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出雲から新大久保まで―生涯の旅人「ヘルンさん」からの宿題

「ヘルンさん」の松江
「ヘルンさん」という言葉を初めて聞いたのは子どものころだった。これがだれのことだが分かる方は、歴史ファンか文学通か、でなければ出雲人かもしれない。「ヘルンさん」というのはラフカディオ・ハーンこと小泉八雲のことで、“Hearn”がなまってこう呼ばれている。明治期に松江に滞在し、松江・出雲を通して日本を世界に英語で紹介したヘルンさん。彼の名は出雲人なら私の父のような生涯の読書経験ゼロ冊という人でも知っている。
小学校低学年のころ、島根県の県庁所在地、松江に連れて行ってもらった。松江市の南西の現雲南市で生まれ育ち、週末はしばしば松江市の東隣り、安来市にある父の実家で過ごしていた私にとって、松江市はデパートのある「世界一」の大都会を意味した。そして最上階でお子様ランチを食べたり、屋上の遊具で遊んだりするのが何よりもの楽しみだった。このような大衆消費社会は東京では大正時代に始まっていたらしいが、山陰ではその半世紀後でも健在だったのだ。
そんなあるとき、父が私を「ヘルンさんのとこんつぇてっちゃーわ(ヘルンさんの所に連れて行ってやるわ)」と言って、松江の古ぼけた洋館に連れて行ってくれた。父はヘルンさんが「昔松江に来た有名なグヮイヅン(外人)」ということ以外、知らなかったようだ。
1934年に建てられたその洋館に展示されていたもので唯一覚えているのは、ヘルンさんの使っていた机と椅子がとても高いことだけだった。その時父は「グヮイヅンさんは背が高いけん、机も椅子も高い。」と、説明(?)してくれたが、後にヘルンさんは160㎝ほどしかなく、左目を失明したために視力が悪く、椅子を高くして本を読みやすくしたと知ったのは、中学二年生に洋風から和風に装いも新たになった小泉八雲記念館を再訪したときのことだった。
「小泉八雲」という標準語名や、“Lafcadio Hearn”などというグローバルな呼び名ではなく、小文では「出雲弁の頻出語彙」といえるほど親しんできた「ヘルンさん」という呼称で彼の名を称し、彼のたどってきた出雲と日本を歩いてみたい。

ヘルンさんはなに人なのか?
日本史の教科書にある「お雇い外国人」の項目の「ラフカディオ・ハーン」は、英国出身ということになっている。しかし彼の父親はアイルランド人であり、19世紀のアイルランドは英領だったため、英国籍を有していた英国軍医だったというのが正確だ。さらに彼の母親はギリシャ人であり、彼自身英国保護領であったギリシャのレフカダ島で1850年に生まれた。
まず、この時点で彼の民族的アイデンティティにはギリシャ、アイルランドという二つ、そして国籍は英国、つまり三つの国が存在する。さらに2歳の時に母親とともに父の故郷のアイルランド・ダブリンに移住するが、4歳の時に精神を病んだ母は母国ギリシャに帰国したため、小さなヘルン君は父方の実家にて育てられた。
これを近代の日本に当てはめれば、1930年代に朝鮮人(日本籍)の父親と満州族の母の間で「満洲國」に生まれた少年が、父親のふるさとの朝鮮に預けられて大きくなったとしたら、彼がたとえ日本国籍を有していたとしても、「なに人」なのかは言い難いようなものだ。

松江を走るニューオーリンズのバス
しっとりと落ち着いた松江の町でひときわ目立つものの一つが主に観光ルートを循環する緑色と赤色の原色のバス「ぐるっと松江レイクライン」である。これはニューオーリンズをイメージしたバスだというが、なぜ松江でニューオーリンズのバスなのだろう。
ヘルンさんは19歳で米国に渡り、シンシナティやニューオーリンズなどでジャーナリストとして頭角をあらわし文筆家としての名声を高めた。そして1884年、ニューオーリンズで行われた万博で日本のパビリオンを見て感銘を受け、また英国人チェンバレンの翻訳による「古事記」を読んでまだ見ぬ国、日本への想いを募らせた。
その後、特派員としてカリブ海の仏領西インド諸島マルティニークに滞在し、原住民やクレオールに関する数々の文を発表した後、日本行きを決意するが、ギリシャ→アイルランド→アメリカ→マルティニークと流れてきたヘルンさんを日本の松江につなげた場所が、ニューオーリンズだったのだ。そこで松江市は1994年、つまりヘルンさんが松江に来てから100年目にニューオーリンズ市と交流をはじめ、1994年には姉妹都市として提携した。松江の町をニューオーリンズのバスが走るのは、このような縁からである。

ギリシャとアイルランドとクレオールと出雲を結ぶもの
彼の生い立ちを見てみると、その時その時の状況に流されて大西洋と太平洋を渡ってきたかのように思えるが、実はそこに三つのキー・コンセプトがある。それは「多神教と文化の融合と水」である。
現在のギリシャはギリシャ正教中心とはいえ、かつては西洋文明の根幹をなすギリシャ文明をはぐくんだ地であり、そしてそれは唯一絶対神を認めない、人間臭い神々が住まう風土であった。二歳でこの国を離れ、四歳でこの国の母とも別れたヘルン君は地中海の明るい光とイオニア海の青さに包まれた故国を生涯忘れず、アメリカ時代には出身地をギリシャと言っていたほど、ギリシャを想っていた。
一方、彼が少年時代を過ごしたアイルランドは、カトリックの国である。ギリシャとは打って変わってどんよりと暗く、冬は寒く雲の垂れこめるアイルランドで言葉も通じなかったため、精神を病んでしまった母を失っただけでなく、一神教のカトリック教育を押し付けられたヘルン少年だったが、この国も一枚皮をむけば妖怪や精霊が多く住むケルト系の世界だった。この国から世界に広まった行事が、死者のよみがえりをテーマとしたハロウィンであったことが、アイルランドの多神教性を表している。
ちなみに隠岐島の西ノ島町には世界ジオパークにして大山隠岐国立公園の絶景としても名高い国賀海岸がある。二百メートル以上の断崖絶壁から見る海岸線は、アイルランドを思わせる。特に雲のたちこめる日に写真を撮って、「アイルランドに来た」とSNSに投稿しても信じる人が少なくないだろう。菱浦港付近には、ヘルンさんとセツさんが1892年に滞在したことを記念して二人が仲睦まじくベンチに座っている銅像がある。きっとヘルンさんも青少年時代を過ごしたアイルランドを、この島で思ったに違いない。

カリブのヘルンさん
さらに渡米後滞在したカリブ海に面したニューオーリンズや仏領マルティニークは、原住民の他にフランス系、奴隷として連れてこられたアフリカ系、その混血児であるクレオール、などが混在する人種のるつぼだったが、特に原住民やアフリカ系のもたらす神秘的な文化に心惹かれ、当時の欧米人にしては珍しく、興味本位からではなく彼らの中に入って同じ目線で土着文化を紹介した。ギリシャ人とアイルランド人の混血で英国籍を持つ彼からして、文化がまじりあったところこそ自らの居場所として最適だったのだろう。
彼が米国で「古事記」を目にしたときの興奮は想像しやすい。昼にはギリシャのように八百万の神々がいて、夜はアイルランドのように妖怪が跋扈し、外来宗教の仏教と民族固有の古神道がカリブのクレオールのように融合した東洋の土地だと思ったのだろう。

国際都市横浜から中国山地を越えて山陰へ
ヘルンさんが太平洋を渡って横浜港に到着したのは1890年4月3日、桜の咲くころだった。彼は桜と富士山の美をたたえ、横浜や鎌倉の神社仏閣を人力車に乗って巡り、日本上陸の第一歩を「知られぬ日本の面影」に著した。憧れの国が期待通りだったことへの興奮した息遣いまで聞こえてくるような文章である。
その後、ニューオーリンズ万博で知り合った役人や「古事記」を英訳したチェンバレンの尽力もあり、島根県松江市の中学校・師範学校に英語教師として赴任することになった。1890年当時、山陰本線はおろか、山陽鉄道(現山陽本線)さえ神戸から姫路、竜野あたりまでしか開通していない。そこからヘルンさんは通訳ガイドのアキラ氏と人力車で中国山地を越えるのだが、山陽から山陰に来ると、都会人のアキラ氏は方言が聞き取れなくなった。彼にとっては英語よりも鳥取の方言のほうが難しかったようだ。
ちょうど八月半ばだったため、鳥取県で宿泊したある村では盆踊りを行っていた。死者の霊を迎えるために踊る素朴な人々を見ながら、彼の脳裏に浮かんだのは少年時代を過ごしたアイルランドのハロウィンであり、ニューオーリンズのアフリカ系住民のヴ―ドゥ教などだったのかもしれない。それにしてもその描写の幻想的なこと、開港して文明開化の香りも高い横浜などとは大違いである。ヘルンさんは中途半端に洋風化し賢くなった日本人よりも、伝統や自然とともに生きる昔ながらの素朴な日本人を愛した。ここに来てようやく、ヘルンさんは長い間夢にまで見てきた本物の「古事記」の空気に包まれたのだ。

松江到着―ヘルンさんの耳と生徒たち
松江に到着したヘルンさんと通訳ガイドのアキラ氏は県庁や赴任先で挨拶や手続きを終えた。この古い城下町は、西側に宍道湖、そしてそこから東に大橋川が流れ、堀川の水が巡る、まさに水の都でもある。
宿はしばらくのあいだ大橋川沿いの富田旅館に滞在していた。跡地には大橋館という旅館があり、記念碑が建てられているが、彼が投宿していた日々は、朝もやの中、下駄の響きや臼で米をつく音から一日が始まった。ここで注目すべきは、彼の耳のよさである。文字化された描写を読むだけで、明治時代の松江の朝のひと時が聞こえてくるようだ。左目を失明していることもあって、視力より聴力のほうが発達していたに違いない。
彼の松江での本業である、中学校や師範学校での英語教育は、今でいうALTとは根本的に異なる。まず彼はティーム・ティーチングではなく、彼を中心にして授業を行っていたのだ。次に、「中学生」とはいっても、今の十代前半の子どもではなく、例えるなら県内一の進学校と、島根大学教育学部で教えていたようなものだ。
授業内容は会話中心というよりも、生徒たちに日本の文化や社会について考察させ、英語で書かせることに重点を置いた。そのテーマは「神道」「松江城」「宍道湖」など、いうならば通訳案内士養成講座のようなものだ。
ヘルンさんは生徒たちの英作文を通して日本に対する理解を深めていく。他の多くの外国人教師たちが、紋切り型の答えしかしない日本人を「没個性的」と斬り捨てるが、彼はそのような松江の生徒たちの中にも個性を見出した。彼は耳だけでなく、目立たない中にも生じる違いを識別することに長けていたのだ。
今の英語教育では「四技能」だ、「国際理解」だ、「グローバル人材」だ、「個性重視」だと喧(かまびす)しいが、ヘルンさんが自らの英語教育の先に見たかったのは、英語は多少話せるが自らのルーツに関心を持たない軽佻浮薄な似非近代人ではない。引っ込み思案でも口下手でもいい、進んで見える西洋の文明などに惑わされず、自分の根っこを大切にする、「日本らしい」若人だったのだ。

松江城から塩見縄手へ―ヘルンさんの愛した城下町
観光地としての松江のシンボルといえば宍道湖に沈む夕陽、そして城下町を縦横に走る堀川と大橋川にかかる橋、そして黒塗りの松江城天守だろう。
水の都、松江を列車で訪れた人は、松江駅方面から大橋川を北にわたり、しばらく歩くと堀の向こうに天守が現れることだろう。そして島根県庁の脇から二の丸、本丸へと歩き、武骨な天守の内部に入る。薄暗い天守内部の黒光りした急な階段を上ると、最上階から宍道湖が一望できる。天守を下り、さらに北に進み、城山稲荷の先が堀である。そしてその堀川沿いにあるのが、ヘルンさんが一年余り滞在した屋敷であり、隣接地が小泉八雲記念館や武家屋敷などが並ぶ塩見縄手地区だ。
ここの屋敷から中学校・師範学校に通ったヘルンさんだが、身の回りのお手伝いに来ていた旧松江藩士の娘、小泉節子(セツさん)と結ばれる。この二人の結びつきはまさに「出雲の神々」が縁結びをしたとしか思えないような出会いだった。セツさんは近代的な教育を受けていたわけではなく、英語が話せたわけではもちろんない。しかし八雲が最も求めていたことに長けていた。それは包み込むような優しさと、神々や妖怪に関する話が得意だったことだ。
ヘルンさんは毎日のようにセツさんに不思議な話や妖怪話をせがんだ。神々の国、出雲で生まれ育ったセツさんにとってはなんでもないことだったろう。しかしそのうちネタがつき、書物を読むようになるとヘルンさんに「自分の言葉でないとだめ」と駄々をこねられる。後に「怪談」としてまとめられるヘルンさんの代表作は、セツさんがまるで「大きな子ども」のようにお話をねだる夫に繰り返し語って聞かせ、それを自分なりに消化した結果生まれたものだ。それは「内助の功」というより、むしろ「二人三脚」に近い。
そもそも「怪談」の英語表記は “Kwaidan”である。出雲弁では「階段」は「かいだん」だが、「怪談」は「くゎいだん」と発音する。セツさんが夫に語った話は、明治時代の出雲弁だったのだ。セツさんとヘルンさんの関係は、言うならば「遠野物語」を遠野の佐々木喜善が語り、それを柳田國男がまとめたのに似ている。民俗学で大切になるのが、地元のことを話してくれるインフォーマントの存在であるが、セツさんはヘルンさんにとって良妻賢母であり、よきインフォーマントでもあったのだ。

ヘルンさんと宍道湖の落日
松江で最もヘルンさんが心惹かれたものの一つは落日の光景だった。彼はその落日をカリブ海に沈む太陽と比較してみたりもするのだが、やはり独自の美しさをたたえていることに気づく。宍道湖大橋を南に下ると、島根県立美術館があるが、ここではその閉館時間に注目したい。春夏秋は日没の30分後となっており、ヘルンさんも愛したこの日没をも作品の一つとして見ていることが分かる。特に夕方には内外からカメラマンが集まり、落日の瞬間だけでなく、日が落ちてからの余韻を撮影しようとしている。
美術館のウォーターフロントに沿って歩くと、二体の背の高いお地蔵様が立っている。その岸辺から200mほど向こうに小島が浮いている。ヘルンさんの愛したこの嫁ヶ島は松の木で覆われている。これは満洲事変の後に不拡大方針を打ち立てながらも軍部の暴走を止められなかった総理大臣、若槻礼次郎が、1935年に松江に戻った際、植えたものという。
私が見た宍道湖の落日のなかで、最も美しかったのは、この嫁ヶ島の北岸にある松江しんじ湖温泉の旅館からみたものだ。「出雲」という名の通り、雲が深くたれこめた夕方、遠く出雲空港のほうに陽が沈んでいくのが見えた。その刻一刻と表情を変えていく宍道湖を見るとこみ上げてくるのは、ヘルンさんのことではなく、出雲の栄枯盛衰の悲哀だった。
神代から燦然と輝く古代出雲の歴史も、大和政権に「国譲り」という形で負けてからは、日本史の教科書では一地方として極めて小さくしか取り上げられず、戦国時代には尼子氏が山陰・山陽の太守として中国地方全体を支配したと思えば安芸の毛利氏に敗北し、江戸時代には名君として名高い松平不昧公が茶の湯の文化を広めるほどの文化大国だった松江藩だが、幕末には西園寺公望をリーダーとして進駐してきた山陰道鎮撫使に平身低頭して降伏。昭和になってようやく総理大臣を出したと思ったら軍部に押し切られてしまう。出雲の歴史は繁栄したと思ったら引きずり落とされることの繰り返しだ。
さらにいうなら出雲出身の有名人のなかには本当に出雲出身かどうか不明なものが多い。平安時代の菅原道真、鎌倉時代の武蔵坊弁慶、江戸時代の出雲阿国などがその代表例だ。自分たちが思っているほど、出雲というのは偉大でもないのかもしれない。しかしそんな自分たちを優しく受け止めてくれるのが、あの宍道湖の向こうに沈んだ後も、所々青紫色のグラデーションをたたえながらも赤く空を染めていく太陽だった。

出雲人のソウルフードとヘルンさん
出雲人にとって宍道湖と言えば、夕日もよいがソウルフードともいえるシジミである。「花より団子」、「夕陽よりシジミ」なのだ。年によって多少異なるとはいえ、島根県はシジミの漁獲高が一番であることが多い。島根が一位でないときは、おそらく津軽半島十三湖を有する青森県であろう。その次には今住んでいる茨城県だが、茨城県民にとってシジミが納豆やレンコンやアンコウやメロンと並ぶほどの「県民食」かというと微妙だ。ホタテのような派手さもなく、カキのような肉質ももたないシジミに郷愁を感じ、アイデンティティの一部にまでしてしまうのは山陰、特に出雲人だけの特徴だろう。しかしヘルンさんはこの湖の幸、シジミについてはうるさくない。
もう一つ、出雲人のソウルフードというと、割子そばがある。つるりとのど越しのよい信州戸隠の白い蕎麦とは異なり、蕎麦の殻ごと石臼で挽くため灰色と茶色を混ぜたような色をしている。それは岩手のわんこそばのような観光化されたものではなく、日常的に食するだけでなく、コース料理の最後には必ず割子(レンガ色の丸い深皿)に入れられて出てくるものに、「くい汁」と呼ばれるそばつゆを上にかけていただく、出雲の山の幸である。
ソウルフードその3を挙げるなら、日本海の荒波に鍛えられたアゴ(トビウオ)のすり身を、直径5㎝ほどの大きなちくわにして焼いた「野焼き」も出雲の海の幸として捨てがたい。しかしこれらのいずれも、四十代になってから出雲に来たヘルンさんはそれほど口にあわなかったのか、これら「海の幸」「山の幸」「湖の幸」を熱心に語るということはしていないようだ。
実は彼も「日本通」を目指して和食だけの生活を送ろうとしたが、時に牛肉やワインなど、洋食をとらなければならなくなったことを恥ずかしげに在日外国人たちに語ったりしている。心では思っても、幼いころからの味覚はそう簡単には変わらなかったのだろう。

ヘルンさんの心に響かなかった松江城天守
松江のシンボルとして宍道湖の落日に並ぶ松江城天守だが、ヘルンさんの心にはそれほど響かなかったようだ。高さ30mほどのこの天守はヘルンさんの時代はもちろんのこと、昭和になるまで松江随一の高さを誇る、この水郷のランドマークだった。ただ白鷺城が山陽の明るい空に舞うようなイメージだとすると、この「千鳥城」は今にも雨が降りそうな灰色の山陰の空のもと、ずんぐりむっくりの体躯に真っ黒な鎧を着こんだかのような武骨な感じを与える。
「べんとわっしぇても傘わっしぇーな(弁当忘れても傘忘れるな)」という言葉は山陰では常識というくらい、山陰は年中雨にたたられる。実際の降水量は東京の1割増し程度だが、降らなくとも曇天模様が続く日が多いのだ。雨の中の松江城は、笠も蓑もつけずに立ち尽くす落ち武者を思わせるほどの寂寥感がある。ギリシャの明るい海を愛するヘルンさんにとって、山陰の「陰翳」をさらに濃厚にするかのような漆黒の重々しい天守は、おさえつけられるかのようなダブリンの曇り空を想起したのかもしれない。
冬になるとみぞれのような雪が積もり、数年おきに大寒波がやってくる。ヘルンさんが心から愛したこの町を、一年あまりで去り、熊本に向かったのも、報酬が二倍になることだけでなく冬の寒さのためだったともいわれる。

ヘルンさんより「女子旅」の玉造温泉
松江で温泉というと、「出雲國風土記」にも「枕草子」にも名湯として出てくる玉造温泉である。ただ、ここもヘルンさん自身はそれほどピンとこなかったようだ。訪日客にはよくあることだが、日本の温泉の湯は熱すぎたのかもしれない。
私の青少年時代、つまり昭和の頃は出雲大社に参る全国の善男善女の泊まる「松江の奥座敷」として、高齢者が多いイメージの温泉地だったが、平成の前半、すなわちバブル崩壊後は振るわなくなった。その知名度に比べてお湯の泉質は正直なところ微妙で、源泉かけ流しの湯にこだわると宿泊できる旅館は一カ所しかないこともあり、温泉ファンたちの足が遠のいたのも一因かもしれない。
その転換期は2013年に同時開催された伊勢神宮と出雲大社の式年遷宮である。皇室の祖霊である天照大神を祭る伊勢神宮は二十年に一度、それよりもさらに古い歴史をもち、「縁結びの神」として知られる出雲大社は約六十年に一度、式年遷宮をすることになっているが、同年にこの二か所で行われるのは史上初という。その数年前からこの温泉地を含む島根県は戦略的に顧客層のターゲットを高齢者から独身女性に変えていった。いわゆる「女子旅」の推進である。
2010年には出雲空港の愛称が「出雲縁結び空港」になり、また東京-出雲市駅間を毎晩往復する「庶民の足」として日本唯一の寝台車「サンライズ出雲」は、「縁結び」目的の女性でにぎわった。ヘルンさんの愛した松江市郊外の八重垣神社は、スサノオとクシナダ姫が結ばれた土地とされ、昔から「恋みくじ」が人気であった。これはおみくじを買い、神社奥の神聖な鏡の池に浮かべ、その上に硬貨を乗せ、早く沈めば良縁が近く、遅く沈めば遠のくというものだ。これはセツさんも若いころやったという。そこが2010年代には日本中の女性が競って恋みくじに一喜一憂するようになった。さらに島根県は福井県、徳島県、高知県などと訪日宿泊者数最下位を争うにもかかわらず、訪日客の女性たちだけは多く訪れるようになった。
女子旅路線への切り替えの成功例といえよう。「松江の奥座敷」として山陰の観光を牽引する立場の玉造温泉も、「縁結び」×「女子旅」をコンセプトに大変貌を遂げたのだ。

ヘルンさん、出雲大社をゆく
「知られぬ日本の面影」の中でもハイライトと言えるのが、外国人として初めて「杵築大社」を正式参拝したくだりだ。「杵築」というと、大正生まれの祖父がかつて出雲大社のことを「きづきさん」と呼んでいたことを思い出す。ヘルンさんの時代には普通に「杵築大社」と呼んでいたのだろう。ちなみに私の場合はこれまで「大社さん」と呼んできたので、以下、小文でも「大社さん」と呼ぶことにしよう。
松江方面から大社さんに向かうには、国道9号線で出雲市まで行き、出雲平野の築地松(つーづまつ)を横目に北西の方向を目指す。築地松とは冬のシベリア高気圧による北風から屋敷を守るため、敷地の北と西に植えた、屏風のように家屋を囲う屋敷森である。それはプールを立てかけたような長方形をしている。さらに山陰特有の石州瓦の明るい赤茶色がこの緑の松に映えて美しい。出雲空港に降り立ち、外に出た瞬間から、「お帰りなさい」といわんばかりにこの築地松が迎えてくれるのは、至福の喜びだ。
9号線を西に向かう車は、私の中学時代の1985年に358本の銅剣が姿を現した荒神谷遺跡のそばを通る。さらに古代出雲文明の源泉、斐伊川を越えて北上すると、白くて巨大な丸い物体が現れる。出雲ドームである。日本一大きな木造建築として1992年に完成したが、その高さは千年前の大社さんの本殿の高さと同じ48mだ。それ以上高くすると不敬であるという理由でこの高さになったのだという。さらに進むと高さ23mの白い大鳥居が見える。これも江戸時代に建てられた現在の高さ24mの本殿を越えないようにとの配慮だ。出雲人は時に大社さんに遠慮しながら生きてきたのだ。そのうち車は大社さんの駐車場に着く。

正式参拝の描写力と通訳ガイドのアキラ氏
「知られぬ日本の面影」の特徴として、その臨場感が挙げられる。まるで欧米にいる読者が、海を隔てた遠く見知らぬ出雲にいるかのように感じさせるほどの描写力には脱帽である。単なる静けさや厳かさだけでなく、玉砂利を歩く音、狩衣(かりぎぬ)の衣擦(きぬず)れや御幣(ごへい)の和紙がすれる音まで聞こえてくる。
子供のころから何度も大社さんにはお参りしたが、実は一度も本殿での正式参拝をしたことがない。本殿の敷地に足を踏み入れるのが畏れ多いからかもしれない。「出雲族の子孫」の私にさえ違和感を抱かせない臨場感の描写。この文章は本物である。
ところで、「知られぬ日本の面影」の出雲大社正式参拝のくだりで特に気になるのが、やはり通訳ガイドのアキラ氏の動きだ。おそらく出雲弁で行われていた神道、しかも明治時代の「正統」とされる国家神道ではなく、敗者としての立場から語られる神道に関する話を、英語が流ちょうな都会の青年、アキラ氏が通訳するのだ。「通訳案内士」などという職業がなかった時代ではあるが、出雲での旅の仕事を通してそれまでの自分が当然だと思ってきた「国史」が、「国語」が、そして「日本文化」が、明治政府に「つじつま合わせ」で作られた皇国史観に偏っていたか気づいたのだろう。そうでなければ彼の通訳を聞いたヘルンさんが出雲を神道の、そして日本の源流としてその独自性と普遍性をあのように描き切ることはできなかったに違いない。

美保関の恵比須様と中海
「片参り」という言葉がある。これは有名な神社にはそれとペアになる神社がもう一社あるはずだが、有名なほうだけ参ってもう片方を無視すれば、ご利益がないという伝承を指す。例えば伊勢神宮にとっての朝熊(あさま)岳金剛證寺がその例である。そして大社さんにとってそれに当たるのが、島根半島の東の隅にまします松江市美保神社だが、現在、大社さんを参拝する人の多くが美保神社までは参らず、片参りをしていることだろう。
美保神社の祭神は出雲大社の大国主命の長男、事代主命(ことしろぬしのみこと)である。七福神の中でも恵比須様と大黒様をとりたてて「恵比須大黒」と呼び、この二人だけを「デュオ」の縁起物とすることもよくあるが、大黒様は大国主命、恵比須様は事代主命のこととされる。おそらく当時の出雲で片参りはいけないというのが「常識」だったのだろう、ヘルンさんも大社さんに詣でた後、美保神社にも詣でている。
現在、松江から美保神社まで行こうと思えば、中海沿いを乗用車でいけるが、当時は大橋川を東に下った先の中海の水面は船が縦横に滑っていた。その中継地点が私の育った安来である。ヘルンさんはここに関する出雲神話を紹介している。
事代主命がこの湖を渡って女に逢おうと、毎晩中海の北西に位置する美保関から南岸の安来まで船をこいでやってきた。ある朝、夜明けを告げる鶏が早く鳴いたため、あわてて美保関に帰ろうと船に乗ったところ、手が滑って櫂を流された。そこで手でこいでいたらサメに手を食われてしまったため、美保関の人は鶏肉も卵もたべない、というものだ。
実は事代主命が来たのは安来ではなく、隣町の松江市揖屋(いや)であるが、彼が美保関に、そして安来に対して関心を持ったのは神話であり、民俗学であることがよくわかる。

日本の「ルーツ・ミュージック」、安来節
ここで私が解せないのは、盆踊りの物悲しい曲や松江の朝の米をつく音など、耳によって日本を理解し、それを文章化してきたヘルンさんが、安来や美保関において当時大流行しつつあった「安来節」や、そのルーツである「さんこ節」についてほとんど言及していないことだ。「ドジョウ掬い」で昭和の頃に全国的に知られた安来節は、唄や三味線、鼓、踊りからなるが、そのうち唄や踊りは安来の子どもたちなら保育園から高校まで練習させられる。
お百姓さんが田の中のドジョウをとるしぐさを面白おかしくまねたパントマイムの「ドジョウ掬い」はひょうきんな宴会芸として昭和の頃には全国的に広がったが、地元安来では歌舞伎や人形浄瑠璃なみの伝統芸能扱いであり、「日本一の庭園」で知られる足立美術館に隣接する安来節演芸館という立派なホールで常時定期公演が見られる。
ヘルンさんが米国で滞在していたニューオーリンズは黒人のワークソングや卑猥な唄の結晶、ジャズ発祥の地だった。彼がそこにいた1880年代はニューオーリンズ・ジャズの胎動期だったはずだ。それが全米で認められ、R&B経由でロックンロールとなっていった。虐げられた民衆のこころを歌うブルースはまさに「アメリカの心」となって世界に羽ばたいた。そしてヘルンさんもあの敏感な耳で「アメリカの心」の原点としての黒人霊歌を確かに聞いていたはずだ。アメリカの「ルーツ・ミュージック」の源流の一つがニューオーリンズであることは言うまでもない。
一方でヘルンさんが安来に立ち寄ったころも、安来節の胎動期だった。そのルーツは、江戸時代にさかのぼる。当時出雲の鋼を安来港経由で全国に運んだことから、安来は北前船の寄港地として繁栄した。その際、物資とともにこの町に伝えられた各地の唄がそのルーツだ。「鋼の港町」「安来千軒」として栄えたこの町では料亭が軒を連ね、そこで海の男たちを相手に労働歌や卑猥な歌が唄われていたが、それらが洗練されて安来節となったという。
大正時代にレコードに録音されて全国的にその名を知られ、浅草の木馬亭や大阪でも専門劇場ができ、そこに集まった各地の農村出身者は故郷に残した家族を想いつつ笑い、涙を流した。その意味で、安来節は「日本のルーツ・ミュージック」だったのだ。当時の面影は建造物が登録有形文化財に指定された9号線沿いの料亭、山常楼に見られる。
カリブ海では黒人音楽を愛し、さらに松江に一年以上滞在していたヘルンさんが、日本の農民の心のつまったこの唄や踊りについて情熱的に言及しなかったのが不思議でならない。

西南戦争の激戦地、熊本城
1891年、松江を離れたヘルンさんは、熊本に向かった。そこで三年間、第五高等中学校で教員生活を送るのだが、松江時代の一年数か月に比べると、熊本時代は幸せとは言えなかった。足掛け14年間の日本滞在で、はじめの一年あまりの松江時代はいわば「恋は盲目」といおうか、日本のすべてがよく見えたのだろう。一方で日本人のあらが見えてきたり、あるいはやはり西欧人である自分自身に気づいたりしたのが熊本時代なのかもしれない。
ヘルンさんが熊本の町を気に入らなかった理由の一つに、西南戦争鎮圧から14年後経ってもまだその余燼が感じられたからという。1877年に決起した西郷隆盛率いる薩摩軍は、戦国時代末期に築城名人加藤清正が縄張りをした熊本城を攻撃した。当時熊本は九州の要衝として陸軍の鎮台が置かれていた。この九州の軍事的中心に土佐出身の谷干城(たにたてき)を司令長官に鎮台の兵がたてこもり、薩摩を迎え撃った。
熊本地震の四か月前、2015年の暮れに熊本城を久しぶりに訪れた際、空に反り返る石塁群の見事さに改めて目を見張った。まさに鉄壁の要塞である。特に「武者返し」と呼ばれる城壁は日本刀を優美に振って弧を描いたかのような美しさだ。中二の頃から二百ほど城郭をまわってきたが、これほど美しく弧を描く石垣も珍しい。
武者返しの向こうにずんぐりむっくりした黒塗りの天守が見える。大天守と小天守が並ぶその様子は、なぜか熊本の誇るゆるキャラ「くまモン」が子どもを従えているようでほほえましい。大天守は色合いといい、形状といい、松江城によく似ているが、ヘルンさんがここに来たときはこの天守を見ていない。現在の天守は1960年に鉄筋コンクリートで再建されたものだからだ。
一方、本丸の天守に続く壮麗な御殿群は平成になってから次々に木造で再建されたが、天守の武骨さに比べると襖絵や床の間の壁、格天井(ごうてんじょう)にいたるまでが金色の華やかな世界で、桃山文化の粋を見せられるようだ。
しかし西南戦争の際、熊本城が薩摩軍に攻撃される直前に、捨て身の攻撃で攻めてくる西郷軍の士気の高さを知っていた官軍側が、天守や御殿が敵に火をかけられることで意気消沈するよりは、自ら焼き捨てることによって自軍の気を引き締め、背水の陣を敷いたといわれているが、定かではない。

田原坂(たばるざか)の32万発の銃弾
松江を愛したヘルンさんが熊本の町でがっかりした訳の一つに、まだ市内のあちこちに戦の焼け跡が残っていたからと述べた。その城から北に16㎞ほど行くと、西南戦争の最悪の激戦場、田原坂である。約七か月にわたって政府軍、薩摩郡ともに五万人以上が動員され、両軍合わせて1万4000人もの兵士が戦死した。特にここでは3月に17日間にわたり、一日平均32万発もの銃弾が飛び交い、両軍ともに毎日平均200人もの死者を出した。
かつての激戦場には熊本市立田原坂資料館で戦のさなかの森の様子が再現されており、時おり耳をつんざく銃弾の音が鳴り響く。屋外では弾痕がびっしりと残った蔵屋敷が復元されているが、ヘルンさんの熊本時代には市内にもまだこのような家が少なからず残っていたのかもしれない。

松江のジャンヌダルク
一方、親藩だった松江藩は幕末に西園寺公望率いる山陰総鎮撫使の侵攻を受けた。その際は城下で領民に乱暴狼藉を働いた。うろたえた松江藩は、城を明け渡し、恭順の意を示すために自ら櫓などを破壊した。さらに家老の首を差し出そうと思っていたとき、鎮撫使の接待に酌婦として現れたのが松江藩士の娘、錦織加代である。
副総督の川路某が酔った勢いで刀の先に蒲鉾を刺し、加代の口元に突き付けた。加代は泰然自若としてペロリと蒲鉾を食べ、「お酒も一杯所望いたしとうございます。」と笑いながら言ったという。その度胸にさしもの官軍も感服し、以降乱暴狼藉は激減した。お陰で天守をはじめ、寺町の神社仏閣も残った。
松江の町が明治時代になっても江戸時代とさほど変わらなかったのは、彼女の功績も少なくないだろう。ヘルンさんが江戸時代そのままの松江を愛し、西南戦争で廃墟となってから近代化しつつあった熊本を好きになれなかった遠因の一つに、彼女の存在があるとすると、興味深い。ヘルンさんも松江も、セツさんとお加代という二人の松江士族の娘に助けられたのだから。
ちなみに松江の人々は町を救ったこの「松江のジャンヌダルク」の胸像を、宍道湖畔の白潟公園にたてているが、なぜかおばあちゃんになった時の像だ。とはいえ、若いころの女傑ぶりが偲ばれる顔つきである。

熊本の小泉八雲旧居
熊本を訪れてから四か月後の2016年4月に熊本を大地震が襲った。テレビでその光景を見つつ目を見張ったのは、崩壊した石垣群だった。その年の暮れに、また熊本を訪れたが、いたるところ石垣が雪崩のように崩れていた。地震大国の日本では石垣が崩れることはしばしばあった。しかし目の前の石垣が100m以上にわたって崩壊しているのを見るのは見たことがなかった。衝撃でもあったが、同時に今後の人生でも見られないものを見ているという思いで、必死にこの目に焼き付けていた。崩れた石垣のせいか、町がまだ埃っぽい。
加藤清正の菩提寺である本妙寺境内の宿舎に泊まったが、宿泊客は私たち以外ほぼ作業着を着こみ、地下足袋をはいた復興作業員だったようだ。
熊本市内にも城からほど近い鶴屋百貨店の裏に小泉八雲旧居がある。実は滞在した三年のうち、はじめは外国人宿舎の洋館に住むような話だったが、ヘルンさん自身が松江の屋敷のような日本家屋を好んでいたため、引っ越した次第である。ただ、最初は別の場所に住んでいたが、隣にカトリック教会があったためその鐘の音がうるさく、また一神教嫌いのヘルンさんなので、城の堀から500mほどの現在の場所に越したのだという。

「火>水」の熊本
なるほど、確かに城から近い平屋建てのたたずまいは松江のものに似ている。しかし周辺の雰囲気が大きく違う。どこが違うかというと、やはりヘルンさんだけでなくすべての人にとって大切な「水」が町中で感じられないのだ。松江の旧居前は堀川だった。平成期にできた堀川遊覧の小舟に乗っていると、水面の岩の上に白鷺がじっと止まっているのを見たりする。また、大橋川が宍道湖に流れ出るところにはシジミ漁の船や汽船が行きかっていたはずだ。そのような光景は少なくとも今の熊本市では見られない。
熊本県のパンフレットを手に取ると「火の国・くまもと」とある。旧国名「肥後」の「肥」を「火」にかけたのか、または単純に東西18㎞、南北25㎞という世界最大級のカルデラを誇る阿蘇の煙にかけたのか、とかく「水」よりも「火」のイメージの熊本だ。「水を求めるさすらいの男」ヘルンさんとは「火と水のように」相容れなかったのかもしれない。

火の国の「水」
ただ、熊本県も南に行くと「水の出雲」を思わせる地名にであうのが興味深い。例えば八代湾にそそぐ日本一のいぐさの生産地として知られる八代(やつしろ)市は、古代は「やしろ」と呼んでいたが、島根県奥出雲町にも「八代(やしろ)」という集落がある。また、隣接する町は「八代郡氷川(ひかわ)町」といい、その名も「氷川」という川が八代海に流れ出るが、古代出雲文明を支えたたたら製鉄で知られる母なる川の名は「斐伊(ひい)川」であり、平成の大合併までは河口に「簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町」である。
川と言えば、人吉盆地から流れる「日本三大急流」の一つで、ラフティングの名所としても知られる球磨(くま)川もあるし、その他にも出雲にはない「水の光景」も熊本にはある。それは熊本藩が幕末に築き上げた石造りのアーチ型水道橋「通潤橋」である。高さ20m、長さ76mの石垣が谷間にダムのように横たわり、農業用水を通して農地を潤すこの水道橋の技術は、さすがに熊本城の石垣を造った熊本人だけある。時間が合えばその上から勢いよく水を放流するのも見られる。火の国で水が感じられる場所である。
ヘルンさんが熊本に対してもっと心を開いていれば、このような「水」あふれる出雲的光景も見られたのかもしれないのが惜しいところだ。ヘルンさんの人生の中で、熊本は「損な役回り」だったのかもしれない。
1894年、ヘルンさんは神戸のジャパン・クロニクル社にジャーナリストとして転職し、熊本を去ったが、その二年後に第五高等学校に赴任し、英文学を担当し、事実上の後釜になったのがロンドン帰りの夏目漱石である。

摩天楼の下の明治建築たち
1896年、神戸から東京に引っ越し、東京帝大で英文学を担当することになった彼は、現在の新宿区に住んでいた。はじめは新宿御苑の北の富久(とみひさ)町に滞在していた。彼の住居があった場所は現在成女学園のキャンパスとなっており、校門付近に新宿区の解説版のみ残されている。
ここに滞在していたときに、日本に帰化し、セツさんの苗字である「小泉」を名乗り、セツさんのふるさとにして、それまで過ごしてきた東京や神戸、熊本などよりも好きな「初恋の相手」ともいえる出雲の枕詞「八雲立つ出雲」から、「八雲」と称した。松江市には八雲町という地名も残り、また山陰と山陽を結ぶ伯備線の特急列車名は「やくも」であるが、これらはヘルンさんにちなんだものではなく、古代出雲の美称なのだ。
入梅の小雨が降る中、21世紀の新宿を歩いてみた。松江や熊本と異なり、ヘルンさんの時代のものはほとんど残っていない。東京でヘルンさんの時代の雰囲気が最も残っているところといえば、英国のお雇い外国人コンドルが設計したニコライ堂や旧岩崎邸、その弟子、辰野金吾設計の日銀本店、そして復元されたもの含めれば旧新橋停車場復元駅舎やコンドル設計の三菱一号館美術館などが挙げられる。ヘルンさんは1904年に亡くなっているので、辰野金吾設計の東京駅や、同門の片山東熊設計による旧東宮御所(迎賓館)などはまだ建てられていない。
明治建築は山の手のあちこちに点在してはいるが、周りはすべて現代の摩天楼で、雰囲気が出ない。そこで、明治建築が「点」ではなく「面」として集中するところを体感したくなり、あるテーマパークに向かった。

日本のテーマパークの数々
1965年、つまり高度経済成長期真っただ中に誕生したテーマパークが明治村である。「テーマパーク」といえば、東京ディズニーリゾートやユニバーサルスタジオ、ハウステンボスが「御三家」と言えそうだが、これらの多くが1980年代から90年代にかけて全国で相次いで建設された。テーマパークの元祖は1961年に本場ディズニーランドを模して造った奈良ドリームランドと言われる。ただし実態は特定のテーマにこだわる世界観があるというよりも本場ディズニーの「パクリ」の遊園地ともとらえられかねないものだった。しかしそれも2006年には閉園した。
現存するもので、真に特定のテーマにこだわったものというと、重文十数件を含む明治建築(一部大正時代もあり)を集めることで、愛知県の山中に明治時代の世界を創り出した博物館明治村である。建築も文豪たちの和風建築からヨーロッパと見まがうばかりの教会建築もあれば、地方の職人たちが見様見真似で在来技法を駆使して「脳内西洋」を体現した擬西洋建築などだけでなく、近代の著名人にまつわる建造物も少なくない。

明治村の著名人関連の建築
例えば洋館なら
・ドイツの細菌学の権威、コッホ博士のもとで学び、破傷風菌の培養やペスト菌の発見など、世界的な貢献をした北里柴三郎が大正時代に港区白金に設立したドイツ風の北里研究所本館
・米国を代表する建築家、ライトが設計し、愛知県常滑焼の技術を応用したタイルを使用して建造し、関東大震災が起こった1923年に9月1日に開業したが損傷がほぼなかった旧帝国ホテルの中央玄関部分
などの大正時代の建築がある。また和風建築では
・森鴎外が「舞姫」執筆後に越してきて一年滞在し、後に夏目漱石が「吾輩は猫である」を執筆した東京・千駄木の住宅
・小説「五重塔」を記した幸田露伴が、後に墨田区東向島で十年ほど暮らした数寄屋造りの蝸牛庵
・「一握の砂」で知られる石川啄木が東京・本郷にて若い晩年を過ごした本郷喜之床
・第一次世界大戦のヴェルサイユ条約締結に日本全権として赴いた西園寺公望が、帰国後に静岡県清水湾に建てた数寄屋造りの坐漁荘
なども見逃せない。

ヘルンさんの「沼津の休日」の家
これら著名人の同時代人が、他でもないヘルンさんである。そのころの在日西洋人は軽井沢や野尻湖畔、上高地などの信州でなければ中禅寺湖畔など栃木県の西洋人専用のリゾート地に滞在していた。
一方、ヘルンさんは東京時代、夏になるとほぼ毎年静岡県の焼津を避暑地としていた。魚屋の二階に住んで、庶民の中で暮らすように過ごしていた。文筆業や研究などという仕事から離れて昼も夜も海水につかり、子どもに水泳を教えたり、夜には海水の中で瞑想したりして過ごしていたようだ。ヘルンさんの人生で最もリラックスし、親子水入らずの日々を送れたのが、この「沼津の休日」といえよう。そしてその時の質素な魚屋の家屋も明治村に移築されている。
このように、明治村というのは、今は失われた明治時代の空気が、人為的な移築ながらも保たれている。まるで街角から和服に身をかためたヘルンさんがのっそりと現れそうでさえある。さらに、立派な洋館群を目にすると、西洋かぶれと際限のない近代化に辟易として頭をかきながら逃げ出そうとしているヘルンさんを見かけそうな気もしてくる。

韓流の聖地、新大久保へ
五月雨の降る中、新大久保に向かった。この町はヘルンさんが亡くなるときまで住んでいたところだ。
新大久保というと、2000年代から「韓流」の聖地として韓国料理店や韓国食材の店、韓国のポップカルチャーの店などが軒を連ねることで知られている。私が初めてこの町の存在を知ったのは日韓共催ワールドカップを二年後にひかえた2000年ごろだった。
新大久保駅のホームと改札口をつなぐ階段の踊り場に、日本語とハングルの追悼プレートが埋め込まれているのが見える。「新大久保」という地名が全国区のものとして知られたのは、2001年1月26日に起こった新大久保駅乗客転落事故だ。酔っ払って駅のホームに落ちた人を救おうとして、居合わせた韓国人留学生李秀賢氏と日本人カメラマン関根史郎氏が酔客を助けた代わりに、命を失った。それはたちまち「悲しい美談」として全国に広がった。「日韓蜜月」の時代を象徴するような事件だった。
しかし韓国語を学んでいた私は、当時日本のメディアで盛んに取り上げられていた「日韓親善ムード」に対しておっかなびっくりだった。それは学生時代の韓国語学習を取り巻いていた環境に起因する。

90年代の韓国語学習
それからさかのぼること約7年、私が韓国語を学び始めた1993年ごろは、「韓国語を学ぶ」という行為そのものが否定的に取られていた。また韓国にまつわるニュースでろくなものはなかった。私は三修社の「朝鮮語を学ぼう」という分厚い文法書の紙カバーを、タイトルが見えないように内側の白い部分を表にしてテープで本体とくっつけて、こそこそと学んだ。ウォークマンで韓国語の教材のテープを聞いているとき、同級生に「自分、何きいとんねん?」と問われた時にはあせって「中国語のテープ」と答えたこともあった。1993年当時の大阪では、韓国語学習に対する偏見が確かに強かったようだ。
「自分、朝鮮人やろ?隠さんくても堂々勉強すればええやん?」と「善意(?)」で言われたこともある。「高田朝鮮人説」はどうやらあちこちでささやかれていたようだ。

新大久保とコリアンの戦後史
新大久保にコリアンが定住しだしたのは戦後の廃墟から立ち上がった1940年代後半だ。その「下地」もあり、後に在日コリアン系企業として最大となるロッテがこの町にチューインガムの工場を設立し、コリアン系の住民も多く雇われた。
その後、1965年の日韓国交正常化以来、韓国は植民地時代の賠償金代わりに、日本に国内の各種インフラを整備させたこともあり、その後は急速に「漢江(ハンガン)の奇跡」という超高度経済成長を遂げ、88年にはアジア二度目の夏季五輪を行い、93年には大田(テジョン)で万博を行うまでになったが、日本で韓国を好意的に見ていたのは左派の一部にすぎなかったかもしれない。
そしてソウル五輪後、この町に本国からの韓国人が増加した。つまり平成、特に90年代後半の入管法緩和からである。とはいえ、コリアンだけの町かというとそうではなく、実態は中国系、東南アジア系、南米系など世界中から人々が集まる「マルチ・エスニックタウン」というのにより近かったようだ。

アジア通貨基金と韓流
そして1997年から翌年にかけてのアジア通貨危機でタイ、マレーシア、インドネシアと並んで国家財政が破綻し、IMFの管理下に移った韓国の人々のうち、国に帰っても混乱状態にあるので、この町に残る道を選択した人々も少なくなかった。
「雨降って地固まる」というが、中小企業の大胆な斬り捨てと、グローバル企業化した財閥の支援という、IMFの徹底したテコ入れによって、そして軋轢はあったが国民の表面的な順応によって、韓国経済はわずか数年で少なくとも表面上は復活し、グローバル化に乗った韓国の若者たちは英語や中国語、日本語等を学んで世界を闊歩するようになった。そして韓国映画および韓流ドラマの世界普及を国策とした政府は、作品内で出てくる衣食住他の韓国文化をも輸出した。
この町がいわゆる「第一次韓国ブーム」の聖地となり、韓国の若者が本格的に闊歩しはじめたのはそのころからだ。
私が2000年前後のこのムーブメントに懐疑的だったのは、つい7年前の韓国語学習入門時にこっそり隠れて学ばなければならなかった周囲の空気を覚えていたからだ。つまり、これが一過性のものかどうか、判断がつかなかったためだ。
当初は中高年女性のノスタルジーも相まって日本中を席巻した韓流、特にドラマや映画だったが、その後はK-POPSが大流行し、韓流ファンの年齢層がぐんと下がると同時に、確実に日本社会に根付いていった。それまで外国のポップスといえば欧米のみだったのが、韓国、すなわち隣国のポップカルチャーが若者の憧れと熱狂の対象となったのはおそらく江戸時代の朝鮮通信使が最後に日本を横断した1764年以来、約240年ぶりではなかったろうか。日本人の心を数百年ぶりに朝鮮半島に開かせた韓流の意義は歴史上きわめて大きい。

韓流とセットで現れた「嫌韓」
一方、それと同時に起こったのが「嫌韓」感情である。日韓の間には歴史認識問題や領土問題、民族問題などの各種不安定要素がある。さらに明治、大正、昭和にかけて「アジア唯一の先進国」日本が「頑迷固陋な」朝鮮半島の上に来ることで固定化されてきた両国関係が解消されたことも挙げられよう。
ちなみにヘルンさんが大久保の屋敷で亡くなった1904年に朝鮮・満洲での権益をかけて行われた日露戦争が始まり、米国が仲裁に入ったポーツマス条約の結果、ロシアは敗北し、同時に朝鮮半島は第二次日韓協約によって軍事面や外交面において日本の管理下に置かれた。朝鮮劣位の日韓関係はヘルンさんの死去と時を同じくして始まったといえる。
その関係が21世紀を迎えてから相対的に日本の立場が低下することによって急激に変化した。その不安感といらだち、さらにインターネットの普及による日韓関係に関する情報へのアクセスのしやすさなどから、否定的な意味で韓国に「関心」を持つ層(特に中高年男性)が増えてきたのだ。それは「嫌韓」だけでなく「悪韓」ひいては「呆韓」などという造語が次々とできるほど「隆盛を極めた(?)」が、日本が「絶対安全圏」であぐらをかいていた20世紀の在日朝鮮人差別とは異なり、21世紀にはその立場が危ぶまれることもあり、危機感が切実だった。
2011年の東日本大震災では一時的に滞在者の帰国ラッシュは続いたが、その年のうちに回復した。しかしそれが一段落したかに見えた2012年以降、各地でプラカードに朝鮮民族や中国人等を排斥する文言をかき、差別意識を隠さず通行人にまで罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけるデモが頻発した。新大久保の町もこのようなデモや、逆に彼らに反対するグループの怒声がさらに飛び交った。日韓のみならず東南アジア、中国、ムスリムなど、民族や宗教などを問わず栄えていた新大久保の町が民族対立の町と変わってしまったのだ。

小泉八雲記念公園
大久保通りからコンビニ脇の信号を南にまがり、時おりハングルの看板がかかった住宅街の中を歩いていると、大久保小学校に着いた。校門脇には「小泉八雲終焉の地」の石碑が立つ。その正面にギリシャ風のゲートをもつ公園がある。ゲートには「新宿区立小泉八雲記念公園」とある。ヘルンさんはここに住んでいた。左右対称のその小さなフランス式庭園には、花壇に色とりどりの花が植わっており、所々古代ギリシャの遺跡にありそうな白い列柱が建てられている。中央片隅にあるのがヘルンさんの胸像だ。
少年時代に出雲でヘルンさんの存在を知り、松江から熊本、そして東京とその足跡をたどりながら、ようやくここまで来た。ヘルンさんが現代に生きていて、大久保の屋敷に住んでいたらどう思っただろう。ニューオーリンズやカリブでアフリカ系の人々の文化に関心を持っていた彼のことだから、案外K-POPを聞き、スパイシーな韓国料理のみならずアジア諸民族の料理を毎日食べあるくのかもしれない。そしてyoutuberとして、インスタグラマーとして、そしてブロガーとして日本を発信していたのかもしれない。
彼は基本的に異文化に対して開かれた心を持っていた。欧米人の多くが日本、そしてアジアを欧米に対して遅れたものとして嘲笑するオリエンタリズムの対象として、または欧米に脅威を与える「黄禍論」的に見ていた当時、彼はそのようなまなざしとは一線を画し、日本のこころを愛し、日本の生活を楽しんだ。それが結実したのが彼の一連の著作群なのだ。これらは日本学の基礎文献となり、その後日本を統治することになるGHQの中でも必読書の一つとなっていた。

天皇制を残すきっかけとなったヘルンさん(?)
ヘルンさんの著作の愛読者のうち米国のボナー・フェラーズは、1930年に未亡人のセツさんに会い、「ハーンに日本を愛することを教わった。」と伝えたという。その彼が奇しくも戦後GHQの一員として赴任し、天皇制を廃止するのではなく、象徴として生かすことをマッカーサーらに進言し、GHQの総意となった。もしかしたら現在天皇制が維持されていることの一員も、ヘルンさんが英文で著した「日本人の天皇に対する思いの深さ」がフェラーズに伝わったからかもしれない。
そしてそれは、ある民族に接するときは、その時代背景や自分の所属する社会的グループからのまなざしでみるのではなく、自分自身の目で見て、愛し、楽しむことの大切さを伝えてくれたのだ。
公園を出て足元を雨にぬらしながら歩いていると、雑居ビルの一角に「新大久保モスク」の文字が見えた。そのほか韓国系およびそれ以外のキリスト教教会もあると思えば、豪華絢爛な台湾の道教寺院「東京媽祖廟」まである。そしてもちろん土着の神社もひっそりとたたずむ。出雲とは別の意味での「八百万の神」状態だ。文化の多様性と多くの宗教と雨水。ヘイトスピーチや住民のごみの分別回収問題など、解決すべき問題も山積みだが、基本コンセプトはヘルンさんの愛した町としてふさわしい。

韓国料理屋のベトナム人店員とヘルンさんからの課題
韓国料理屋に寄った。注文を取りにきた若者は、ベトナム人だった。実はこの町では韓国料理屋とはいってもベトナム人、中国人をはじめとするアジア系の留学生が切り盛りしていることも少なくない。
2020年12月の在留外国人の内訳に異変があった。コロナにより、前年より微減したとはいえ、約289万人の在留外国人がいるが、そのうち最多は中国人の約78万人、次は韓国、ではなく、初めてベトナム人が約45万人となった。ちなみに韓国人は三番の約43万人である。コロナ禍でも唯一ベトナム人だけ急激な伸びを示しているのは人手不足だからだろう。おおざっぱに言えば、1950年代から90年代まで韓国・朝鮮籍の人々は在留外国人の最大多数であった。それが2000年代から10年代には中国におされて2位、そして20年になるとベトナムにおされて3位となったのだ。
ベトナムの若者たちが切り盛りする韓国料理店。一方、その近くには日本人の高齢者のみを相手にしたような履物屋などもある。この街を形容する「コリアタウン」では収まらない、多彩で多重な側面を持つこの町を歩きながら、ヘルンさんが亡くなった町の百年後の姿としては大体においてまずまず「合格点」だろうかと思っていたら、ヘイトスピーチ、難民申請問題、外国人労働者問題など、異文化理解以前に山積する人権問題をヘルンさんに赤ペンで書き殴られたような思いで、傘をたたんで電車に乗った。
ヘルンさんをたどる旅を機に、目の前に広がっていた異文化理解および人権問題の課題を、とぼとぼと歩んでいこうとおもう。(了)


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