物館」として石垣のみ解説するパンフレットが配布されていたのには恐れ入った。地味だ。実に地味だ。日本人にとって、城とは天守。しかし失われた石垣の復元にここまでこだわりを見せるのは、地震で崩壊した熊本城以外、城郭マニアの筆者も寡聞にして知らない。
また三十軒長屋、五十間長屋といった、他には見られぬ長屋門の数々にも目を見張るものがある。特に長さ約90m漆喰壁の下部に、黒瓦をずらりと埋め込んだなまこ壁が美しい五十間長屋の復元には舌を巻く。耐火性の強い漆喰ではあるが、雨や雪の多い北陸では漆喰を塗っただけなら乾燥しにくいため、ひさしでは防げない壁の下半分は漆喰が剥げやすい。そこで黒瓦をはめ込んで補強するのだ。北陸といえば越後の新発田(しばた)城や、富山城でもなまこ壁を目にした。そして他には見ることのできない白緑色の屋根は「鉛瓦」といい、これも雨や雪に強いだけでなく、普通の瓦なら下地に必要な土も不要で軽いため、積雪にも耐えられる。加えて原料の鉛も加賀藩内で取れ、経年変化して白緑色になると明るさを増し、曇り空の多い日本海側の空にも映える。山陰の石州瓦が明るいのも同じ理由であろう。日本海側の気候を前提とした建築は、もはや「小京都」どころか全く別の基準のものである。
城郭復元を通してよみがえった城下町意識
そういえば私がこの城を初めて訪れたのは1992年だった。当時は金沢大学のキャンパスで、よれよれの姿でペダルを踏みつつ沖縄から北海道まで日本縦断をしていた最中の私を、同年代の大学生たちには白い目で見られていたに違いない。調べてみると明治維新以降敗戦まで、城内には陸軍第九師団司令部が置かれていた。金沢は文化都市であるとのイメージが強いのだが、少なくとも近代金沢城においては、明治から敗戦までは北陸における陸軍の中枢、戦後は大学キャンパスだったため、市民や観光客が気兼ねなく入城できるようになったのは1995年のキャンパス移転以降のことだ。
ただ、確かに金沢は山口のようにダイレクトに、全面的に京都文化を取り入れたとはいいがたい。とはいえ前田利家が金沢を攻略する前に能登七尾城を本拠地にしてきた畠山氏は京風文化を誇っていた。それを継承したのが前田氏だともいえるならば、津和野が山口の京文化を継承して「山陰の小京都」となったように、このまちも「小京都」だったといえよう。
ただ2000年代から、二の丸を中心に城郭建築が復元されていく。そして1631年の火災で本丸が消失すると、二の丸が政庁の中心となっていた二の丸御殿の木造復元工事が2020年代に始まった。思うにこれらの修復が金沢の城下町意識をよみがえらせ、公家と寺社勢力の強い京都のミニチュアとしての「小京都」から卒業させるに至ったのではなかろうか。
「間」「無」「空」
ちなみに金沢出身の人物で、世界に知られるのが禅僧鈴木大拙である。彼の生まれ育った場所の近くに鈴木大拙館がある。後に西洋世界に向かって英語で禅を広めた功績は非常に大きく、例えば英語で「禅」のことを中国語のchanではなく日本語のzenというのも、まさに彼のおかげだろう。そんな彼と、同郷の哲学者西田幾多郎の交流を中心としたこの館内だが、面積の割には極めて展示物が少ない。いや、ほとんど展示物はない。あるのは広いスペース-「間(ま)」、あるいは「無」、さらには「空」だけだ。さすがに地元出身のモダニズム建築家、谷口吉生の設計だけある。
ほとんど展示されていない展示物も見ぬうちに、きれいな水がはってあるコンクリート打ちっぱなしの池に出る。そこの真ん中の東屋らしきところで座って思索するのだ。このようなコンセプトこそ大拙の禅なのだろう。なお、館外には思索用に「哲学の道」が作られているが、京都東山の哲学の道こそこの金沢の二大哲人、鈴木と西田が歩いた道なので、どちらが本家なのか分からぬほどだ。なんだかんだいってもやはりこの街は京都と繋がっていると実感した。
金沢は本当に武家文化に基づく都市なのか
まちや城郭や庭園を歩きながら気づいたのが、街並みや工芸文化、庭園文化などは京都のようでありながらも城郭文化や哲学などにおいてそれを脱し、独自の街になったのが金沢なのだというのが令和の金沢の「自己イメージ」ではないかということだ。とはいえ今なお「外野席」の人々は金沢=「小京都」という イメージを持っていることだろう。金沢のこの「小京都卒業問題」に関しては、様々なレベルで思うことがある。まず津和野のような「小京都」であり続ける場所からすると、それまで小京都仲間だと思っていたのに「自分たちは京都の『劣化版コピー』ではなくオリジナルでありたい」というようなあり方が鼻につくのかもしれない。
あるいは全国京都会議の脱退理由が「武家文化の金沢は公家文化の京都とは異なるから」というのであれば、同じ武家文化の江戸にあやかって「小江戸」を称してもよいのでないかとも思うが、そのような発想すらない。そもそも江戸も鎌倉も大坂も京都の影響をうけてはいても、「小京都」と言わないように、独立したまちでありたいのかもしれないが、金沢がこの三つの都市と異なるのは日本国の政治経済の中心になったことが一度もないことだ。あるいは「小」京都、つまり京都の「うつし」であることに問題があるとするならば、平安京自体が中国・洛陽+長安の「うつし」ではないか。
さらに言えば、本当に金沢が武家文化に基づく都市かという点である。前田利家入城前には、真宗門徒が民を顧みない大名に反旗を翻し、金沢市南部の高尾(たこう)城を囲んで城主を自害せしめ、僧侶と庶民による日本初のコミューンを一世紀にわたって維持してきた土地柄だ。その中心地が「尾山御坊」、すなわち現金沢城であるから、別名を「尾山城」と呼ぶ。たしかに尾張という華やかなよその土地から進駐してきた前田利家の子孫による「加賀百万石文化」は観光客の目を引くが、はたしてそれほど誇りうるべきことなのか、それ以前の「尾山御坊文化」こそ、市民の、そして北陸の人々の精神文化のコアにあるのではないか。外野席から見ていると疑問ですらある。
「小京都」から脱し切れていない金沢
さて、最後に高山と金沢の「小京都度合い」を比べてみよう、と思ったが、両者ともむしろ「小京都卒業度合い」を比べるほうがむしろ意味がありそうだ。京都盆地を思わせる地形に姉小路氏、金森氏による京都文化の直接的導入、そしてアンノン族時代に「再発見」された元小京都高山。地形は異なるが、七尾畠山氏譲りの間接的な京都文化受容と洗練された文化がアンノン族に「再発見」された元小京都金沢。前者は観光都市として小京都では生き残れぬと悟るとインバウンドやアニメツーリズムに転換し、後者は自分たちのアイデンティティが京都らしさではないと否定し、独自の文化路線を走った。
私は「小京都」であってもなくても、要するにお客さん次第であると考えているように思える高山のほうが、完全に「小京都」を振り払っているようで評価できる。「小京都」であることは単なる戦略に過ぎず、また「小京都ブーム」が起きれば掌を変えて「小京都」にカムバックする、そのこだわりのなさ。高山市民は「小京都」と言われてもむきにならないだろうが、「小京都」というカテゴリーにより反応する金沢は、まだ「小京都」時代から脱しきれず、「小京都」と呼ばれると反応せざるを得ないように見えるのだ。
そして最終局面では、「え?ここって小京都だったの?」と思われそうな伊賀上野と栃木市を対決させ、小京都とはいったいなんだったのか考えてみたいと思う。
「小江戸」栃木VS「忍者の里」伊賀上野
栃木県に「栃木市」があるのを知らなかった私
恥を忍んでいうが、通訳案内士の資格を持ちながらも三十代半ばまで西日本や沖縄しか居住したことのなかった私は、栃木県に栃木市があるのを知らなかった。恥の上塗りになるが「栃」が漢字で書けなかった。私が栃木県栃木市の存在を知ったのは、さらにいうならその町が「小江戸」と呼ばれていることを知るのは埼玉県の東武東上線沿線に住むようになってからだった。その近くには「小江戸」川越があり、おそらく同じ東武鉄道グループだからだろう、駅で「小江戸」つながりの栃木市の観光パンフレットが置いてあったのだ。
川越には時々訪れ、「小江戸」のなんたるか、その輪郭は分かるようになった。まとめるなら蔵造りのまちなみと江戸とのつながり(家康、秀忠、家光らが何度も訪れ、中でも家光はここで生まれ、五代藩主松平信綱は舟運を整備することで江戸の文化をこの地に導入し、川越祭りと神田祭の山車は同じ職人の作であることなど)である。ちなみに初めてここを「小江戸」と称したのは1913年、川越商工会議所が刊行した「川越案内」と言われている。
ところで、本文は「小京都」についてではなかったのか、なぜ「小江戸」なのかとも思われるかもしれないので、栃木について一文を書くことにした経緯を先に述べておこう。それは「全国京都会議」の参加市町村のなかに、栃木市を発見したからだ。「小江戸」にして「小京都」?そんな「二股」をかけることが許されるのか?それが私がこのまちを訪れた理由である。つまりどの部分が小江戸で、どの部分が小京都的なのか、見極めたいと思ったのだ。
「関東の小京都」→「小江戸」栃木
梅雨が明けきらない七月初旬、車を走らせて市内に入る。駐車場に車を入れ、町歩きに出た。川越のようなまちが「小江戸」だと期待して栃木を訪れたら、当然のことながら共通点と相違点がそれぞれあった。前から何度も目にしてきた観光ポスターの写真は、二年に一度、十一月に行われるとちぎ秋祭りの勇壮な山車と、小舟浮く巴波(うずま)川沿いの黒い土蔵群である。このなかで黒壁の土蔵群はかつての木材廻船業者、塚田家を1979年に開放した資料館になっており、三味線の弾き語りをするおばあちゃん型ロボットや蔵芝居ロボットなど、なぜか中身はハイテクを駆使して、この町のかつての繁栄を伝えてくれる。
実はこのまちが「小江戸」にこだわりだしたのは平成になってからのこと。昭和末期は「関東の小京都」だった。1985年に全国京都会議が発足して以来のメンバーであったが、93年に蔵の街大通りの町並み整備を行い、95年に市民の心を一つにする秋祭りの山車を展示する山車会館が会館、そして翌96年に地元商工会議所青年部が川越や千葉県「北総の小江戸」佐原(現香取市)を誘って小江戸サミットを主催したのである。つまり「小京都」が昭和に生まれた全国組織であるのに対し、 「小江戸」は平成に生まれた北関東限定の集まりである。なお小江戸サミット条件は①江戸との舟運で繁栄した。②江戸情緒を残す蔵造りの町並みがある。③江戸天下祭(神田祭・山王祭)の影響を受けた山車祭りがある。の三つの条件を満たすところというため、この三か所以外にはないのかもしれない。
なるほど、この条件でいうならば栃木はぴったりである。蔵造りの街並みは江戸との舟運で米や炭、麻、木材などを出荷し、塩や黒砂糖、油などを買ってきた。また、祭りの山車は1874年に日枝神社の山王祭の山車を購入し、始まったものであるが、現在の山王祭や神田祭では、神輿はあっても山車は空襲で焼失したため、山車に関しては栃木を含む「小江戸」のほうが正統な継承者といえよう。それはちょうど祇園社(八坂神社)の鷺舞が山口や津和野にしか残っていないのにも似ている。津和野といえば鯉だが、巴波川に初めて鯉が放流されたのは1936年だという。ただ捕って食べられることもしばしばあり、また60年代以降は河川の汚濁を浄化するためにも放流され、さらには鯉料理を地元の人も楽しむという点などは鯉に対する思いの津和野との違いであろう。少なくとも「栃木市=鯉の町」という等式はなかなか成り立ちにくい。
栃木県庁のあったまち
ところで鯉というと、市内県庁堀にも多く放流されている。「県庁?宇都宮か?」と思われるかもしれないが、1871年の廃藩置県で当時の栃木町に県庁を置く栃木県と、宇都宮に県庁を置く宇都宮県宇都宮が成立したときの栃木県庁跡地前の堀だ。その後1873年に両県は栃木町に県庁を置く「栃木県」として合併したが、県庁が県南に偏っており、人口や経済面でも宇都宮にスケールメリットがあり、さらに栃木町にあふれる自由民権運動の気風を嫌い、翌84年に県庁所在地は宇都宮に移転した。現在見られる大正ロマンを感じさせるライトグリーンのレトロな洋館は1921年に栃木町庁舎として建てられた、現市立文学館であり、県庁とはかかわりはない。
ちなみに現在の栃木市は人口15万、宇都宮の三分の一以下である。宇都宮と栃木市の関係は、山口県でいえば人口最大の防府市、または交通・運輸のハブである下関市と、衰退しきった「元祖小京都」山口市のようではあるが、県央にあるからか山口は少なくとも県庁だけは握っている。それに対して栃木は「県名」としては残ったが実権はほぼすべて宇都宮に奪われた。
一つだけ「塞翁が馬」ともいえることがあるとすれば、空襲をほぼ受けなかったことだ。「軍都」となった県庁所在地宇都宮は、米軍の空襲を受けて市内の三分の二が焦土と化し、六百人以上の尊い命が失われた。もし栃木市に県庁と軍事基地と軍事工場が密集していたら、これらの土蔵群もどうなっていたか分からない。
なぜここが「関東の小京都」なのか
ところで、なぜ栃木市が「関東の小京都」となったのか。このまちは70年代にアンノン族に「再発見」されたわけではない。おそらく首都圏の若い女性における栃木県のイメージは身近な田舎にすぎず、萩や津和野、金沢や高山のような遠い世界への憧れが薄かったからかもしれない。あるいは思ったほど写真映えしなかったからかもしれない。なにせ、彼女らの多くが求めたものは、単なる田舎ではなくすっきりした都会的洗練さをもつ場所で、それは京都や鎌倉、各地の城下町、そうでなければ長崎や神戸のような近代に開かれた港町においてこそ見出されたからだ。あいにくこの町はそれらのいずれにも該当しない。
果たしてこのまちに京都とどのような関係があるというのか。全国京都会議のホームページによると、同会議への加盟は、次のような条件に一つ以上あてはまることを基準にしている。
①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある
②京都と歴史的なつながりがある
③伝統的な産業、芸能がある
このまちは京都に似ているか。市内に川が流れる盆地であればよいのであれば、該当しないではないが、そうなると日本中の盆地が該当してしまう。また、京都との歴史的つながりでいうなら、江戸時代に朝廷から日光東照宮に使わされていた「日光例幣使」の宿場町として利用されたことが挙げられるが、そうなると日本中のかなりの宿場町が該当してしまう。さらに、伝統的な産業や伝統もないではないが、そんなものはどこにでもあろう。つまり、この程度の共通点や京都との関連性で「小京都」を名乗れるのなら、「小京都」といってもあまりにハードルが低過ぎはしないか。 それもあってこのまちは後に活路を「小江戸」に求めたのかもしれない。
「三つの顔」をキープするまち
しかし実際2020年代にこの町を歩くと、小京都との表記はめったに見られず、「蔵のまち」と「小江戸」の二択である。そもそも将軍の支配する「江戸」とは天皇のお膝下の「京都」に対するアンチテーゼである。そして江戸にはこのような町並みも山車もない。だから小江戸の人たちは江戸との関係はあったが「江戸まさり」であることを誇るのだ。そこに京都の入り込む隙はほぼない。あっさりと全国京都会議を脱退してもよさそうなものの、高山や金沢とは異なり「小京都」としてのカードも捨てず、万一のためにとって置いているかのようだ。つまりある時は小江戸、ある時は蔵のまち、そしてたまに「関東の小京都」にもなるという、「三つの顔」をキープしているかのようなのだ。
ただ、今後この街には特に観光客を誘致せねばならない切実な問題がある。それはどこの自治体も抱えている高齢化と過疎化である。さらに隣接する小山市には新幹線が通ることもあり、
人口に関しては追い抜かれ、水をあけられつつある。
また、観光客はほぼ興味を示さないだろうが、栃木市役所は中心市街地に近い東武百貨店と同居している。とはいえ東武百貨店に市役所が入っているのではなく、2011年まで県内の百貨店として知られている福田屋百貨店がこのまちから撤退したあと、すでに老朽化しており新築が急務となっていた市役所庁舎として、市が土地とハコを購入するほうが安く上がるだけでなく、中心市街地の衰退を食い止めることもできるので、2014年に市役所をここに「居抜き」として移転させ、東武のスーパーを一階の商業施設として入れたのである。
帰りにスターバックスに寄った。所々くたびれかけているこのまちでは浮いてしまいそうなほど、蔵造りを思わせるシックな造りである。この「観光地仕様」のスタバでは栃木弁はほぼ聞こえず、観光客がほとんどだった。ここは城跡はあっても児童公園に毛の生えたようなもので、それ以上に市民のあいだに城下町意識は皆無で、いすゞやミツカン、サントリーなどの工場が小規模ながらあるくらいのこの15万都市の地味ながらも新たなる起爆剤として、観光地に一部脱皮しようとしているのを感じた。
小江戸、小京都、蔵のまちの三枚のカードを使い分け、ブランド化しようとしているかのように見えるのだ。それはこれまで観光地でなかった地方の工業都市が生まれ変わろうという、なりふり構わぬ脱皮にも見える。「小京都」にはこのような「利用法」もあることに改めて気づかされた。
「忍者の里」伊賀上野
みなさんは「伊賀」と聞いて何をイメージするだろうか。やはり最初に忍者を想起する人がもっとも多いのではなかろうか。実際、三重県伊賀市は隣接する滋賀県甲賀(こうか)市と並んで、それぞれ「忍者の里」としての地位を譲らないとはいえ、「甲伊一国」という呼び方があるほど、この地域は密接に結ばれている。忍者の起源も諸説あるが、私には渡来人起源説が興味深い。中でも伊賀に関して言えば不老不死の薬を求めて紀伊半島に漂着したという徐福のもたらした製薬法が、「体が資本」の忍者の健康を支えたとも、諸国を薬売りとして遍歴し、情報を集めるのに役立ったともいわれているのに信憑性を覚える。
ところで忍者の日本限定のイメージとしては巻物を口にくわえて呪文を唱えると煙の中に消えてしまう光景も目に浮かぶが、これも巻物や呪文は大陸伝来の密教の土着化と見られ、火薬も渡来人のもたらした技術らしい。渡来人を忍者のルーツと考えられる理由は随所にあるが、それら一つ一つに確実な証拠がなく、謎めいているところがかえって「忍者的」といえよう。一方内外で忍者というと闇夜に紛れて黒装束に頭巾で情報を得たり、要人を暗殺し、時には手裏剣等を投げるというイメージが強い。実際、信長も鉄砲名人かつ僧形の甲賀忍者杉谷善住坊の狙撃を受け、間一髪で命拾いしたというし、「絵本太閤記」では秀吉が天下の大泥棒かつ伊賀忍者の石川五右衛門に命を狙われた。
一方で本能寺の変の折、堺にいた家康は、急いで本国三河に帰る際、この山岳地帯の地理に明るい伊賀者の武将、服部半蔵正成(まさなり)の協力で、無事に甲賀・伊賀をこえ、伊勢湾の白子から三河に戻ることができたという。ただしこの「神君伊賀越え伝説」は19世紀初めに書かれた幕府の公式史書「徳川実記」には記されていない。いずれもどこまでが史実なのかは知る由もないが、武将たちと忍者とのかかわりがうかがい知れる。
ただ、実際のところ夜以上に日中薬の行商人や旅芸人、僧侶などとして地元民から噂話などを集めるなかから情報を得ることのほうが多かったろうが、やはり「黒装束に黒頭巾」でなければアイコンとしての忍者は成立しえず、エンタメ性に欠ける。
「忍者ツーリズム」
そのような「目に見える」忍者を求める人々のための「忍者ツーリズム」に関して言えば、伊賀・甲賀両市とも忍者服を着た内外の客であふれている。中でも上野城内の伊賀流忍者博物館・伝承館忍者ショーはエンターテインメント性が非常に高い。
例えば、忍者同士のチャンバラから始まったあと、勝ったほうの忍者が「それでは私の師匠を紹介します。『せーの』、といったら『ししょー!』と叫んでください。」というので、ひげでも蓄えた老忍者が出るのかと思えば、「笑点!」のテーマソングが大音響で鳴り響き、いかにも軽いノリの忍者が出てきて観客を爆笑させる。一説には伊賀忍者ともいわれる能楽の祖、観阿弥・世阿弥を思い出した。能のルーツ、申楽(さるがく)とは滑稽なものであったのだ。そして世阿弥の著した「風姿花伝」には、「めづらしきが花(あっといわせるようなものこそ芸)」という教えがある。意表を突くそのやり方は、観阿弥・世阿弥一流の「忍法」ではなかろうか。
「小京都」伊賀上野?
なかなか本題「小京都」にたどり着かないほど「忍者の里」のイメージが強い伊賀ではあるが、伊賀上野を「小京都」だと言ったら信じてもらえるだろうか。私はここを訪れたときには全くそのことを知らず、今回小京都について拙文を著すにあたって初めて知った。その意味では栃木を「小京都」ではなく「小江戸」としか認識しなかったことと似ている。
確かにこのまちを車で訪れたとき、東の丘の上から大きな盆地を眺めるにあたって、阿蘇のカルデラかという思いがよぎったが、盆地という意味では京都と共通している。市内の北川には服部川が流れ、西側を流れる木津川と合流して京都方面に流れるが、「服部」という地名は機織り、すなわち山城国に養蚕や機織りをもたらした秦氏を想起させる。
また秀吉から家康方についた藤堂高虎が町割りをした城下町は今なお碁盤の目状になっているし、ユネスコ無形文化遺産に登録されている10月下旬の上野天神祭りも北野天満宮とかかわりがあるだけでなく、だんじりも囃子も祇園祭の山鉾の影響を受けているようにしか思えない。
とはいえ京都の影響ばかりではなく、城郭の南西に寺町通りがあり、真言宗、日蓮宗、浄土宗など七か所の寺院が集まる。おそらく籠城の際の出城であろうが、角館や金沢の城下町を思い出した。
伊賀上野城
このまちの中心に位置するランドマーク、伊賀上野城を訪れた。1608年、大坂の豊臣氏をつぶそうとする家康が、豊臣勢の反撃に備えるため藤堂高虎にこの城郭を大改修せた。中でも見どころが、高さ30mの本丸高石垣である。一点豪華主義と言おうか、この高さに関してのみ、天下の大坂城と肩を並べうる。五層天守は完成間近に暴風雨で倒壊したままだったが、現在のものは1935年に地元の代議士が私財を投じて建てた三層の木造模擬天守である。
それにしても城内には天守よりも芭蕉関連、忍者関連のほうが主人公となっているのが実に興味深い。模擬とはいいながらここほど天守よりも他の要素のほうが二つも「主人」のお株を奪うような城は見たことがない。ここは「小京都」であるまえに、「城下町」であるまえに、まずは忍者、次に芭蕉のまちなのではないか。ふと思った。はたして全国京都会議に参加し、「小京都」としての自己を確立するほどの意味が、このまちにあるのだろうか。例えば観光地としての確固たる自己イメージが確立しきれていないように思える栃木市ならばカードの一つとして持つ必要があるのかもしれない。しかしこのまちにはなんといっても忍者があるではないか。また、栃木市と同じくこのまちも70年代にアンノン族の恩恵をほぼ受けなかった。あの時代の彼女らが求めたものは少なくとも忍者ではなかったろう。
「享楽的・消費的フェミニズム」とアンノン族の旅
それではあの時代の彼女らが歩き求めた「小京都」とはどのようなものだったのか。そしてなぜそれを求めたのか。さらにはなぜ十年もしないうちにそれを求めたくなったのだろうか。私はそれを「フェミニズム的視点」で見てみたいと思う。なぜならアンノン族というのは「享楽的・消費的フェミニズム」に見えてくるからだ。
上野千鶴子氏はフェミニズムを「①女性の自立的な運動で、②かつ女性の性別役割からの解放を求めるもの」と定義づけている。日本でウーマンリブが産声を上げたのは1970年のこと。学生運動で男子学生とともに活動する女子学生たちを中心にそれは生まれたと考えられる。彼女らにとって婦人参政権は生まれる前から獲得されていたが、「男は男らしく、女は女らしく」という規範は当時きわめて常識的なものであり、息苦しさを覚えていた者もいた。学生運動は非日常的な刺激を覚えたはずだが、そこでも性別役割はあり、女子学生は看護要員や炊事係としての役割が中心となった。
ちょうどそのような安保闘争とウーマンリブのさなかの1970年に雑誌「an-an」が、そして翌年は「non-no」も創刊した。学生運動が非日常ならば、ファッションもグルメも旅も非日常である。学生運動もピークを過ぎ、先行き不透明な時代になると、運動家たちからは「ノンポリ」として白眼視されそうなことに対しても挑戦する女性たちが現れきた。未婚女性同士の旅。それはかつてない革命的なことであった。しかもおいしく楽しく懐かしく、なによりも「女性だから」と同行男性のお世話係などしなくてよいというのが気軽でよかったのだろう。上野千鶴子氏のフェミニズムの定義をもじるなら、アンノン族の旅とは、①女性の自立的な旅行で、②かつ女性の性別役割からの解放を求める旅に他ならなかったのだ。
振り回される女性たちと「小京都」
一方で彼女らの訪問地に対する眼差しには厳しい見方もある。確かに一口に「アンノン族」とはいっても、non-noはより保守的、体制的で、ファッション中心になりがちなのに対し、an-anはよりカウンターカルチャー的、反体制的になる傾向があった。しかし両誌とも旅特集の常連は、欧州を思わせる高原(清里、信州、北海道等)や港町(横浜、神戸、函館、長崎等)、そして今回のテーマとなる「小京都」たちであった。
しかし「小京都」からすると、彼女らをなし崩し的に受け入れると、各地の伝統文化の商品化が激しくなることで本来の形を変えざるを得なくなる。それが例えば「鯉のまち」津和野での鯉料理である。一方で彼女らの趣味に合わない、言い換えれば商品化できないものや場所は排除される。その例が忍者イメージの強い伊賀であり、北関東の田舎イメージ以上のものがない栃木市である。要はお金を回すことができるほうが勝ち組という資本主義経済に、彼女らも受け入れ先も振り回されているだけなのではないかという批判があるのだ。
また、本家本元ではなく京都ではなく「小」京都のイメージには「疑似ふるさと」を求める思いがあることだろうが、当時の20代女性にとっての現実の「ふるさと」は、彼女らに「結婚はまだか」、結婚したら「子どもはまだか」、「二人目はまだか」と問い続けてくる気が滅入る存在だったろう。しかし「小京都」では実害のないふるさとのいいところだけかすめ取ることができる。そしてなによりも現実のふるさとではやりにくいファッションに身を包み、女だけの消費活動ができるのだ。いわば、「小京都」というのは都会のおしゃれな自分を受け入れるべき舞台装置のようになってしまいつつある。そうなると都市と地方との対等な関係が崩れてしまうのだ。
しかも多くの「小京都」たちは当時すでに過去の栄光と「今」の没落の狭間でもがいていた。県庁所在地の座を奪われた栃木市、忍者の里の時代はとうに過ぎ去り、一人も忍者のいない伊賀もその一つである。そうした地方の「敗者復活戦」を戦ったのが、戦火をくぐり抜けて今なお町並みを残す萩や津和野、高山や金沢などであり、それらにかぶせられた呼称が「小京都」だったのだ。
「大正男」×「戦後女」=「小京都」?
このポスト団塊世代、すなわち1950年代生まれの女性たちがアンノン族になり、小京都を巡るのに併せてこの国の旅行形態に大きな変化が現れたのは再三述べてきた。それを裏で支えた、いや、厳密にいえば支えざるを得なかった旧国鉄(以下「国鉄」)の置かれた状況も考えなければ「小京都ブーム」のなんたるかがぼやけてしまうだろう。本文で取り扱ってきた「小京都」たちは、みな現在JR赤字路線を走る車社会である。70年代からこの傾向は変わっていない。
70年の大阪万博中に国鉄はモータリゼーションとジャンボジェット・ボーイング747の出現で特に地方における旅客輸送が激減したことに対する対策として、運転免許を持たないか、持っていてもペーパードライバーが多かった都市部の女性を対象に国内旅行にいざなったのである。国鉄の目的は赤字路線の利用者を増やすことにあったのだから、行き先の多くに「小京都」というイメージをかぶせることで、戦災にも遭うことなく、自分たちが生まれるずっと前から変わらない素朴な「ふるさと」を訪れさせることで、まるで帰省するかのような感覚で都会と地方を列車で往復させたのだ。都会のサラリーマンにとって国鉄というと「押し屋」とストと値上げのマイナスイメージであった当時が、それを非日常の旅へいざなうことでイメージチェンジを図ったというのもあろう。
そのキャッチコピー「DISCOVER JAPAN」は、国鉄ではなく当時のある電通マンから提示された「DISCOVER MYSELF」、すなわち「自分探しの旅」からきている。大正生まれの国鉄マン、電通マンたちと、戦後生まれのアンノン族。都会にいては互いに交わりあうことのなさそうな両者が、「同床異夢」であろうと目指したのが小京都だったのだ。
「DISCOVER JAPAN」とアンノン族の終焉
私は七十年代に奥出雲のローカル線でみた都会的なDISCOVER JAPANのポスターを覚えている。改めて見てみると、「陰と陽」の対称が明かである。例えば古民家風のあめ屋の前で当時流行のホットパンツやロングブーツの若いハーフのモデル女性がビニール傘をさしてまなざす相手は和傘を指した着物姿の老婦人である。隣には「美しい日本と私」とある。川端康成が70年にノーベル文学賞を取った時のスピーチ「美しい日本の私」をもじったものだが、ここでいう「美しい日本」と「私」の「私」はモデル女性、それに対して「美しい日本」は彼女らに「発見された」地方の年配婦人であろう。そして先鋭化して「ブスのヒステリー」と揶揄されたウーマンリブにも、暴力化した学生運動にも魅力を失った彼女らが求めたのが、DISCOVER JAPANの掛け声のもと、an-anやnon-noを小脇にかかえて小京都を歩くことだったのだ。
私はそのころ生まれ育ったが、子どものころからそのまなざしが居心地が悪かった。私はこの都会のお姉さんたちに「発見される」対象だということに、都市と「小京都」の関係が一方的であることに、うっすら気づいていたのだろう。
その後、76年末にDJキャンペーンは終了し、翌77年1月からは「一枚のキップから」というキャンペーンに継続されたが不発で、結局78年11月に山口百恵が「いい日旅立ち」を発表すると、 「DISCOVER JAPAN 2」のロゴとともにDJキャンペーンが再開したかに見えた。しかしアンノン族が小京都をこぞって目指す時代は徐々に幕を引き始め、あとは残り火のような状態になった。結局84年に「EXOTIC JAPAN」キャンペーンが始まると「アンノン族」は完全な死語となったが、私が初めて小京都の萩・津和野を訪れたのはその翌年だったのだ。 日本の「地方」は都会人にとって「エキゾチック」、つまり外国扱いするようになった翌85年、プラザ合意に基づいて急速な円高が若者たちを海外旅行に駆り立てることが、「小京都巡り」にとどめを刺した。
インバウンド時代の「小京都」
その後、平成の三十年を過ぎて令和になると、日本中の観光地が「インバウンド対応」に振り回されていた。本文でいうと金沢や高山など、2008年時点で「小京都卒業」を宣言した「元小京都」や、そもそも小京都であることよりも「ニンジャ・ツーリズム」を展開してきた伊賀などには訪日客が増えたが、萩や津和野、角館といった「老舗小京都」は停滞している。ただここで危惧されるべきは、むしろ前者ではなかろうか。戦略的に小京都から脱皮するというしたたかさには脱帽だが、それによってまちの人々が大切にしてきたものでも訪日客のお眼鏡にかなわないならば過小評価されたり忘れ去られはしないか、ひどい場合には訪日客向けに地元の文化を捏造してまでエンターテインメント化し、商業主義に走った結果、リピーターの顰蹙を買ってしまうというしっぺ返しがないか、という点である。
例えば伊賀上野で忍者ショーを行うのはいかがなものか。忍者は黒づくめの「あの格好」で人前に出ることはまずない。ニンジャ体験といえば手っ取り早く忍者服(しかも女性はピンク!)を着用し、手裏剣投げなどという子どもだましでいいのか。あるいは各地で安っぽい桜柄の浴衣を衣服の上に羽織って和傘風の傘を手に街を歩きながら抹茶アイスを食べたり、和室に椅子で薄茶をいただいたりなど、安直な「和風サービス」を提供するのはいかがなものか。自ら「文化の盗用」を推進しているように思えてならない。
栃木と伊賀上野を比較すると、少なくとも訪日客数はだんぜん栃木よりも伊賀上野のほうが多いだけ、あきらかにそうした危機の真っただ中にあるのは伊賀上野のほうに思える。そこでここは栃木市のほうに軍配をあげたい。
海外進出した「小京都」
もう一つ、別の視点がある。中国・大連には2021年に京都・清水坂当たりの街並みを模した商業地区「盛唐小京都商業街」がオープンしたが、反日感情などの政治的な理由でわずか一週間で営業停止となり、その後は地名を取り「金石万巷」と改名することもあったが、「和風」であることを否定し、「わが国盛唐時代のもの」と言い張らねば営業できないのが痛々しい。とはいえ、外国ではある時いきなり「小京都」ができることもあるのだ。ただ、京都は西を長安、東を洛陽の「うつし」であることを鑑みると、それのさらに「うつし」がこの街だということになる。あっちに貼ったものをこっちに貼りなおすようで、忙しいことだが、日本風のまちをつくるのに「小京都」と冠するセンスが興味深い。
思うに「小京都」とは特定の場所というよりも社会現象だった。私は通訳案内士の端くれとして、訪日客と日本文化、日本社会の接点にあると自覚している。この「小京都」の旅を通して、訪日客が求めるものと、高齢化や過疎化にあえぐ各地との最適な関係がどのようなものであるべきか、今後も考えつつ旅をしていきたい。(完)
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