
トランスウィドウと呼ばれること
私がかねてから記事にしたいと思っていたことは、『トランスウィドウ』という言葉についてだ。正直なところ、私は最初にこの言葉を聞いたとき、あまり良い気分ではなかった。ウィドウ(未亡人)というのは夫に先立たれた女性のためにあるもので、死は避けられるイベントではない。その名称を引用するのは、自分のなかで何となく不謹慎というか、不適切だと感じていた。
Twitterやnoteを始めてからも、身の上話になるときはわざわざ「元夫がトランス女性を自認」と言及していた。しばらくしてTwitterの文字数がなかなかキツいと気づいた私はまだしっくりきていないものの、トランスウィドウを使い始めた。気持ちにはっきりした変化があったのはトランスウィドウについてのドキュメンタリー『Behind The Looking Glass』を観てからだ。
このドキュメンタリーについては別の記事で詳しく触れる予定だが、国や人種を問わない女性たちの証言に私の心は大きく揺さぶられた。彼女たちが体験した社会的圧力、孤立、暴力、虐待には多くの共通点があり、この作品は確実に現代のトランスジェンダリズムに一石を投じる存在になると思う。
『Behind The Looking Glass』を観てから、私はようやく自分自身がトランスウィドウであることを認識した。同じような経験のある人が一定数いると分かって安心したのもあるし、私の経験は何も恥じることではないと感じたからでもある。それ以前からTwitter上で私がトランスウィドウであることを知って、温かい言葉をかけてくれる人はいた。トランスジェンダリズムに懐疑的な私の主張に賛同してくれる人もいた。しかし、私はずっとどこかでトランスウィドウとして孤独を感じていたと思う。騒がしいパーティーから帰宅すると少しだけ寂しいみたいな状態が続いていた。
映像は強烈だ。私は文学部出身で、論文にしにくい映像作品はいくら傑作と呼ばれるものでも敬遠されていた。そんなこともあり、学生時代は映像作品から遠ざかっていたのだが、そのときの反動か、今は本より映像に触れている時間の方が多いと思う。トランスウィドウのような一種の「社会的タブー」の話題にも、名前と顔を出して戦っている人たちがいる。そして何より、トランスウィドウに着目してくれる人たちがいる。初めて自分の存在が見えないものではないと感じた。
それに加えて、私自身、自分が好きだった元夫は死んだと思っている(→『トランスジェンダーというカルト⑩』)。これは彼にカムアウトされて性別肯定治療の実態を知ってからずっと思っていることだ。実際に彼も男性を自認していたころの話はしたがらないし、今は全く違う人間になったと思い込んでいる。病気になると人は別人の変わってしまうというが、本当にその通りで、むしろ昔の思い出が傷つかないように別人だと思った方が良いのかもしれない。
パートナーの性自認の変化は、人間の死と同様に避けられるものではない。結婚する前にもっと相手のことを知っていれば、とか、自分が違和感に気づいていればなどとつい考えてしまうものだが、それは結局自分の力ではどうすることもできない。むしろ今の世の中なら相手の決意を否定したり、止めることのほうが問題だろう。その上、トランスウィドウたちはまだ世間から認識されている存在とは言えず、サポートやケアの対象とすら思われていない。まさに夫に先立たれて家にひとり取り残された未亡人のようだ。
大半の死別の場合、世間からの同情や慰めが無条件にある。だが、トランスウィドウの場合はそうではない。世の中には「トランスジェンダーへの差別はいけない」という思想が既に存在している。性的マイノリティは絶対的弱者で、保護されるべきという既存価値がある。そんな状態でパートナーの性自認が変わって離婚したと聞いたら、ほとんどのひとはどう反応していいか迷うだろう。私自身、実生活で離婚理由を話して同情されたことは一度もない。それほど深い友情を育んでこなかったのもあるが、みな差別者のレッテルを張られることが怖いか道理に反すると思っているのだろう。実生活でトランスウィドウだと言う人と出会ったら、私はまず彼女がどれほど孤独だったかを反射的に想像してしまう。それほどトランスウィドウは社会から取り残されている。
そんな現実や自分の実体験も手伝って、トランスウィドウという言葉はよくできていると感心した。一方で、レイチェル・モス氏のようにパートナーが性自認を変えたことくらいで未亡人という言葉を使うな、という女性たちもいる。
彼女たちの気持ちもわかる。しかし、残念ながらこれもトランスウィドウたちの体験が過小評価されている例だ。引用したブログのコメント欄に「トランスジェンダーたちがトランジション前の名前を自らdead name(死んだ名前)と呼んでいるのにトランスウィドウだけに噛みつくのか」「未亡人という言葉はあなただけのものじゃない」など指摘があるように、誰かの苦しみをランク付けしたり批評すること自体が間違っているのだ。トランスジェンダリズムのようなイデオロギーの圧力に言葉狩りの勢力が加われば、トランスウィドウたちはますます口を閉ざしてしまう。
そもそもトランスウィドウは誰が作った言葉なのか。レイチェル・モスが引用したテレグラフの記事は2021年となっている。調べてみるとはっきりした情報は出てこなかったが、マムズネットでは2017年頃から既に使われていた。ネット発祥の言葉かもしれない。
夫のセクシュアリティが変わって、それに納得できないなら離婚すればいいだけの話じゃないかと思う人もいるだろう。離婚は膨大なエネルギーを要する。たとえ双方が納得の上の決断だったとしても、引越し、名義変更、書類の手続きや準備などの事務的な手続きの大変さは変わらない。子供がいたら、これに親権や養育費の話も加わる。それだけでも相当なストレスだ。俗にいう「円満離婚」は法廷に持ち込まないで離婚できたというだけで、円満な離婚など存在しない。
それとは別に精神的な負担も大きい。離婚したくて堪らない場合は多少ポジティブになれるのかもしれないが、変化へのストレスや1人の生活に戻る不安は誰しも感じるものだろう。特にトランスウィドウには相談できる相手がいない。いくら仲の良い友人や家族がいたとしても、彼らがジェンダーイデオロギーに染まっていない確証はない。うっかり話して包括的な説教でもされたら、余計に追い詰められる。つまり、離婚が原因で今まで築き上げてきた人間関係が変わる可能性があるので、誰も信じられない状況になる。
特に私のように常に極端な人間は、新しい友人ができると、その人がどういう政治的思想をしているのかを探ってしまう。ずっと信頼していた友人が私の苦しみよりトランスイデオロギーを優先すると知ったら、耐えられないからだ。離婚以前からいる友人に対してもそうだ。付き合いが長くなると、私はやんわりと離婚原因を伝えるようにしている。そのくらい政治的な裏切りを恐れている。
つまり「たかが夫のセクシュアリティで」とか「すぐに離婚すればいい」という世間の声があるとしたら、それは全くのナンセンスで、夫のセクシュアリティの変化は確実にトランスウィドウたちの人生に影響を与える。彼女たちの孤独は社会による男性優遇によるもので、人為的で、本来防げるはずのものだ。しかし、世間はトランスウィドウやトランンスジェンダーの子供たちの苦しみよりも、莫大な利益をもたらすジェンダー肯定医療を優先する。
私はトランスウィドウという言葉が未亡人たちや誰かに対する侮辱とは思わない。必要だからこそ、需要があるからこそ新しい言葉が生まれるのであって、誰が名付けたにせよ、その言葉で呼ばれる側の責任ではない。むしろ、トランスウィドウとは何か、どうしてそう呼ばれるようになったかに関心を抱いてほしいと思う。