
大学で学ぶと左に偏りやすい説② 教室の植民地化
今回例に出したアメリカ人講師のように、私は学生時代から「大学に籍を置く研究者のマジョリティは急進的な考え方が正しくて賢いと思っているのでは」と感じていた。大学というと最先端の研究をしているイメージがあるが、私は新しい考え方が常に正しいとは思わない。研究は試行錯誤の繰り返しで、こういう突破口が新たに見つかった、と思いきや、やっぱり違ったみたいなことはよくある。正しいと思って発表した論文が間違っていると指摘されたり、違う機関で調べたら違う結果が出ることもよくある。文系アカデミアでも当然、様々な学説を色んな角度から検証する必要がある。
彼女の授業では現代の社会におけるジェンダーロールも扱った。アメリカというと日本より女性の社会進出が進んでいるイメージが勝手にあるが、歴史上、女性が大統領になったことは一度もなく、今だに中絶が事実上禁止されている州も少なくない。企業で主導的に仕事をしているのは依然として男性が多く、女性はそれを補助する役割に留まっていて、その上家事育児の負担も女性に偏っているという。
当時、私の大学では「リーダーになれ」というスローガンが掲げられていた。おそらくこれを考えた人は、意思決定の場に女性がいないと社会がどうなるかを知っているのだろう。しかし、大学生はまだまだ子供だ。自分のことで精一杯が普通だと思うし、教育でディスカッションの場が提供されない日本のような国でリーダーシップを身につけることは難しい。大学構内どこへ行ってもこのスローガンがあり、授業や講演会では社会で活躍している女性政治家や起業家を紹介される。私は徐々に、自分が彼女たちのようになれなかったら、社会で活躍できなかったら、と考えるようになっていた。自分も男性を補助する役割で一生を終えたら?自分の存在価値がなくなるようで、恐怖すら感じていた。
話は戻って、授業は次にジェンダー論の話になった。ここで決定的な出来事が起きる。そのときもスカートとズボンどっちが好きかから始まり、女の子らしさを強制されたことはないかと教室に聞いて回っていた。デリカシーがねぇなと思いつつ、結局性別に合わせた格好をしなくていいみたいな当たり前のことを言っていたと思う。
その頃ちょうど私は女装をしてSNSに投稿する男性とそれをチヤホヤする人たちに疑問を持っていた。今日は除毛をしたとか、スカートを履いたと言うだけで「女子力が高い」だの「女子として負けた」だの、女性という性別を着せ替え人形のように扱い、現実の女性を卑下する言葉に嫌気が差していた。架空のキャラクターの真似をするコスプレと違い、女性はみんな個性がある生身の人間なのに、と。
「性別関係なく好きな格好をすればいいけど、最近話題の女装男子みたいなのは苦手です」みたいな話を日本人講師にしたら、その方は年配で趣味として女装をする男性の存在を知らなかったらしい。近くに来ていたアメリカ人講師に知ってる?と聞いた。彼女は私が性同一性障害のことを言っていると思ったのか、「脳のせいでそういうこともある」と言った。
すると、次の授業はジェンダー論の続きとしてLGBTQ+の話になった。これは私の発言を受けたもので、偶然ではないと思う。彼女は「徐々に世の中で性別らしさ、ジェンダーの固定概念が解体されていくなかで、何をもって男性もしくは女性かを説明するのは難しくなっている」と言う。そして、トランス男性が股から血を流しながら抗議活動をしている写真を見せながら「生理がある男性もいるし、生理がないけど女性の人もいる」として、「性的マイノリティに連帯すると経済効果もある」と言った。
これが「知識」であり「知性」なのだと自分に言い聞かせながらも、私は本当のところ、ジェンダーが解体されても何をもって男性か、女性か説明できなくなるわけがあるかい、と思っていた。
アメリカの有名シリーズドラマ『911 Lone Star』にトランス男性の消防士が登場する。そのなかで、意中の女性とデートに行ったが、トランス男性であることを理由に交際を断られてしまうというエピソードがあった。そのときに女性は「私は自分が思っているよりも先進的じゃなかった」と言う。まるで女性の考え方に非があるようなセリフだなと思いつつ、どうしても歴史の浅い国の人々にとって先進的であることは正義なのだろう。
講師のような歴史嫌いのゴリゴリの左翼リベラル民主党支持者(本人談)はまさにそういう考え方なのだろう。当時、私はどちらかというとリベラル寄りと自負していたが、彼女にとって私は頭が凝り固まっているただの保守主義者だったようだ。事あるごとに私の思想を軌道修正しようとしてきた。
私の大学は名門扱いされていた時代があった。私が入学したころには偏差値もすっかり落ちていて、正直塾に通わなくても入れるレベルだったが、いまの50代以上の世代だといまだに一目置いている人が多い。そんな歪みが生徒たちのマインドにも影響していて、自分を含めプライドの高い子が多かった印象だ。
講師は生徒たちが他人からどう思われたいと望んでいるかを見抜いていたと思う。その上で左翼的価値観を植え付けたのだから、教室はすでにアメリカ民主主義の植民地と化していた。あのとき同じ教室にいた生徒たちがいまどこで何をしているのかは知らない。しかし、真面目な生徒ほど授業の内容に影響されやすい。「自分の考えはともかく、これが正解と教わったからそうなのだろう」「大学でこう教わったから、世の中的にもこれが合っているのだろう」と考える人は少なくないはずだ。
信じるか信じないかは個人の自由だ。しかし、私が問題だと思うのは、生徒自身に考える余地が与えられていなかった点だ。大学の授業のほとんどは講義式で、講師が一方的に喋っている。そんな環境で生徒に考えさせるのは簡単ではないだろうが、それなら「これに関してはこういった複数の議論が存在する」と紹介するべきで、持論をちらつかせながら生徒の知性に対する願望を人質に取って彼らの思考を誘導するべきではない。
たまたまそういう極端な講師に当たってしまったのだろうと思う人もいるかもしれないが、現代のトランスジェンダリズムを推し進める勢力にアカデミア出身者は多い。私の夢のひとつはイギリスの大学でトランスウィドウをテーマとした研究をすることだが、少し前に現地の大学のことを調べてみて驚いた。「女性学(Women's Studies)」で修士課程を用意している大学は1校のみで、それ以外の学校のコースはすべて「ジェンダー学(Gender Studies)」に姿を変えていた。
ジェンダー学にはもちろん生物学を無視したトランスジェンダリズムやクィア理論が含まれる。そんな場所での学びは当然ながら私は望んでいない。仮に女性学をまだ残している学校に入れたとしても、その「女性」の定義は何なのかは授業料を払ってからじゃないと知ることは出来ないかもしれない。ここにきてようやく私は「アカデミアにおける知性の評価はいかに急進的かにかかっている」ということを再認識した。
その上で私はトランス女性は女性だと主張するフェミニストやフェミニスト団体に聞いてみたい。心は女性だという男性を女性スペースに招き入れることが、女性にとってどんな利益になると予想しているのか?男性として生まれたけど女性になりたいと言う男性に対して「あなたは女性です。」と伝えて何を望むのか?フェミニズムを支持するなら、なぜトランスウィドウの存在を無視するのか?
トランス女性は女性だと主張するフェミニストやフェミニスト団体は、トランスジェンダリズムがもたらす女性への影響よりも、自分がどう見られたいか、どう思われたいかを優先している。トランスジェンダリズムによるフェミニズムの分断は結局のところ思想戦争で、思想として完璧そうに見える性自認至上主義を選べば、おのずと現実社会で起きている事柄に鈍感になる。私は自分の願望より女性にとっての実際の影響を重視したいし、そのためなら学門上優れた思想など何の役にも立たないから捨ててしまえとすら思う。
私が包括的キラキラフェミニズムに飲み込まれることは結果的になかったが、講師の思想とは別に、私は彼女の絶対的に自分が正しくて生徒は無知が前提の講義スタイルに段々腹が立った。
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