人を分類する癖は死ね
小学生の頃や中高の時の友達を、今思えばこのタイプに分類されるから、今頃はこうしているんだろうという予測を立てることは最近になって初めてのことだ。
久々に旧友に会うと、学校以外の面を初めて知ることになる。
仕事に対する思いや異性との関係、お金の使い方や家族との時間の使い方。
もっと細かく言えば、家ではどんな姿勢で食事をして、お風呂はどう掃除するのか、LINEの未読はどれくらい溜めるのか、陰口についてどう考えているのかなど、昔はそんなこと気にも留めなかった。
もちろん、子どもなりに「こいつといると楽しくない」とか「1人だと静かなのにこいつといると盛り上がるよな」みたいなものは感じていたが、いわゆる陽キャだとかDQNだとかあざといとかADHDとか、そんなことは考えもしなかった。
久しぶりに会った中高の同級生は、すでに仕事を転職していたり、恋愛には疎く今でもネットの中で楽しそうだし、実家暮らしでどこに向かっているのかは僕には分からない。
僕は中高の6年間を共にした男子だけの同窓会に行かなかった。なぜなら、25くらいになって大学院に行った人も就職し、社会人の塊となった集団と居合わせたくなかったからだ。
そこで彼らについて想像してみると、ゴルフを楽しむ人や、近々結婚を控えている人、今でも妬むのが癖になっている卑屈な人、海外に出て世界を感じている人、色々いる。
なんでも分類したがるのは人の性なのか、昨今若者の間ではこの「分類したがる」というのが一つのキーワードな気がする。
つまり、今思えばあいつは陽キャだったなとか、あいつ思ったより顔整ってたよなとか、あいつは色んな人とヤってそうとか、こいつ老けたよなとか、好きだった人も同じ部活だった人も、仮に今同じようなコミュニティにいたら気が合わなそうな人っていうのがたくさんいる。
人を分類するというのは、往々にして嫌な言い方であることが多い。
あいつは陰キャとか、DQNだとか、GUCCIのキャップ被ってそうとか、メンヘラとか、自分と遠いジャンルの人たちを敬遠して揶揄している。
ただ思うのは、人がそうしているのを見ると、関わる人間を狭め、損をしているように思える。人を分類する行為は、そいつらと違うとして自分を正当化している、哀れな逃げの行為なのだと思う。