大アジア主義の足跡をたどる ーもう一つの日中近代交流史の旅
中国語の授業
毎週木曜日の夜は小学生の息子がオンラインで中国語を学ぶ日だ。時々聞き耳を立てる。声の小ささや消極的な授業参加を注意しそうになりながらもぐっとこらえ、書斎に入った。古本を眺めていると、1980年代半ばのNHK中国語講座のテキストをまとめて語学入門書とした「ニーハオ明明」が目に留まった。久しぶりに思わず手に取ってみた。懐かしい。そこには80年代、改革開放政策で急速な変化に戸惑いながらもたくましく前に進む中国の民衆の姿がつまっていた。
数えてみれば1985年、中国山地の片田舎の中学三年生が、町でただ一つの小さな書店で見つけたNHK中国語講座のテキストを手にしてから、昭和、平成、令和と年号が移っていた。つまり中国語と、中国人と、ひいては「アジア」と付き合いだしてから、それだけ時代が変わっていったということだ。
息子は家内の実家のある吉林省長春で生まれ、五歳までのうち約一年半をそこで過ごしていた。おかげで耳はネイティブ的な感覚があるのかもしれない。生意気にも私が中国語を話しているのを聞いて「その発音で通じるの?」などとぬかしてくる。そのくせ私に言わせれば本人もまだまだ「日本人の子どもにしてはまあまあ」という程度でしかない。
十代の頃の自分はネイティブ発音に飢えていた。14歳で中国語の独学をはじめ、「ホンモノの中国人」と話したのは19歳のころだった。それを思うと中国で生まれ、家族の中国語を聴き、オンラインで中国人と話せる息子の時代が心底うらやましい。なにやら自分が「ロートル(老头儿)」になった気がするが、自分が中国語を学ぶ以前の昭和、さかのぼって大正時代、明治時代の日本人がいかに中国と、そしてアジアと向き合ってきたか、また逆に中国人は日本人とどう付き合ってきたかを、国内津々浦々を歩きつつ見てみたい。
なお、小文では「中国」とは中華人民共和国という政治的概念というよりも台湾、香港、満洲、清朝なども包括する歴史的、文化的概念であることを、「アジア」とは東アジアを主に指し、また私が「中国語」として認識した時の表記は簡体字で表記することをお断りしておく。
小石川後楽園の「先憂後楽」
まず、近代以前の日中関係のあり方について考えるために、東京は小石川後楽園を歩いてみたい。ここは日本人が「中国ってこんな感じなんだろう」と想像をたくましくして生まれた「和風中華」の雰囲気であふれている。例えば中国有数の景勝地、廬山に見立てた築山や、西湖にかかる堤防「蘇堤」に見立てた橋、また清朝が成立する際に亡命してきた明の儒者、朱舜水による、中国を思わせる石橋「圓月橋」など、中国にインスピレーションを得た光景がそこここに散らばる。
光景だけではない。「水戸黄門」徳川光圀が建設した得仁堂には、「伯夷列伝」という漢籍に出てくる伯夷、叔斉兄弟が祭られている。光圀は水戸徳川家初代藩主頼房の三男だったが、兄を差し置いて藩主となった。一方、「論語」では儒者が亡くなる際、長男の伯夷ではなく、三男の叔斉に家督を譲るよう遺言を残して息を引き取った。兄の伯夷は父の遺言を守るのが親孝行と考え、弟に家督を譲ろうとする。一方、弟の叔斉も兄を差し置いて家督をつぐわけにはいかない。結局は二人とも出奔してしまい、二男が家督を継ぐことになった。
これに感銘した光圀は、それまで乱暴狼藉をはたらいてきたのを悔い改め、学問に志し、ついに「大日本史」の編纂を緒につけた。その光圀が師と仰いだのが亡命してきた儒者、朱舜水である。
そして後楽園の茶屋「涵徳亭」には「先憂後楽」という堂々とした書が掲げられている。リーダーたるものは誰よりも先に国の状態を憂い、みんなが幸せになってから最後にその繁栄を楽しむべきという、儒教的価値観に基づくリーダー論から来ている。
無自覚のアジア主義
江戸時代の武士にとって中国とはこのように儒教道徳のあふれる国だった。等身大の中国人を知らない江戸の、いや、日本中の人はそう信じていた。後に「アジアは一つ」というアジア主義などはなくとも、中国での事象を標準的なものとして享受するのが当然だったのだ。日本と中国の間に特に明確な線をひかないこの感覚を、私は「無自覚のアジア主義」と呼びたい。
そして当時は中国に関する知識のほとんどが、ㇾ点、一、二点など「返り点」を施し、アクロバットのように上下逆読みする「漢文読み下し」に頼っていた。荻生徂徠のような「唐音(中国語会話)」を身につけようとした古学派もいたがそれは例外だろう。ただ日本で唯一海外に門戸を開いていた港町、長崎の人々は違った。
中華の「匂い」が染みついた長崎
大村湾の海上につくられた長崎空港に着いた。ある時そこの手洗いに行って驚いた。私の保育園のころに習った手遊び歌「でんでらりゅうば」が流れてきたのだ。「でんでらりゅうば でてくるばってん でんでられんけん でてこんけん こんこられんけん こられられんけん こーんこん」というリズムに合わせ、右手の指を四通りに変化させるその動きを、私の右手の指はまだ覚えていた。小用に立って幼児の手遊び歌を反射神経でするおっさんほど奇妙なものもないと知りながら、私はyoutubeで「でんでらりゅうば」を探した。そして中華風の銅鑼の音がエキゾチシズムを漂わせるこの歌は長崎でしか知られていないものと知ったが、1970年代の山陰の山奥の保育園でなぜこれを習ったのか、どうしてもわからない。
長崎市内に向かって町を歩く。町のそこここに中華文化の「匂い」がしみ込んでいるのは、私の鼻詰まりの嗅覚でもかぎ取れた。この港町に華僑が住みだしたのは、江戸時代の初め、すなわちこの港が開かれてしばらくしてからのことというから、四百年以上にもなろうか。唐人、すなわち明国人は徳川時代に禁教令が出るまで比較的自由にこの町に居留できた。「三福寺」とも「四福寺」とも呼ばれる黄檗宗の寺が数か所あるが、それもキリスト教が華僑の間に広まり、日本側に「蔓延」することを防ぐための「防波堤」だ。
唐人屋敷と砂糖
また、「唐人屋敷」という江戸時代版中華街が設置されたが、それも唐人の中にキリシタンがいないか監視するのも主目的だったという。そういえば秀吉の時代に「二十六聖人」としてこの地の西坂にて処刑された聖アントニオという13歳の少年がいたが、彼も父は唐人であった。比較的外国文化と接する機会の多い唐人に疑いがかけられたのも理解できる。
現在の唐人屋敷は完全に市民の居住区となってはいるものの、それでも江戸時代の遺構をところどころ残している。現在土神堂、天后堂、観音堂などの寺院と福建会館のみ再建されているが、いずれも華やかなりしころが色褪せてなかなか良い感じだ。かつてはこの区域に数千人もの唐人が住んでいたというが、十七世紀末の長崎全体におけるその比率は一割以上と推測されている。
彼らの多くが日清貿易に従事したというが、江戸時代において日本は清国に金銀銅といった鉱産資源や「俵物」、すなわちフカヒレ、干しアワビ、いりこといった中華食材を輸出していた。一方で清国からは生糸、織物、砂糖等の他に漢籍も輸入していたが、ここで注目したいのが砂糖である。長崎では皿うどんの餡やちゃんぽんのスープそのものが甘いことが多い。カステラにもザラメがじゃりじゃりした歯触りのものすらある。五島のような離島はさらに甘い。逆に甘くなければ「長崎の遠か」というらしい。これも「シュガーロード」と呼ばれた九州北部を斜めに横切る砂糖の道において、長崎から遠ざかるほど甘味が薄まることから来るという。
鄭成功、隠元、朱舜水
さて、そのような貿易に携わった唐人たちだが、彼らのコミュニティがあったから長崎には後の日本史上の大人物を呼び寄せることもできた。1654年、平戸生まれの鄭成功が仕立てた船に乗って長崎にやってきた隠元隆琦は、まず興福寺にて明朝の黄檗禅を伝え、翌年は崇福寺に移った。そして彼が四代将軍家綱から寄進を受け、山城国宇治に萬福寺を建立した1660年、あらたな客がこの町に着いた。小石川後楽園の部分的な設計に携わり、水戸藩に朱子学を伝えることになる朱舜水である。還暦を迎える彼もここに7年間長崎に滞在してから江戸に向かった。
こうした唐人たちの受け皿となったのは、唐人屋敷のほかに市内に散らばる黄檗宗寺院である。代表的な崇福寺の他に、当時の唐人屋敷の門が移築されている興福寺、原爆投下で延焼したあと、亀の形をした堂宇の上に立つ高さ34mの観音像が見下ろす福済寺、唐人の僧侶ではなく長崎の僧が開山だが、広東人の崇敬を集めた聖福寺などがそれに当たる。
彼らが長崎にもたらしたものは寺院だけではない。市内を流れる中島川には11の石橋、いわゆる眼鏡橋がかかるが、これらは興福寺二代目住職の黙子如定によるものである。小石川後楽園の石橋は現在歩いて渡れないが、長崎の眼鏡橋は今なお現役である。また長崎の人々の墓石には金色で「〇〇家之墓」と書かれたり、「土神」という道教由来の石碑が墓地に置かれたり、お盆には盛大な花火で先祖を迎え、紙の銭を燃やしたりするが、これらはみな明清の風習が完全に定着したものだ。
「唐話」と「唐通事」
このような町で、唐人たちはどのように「唐話」すなわち中国語を維持し、使ってきたのかが気になる。まず、唐人屋敷に住む唐人たちから「唐通事(とうつうじ)」すなわち現在でいう「外務省専任貿易実務家通訳官」のような職種の人々が選ばた。彼らは武士身分ではあったが父子相伝の技芸として「唐話」と通訳能力を伝えてきた。まさに「お家芸」ではあるが、漢文訳読による主流の「漢学」とはみなされなかったこともあり、彼らの武士としての地位は不当なまでに低かった。「君子労心,小人労力(超訳:人の上に立つべき者は全体を把握すべきであり、小手先の技術は二の次である)」という儒学の教えが皮肉にも災いしたのだろう。
それでも彼らは三百年近くにわたり、「唐話」を継承してきた。とはいえ彼らの言葉は先祖および長崎にやってくる商人たちの出身地である「三江(浙江、江蘇、江西)」の方言であり、今でいえば北方の普通話より上海語に近い。身分制度が固定されていたとはいえ、例えば20世紀末に池袋あたりに大挙してやってきた上海人が定着し、23世紀まで上海語と通訳能力を子々孫々まで伝えていたとしたら、それは奇跡だろう。実は1873年に旧東京外語専門学校が開学し「清語科」が解説された際の「清語」とは、後の「普通話」の源流となるいわゆる北京官話ではなく、1880年代まで長崎で培われてきた三江地方の方言だったという。
個人的には唐人を先祖に持ち、唐話を保ち続けながらも幕府の役人という身分にあった彼らが、自分を「アジア人」と認識することはなかったとは思うものの、唐人>日本人と見ていたのか、日本人>唐人と見ていたのか、あるいは「長崎モン」以外の何者でもないと思っていたのか、気になるところだ。
唐人屋敷から新地中華街へ
ところで現在長崎で「中華街」といえば江戸時代の唐人屋敷ではなく、観光地となっている「新地中華街」である。唐人屋敷は1859年に長崎港が英米仏蘭露の五か国に開放されるとともに周囲の日本人街との境がなくなり、消滅していった。追い打ちをかけるように1870年の大火で江戸時代の名残はほぼ消えたため、現在残る廟はその後の再建である。ただ江戸時代に持っていた貿易上の特権を失った彼らの多くは長崎を去ったという。
その後彼らの一部はかつて唐船の蔵屋敷を設置するために埋め立てられた「新地」に住みだしたものもあった。これが後の中華街となるわけだが、横浜中華街や神戸南京町に比べると小さな商店街程度の規模である。だがある意味江戸時代以来の唐人の痕跡があちこちにしみわたっているため、町じゅうが中華風の空気で包まれている。
「四海之内皆兄弟(海の向こうもみな兄弟)」
長崎土産の定番というとカステラであり、カステラというと文明堂か福砂屋である。福砂屋の商標はコウモリ印であるが、これは中国で実に縁起の良い動物とされる。「蝙蝠(こうもり、音読みで「へんぷく」)」は「変福(福に変わる)」に通ずるからだ。このようなところにも空気のように「中華」が漂うこの港町らしさなのだろう。
また長崎というとちゃんぽん、ちゃんぽんというと四海楼だ。長崎湾が見渡せる現在の四海楼の起源は、1899年に福建省福州出身の陳平順が唐人屋敷入口に建てた小さな料理屋だった。そこで故郷の「とんにいしいめん(汤肉丝面)」または「焖面」に長崎の海の幸を加え、豚骨ベースにした「支那饂飩」が後にちゃんぽんになったと言われる。ちなみに出前に便利なように汁をなくした皿うどんは、これまた故郷の「炒肉丝面」をアレンジしたものという。四海楼から港を眺めた時、海の向こうが大陸であることが実感できた。そして「四海楼」というネーミングも「四海之内皆兄弟(海の向こうもみな兄弟)」という成語から来ている。
四海楼の裏手の旧上海香港銀行長崎支店の一角が「孫文・梅屋庄吉ミュージアム」となっているので訪問した。この町で生まれ育ち、明治期に香港で写真屋として成功し、後に孫文の辛亥革命を金銭面で支援した梅屋庄吉夫妻。ここから東京に行くよりも上海に行くほうが早いことを知っていた長崎モンにとって、海の向こうのこととして他人事と思わず、仲間が、兄弟が苦しんでいるので援助するというのはごく自然なことだったのだろう。海をまたいで活躍する彼のような人物がアジア主義に傾くのも時間の問題だった。ちなみに援助総額は現在でいえば1兆円とも2兆円ともいわれる。
唐人と日本人の「クレオール」
とはいえ日中戦争のときには、長崎で得た資産の持ち帰りにも制限を受け、「帰国」したところで生活の保障が全くない華僑たちは、憲兵の目を恐れつつもひっそりとこの町に残ることを選択した。浦上に原爆が落とされた時も華僑たちのなかには日本人の救護所ではなく江戸時代から続く「駆け込み寺」の崇福寺や福建会館などに避難した人も少なくなかった。少なくとも当時は交戦中であったこともあるが、いざというときに頼れるのは「同胞」であるという意識が強かったのかもしれない。そしてそれは今なお「中華度合い」が高いニューカマーであればあるほど、あるいは反中感情が高まるほど、身の置き所が揺らいでくるというのも見逃せない。
とはいえ今や数百年単位で唐人との交流が続いてきた「長崎モン」にとて、中国人との間は「隣人関係」というような他人行儀なものというより、親戚のだれかに一人や二人は中国人や華人がいたり、あるいは中国語は話せなくても自身のルーツが唐人だったりする「親戚づきあい」に近いのかもしれない。ある意味唐人と日本人の「クレオール」ともいえる長崎モンの長崎文化を満喫したら、今度はタイプの違う華僑の住む港町、神戸を歩いてみたいと思う。
神戸南京町の「三把刀」と「落葉生根」
関西以外から京都に行くなら京都駅、大阪なら大阪駅、名古屋なら名古屋駅、広島なら広島駅なのに、神戸は神戸駅で下りようとする旅客も稀だろう。それはやはり神戸の中心は神戸港近くの三ノ宮から元町にかけてだからであろう。そしてこの辺りがいわゆる「南京町」にも最も近い。
神戸港が「兵庫港」として開かれたのは1858年に締結された日米修好通商条約以降のことだが、その後十年で「コンプラドール(買弁)」と呼ばれる華僑が増加した。彼等は香港や南洋あたりで欧米人と現地人との間に立って通訳をするだけでなく、そのうち自らビジネスを興すようになる広東系の通訳者兼仲買人である。中国語で故郷に錦を飾ることを「衣锦还乡」というが、清朝末期の広東人や福建人は、南シナ海や太平洋を越えてひと財産築き、意気揚々と故郷の土を踏むことを夢見ていた。その片割れがやってきたのがこの開港したばかりの港町である。
元町には南京町と呼ばれる中華街があり、長崎の新地中華街に比べると若干広いとはいえ、横浜のことを思うと実にコンパクトだ。東西約200m、南北は100mに満たない。俗に「日本三大中華街」と呼ばれるこの三か所は、みな1970年代の日中国交回復から80年代の日中蜜月時代に観光地化する前は、いずれも怪しいバーなどが建ち並んび治安が悪かったという。
この町の華僑の歴史を考えるうえで南京町のはずれ、神戸中華総商会ビル(KCCビル)にある神戸華僑歴史博物館は外せない。入口に中華包丁、裁ちばさみ、剃刀(かみそり)の「三把刀」と呼ばれるものが展示されている。これらは清国から世界に流れていってチャイナタウンを形成した華僑たちの三つのエスニックビジネス、中華料理店、テーラー、髪結い床の道具であり、繁栄をきわめる神戸華僑のルーツがこれらの小商いであったことを忘れぬようにという先人からのメッセージだろう。
そして中に入ると額縁に収められた書が「落葉生根」と静かに語りかけてくる。この成語は中国という大樹から葉が落ちるように華僑が国を離れ、日本の地にたくましく根を下ろすことを表す。
孫文を支えた呉錦堂
神戸市と明石市の境に広がる舞子公園に足を運んだ。明石海峡大橋の真下に瀟洒な洋館が潮風に吹かれる。それが現在「孫文記念館」となっている移情閣である。神戸華僑の中でも最も知られている呉錦堂の別荘で、1913年に孫文たちもここで宴会を催したという。寧波系広東人呉錦堂は1885年に来日し、長崎や大阪を転々とした末の1890年にこの町にやってきた。彼は神戸の地場産業であったマッチを清国に輸出し、あちらからは綿花や大豆などを輸入して巨額の富を築いた。そのきっかけとなったのが、1894年に起こった日清戦争(甲午中日戦争)で多くの華僑が帰国した際に神戸に残り、ライバルが減った分、その発注が彼の会社に流れ込んできたことが挙げられる。
日清戦争を中国では「甲午中日戦争」というが、ここで注意したいのが清朝は人口の九割を占める漢民族が満洲族に押さえつけられた国だったということだ。呉錦堂も孫文も抑圧される側なのだ。呉はビジネスチャンスに乗じてしこたま儲け、孫文は広東省で清朝に反旗を翻したが、武装蜂起に失敗して日本に亡命した。その際初上陸地がこの神戸であり、そんな「どこの馬の骨か分からぬ」革命家を支持したのが神戸華僑であり、その親玉が呉だった。
孫文は神戸、長崎、横浜、東京などを転々として辛亥革命の下準備を整えていた。その途中で民族教育の場として神戸華僑同文学校を作ることを提案した。なお、革命派と対峙し合っていた保皇派(帝政を残した上で抜本的改革を行うグループ)の梁啓超も同じことを考えており、1899年に広東語で教育しはじめた。ちなみに革命派と保皇派の対立もあり、神戸、そして横浜の華僑同文学校の名誉校長は日中関係に理解のある犬養毅に依頼していた。
浮き沈みは続く
その後1904年に日露戦争が始まると、呉は日本の軍債を大量に購入し、日本国籍をも取得し、孫文らの革命を支えた。一方、孫文は福岡を拠点としたアジア主義の巨頭、頭山満の援助や熊本出身の大陸浪人、宮崎滔天らの支援で、東京にて革命主流三派を大同団結させ「中国同盟会」を結成し、清朝打倒を図った。会員の中には若き日の汪兆銘もいた。現在その場はホテルオークラ東京であり、入口付近にはそれを示す記念碑も建てられている。孫文はまさにこの地で辛亥革命のリーダーとして認められたのだ。
当初中国同盟会は連戦連敗だったが、1911年10月10日に武昌で武装蜂起が起こると、清朝が倒れ、翌12年1月1日に中華民国の樹立を宣言した。臨時政府の閣僚9名のうち3名は中国同盟会会員だった。しばらくして落ち着くと、翌年再び日本各地を訪れ、「お礼行脚」に歩いた。華僑の協力なくして辛亥革命は成し遂げられなかったからだ。もちろんこの神戸でも臨時大総統に就任した彼は「凱旋将軍」扱いである。中華学校や中華会館、そしてこの移情閣でも祝賀会が行われた。
しかし同年旧清朝側の大物袁世凱に政権を奪われた孫文は、再び神戸に舞い戻った。八か月前までは凱旋将軍であったにもかかわらず、日本政府は孫文の亡命受け入れに慎重だった。新しくできたばかりの中華民国のトップとして孫文を支持するか、袁世凱を支持するか見極める必要があったからだ。しかし神戸の和田岬から上陸できぬままの孫文を強力に支えたのがやはり日中関係に一筋ならぬ思いを持つ犬養毅であった。彼は山本権兵衛首相や、大久保利通の子、牧野伸顕(のぶあき)らに直談判して受け入れることにした。
南京町から北西に1㎞あまりのところにある諏訪山公園には「孫文先生諏訪山潜拠の地」という記念碑があるが、彼は刺客に知られぬよう一週間ほどここでほぼ誰に会うこともなく身をひそめてから、関東に向かった。二年八カ月にわたる彼の日本亡命生活はこうして始まった。この期間、大陸では袁世凱が大総統、いや「皇帝」としてふるまい、13年には中国同盟会も解散させられた。孫文は翌14年、東京にて中華革命党を新たに結成して袁世凱に対抗した。この会員には彼の思想的継承者となる汪兆銘はもちろん、後に国民党を率いる蒋介石も含まれる。いわばオールスターキャストだ。
同年第一次世界大戦が起こると、大隈重信内閣は敵国でもない中華民国に対し、事実上の隷属化を意味する対華二十一ヶ条の要求を突きつけ、袁世凱はそれを一部を除き受け入れた。16年に袁世凱が亡くなると、孫文も大陸に戻った。数年後の1919年10月10日、中華革命党は中国国民党と発展的解消を遂げた。つまり中国国民党のルーツも日本にあったのだが、それにしても浮き沈みの激しい人生である。
「大亜細亜主義」講演
1924年11月、孫文は日本に戻ってきた。これは彼の人生最後の日本訪問であり、その最後に滞在した場所も神戸だったのだ。つまり神戸は彼が初めて目指した日本であり、彼を最後に送った日本の港町でもあった。ここで彼が日本人に対して残したメッセージは28日に現兵庫県庁あたりにあった神戸高等女学校にて二千人以上の聴衆を集めて行った「大亜細亜主義(大亜洲論)」という演説である。12月1日の神戸又新日報に訳出した抜粋をいくつか並べよう。
「日本民族はすでに一面欧米の文化の覇道を取り入れると共に多面亜細亜の王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界の文化に対して西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか、夫(そ)れは日本国民の慎重に考慮すべきであります。」
「日本が露西亜に戦勝した事実は、即ち全亜細亜民族の独立運動の一番始まりである。」
「此東洋文化はこの数百年に於いて慥(たし)かに欧洲文化には及ばないけれども、彼等の文化と云うのは何であるかと云ふと、即ち物質文化である。又武力に依って現はれた所の文化である。(中略)我々の東洋の文化、この仁義道徳を中心とする文化は、我々は宜しく之を用いて我亜細亜民族団結の基礎にし、又この欧洲に対して我々は学んで来た所の武力に依る文化と云うのは、之を以て欧羅巴の圧迫に対抗するに使ふ事である。」
彼は中国と日本とが手を合わせて新しい亜細亜を築き上げることを主張した。それには西洋文明の本質である軍事力ではなく、東洋古来の儒教道徳に依るべきであるとする。そのためにも目下中華民国が日本に押し付けられている二十一ヶ条の要求を撤廃してほしいというのだ。
「同文同種」
彼がここで中日間をつなぐ絆として強調したのが他でもない漢字を共有することであった。「同文同種」ということばがかつてあった。中日両国は漢字を通してつながることができる、その近親性に訴えかけたのだ。彼が神戸や横浜に建てた華僑の学校の名称に「同文」という二文字が付けられているのはそのためだ。
孫文は11月30日に神戸港を出港し、翌年3月12日、療養先の北京にて帰らぬ人となった。享年六十歳。息を引き取る直前まで「犬養さんや頭山さんは元気かい?あの演説は日本人のこころに響いたか?」などと末期がんで苦しみながらもその場にいた日本人に問いかけていたという。
彼の遺言をその場で書き記し、本人より承認を得たのが後継者の汪兆銘であった。彼ほど「漢奸(民族の裏切り者)」として罵られる人物も少ないが、そんな彼が神戸に建てさせた中華民国の領事館がそのまま残っているので尋ねてみた。
北野異人館のシノワズリ
神戸の街は東西横に長い。そして南北は坂である。三ノ宮から山側に向かって上り詰めたところに北野異人館街が広がり、瀟洒な洋館が建ち並ぶが、唯一東洋的色彩を放つ建物がある。坂の上の異人館といい、旧チン邸という華僑の豪商の建物だったところが、中華民国の領事館として使われたのは1940年以降である。
中国にも日本にもない洗練された美しさだ。それはヨーロッパ人がまだ見ぬ「東洋」に憧れ、彼らの解釈と想像力でヨーロッパの地で再現した「東洋の美」であり、これを「シノワズリ」とよぶ。欧州全域でシノワズリが流行したのは17世紀から18世紀、人によっては19世紀半ばまでという人もいる。要するに日本でいう徳川時代、幕末に至るまでずっとヨーロッパ人はふわりとした薄衣をまとったような、また女性的なけだるさをもつシノワズリの魅力のとりこになっていたようだ。
それはヨーロッパン人にとってモンゴル帝国やオスマン帝国といった東洋からの軍事的脅威から解き放たれた時代に、はじめはただ物珍しさからというのもあろうが、それはヨーロッパに新しい芸術の風を吹かせ、しだいにロココと融合した。ただここで見られるシノワズリの建築や調度品は実に不思議な感じがする。ヨーロッパ人の「脳内中華」を近代中国人が日本で再現するというその「二重のねじれ」がいまいちしっくりこないのだ。
ちなみにシノワズリはヨーロッパの芸術家にというよりも、むしろ技巧面で職人たちに対する影響のほうが大きかったらしい。そして19世紀半ばにジャポニスムが登場すると、急速に色あせてしまった。ある意味表層的な長期間の流行だったのだ。ジャポニスムの場合はヨーロッパの芸術家に模倣させるだけでなく、しまいには芸術のあり方まで変えさせてしまったのとは大違いだ。
「守破離」
芸道の発展段階に「守破離」というものがある。「守」の段階では対象を無条件で取り込み、「破」の段階では自分のものとした上でオリジナルなものを生み出し、「離」の段階では自分のものとしたことすら忘れて自らの道を歩む。ただ思うにシノワズリはヨーロッパ人にとって「破」の段階で止まっている。例えばデルフトの陶磁器などがそうだ。しかしジャポニスムはモネ、マネにせよ、ゴッホ、ゴーギャンにせよ、どうやら西洋の本質的な芸術のあり方まで変えたという意味で、「離」の段階までいってしまったようだ。
1862年にロンドンで行われた第二回万博に、日本は幕府側の視察を派遣したのみだったが、そこではその数年前に起こったアロー号事件に際して、英仏両軍が北京の円明園を破壊し、略奪した財宝が「戦利品」として万博で展示されていたという。植民地主義を隠しもせずに「御開帳」するその態度は盗人猛々しいとしか言いようがないが、その次の67年パリ万博ではシノワズリの時代の終わりを宣告するかのように幕府や薩摩藩などがもたらしたジャポニスムが評価された。シノワズリがジャポニスムにとってかわったのが確認されたといえよう。
シノワズリは「前座」、ジャポニスムは「真打ち」
その後明治時代を通してシノワズリは時代遅れとみなされ、ジャポニスムの時代となるわけだが、それを日本人として誇るというのはいかがなものか。なぜならジャポニスムが評価されたのは背景に明治政府の文明開化という国策により、我々自身が自分たちのあり方を欧米に受け入れられるように変質させた結果であり、また頑固なまでに武器やテクノロジー以外の近代化を受け入れようとしない清朝に対する侮蔑の裏返しが「日本=優等生」であり「中国=劣等生」であるとのレッテルをヨーロッパ人に植えつけたとも考えられるからだ。
言い換えれば欧米に従順な日本はかわいいが、そうでない中国はだめだ、と思われていた節がある。そして我々の先祖は「文明の先生」に認められたことで舞い上がり、彼等の尻馬に載って中国に対して侮蔑的な態度のみならず侵略戦争まで発動した。孫文が神戸での最後の講演で日本人に「西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか」と態度を迫ったのは正にそこにあるのだ。
とはいえ19世紀まで、文芸のサロンやアカデミーは西欧中心であり、その他のあり方は受け入れられなかったところに登場したのがシノワズリである。それは硬直していた西洋に東洋芸術の存在を知らしめるにあたり、「前座」としての役割を果たした。そして結果的に「真打ち」となったのがジャポニスムとも言えないだろうか。いずれにせよ近代ヨーロッパ人の美意識に、「こんなのがあってもいいじゃないか」という懐の深さをあたえたのが「シノワズリ・ジャポニスム連合軍」だったといえるだろう。
とはいえ、ここの調度品は見れば見るほど不思議だ。日本でよくみるような水墨画や漢詩の世界は極めて限定的で、目につくのは清朝のころの写実的な王侯貴族の肖像画や、シノワズリ調のソファーなどのブルジョアの生活が分かるようなものが中心だ。しかし中華民国はそもそもそんな清朝を打倒すべきものと見たのではなかったのか。江戸時代以前に日本の知識層が慣れ親しんだ「漢文と漢詩の中国」ではなく、ヨーロッパ経由でこの港町にやってきたシノワズリのギャップはここまで大きいのだ。
あえて無視されている汪兆銘の説明
また、そもそも汪兆銘に関する館内の紹介文に違和感を感じる。
「中国の政治家。広東省出身で、字は精衛(中華圏では『汪精衛』と呼ぶのが一般的である)。 知日派として知られた。日本の法政大学在学中、革命同盟会に参加して以降、孫文や胡漢民らの盟友として革命運動に活躍した。次第に日本の支配階級ともつながりはじめ、ついに南京に親日政府を樹立したことにより、一時期こちらの建物が『中国領事館』として使われ、領事が執務していました。」
これは中華圏の人からすると明らに不自然である。怒り出す人さえいるかもしれない。彼が孫文と異なりあまりにも負の烙印をおされているのに、そこに対する配慮があえて無視されているからだ。よってここで中華圏において政治的には日本軍以上に侮蔑されているといっても過言ではない汪兆銘について簡単に紹介しよう。
あえて七難八苦の道を歩む
まず1883年生まれの汪兆銘の人生は、「師匠」孫文に勝るとも劣らず波乱万丈である。学問をよくする家柄だったため、少年時代から陽明学の革命的な思想に共感したと考えられるが、抜群の成績だったため1904年に科挙に合格すると日本への留学生として選ばれ、和仏法律学校(現法政大学)にて梅謙次郎らから憲法の何たるかを学び、近代社会のあり方に関して眼から鱗が落ちたという。そして1905年に孫文の演説に感動し、彼がまとめた中国同盟会に参加した。「自由、平等、博愛」を掲げるフランス革命をモデルとし、学識に優れる彼は「民報」という新聞を発行し、世界に散らばる同志たちに届けた。
その後革命資金を集めるためにハノイやシンガポールに拠点を移した孫文に従った。その後北京で皇族暗殺計画が未遂に終わると捕えられたが、恩赦で出獄するや、中華民国が成立していた。首都は南京である。その後、フランス留学を経て帰国すると、事実上の国民党におけるナンバー2となり、1925年3月12日に北京協和病院で孫文が亡くなった際、「革命未だ成らず」との遺言は彼に託された。
1932年に傀儡国家満洲国がつくられ手から数年後、36年12月に国民党の軍事面のトップである蒋介石が西安で拉致され、国民党が敵視してきた中国共産党と手を組む「国共合作」が約束された。しかしこれに対して反共の汪兆銘は不服とし、37年に盧溝橋事件が起こって日中全面戦争となると、日本側を徹底的に非難する蒋介石に対し、汪兆銘は「一面抵抗、一面交渉」という方針を打ち出した。そして蒋介石が首都南京から奥地の四川省重慶に根拠地を移した37年12月にいわゆる「南京虐殺」が起こる。
翌38年1月、蒋介石を屈服させることのできない近衛文麿内閣が「爾後国民政府を対手とせず」と宣言し、日中間は解決のめどもつかなくなった。その後、国民党の総裁は国共合作による徹底抗戦を唱える蒋介石、副総裁が反共の汪兆銘となった。日本の軍事力の強大さを知る汪兆銘は、国土がみな焦土と化すであろう徹底抗日は民をいたずらに苦しめるだけだと分かっていたからだ。かれが重慶を去る前に蒋介石に残した書の末尾にはこうある。「君为其易 我任其难(君は簡単な道を行きたまえ。でも私はあえて七難八苦の道を歩む。)
日本の言いなりばかりではない「漢奸」
南京虐殺からちょうど1年後の38年12月、汪兆銘は重慶を脱出してハノイに向かい、その足で日本に向かって要人と会い、南京に「還都」した。「遷都」ではなく「還都」というのは、とにかく中国を分裂させたくないため、南京にあった首都が重慶に一時的に移っており、それが戻ってきたという形式をとりたかったのだろう。彼にとってこれは蒋介石と方法論が異なるだけで、孫文の道である「三民主義(民族・民権・民生)を守ることに変わりはないと信じていた。そして「以徳報怨」という信念を持ち、敵対する残虐な日本軍にすら寛容であれという「大人(たいじん)」らしい姿勢を示した。これは現実主義的な軍人としての蒋介石と理想主義的な文人としての汪兆銘との大きな違いだろう。
とはいえ近衛文麿内閣が「東亜共同体」や「東亜新秩序の建設」などという日本中心の亜細亜新秩序を唱え、中国側も協力するようにと要請してくると、汪兆銘もだまってはいない。1939年秋の「中央公論」では「何不食肉糜(パンがなければケーキを食えだと?)」として近衛内閣を批判した。つまり当時の上と戦災にさいなまれた中国四億の民を放置したまま日本の提案に中国が乗るとなると、それはすなわち中華民国の滅亡を意味すると見たのだ。
同じように40年5月31日、汪兆銘は上海経由で横須賀海軍飛行場に到着し、日本による内政不干渉と日本側の接収した家屋や工場の返還を求めた。そして満洲国を承認する代わりに中国からの撤退を要求し続けた。彼の目指した善隣友好、共同防共、経済連携は最後まで貫かれていた。また「漢奸」と罵られ続けた彼でも、なんでも日本の言いなりになっていたわけではない。
とはいえ、近衛文麿首相は日和見主義者であった。南京の汪兆銘と交渉しながらも重慶の蒋介石とのパイプも維持し、交渉の可能性を探ることで、両者を天秤にかけていたからだ。結局最終的に日本側が南京政府を正式に承認したのは「還都」の八か月後であった。この現実を前に、汪兆銘政権に背を向ける人も続出する。多くの人に汪兆銘は「裸の王様」に見えたことだろう。
同じころ、すなわち日中戦争下の神戸や横浜、長崎などの華僑社会は「黒歴史」そのものであった。なぜなら「親日政権」と罵られる汪兆銘政権を支持せずに「反日政権」とされる蒋介石政権を大々的に支持できないからだ。結局蒋介石支持者は国を離れ、残された者は好むと好まざるとにかかわらず汪兆銘政権を支持せざるを得ない。つまり中国大陸を含むグローバルな華人社会で「裏切り者の中の裏切り者」を支持したのは日本華僑だけなのだ。そしてその日本における有力な拠点が、ほかでもない、坂の上の異人館と名を改めた旧中華民国領事館である。
こうした背景を故意的に無視して「知日派として知られた」「親日政府を樹立」と片づけるあまりの横暴さに頭がくらくらしてくる。ただ、逆に彼の「汚名」をそそぐこともできない心境もよくわかる。ただ十数億人から「親日派(=日本と手を組んで自分の利益のために中国人を苦しめる裏切り者)」とみなされても、彼は孫文の教え、三民主義を固持して民を戦禍から救い、亜細亜百年の大計を考えたという一面の事実は確かにあった。彼も孫文の遺志を受け継ぐ大亜細亜主義者であったことはいうまでもない。
周りの日本人観光客たちが「わあ、きれい!」と写真を撮りつつセレブ気分に浸るのを横目に、なにやらこの町の華僑社会の隠された黒歴史を垣間見たような気がするとともに、それを引き起こしたのが他でもなく日本であったことに、ますます沈鬱になってくる。目の前のシノワズリの草食があまりに美しすぎるから、そのギャップに悩まされつつ、坂道を下って神戸を去った。
東亜同文書院とは
愛知県豊橋市は豊田市、岡崎市と並ぶ三河の中心である。JR豊橋駅から豊鉄渥美線に乗り換え、愛知大学前で降りた。ここはかなり前から気になってきた大学だ。なにせ東亜同文書院のDNAを継ぐ大学だからだ。とはいえそれがなんなのか知らない人がほとんどかもしれないので簡単に紹介したい。
日清戦争後に日中の友好を願うアジア主義団体、東亜同文会が成立した。近衛文麿の父、篤麿が中心となり、政治家では犬養毅、陸軍軍人としては根津一や荒尾精、大陸浪人では川島芳子の養父、川島浪速や孫文の辛亥革命に人生をささげた宮崎滔天に山田良政、支那学者としては京大の内藤湖南らといった、日中の親善を願うそうそうたる顔ぶれが集まってできた団体である。その中でも近衛、根津、荒尾らが中心となって上海に日本の若者を送り込み、中国語を駆使して日中親善に役立つ人材を育成しようとして開学したのが東亜同文書院である。
高等教育機関でありながら帝大とは一線を画し、まず各道府県から数人ずつ代表を送り、学費は各道府県が負担するので成績さえよければどのような家庭環境の者でも学べた。そして徹底した中国語教育の他、上海についたら毎日同郷の先輩が発音指導をする。さらに卒論代わりに清朝や民国政府から特別許可を得て中国各地に赴き、研究テーマに合わせて調査を実施し、報告書にまとめるというのだ。一般的な出世を求める者なら帝大を目指すであろうが、同文書院を目指す学生は大陸に志をいだき、亜細亜のあるべき姿にこだわる若人たちでなければとてもでないが進学を志さなかっただろう。そして私も五十年先に生まれていればここで学びたかったこともあり、大学時代から気になっていたわけだ。
同文書院を支える儒教思想の言葉に「大同」という言葉がある。これはだれにも公平で平和な理想郷をさす。清朝末期にこれを目指して失敗した康有為やその弟子梁啓超らが亡命をしたときに、彼らを支えたのも近衛篤麿であり、根津一、荒尾精らもこれに加わった。この「大同」の世には国境はない。だから清朝にも大同の世をもたらそうとしたのが、ここの開学の精神である。
「大陸浪人」への憧れ
キャンパス内はいたって普通であるが、一番のお目当ては1908年建造の愛知大学記念館にある東亜同文書院関連の資料である。ここはまさに近代日中関係に関して総合的に学べる場所である。また山田良政・純三郎兄弟、孫文展示室もあれば両国の友好人士の書もずらりと並ぶ。私がここで気になるのは「大陸浪人」と呼ばれた人々の存在である。先述した山田良政にせよ、宮崎滔天にせよ、自分の人生を孫文に、中国革命に捧げることのできた彼ら大陸浪人たちに大学時代から惹かれてきた。
例えば宮崎は正業に就かずに妻に働かせ、家計は火の車だった。しかし犬養毅のような一流の政治家もその情熱にほだされ、孫文を支持させた。山田に至っては革命軍に武器調達することができなくなったことを現地に伝えに行ったところ、清軍に捕まり、日本人なら助けてやると言われても清国人であると言い張って刑場の露と消えた。新妻と老父母を弘前に残して。記念館内を歩きつつ、そんな彼等を見て、何が彼らを突き動かしたかが気になってしようがない。
明治初年に生まれた彼等はもしかしたら二十年早く生まれていれば幕末の志士として活躍していたかもしれない。しかし時代に「乗り遅れた」彼らが自分の人生をかける対象として目の前に現れたのが中国革命であり、孫文だったのではなかろうか。維新の志士にはなれなくても中国革命の志士にはなりたかったのではなかろうか。
この大陸浪人たちにも大アジア主義者と侵略者の2タイプに分かれる。「せまい日本にゃ住みあいた 支那に四億の民が待つ」といった当時の流行歌「馬賊の唄」の歌詞にあるように、彼らは広大なアジアに夢を見、日本とアジアとの連帯を考えていた。それは同時代の共産主義のように理論的に体系化されていない一方、情熱と浪漫に満ちたものであり、若人たちを行動に駆り立てた。
学校名の「同文」にもあるように、「同文同種」、つまり漢文を共有する文化的連帯だけでなく、西洋に対する共通の脅威に対する抵抗でもあった。それもそのはず、日本の近代化はペリーの黒船来航から始まり、中国のそれはアヘン戦争から始まったといっても過言ではない。行き過ぎた資本主義や植民地主義に対する批判から生まれた大アジア主義は、それらを肯定することが前提である「文明開化」一直線の明治政府に対する懐疑心を抱かせ、アジアの兄弟の自立を助ける義侠心となって人々の心を突き動かしたのだ。
戦争に協力せざるを得なかった同文書院
興味深いことにアジア主義は実は右翼的でも左翼的でもないニュートラルなものである。その目指すところの「アジア解放」も、右翼は軍事力で、左翼は人民による革命で成し遂げようとした。それは方法論の違いなのかもしれない。また、右翼=国権>民権であり、左翼=国権<民権のイメージがあるが、大陸浪人の中にも宮崎兄弟のような民権主義者も少なからずいた。また、孫文自身が民権や民生からなる三民主義を唱えてきた。
しかし、大アジア主義は国権主義者によって日本の侵略を正当化するイデオロギーとしても利用されたのは否定のしようもない事実だ。特に日本陸軍は孫文らによる辛亥革命を否定し、中国人を「砂のごときばらばらな民族」と見なしがちだった。それを知っていた中国人は、例えば汪兆銘のような「親日」とされる中国人ですら日本の「東亜新秩序」などを自国中心で侵略を糊塗する考えであると非難した。
結局東亜同文書院の理念がどうであれ、学生たちの語学能力と中国に対する見識は軍事利用された。それはそれまで「同文書院の学生は侵略者ではない」と見ていた中国当局をも失望させた。確かに占領地上海に日中友好を目指す学校を作るということ自体が独善的であろう。また、中国語人材が日本社会の主流になることは、たとえ陸軍内でも最後までなかった。まして一般社会は「推して知るべし」である。
戦時中は上海の校舎も焼討に遭い、学生も学徒動員で軍事協力させられ、敗戦とともに学生の記録を奇跡的に持ち帰ることはできたものの、あちこちさまよってようやく46年に落ち着いた先が豊橋だった。上海の同文書院だけでなく、台湾大学や朝鮮大学など「外地」の学生や教授も集めて、まさに亜細亜の英知を集めたようなユニークな大学が、国権の未だ回復されない日本に誕生したわけだ。キャンパスを歩いていると「自由受難の鐘」という、かつてチャイム代わりに使われていた鐘がモニュメントとしてぶらさがっているのが目に入った。それは戦争への反省と、学問の自由が侵された断腸の思いを刻み続けるために今日も鳴り響いているように思えてくる。
脆い紐でつなごうとした絆
激動の敗戦直前に上海の同文書院で学び、本土復帰前の1967年に「カクテル・パーティ」で芥川賞を受賞した沖縄人作家、大城立裕が母校を振り返って著した83年の作品「朝、上海に立ちつくす──小説東亜同文書院」の末尾にこのような会話を登場人物同士にさせている。
「東亜同文書院という学校は、日本のつくった宿命的な傑作だと思う」 「どういう意味だ?」 「日本と支那との固い結びつきを象徴するものでありながら、その脆さもそこに象徴的にあらわれているという気がする」
大亜細亜主義に基づく東亜同文書院は、日中を結びつけようとした紐のようなものだが、その紐そのものが本質的に脆かったのだ。
戦後の日本では、本校本来の精神である大アジア主義は信じられなくなり、中国はもちろん、「アジア」は他者とみなされるようになった。逆にいえば同文書院の学生たちは中国を他者だと思えず、だから独善的と言われようが自分の信じる日華親善の道を歩もうとしたのかもしれない。翻って21世紀の日本人の対アジア観を見るとどうであろうか。あまりにも無関心ではないか。中国語と韓国語の通訳案内士の端くれである私はそんなこと考えながら東を目指すことにした。目的は「大同」の世を創り出さんとした康有為、梁啓超らの潜伏した横浜である。
神奈川港
横浜の中心となる駅はもちろんJR横浜駅だが、あえて京浜東北線で一つ上った東神奈川駅で降りてみた。市民以外には意外と知られていない事実だが、というより市民以外でこの駅で利用する人自体が少ないだろうが、こここそある意味で横浜発祥の地と言える。
1859年、日米修好通商条約により米国が開港させようとしていたのが、ここ神奈川港だった。しかしここは狭い上に人々が往来する東海道の宿場町に隣接するため、日本人が欧米文化に接触するのを危惧した幕府が4㎞南に位置する横浜村を埋め立て、隔離したうえで開港させた。つまり本当はこの東神奈川駅から海岸にあたるエリアこそ、港町になる予定だったのだ。だから旧街道沿いにある成仏寺は、一時米国の宣教師兼医師のヘボンも滞在していたし、同じく慶雲寺もフランス領事館として一時使用されていた際の記念碑が残っている。
後に現在の横浜港と、その後背地にあたる山下公園南西部が外国人居留地と定められると、あっという間にそちらのほうに外国人が集結するようになった。そして欧米人と日本人の間で「買弁」として渡日してきた華僑のことは神戸南京町を歩いていた時にも述べたが、神戸に比べると横浜は欧米人、清国人、日本人の居住地が比較的厳しく守られていた。そして彼らは欧米人と風俗習慣を異にするだけでなく、そもそも総数が多いため、居留区に隣接するエリアに集住することになった。これが中華街の起源である。
「漢文と書画」の世界と「等身大の」清国人
しかしこのことが日中関係史上、大きな転換期を迎えることになった。それまで長崎というごく限られた場所でしか「唐人」との接触がなかった日本人が、この開けた横浜で「等身大の」清国人に会うことになったのだ。彼等のうち千数百年にわたって日本人が崇敬してきた「漢文と書画」の世界とは全く関係ない労働者たちがその大半をしめていた。
まずは彼等の姿かたちが「漢文と書画」の世界にはない辮髪にいわゆる「チャイナ服」であったこと。そして儒学を通して中国人は君子だと思っていたら、下働きはいいとして、日本と比べ不衛生でアヘン中毒者までいたのは衝撃的だったに違いない。もちろん教養ある階層もいはしたが、下層階級の「民度」の低さに、従来の文化的なイメージは崩れた。それと同時に欧米列強がアジアに押し付けた帝国主義と資本主義の恐ろしさを、日本の知識人は実感したに違いない。
マリア・ルス事件で一つになった華僑社会
そんな時に起こったのがマリア・ルス事件だった。1872年、マカオからペルーへの奴隷船に乗せられていた229名の清国人が、寄港地の横浜港で英国船に助けを求めた。英国側は外務卿副島種臣にこの件を処理するように伝え、当時の大江卓神奈川県権令(≒県知事)が中心となって清国人解放に尽力した。司法制度の整備が過渡期であった当時、このような際の裁判長も権令が兼務していたのだ。
調査の結果、文字の読めない清国人が奴隷契約書にサインされてペルーに年間数日の休日のみで働かせそうになっていることが分かった。清国人にとって人権問題に厳しい土佐人が権令であったことは不幸中の幸いであった。ただ日本にとって清国もペルーも条約締約国ではなく、また彼らが契約をさせられたマカオにも日本の主権は及ばない。そこで彼は幕末から日本の知識層にも読まれていた当時なりの国際法「万国公法」に則り、フランス人権思想張りの博愛精神をもって清国人全員を解放した。
このことは開国したばかりとは言え日本が法治国家であることを全世界に知らしめた。そしてその間華僑による義援金も大いに集まったという。近代日本で、「清国人」とはいえども満洲族と漢民族、知識人と労働者では住む世界が全く違っていた彼等を「在日華僑」という立場で一つにしたという意味でも、この事件の意味は華人社会にとっても大きかった。
孫文と康有為と梁啓超ー広東人の横浜
中華街のメインストリートは町を東西に横切る関帝廟通りである。そこに位置する横浜中華学院の前を通ると、国民党の旗、青天白日旗がはためいており、行事があれば孫文の肖像画も掲げられる。孫文とこの学校とはどのような関係があるのだろうか。
買弁の立場はそのうち日本人商人が育つと低下してきた。同時に1894年から95年にかけての日清戦争では、それまで横浜や神戸、長崎などの開港地の人々のみ見聞きしていた「民度の低い清国人」への偏見が全国的に広がり、彼らに侮蔑的な態度をとる日本人が続出するようになった。そうした中、下関条約が締結されるや神戸からこの港町に流れてきたのが孫文である。以降断続的ではあるが約8年にも及ぶ日本亡命期間のうち、東日本における拠点をここに定めた。それもここに支持者が多かったからに他ならない。
同じころ北京では二人の広東人が光緒帝に近づきつつあった。学者の康有為とその弟子でジャーナリストとしても活躍した梁啓超である。彼らは現体制の枠内で「維新」を起こそうという「戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)」を目指したが、摂政の西太后に幽閉された。俗にこれを「百日維新」とよぶ。1898年、命の危険を感じた康・梁の二人が亡命した先も横浜だった。ただしこの二人はあくまで体制維持を前提とした維新であるのに対し、孫文たちは清朝を打倒し、共和国を作る革命派である。いずれも清朝からのお尋ね者ではあったが、民生をよくするための方法論は大きく異なる。
この学校は当初、華僑子弟の中国(広東)語教育、中華文化伝承教育を目的としてきたが、孫文は1897年、中国だけでなく西洋の技術学問も修めるという意味で「中西学校」と名付け、梁啓超が校長となるべく打診した。が、梁啓超の師匠である康有為は、彼にジャーナリストとしてより活躍させたいがために代わりに仲間の徐勤を校長にし、「中西」では風雅に賭けるという理由で自らの儒教的な理想社会から「大同」と名付けた。
このことからわかるように、単なる語学学校ではなく儒教の道徳を身につけさせることを目的としていた。いまなお校訓は「禮儀・廉恥」である。ちなみに康・梁ら変法派と孫文ら革命派が混在していたが、出身地別には圧倒的に広東人であった。それが横浜の中華料理が広東料理の和風化したものであることの理由である。
「大同」とはみんなのための最高の世の中
康有為は横浜の地を拠点にオピニオンリーダーとして纏足廃止などの女権拡張運動や、平等主義などの近代化を、儒学を基調にして展開しようとしたが、その根拠となるのも「礼記」にある「大同」という理念だった。中華街のいたるところで「天下為公」という標語を見る。ちなみにこれは孫文がしばしば揮毫したもので、神戸でも長崎でも愛知大学でも彼の足跡があるところでは大体見られるが、それにかかわる原文と拙訳(超訳)は以下のとおりである。
「大道之行也,天下为公,选贤与能,讲信修睦。故人不独亲其亲,不独子其子,使老有所终,壮有所用,幼有所长,鳏寡孤独废疾者皆有所养,男有分,女有归。
国はだれのものでもなくみんなのものである。そして優秀な人材が皆から信頼されてこの世をうまく回していく。そうなると親孝行や子育てといってもこの世のすべてのお年寄りと子どもたちを分け隔てなく敬い、お世話をするようになる。だから子供も安心して大きくなれ、老人も天寿が全うでき、大人はそのために一生懸命働くのだ。シングルマザーでも親がいなくても障がいがあってもセーフティネットがしっかりしているから安心できる。そして男女ともにライフ・ワークバランスが確立できる。これがあるべき国の姿だ。」
「货恶其弃于地也,不必藏于己;力恶其不出于身也,不必为己。是故谋闭而不兴,盗窃乱贼而不作,故外户而不闭。是谓大同。
金は天下の回り物なのだから、自分のところに貯めておくものではない。自分のもてる能力というのも出し惜しみしないでみんなに使ってもらおう。そうすれば悪だくみも犯罪もなくなり、戸締りしなくても枕を高くして眠れるというもの。これこそみんなのための最高の世の中だ。」
後に中国の知識人が三民主義を考案するにあたり、必ず脳裏に「大同」の二文字が浮かんだはずだ。さらに共産主義を知った時も、みながこの「大同世界」の到来を期待したという。実際、孫文も「大同」という言葉を愛し、しばしば揮毫した。
この学校も関東大震災で木っ端みじんとなり、他の華僑系の学校と統合して孫文が亡くなった1925年に校名を「横浜中華公立学校」と改めた。その後、1945年には横浜空襲でまたもや校舎を全焼させ、戦後は国民党と共産党の対立が海を隔てたこの港町にまで飛び火したが、こちらは国民党側の学校として今に至っている。ちなみに共産党側の横浜山手中華学校は、石川町駅をでてすぐのところにある。
中華義荘ー「色々なことがありすぎた」横浜に眠る
観光地としてテーマパーク化を目指してきた中華街の喧騒を離れ、中区大芝台の中華義荘に行った。明治時代からすでに横浜の地で亡くなる華僑たちも増えていったが、当時は「落地帰根」、つまり中国人は中国の故郷にもどるのが当然とされてきた。そのため故郷に遺骨を戻すまでの仮安置所として開かれたのがここである。幕末には他の外国人とともに葬られていたが、この「一時的な墓地」という習慣と、外国人墓地のキャパシティをオーバーしたため、清国人側が県庁と交渉して1873年、この地に墓地を得たのだという。清朝末期のレンガ造りの地蔵王廟の雰囲気は中華街のような作り物っぽさはなく、幕末から途切れることなく続くこの町で生き、死んでいった華僑たち一人ひとりの人生が感じられる。
埋葬者の名前の前後にほぼ必ず広東省〇〇村、福建省〇〇鎮などという出身地がある。しかし大正時代以降、特に大震災以降は横浜生まれ、横浜育ちの華人が増えたため、「祖籍(父祖の地)」以上の何物でもないが、中国人にとってこの「祖籍」というのは自分がどこのだれと繋がっているかをあらわす大切な目印である。逆に、これがなければ遠く離れた異国で根無し草になってしまうであろう。
墓地の奥にずらりと慰霊碑が並んでいる。みな関東大震災の時のものである。あの震災では横浜、特に現中華街は壊滅状態で、約5800人中1700人、実に約三割の中国人が亡くなったというが、「遭難先友(亡くなった仲間)」「殉難先友(殺された仲間)」という表記が少なからずある。「遭難」と「殉難」のギャップは大きい。関東大震災における朝鮮人虐殺は有名だが、実は華人虐殺にも酸鼻をきわめるものがあり、例えば現江戸川区大島だけでも約七百人の華人労働者が虐殺されたという。そして横浜中華街でも理不尽に殺害された華僑も少なくない。いつ行っても線香が数束ずつ煙を出しているのはそうした理由だ。震災後は帰国しない華僑も拠点を神戸に移していった。
日中戦争中の横浜華僑は正に暗黒時代だった。居留地や中華街以外で働くことを禁じられたり、酒の勢いで蒋介石をほめてスパイ容疑で拷問を受けた者もいた。中国人でありながら日本軍に徴用され、中国戦線で語学要員として送られた21名の内、無事帰国できたものはわずか3名だった。しかも帰国後、「日本帝国主義の手先」として断罪された者もいた。
1937年12月12日の南京陥落の後、横浜の華僑社会も重慶に移った蒋介石政権と南京の汪兆銘政権に二分した。しかしそのうち横浜でも日本側と協力して日々の生計を立て、日本人とともに防空訓練や消火活動に参加することで身を守ることが得策であるという考えが広まった。「日華親善」というスローガンがあまりに虚しく鳴り響いていた八年間だった。
目の前にこうした激動の時代を生き、死に、殺されてここに眠る人たちの墓標がずらりとならぶ。ここからは東と北に港が見えるが父祖の地の大陸の方向は真逆である。「落地帰根」の時代ではなくすなわちこの地に根を張って三世紀目の「落地生根」となると、華人たちの「帰るべき場所」は、もはや「色々なことがありすぎた」この横浜なのかもしれない。
松井石根と興亜観音
日中間でしばしば問題になることがらに、1937年12月の南京虐殺がある。中国側は数十万人の大虐殺であるというのに対し、日本側は、それは共産党のプロパガンダで、実数はそこまでいかないという考えが多数派かもしれない。とはいえ問題は「人数」なのか。あるいはプロパガンダなのか。少なくとも私にとってそれらはなぜかピンとこない。南京虐殺に関する専門の資料館は日本にはなさそうだが、犠牲者を慰霊する場所なら熱海にあるというので数回訪れたことがある。そう、事実がどうであれ、私はそんな話を聞いたら慰霊しなければ気が済まない性分なのだ。
熱海の海沿いの道を山側に向かう。軽自動車でなければ進めないような急な細道だ。やがてうっそうとした森の中で行き止まりになるところに駐車スペースを見つけた。歩いて行くと2mほどの観音立像がある。これが興亜観音だ。般若心経を唱えて先に進む。しばらく行くと本堂である。ここと南京虐殺とはどのような因縁があるかというと、国民党が中華民国の首都、南京を放棄した直後の1937年12月に日本陸軍が南京入城した際、数万から数十万ともいわれる殺人、略奪、婦女暴行が頻発した。それが組織的であったかどうかはとにかく、「皇軍」にあるまじき大失態として当時の陸軍大将、松井石根(いわね)が退役後の1940年に建立した寺院がここである。戦場となった南京周辺の土と日本の土をこねて作ったこの観音像に、終戦後B級戦犯として逮捕・処刑されるまで、雨の日も風の日もふもとの家からここに登り、観音経をあげて日支両国の戦没者の霊を慰めたという。
これだけ聞けば松井とはなんとこころのきれいな人物であろうか、と日本人なら思うかもしれない。しかし中国人の視点からみるとそうはいかない。昔中国に住んでいた時にテレビでみる戦時中のドラマに必ず現れる日本兵は、みな「好色、残忍、愚鈍」を絵にかいたようなキャラクターばかりである。それはまるで「水戸黄門」の悪役のように型にはまっており、「人間らしい」日本兵など皆無である。
戦場にいた祖父
実は私の祖父も南京虐殺の翌年、1938年から約1年半、二等兵として徴兵にとられ、河北省石家庄にて鉄道警備をしていた。終戦五十周年の95年8月、北京に滞在していた折、祖父が配属されていた石家庄南部の高邑という駅まで汽車に乗りついで行ったことがある。高粱畑が延々と続く様子はおそらく昔と同じだろう。日本人など五十年間見たことないというような典型的な華北の村で、私は自分が日本から来たこと、ましてや祖父がその昔ここにいたことなどは口が裂けても言えず、寡黙な中国人のふりをして村を歩いていたことを思い出す。
石家庄の歴史資料館で戦時中の展示コーナーを見た。日本軍がいかに残虐であったか、人民はそれに対していかに勇敢に戦ったかという単純な構図の展示には食傷気味だったが、ちょうど祖父がいたころの38年から40年まではなぜか日本軍による大規模な掃討戦の記録はなかったのになぜか多少安心して北京に戻った。
とはいえ中国側の資料はプロパガンダだというのならば、例えば南京で一兵卒として殺害した武田泰淳の手記や堀田善衛の「時間」などを一読するだけでも戦慄が走るであろう。正直言えば私はこの手の作品が苦手である。今回拙文を著すにあたっても再読すらしていないが、活字だけでも残忍なシーンが脳裏にこびりついて離れない。
大アジア主義者としての松井石根
話を松井石根に戻そう。彼が毎日この急な細道をあがって観音像を拝んだのは心情的に理解できる。なぜなら彼も大アジア主義の信奉者だったからだ。若き日、陸軍士官学校を出て日露戦争に従軍中、郷土愛知県の大アジア主義者、荒尾精に師事し、戦後は自ら志願して清国に派遣された。さらに孫文の辛亥革命にも共鳴し、三菱財閥から多額の軍資金を融通したりもしただけでなく、孫文が死去すれば蒋介石を支援したりもした。日中両国は持ちつ持たれつであるべきだというのが彼の信念だったからだ。
なお、蒋介石が西安事変以降「国共合作」の抗日路線になってから七か月後の1937年7月7日北京で盧溝橋事件が起こり、その五か月後に南京虐殺、そして三か月後に軍人畑から足を洗ってこの山の麓に庵をむすんだという。陸軍の軍人というと中国侵略の代名詞のようではあるが、彼は大アジア主義の信念を貫くために、どんな学者よりも中国を広く深くより客観的に知らねばならない軍人という道を選んだかのようにさえ思えてくる。
尼さんの歌
本堂に上がると、尼さんがいらっしゃった。二度ほどしかお会いしていないが、朝早くからお茶をいただき、松井石根の話や中国の話を流れる水のような声でしていただいた。聞くと、父親が松井石根だったという。そして二回とも歌を歌っていただいた。李香蘭の「何日君再来」や「モンテンルパの夜は更けて」など、戦時歌謡から「海ゆかば」まで、山の中の小さなお堂で歌ってもらった。なかでも戦時中に「準国家」とも呼ばれた「海ゆかば」を歌われた時には思わず体が反応した。背筋を伸ばして唱和していたのだ。
平和や戦没者を祈る気持ちにいつわりはないが、この軍国イデオロギーの権化とも思える「海ゆかば」になぜか体が反応するのである。これを南京の人々が聞いたら偽善と思われるのではないだろうか。日本の大アジア主義が中国で全く受け入れられないのは、侵略という前提を疑わないうえでの日華親善だったからだと思う。そこには、「俺はこんなに中国のことを想っているから、中国が俺のことを理解しないのは中国のほうに問題がある」とでも言わんばかりの、自他の区別のない、ある種病的な心理に思われるからではなかろうか。
そして松井石根に関して言えば、あれほどの大戦争を統率していた割には、その責任に対して鈍いとしかいいようのない感じもある。それは東条英機にも昭和天皇にも言えるが、まるで国民全体のうえに軍国主義が降りかかってきて、抵抗できずに戦争に赴き、無辜の民を殺害してしまいました、とでも言わんばかりだ。観音様を拝めば済むというのは相手の心情を無視した自己満足に過ぎない。とはいえ偶然出会った尼さんの澄んだ歌声に癒されたのも本当だ。
理論よりも直接出会うことの大切さ
ふと気づいた。「大アジア主義」に惹かれていった男たちは、欧米列強に対する危機感から救国の思いに火がつき、隣国との連帯をはかった。その際に大切になったのは資本主義におけるアダム・スミスの「国富論」や、共産主義におけるマルクスの「資本論」のような読書によるメカニズム理解ではない。情熱をもった者同士が直接出会うことである。横浜では宮崎滔天が孫文に出会い、梁啓超が犬養毅と出会った。東亜同文書院では近衛や根津、荒尾らが直接学生たちに講義をするだけでなく、魯迅のような日中の懸け橋となった人物も講師として招いた。そしてなによりも同じ寮で毎日顔を突き合わせて語り合った。この「火のような熱さと涙」が大アジア主義の本質にあるように思える。
一方でその結果、中国という他者と自分との区別がつかなくなり、侵略戦争に加担していることに気づかなかった。そこで東京裁判でB級戦犯に仕立てあげられたからでなく、自省の結果興亜観音を拝み続けたのが松井石根であり、その精神を引き継いだのが目の前の尼さんだった。その歌声は、水を流すかのように清らかで癒されるが、人と会うことで行動に火が付いた大アジア主義者と、尼さんと会うことでこころが洗われたこの私。火と水の違いはあれど「直接の出会い」というものが両者の共通点なのだろう。
なにやら割り切れなさと清々しさが交互に湧きあがるのを感じつつ、軽自動車の山をくだった。その後、尼さんの訃報を聞き、西の方に向かい合掌礼拝した。
早稲田大学と大隈重信
東京に戻った。大アジア主義の旅、最後の訪問先は、大アジア主義とは一見縁もゆかりもなさそうな三人の人物に関連する早稲田大学を歩こうと思う。
なぜ早稲田か。まずは創立者の大隈重信である。肥前佐賀藩の実務家にして切れ者の弁論家であった彼は、「円」という通貨単位を諸外国の反対を押し切って作り、流通させた。さらに自由民権運動では立憲改進党を組織し、国会開設を推進した。現実的な財政政策を推進する民権運動家の彼が、一時的に下野していた時期に創立させた東京専門学校こそ、現在の早稲田大学である。
高田馬場から早稲田にかけての一帯は、2010年代から中国人向けの予備校が何軒も開設された。中国の学生にとり、早稲田はある意味東大以上の人気かもしれない。中国共産党創設メンバーの李大釗(りだいしょう)や初代総書記陳独秀らの母校だからともいわれるが、1914年に内閣総理大臣になってからの彼が中国人にとっていかに差別的な発言をしていたか、知る人は少ない。
レイシストか、大アジア主義者か?
自らの体験と知見によるものだろうが、彼の著した「日支民族性論」は、日本を代表する大学の創始者であり、民権主義者であり、内閣総理大臣の著書とは思えない。その現代訳語を抜粋すれば以下のとおりである。
「忘恩と背信の行為の多いことは、まったく顰蹙の極みであるが、このようなことは、ほとんどその遺伝性によるものである。」
つまり「馬鹿は死ななきゃ治らない」とでも言いたいのか。しかし大隈重信でさえこう発言するぐらいだから、一般的な日本人は中国人蔑視にお墨付きを与えられたように思うに違いない。
「いつものように、形式を尊び、詐術を愛し、それでいて、窮境におちいったときには、頼るべきではない相手を頼りにして、目の前の苦痛だけが去れば、それでいいのだといったように、将来の大きな患いにまで思慮の及ぶことがない。」
この部分を見ると、仮想敵国であるソ連を頼みの綱にし、ポツダム宣言を「黙殺」した日本のことかと思わないでもない。中国人、日本人など関係ないではなかろうか。
「われわれは支那人の将来を慮るからこそ、切実にこの習慣を改めるように望んでいるのである。(中略)このまま改まらなければ、支那は亡ぶしかないだろう。われわれは東洋の永遠の平和を思い、われら東洋民族の発展を希う以外に、なんら支那に対して野心を包蔵しているわけではない。」
ただこの部分だけは大アジア主義につながるものがある。実際彼は亡命中の康有為に住居を提供するだけでなく、経済的支援を行っていた。また1897年の孫文東京滞在許可に関して宮崎滔天→犬養毅→大隈重信ルートで相談を受けた際、孫文を関係者の使用人ということにして滞在許可を出させたのも大隈重信であるし、20年後に中華民国を率いるようになったら大隈邸にてパーティに呼ばれている。そして清国、中華民国の留学生を大量に受け入れてきた。
キャンパスのど真ん中に立つ大隈重信の立派な銅像を見つめながら思った。宮崎滔天、頭山満、荒尾精ら、同時代の大アジア主義者が信奉したのは西郷隆盛である。しかし清濁併せのむがつかみどころのないこの豪傑を誰よりも嫌っていただけでなく、第一次世界大戦中に中華民国の袁世凱政権に対し、二十一ヶ条の要求を突きつけた張本人が目の前の角帽にガウンの老人である。彼が中国人蔑視発言をするような人物であったのは、時代が時代だったからなのか、本心で中国人にまともなパートナーになってほしかったからかはなお検討の余地がある。
「小日本主義」石橋湛山
ある時早稲田のキャンパスで張り紙を見かけた。「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」とある。1904年に東京専門学校から早稲田大学となったこのキャンパスで学んでいた若人があった。その名は石橋湛山。「反骨の在野精神」を誇る早稲田の卒業生の中でも、彼ほど筋金入りの人物は珍しい。彼はジャーナリストとして大正、昭和の反権力の闘士として活躍してきたが、その中で日本のアジア侵略を、心情面からではなく「実利面」で反対し続けた。それは「大アジア主義」の反対をいくべく「小日本主義」として広めた。彼は主催する東洋経済新報で、満洲国について筆を振るう。
「吾輩は思う、台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由解放の政策に出ずるならば、それらの国民は決して日本から離るるものではない。彼らは必ず仰いで、日本を盟主とし、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき親密を続くるであろう。支那人・台湾人・朝鮮人の感情は、まさにしかりである。彼らは、ただ日本人が、白人と一緒になり、白人の真似をし、彼らを圧迫し、食い物にせんとしつつあることに憤慨しておるのである。」
これは孫文が「大アジア主義」の講演のなかで、「西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか」と態度を迫ったことの焼き直しである。しかし石橋は他のアジア主義者のような義理人情や血と涙から動かされるのではない。あくまで損得勘定である。
「資本は 牡丹餅 で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅が無くて、重箱だけを集むるは愚であろう。牡丹餅さえ沢山に出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸して呉れよう。而して其資本を豊富にするの道は、唯だ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営の代りに学校を建て、軍艦の代りに工場を 設くるにある。」
要するに、「100万円の財布に100円入れるのと100円の財布に100万円いれるのと、どっちがいいか?」と言っているにすぎない。大アジア主義者のように情に訴えるのではなく、財布に訴える声のほうが、より多くの人に届くこともあるのだ。
「朝鮮・台湾・樺太・満洲というごとき、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。そしてもし、こうしたヒューマニスティックな政策を日本がとっているにもかかわらず、アメリカやイギリスがなお横暴であり驕慢な政策をとって、アジアの諸民族ないしは世界の弱小国民を虐げるようなことがあったらどうするか。そのときには日本が、その虐げられるものの盟主となって、断々乎として英米を膺懲するべきである。」
泣き寝入りせずに食ってかかる湛山
ここまでくると「大東亜共栄圏」そのものだが、不幸なことに日本はこの石橋湛山の挑発通りに動き、国土を破滅に追い込んだ。ただ同時に欧米が東洋を植民地化するそれまでのシステムを完全に破壊しもした。それにしても湛山の東洋経済新報以外の新聞社は、満州事変から日中戦争にかけての軍部の動きを批判することがほぼなく、比較的「リベラル」とされる朝日や毎日ですら「右向け右」であったため、世論の軍国主義化を食い止めることはできなかった。
戦後多くの新聞社がGHQの「指導」のもと、平和建設を謳うようになったが、湛山はGHQから公職追放された。理由は「東洋経済新報の社長兼主幹として、その編集方針において、アジアにおける軍事的、経済的帝国主義を支持、そして枢軸国家との提携を首唱し、西欧諸国との戦争不可避論を助長、労働組合の抑圧を正当化し、日本国民に対する全体主義的統制をすすめたことに責任がある」からだそうだ。話が全く違うが、湛山は泣き寝入りせずGHQに食ってかかった。大正デモクラシー→昭和の軍国主義→戦後のGHQの民主化と時代は変わっても、湛山の舌鋒だけは変わらなかった。
「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」
「小日本主義」の発想は、「大アジア主義」の裏返しのようにも思えるが、彼は大隈重信なみの理論家であり、浪花節ではない。彼の満洲経営に反対する根拠はこのようなものだ。
「いかに善政を布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快しとせざるがごとく、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。しかるに我が国の満蒙問題を論ずる者は、往々にして右の感情の存在を支那人に向かって否定せんとする。明治維新以来世界のいずれの国にも勝って愛国心を鼓吹し来れる我が国民の、これはあまりにも自己反省を欠ける態度ではないか。ところが、この自己反省もなく日本の満蒙問題論者は、中国人への侮蔑を根本においている。中国の国民性を理解しようともしない。」
「論語」ではこれを「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という。そして日本人に偏見に対する反省を促す。それよりも彼の本音は次のくだりだろう。
「満蒙はなんら我が国に対して原料供給の特殊の便宜を与えていない。が、かりに右の説が正しとするも、もしただそれだけのことならば、あえて満蒙に我が政治的権力を加うるに及ばず、平和の経済関係、商売関係で、優々目的を達し得ることである。否、かえってその方が、より善く目的を達し得るであろう。 」
占領するよりも貿易のほうが結局はお得なのだ。さらに占領した時のデメリットについて述べるのも忘れない。
「満蒙は、いうまでもなく、無償では我が国の欲するごとくにはならぬ。少なくも感情的に支那全国民を敵に回し、引いて世界列強を敵に回し、なお我が国はこの取引に利益があろうか。そは記者断じて逆なるを考える。」
日本資本主義批判
そしてしょせん満州は日本人のものではないというのをナショナリズムからではなく、人口比から説く。
「将来満蒙が理想のごとく経済的発展を遂げたる際の情勢を想像するに、それはしょせん支那人の満蒙であって日本人の満蒙ではあり得ないと断言するに躊躇しない。というのはその際満蒙を満たす人口は(我が労働者を同地に経済的に移植し得ないという事情から判断して)当然支那人でなければならず、あるいはそのなかに朝鮮人は相当混在し得るかもしれぬが、とうてい日本本土の人間は、 幾許も住居せざるに相違ないからだ。」
そして満洲事変の本質は資本主義の行き過ぎであることを喝破する。治安維持法でがんじがらめになっていた当時、これは極めて危険視される発言である。現に軍部からはにらまれていた。
「満洲事変は明らかに日本資本主義が起したものだ。正義の実現だの、共存共栄だの、搾取なき楽園だの、といったところでその目標は、日本資本主義理想実現だったのだ」
しかし返す刀で自分を「非国民」扱いしたものも許さない。
「私はかねて自由主義者であるために軍部及びその一味の者から迫害を受け、東洋経済新報も常に風前の灯の如き危険にさらされている。しかしその私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」
ここまで徹底して軍部をもGHQをも、そして世間の目をも恐れぬ湛山のような人間は、もしかしたらアジアとの連携などという地に足のつかぬきれいごとは信じていなかったのかもしれない。ただ戦後1956年、内閣総理大臣に任命されても体調不良を理由に二ヶ月余りで退陣したことからみて、権力の座に汲々としない清廉さと豪傑さをも感じさせ、そこは西郷隆盛のような大アジア主義者の理想ですらある。在野の反骨精神が売り物だった早稲田大学がジャーナリストの賞を与えるに際し、湛山以上に「早稲田らしい」人物はいまい。
つかみどころのないこの巨人がこの世を去った1973年当時、早稲田大学を何年も留年しながらジャズと読書と映画鑑賞にふけっていた若者がいた。その若者が後に全アジアどころか全世界の読者を虜にする村上春樹である。
村上春樹に見る中国人
早稲田大学のキャンパス内で、大隈重信像から坪内博士記念演劇博物館の瀟洒な建物に向かって歩いていくと、途中で村上春樹ライブラリーがある。内部は村上春樹の書斎が復元されており、また彼の作品に出てくるジャズレコードのコレクションがかかり、各国語に翻訳された彼の作品群を手に取ってみることができる。併設されたカフェでコーヒーを飲みながら村上春樹の作品の世界に思いをはせるファンたちも少なくない。
「ノルウェイの森」に代表されるように、翻訳されることを意識してさらりと書かれた都会的な文体で、都市における孤独な人々の心理を描いた彼の作品群は世界各国で受け入れられた。
ただ、ここでは彼の中に垣間見られる「中国」の存在について考えてみたい。「1973年のピンボール」という初期の作品には、華僑のバーのマスター「ジェイ」が出てくる。おそらく村上春樹の育った神戸が舞台であろうが、日本で生まれ育ったらしく、彼にこのように言わせている。
「何年か経ったら一度中国に帰ってみたいね。一度も行ったことはないけどね。…港に行って船を見る度そう思うよ。」
「僕の叔父さんは中国で死んだんだ」
「そう…いろんな人間が死んだもので。でもみんな兄弟さ。」
ここにはどうしたわけか日本の港町で生まれ育ち、故国を知らない華僑の中年男性と、おそらく日中戦争で叔父をなくした若者が、「中国」を巡ってとりとめもない会話を交わしている。「いろんな人間が死んだ」とは、「僕」の周りの日本兵や民間人だけでなく、ジェイの故国の見知らぬ大衆も含まれることはいうまでもないが、「みんな兄弟さ」というセリフに私は反応してしまう。
長崎四海楼のところでもでてきた「四海之内皆兄弟」という成語を日本語にしたものと思われるこの言葉は横浜や神戸の同文学校の精神であり、東亜同文書院の精神でもある。兄弟だから仲良くする。兄弟だから助けあう。これを口実に満洲国や大東亜共栄圏構想をでっち上げたのは言うまでもない。しかし華僑のジェイにとっては、これは信念であり、またそう考えないとやってはいられないのかもしれない。
ちなみにこのジェイという人物は、デビュー作である「風の歌を聞け」や満洲の大陸浪人らしき右翼の大物が登場する「羊をめぐる冒険」にも、脇役ではあるが出てくる。
華僑の教師の数秒の「間(ま)」
村上春樹の作品群には、背景として中国、特に戦前、戦中の中国や満洲、そして戦後の華僑がしばしば出てくるが、題名にずばり「中国」とあるものといえば「中国行きのスロウ・ボート」だろう。その中に、
「死はなぜかしら僕に、中国人のことを思い出させる」
という一文があるが、村上春樹の父親が戦時中中国で何かをしたことが強く反映されているにちがいない。春樹を想起させる主人公の少年時代から大人になるまでに経験した「中国人」との出会いが積み重ねられるこの作品は、例えば「港街」にすむ小学生が模擬試験を受ける会場の中華学校で、不届き者がそこの机に落書きをしているのを試験監督の華僑の教師が見つけたときに説教をする場面が出てくる。
「もしも君たちの学校に中国人小学生がテストを受けに来て、同じように机に座ったと想像してみて下さい。(中略)机は落書きや傷だらけ、椅子にはチューインガムがくっついている、机の中の上履きは片方なくなっている。そんな時どんな気がしますか?中国人を尊敬できますか?」
そして続ける。
「中国と日本は、言うなればお隣同士の国…努力さえすれば、わたくしたちはきっと仲良くなれる、わたくしはそう信じています。でもそのためには、まずわたくしたちはお互いを尊敬しあわねばなりません。それが……第一歩です。」
これも典型的な大アジア主義的な日華親善論であろう。この華僑の教師の「それが」と「第一歩です」の間の「間(ま)」に注目したい。いかにかつての日華親善が欺瞞に満ちていたか。お互い尊敬することの難しさを骨身にしみて知っているが、今の日本の子どもたちに言っても分からないという現実。しかし差別落書に対する毅然たる態度を日本の子どもたちに示さねばならないという葛藤が、この数秒の「間」になったのだろう。
そんなの昔のことだから…
そしてこのとき同じ会場で受験した少女がいた。高校三年生のとき、デートの最中にあの落書きのことを覚えているかと問うたら、
「ねえ、本当に思い出せないのよ…そう言われてみればしたような気がしないでもないけど、そんなの昔のことだから…」
と迷惑がられた。これは日本による独善的な大アジア主義がもたらした侵略戦争を「そう言われてみればしたような気がしないでもないけど、」「そんな昔のことだから」「本当に思い出せない」という戦後の日本人の態度そのものだろう。
それだけではない。大学時代には東京で華僑の女子大生とデートし、彼女の兄のいる駒込駅への帰り際、わざと山手線の外回りではなく内回りに乗せ、自分は外回りで先回りして駒込駅で待っていて謝り、彼女の電話番号を書いてもらったが、そのマッチをなくしてしまう。このことは大アジア主義、日満親善、日華親善の旗印をあげながらも逆方向、つまり「大日本主義」を押しつけ、戦後謝罪はしたが、国会議員すら「不適切な」発言を繰り返す日本のメタファーでなければ何だろうか。
「澱(おり)」のように残る中国の存在
話はまだ続く。28歳の時の主人公が高校時代の華僑の同級生に出くわしたのだが、彼が誰だか思い出せない。そして言われた。
「昔のことを忘れたがってるんじゃないのかな、それは。潜在的に、というかさ」
「昔のことを本当にひとつ残らず覚えてる」
この作品が発表されたのは1983年である。その前年、おそらく春樹が「中国行きのスロウ・ボート」を執筆していた最中はいわゆる「歴史教科書問題」が国際問題となっていた。歴史教科書の中で「日本軍が華北に『侵略』」と表記していたのに、当時の文部省の検定で「進出」という表現に改めるように指示がだされたという事実に、中国や韓国が猛反発した。そして私はその教科書を中学一年生の社会科で使用した第一世代である。
ところで96年にオランダ人から父親の中国における戦争体験に関するインタビューを受けた際、父親から詳細は「聞きたくなかった」としつつ、「父にとっても心の傷であるに違いない。だから僕にとっても心の傷なのだ。」「僕の血の中には彼の経験が入り込んでいると思う。そういう遺伝がありうると僕は信じている。」等と言いつつ、翌日オフレコにしてほしいとの旨、連絡があったという。とはいえ、別のインタビューで、なぜ戦後世代のあなたたちが戦争の責任を取るかと問われた時には
「日本人だからです。中国での残虐行為について本で読むと、信じられません。あまりにも愚かで、ばかげていて、無意味です。あれが父や祖父の世代です。彼らを駆り立てたものをしりたいのです。」
と答えている。つまり自分は中国で人殺しをした人間の子どもである、ということを、知りたくもないし、認めたくもない。だけど忘れるのではなく「抱え込みながら」生きていくことを選んだのだろう。一方でこの私は河北省で駐屯していた祖父の、まるで「青年海外協力隊」にでもいったかのような、現地の子どもたちと桃の花見をしたり、運動会をしたり、餅つき大会をしたり、慰問団の女性歌手と仲良く白黒写真に収まる姿を見ていると、戦場の「リアル」が分からなくなってくる。
私も祖父に人を殺したのか聞いたことはない。もし殺していたことを知ってしまうと、確実に私の中のなにかが悪いほうに変わってしまいそうだからだ。祖父が九十歳で亡くなる前に、聞こうかと思ったが、聞かないまま現在に至るのが、よかったかどうかわからない。が、それだけに村上春樹の中で中国の存在が「澱(おり)」のように残りつつも、忘れずに、作品の「影」の部分に落としこんでいるのはよくわかる。
「僕のためだけの中国」と「脳内アジア」
彼にとって「中国」とはどんな存在だったか分かるのが「中国行きのスロウ・ボート」次の一文だ。
「僕はそのようにして沢山の中国人に会った。そして僕は数多くの中国に関する本を読んだ。「史記」から「中国の赤い星」まで。僕は中国についてもっと多くのことを知りたかったのだ。それでもその中国は、僕のためだけの中国でしかない。それは僕にしか読み取れない中国である。僕にしかメッセージを送らない中国である。地球儀の上の黄色く塗られた中国とは違う、もうひとつの中国である。それはひとつの仮説であり、ひとつの暫定である。ある意味ではそれは中国という言葉によって切り取られた僕自身である。」
いってみれば彼にとっての「中国」とは「脳内チャイナ」なのだ。またそもそも「大アジア主義者」にとっての「アジア」も、日本を兄と慕って従順にいうことを聞いてくれるかわいい「弟分」としての「脳内アジア」に過ぎないことに気づいた。そして2005年の朝日新聞のインタビューで、日中戦争についてこう語っている。
「僕にとって、日中戦争というか、東アジアにおいて日本が展開した戦争というのは、ひとつのテーマになっています。知れば知るほど、日本という国家システムの怖さのようなものが、時代を超えてそこに集約されている気がする・・・・国家システムみたいなものから自由になりたいという思いと、そこに小説家として関わっていかなければならないという気持ちが同時にある。」
大アジア主義者の「守破離」
早稲田を歩きながら、創立者大隈重信、反骨のジャーナリスト石橋湛山、そして世界的作家村上春樹について考えてきた。満蒙の権益を守りつつ日華親善を求め、中国人にまともになるべく促す大隈重信。そもそも日本にとっても満蒙権益は負担になるので植民地を放棄して貿易に徹するべしと、小日本主義を唱え続けた石橋湛山。そして中国で中国人を殺したかもしれない父親の血を受け継ぐ者として、中国のことをこころに留めおく村上春樹。
「大アジア主義」という視点でみると、一見自由民権運動の旗手でありながら、対中的には侵略主義丸出しの国権派に見える大隈重信だが、実は清国人、中国人留学生を大量に早稲田で学ばせたり、梁啓超や孫文らを支援したりしていたことを知れば、意外と大アジア主義者に近いように思えてきた。大アジア主義者は実に一筋縄ではいかないのだ。矛盾をはらみながらもアジアを支援していた典型的な大アジア主義者として、「守破離」の三段階で言えば「守」といえよう。
一方、植民地放棄を訴える石橋湛山が最も大アジア主義者に近そうだが、彼はあくまで計算に基づいてお荷物になるようなものは捨てろと言っているだけに過ぎないかもしれない。つまり、日露戦争で得た満蒙権益をサンクコストにしてまでも手を引いたほうが良いというのは日本に潤沢な資金がないからであり、逆にそれがあれば放棄する必要はないのだ。彼はアジアにかかわりながらも、「同じアジアの兄弟」に対する義侠心から立ち上がる大アジア主義者の殻を破って、エコノミストであることに徹している。いわば「破」の段階にあったと言えよう。
そして自分の血の中に流れているかもしれない「人殺し」のDNAを確認しなくとも、ジャズやアメリカのハードボイルドなど、都会的な文化あふれる小説群の「裏方」に、主観的な「脳内チャイナ」であることを分かっていてもあの戦争、もっと大きく言えば近代日本における日本とアジアとのかかわり方を練りこみつつ、一般の読者にはそれをあまり気づかせない彼の手法は「離」の段階に達しているように思えてきた。
探求心
「大アジア主義」を日中関係に絞って歩いてきた。今文章を打込んでいると、日時は木曜日20時、また息子の中国語のやる気がなさそうな発音が聞こえてきた。息子は中国生まれで9歳になるまでのうち2年弱を長春で過ごしてきた。三年生の夏にはあちらで見知らぬ子に「南京大屠杀」のことで責め立てられもしたという。長春人なのになぜ「伪满(満洲国)」のことを責めずに、南京なのか。おそらく学校の教師の受け売りなのだろうが、日中双方の「探求」を排除した歴史教育のあり方に呆然としてしまう。
それでも中国語を学んで数十年、私はつねに中国のことを考え続けてきたように思う。二十代前後に大アジア主義に憧れたが、そのうち沈静化した。しかし日本各地を歩くたびに日中の交流に関する場所を見つけると引き付けられるように行ってしまう。そして我々東亜の先祖たちが大切にしてきた、同じ漢字を使う兄弟との横のつながりが、昨今は日本の側から心を閉ざそうとしているのに心を痛めるようになった。なぜかつて隣国に関わろうとしたのか。そこに感情と「お勘定」がからまってこその大アジア主義ではあるが、それが両国にいかに深刻な相互不信をもたらしたかをこれまで見てきた。
思うに我々中国語や韓国語の通訳案内士の仕事は、一方的に断罪されがちな先祖らが、どのような思いをもってアジアと接してきたかをひも解き、どうしてもの場合には隣人たちに静かに伝えることも含まれるのではないか、そのためにはもっと探求を深めるべきではないか、などと思いつつ、探求型、発信型を標榜する通訳案内士試験道場のゼミに改めて取り組もうと思う。(了)