
トランスウィドウからみたトランスジェンダー③ ポルノの影響と女性のモノ化
男性が女性になりたいと思うきっかけは様々だが、精神医学者や心理学者はポルノの影響を指摘する。『インターネットポルノ中毒』によるとインターネットでポルノを観て自慰をする習慣がついてしまうと、人間はその刺激を超えるものを求め始める。その結果、アブノーマルなポルノに手を出して、現実の性行為でオーガズムに達することが難しくなるという。その「アブノーマル」なジャンルには胸はあるけれど男性器がついたままといったトランスジェンダー女性も含まれる。最初はアブノーマルなポルノを観ているだけで満足していたはずが、徐々に現実で自分も体験してみたくなる人がいるという。
女性の格好をしている自身に興奮を覚える男性は『Autogynephilia(オートガイネフィリア)』と呼ばれている。彼らの特徴は女性の性的な部分のみに執着することだ。裸に網タイツやガーターベルトだけといった一昔前のポルノスターのような格好をしたり、女性特有のイベント、授乳や生理を性的に捉えた自撮りをアップロードしている姿は有名だ。
『Behind Looking the Glass』ではオートガイネフィリアと思われる夫がいたトランスウィドウたちが複数登場する。カムアウトに違和感を覚えて夫を調べると、変態グッズで埋め尽くされた隠し部屋や、性的な写真や動画が山のように出てきたと彼女たちは証言する。オートガイネフィリアの異常性癖は単なる女装でおさまらず、ペドフィリアなどのより過激で反社会的な刺激を求める傾向にある。なかには子供や妊娠している妻がいながらカムアウトし、婚姻関係はそのままで男性とデートしに出かける男もいるという。
この行為は「Objectification(女性のモノ化)」以外の何物でもない。女性の性の部分のみを切り取って強調し、女性を名乗る。実際は女装をしている自身にしか興奮できない異常性癖を抑えることができないだけなのに、トランスジェンダーを名乗ることで彼らの異常性は正当化されている。オートガイネフィリアはあくまで女装をしている男性の自分が好きなので、性転換手術はおろか、ホルモン治療すらしていない。また、これはあくまで私の推測だが、男性器を取ってしまえば、射精の快感を味わえなくなるので、それを避けたい人もいるのではないだろうか。
少し話が逸れるが、日本の裁判で性別適合手術を受けていない男性が女性になることが認められた際に、裁判資料に「陰嚢の縮小」が認められたとあった。多くの人が誤解をしていそうだが、ホルモン治療で男性器の衰えがあったとしても、ホルモン治療を中断すれば男性器としての機能は復活する。機能が低下したからといって、精子の生産がなくなったり、生殖機能そのものが失われるわけではない。性自認が女性だからといって、恋愛対象が男性に変わるとは限らないし、オートガイネフィリアでレズビアンを自称する男性もいる。包括的性教育を推し進める国が多い一方で、こうしたトランスジェンダー側に都合の悪い事実を報じるメディアは少ない。
オートガイネフィリアであろうが、彼らが「女性」を名乗っている限り、彼らも現代のトランスジェンダーのカテゴリーに含まれることになる。「性別は自分で決める」と主張しているのだから、当然だ。しかし、近年のトランスジェンダー界隈では、性同一性障害とトランスジェンダーを同一視することに抗議したり、どう見ても女装している男性にしか見えない、女になる努力をしていないトランスジェンダーを受け入れない派閥もいる。私はこのムーヴメントはちゃんちゃら可笑しいと思っている。なぜなら、きっかけや原因は何であろうが、トランスジェンダーが女性という性別をモノとして扱っている事実は変わらない。
何をもって人を「女性」とするか、私はこのテーマすら実に馬鹿馬鹿しいと思っているが、実際に性自認が女性になった男性を観察すると、女性のような格好をし、女性のスペースを利用することで女性になったような気になっている。女性の象徴ともいえるロングヘア、スカート、化粧、無駄毛の処理、声の高さ、立ち振る舞い、物の好みなどを真似する。そこである程度の自己満足を得たら、今度は周りに女性として認識されようとする。私の元夫もカムアウト直後はそれらを網羅しようと、それはそれは必死だった。
私の元夫は女性ホルモンを打ちにGPへ行ったときに、その場にいた助産師から妊婦検査に来たと間違えられたと嬉しそうに話していた。それほど女性に見えると言いたかったのだろうが、私は彼の発言になんとも言えないグロテスクさを覚えた。日常の一部で「女性の格好をしているけれど、この人は本当は男性かもしれない」とわざわざ疑いにかかる人はいるのだろうか。また、彼は公的書類上で性別を変更したあとに、NHSから子宮頸がん検査の案内が来たと興奮しながら言ってきたこともある。常識的に考えれば、書類に性別が明記されているのだから当たり前のことなのだが、彼にとってはそれも「女である証」になった。
しかし、象徴はあくまで象徴であって、女性であることの証明にはならない上に、ジェンダーロールや偏見をより強調して、人々を性別の枠に押し込める結果となった。私が憤りを感じる点は、トランスジェンダーたちが女性という性別を都合の良い着せ替え人形のように扱っているところだけではない。彼らは男性として生まれ、男性として社会に存在していた。社会は男性によってつくられたのだから、前提として法律や風潮は男性にとって有利なようになっている。この事実に反発する男性は多いだろうが、本人たちが自覚していないところで男性であることの利益は享受されているのだ。
女性であることに苦労した人ほど、男性がどれだけ社会で優遇されているかが分かるだろう。彼らが当たり前のように四年制大学に進学し、総合職の面接に行き、新入社員として先輩のサポート役から始めて昇進できるのも、すべて男性としての特権だ。これが女性に生まれるとどうなるかというと、女子だから短大、専門学校でいい、文系でいい、進学じゃなく就職でいい、一般事務でいい、正社員じゃなくてもいいとなる。この女性の人生に対する「妥協」は昔話ではない。殆どの男性にとっては昔話どころかお伽話に聞こえるだろうが。
私が「性別は選択」派に問いたいのは、女性として人生をやり直すつもりのある男性はいるのか、ということだ。女性を名乗る以上、男性として享受してきたその特権と利益を全て放棄する覚悟はあるのか。男性から女性になるということは、今いる地上から突き落とされて、地獄の底から這い上がるということだ。聞くまでもなく、私は彼らの言い訳と答えを知っている。「不本意に男性として生まれて育ったのだから、今まで積み上げてきたものを手放す必要はない」
元夫から女になりたいと告げられたとき、私はこの人は大きな勘違いをしていると思った。女で良かったことなんてひとつもないよ?と反射的に言ってしまいそうだった。社会運動やアファーマティブアクションの影響で、男性にとって今の社会は女性に有利なように見えるだろうが、不公平だったパワーバランスをより平等にしようとしているだけで、依然として社会は男性のものだ。その現実を受け止めないだけではなく、男性として享受してきたものを手放すつもりもないまま女性を名乗りたいというのは、実に「男性的な」感性だと思う。
私がトランスウィドウでなかったとしても、トランスジェンダーたちによる女性のObjectificationには異議を唱えていただろう。それほど彼らの女性に対する見方には違和感があり、軽蔑に値するものだと考える。
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