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とあるバンドマンの官能夜話 ~第十話

12月8日ジョン・レノンの死の意味について想

ジョンレノンが死んだことを知ったのは、私が二十歳の冬の日である。当時プロを目指して一緒に活動していたバンドのベース担当と一緒に、リハに向かう途中の梅田の地下街、阪神百貨店の前の、地下鉄駅の階段と阪急百貨店から階段を降りて来る人が合流する少し広くなった所と言えばわかりやすいだろうか、めずらしく号外を配っていて、それを受け取るとジョンレノンが凶弾に倒れたと言う記事だった。

当時はロックからフュージョンへ、そしてジャズへと自分の音楽指向は変化して行っていたのだが、そんな中でポップス系のプロ志向のバンドにも参加していた頃だった。

中学の頃からビートルズはつかず離れずと言う関係で、ギタリストにとってビートルズと言うのはそれほど面白いテーマではなかったので、たまに思い出して聞いている程度だったが、それでも楽器を始めた頃に聞いた音楽と言うのはいつまでもベーシックな部分に存在し続けるもので、五十代半ばを過ぎた今でもビートルズのほとんどの曲は知っているし、何となく口ずさめたりはするのである。

そんな熱狂的ではないビートルズファンだった私にもジョンの死と言うのはかなりの衝撃をもって心に突き刺さってきた。号外では事件の背景については詳しくは触れられていなかったが、彼ほどのビッグネームのアーティストに銃を向ける人間と言うのは正常な精神の持ち主でないことは想像出来た。

当時想ったのはその程度のことで、その日が12月8日であることも心に残っているのであるが、何故その日付までが心に残っているのかと言うと、「トラ・トラ・トラ」と言う真珠湾奇襲を描いた日本映画の中で「ヒトフタマルハチ(一二○八)トラ・トラ・トラや!」と日本からの暗号分を読み上げるシーンがあって、真珠湾奇襲の日が12月8日であることが当時心に挟まっていたのにプラスして、ジョンの死と言うミュージシャンにとってかなり刺さる事件の日付が重なって36年を過ぎた今でもその日が来る度に思い出すのである。

そう、あれから36年。長い月日が流れて、色々な経験を重ねた今、再びジョンの死について思索してみると、皮肉な結論にたどり着いてしまうのである。

歌と行動を通じて「愛」で「世界平和」の推進を訴え続けたジョンだったが、彼の死は「歌や愛では世界は変わらないこと」を証明してしまったのではないか?そんな風に思えてしまうのである。

こんなことを書くと炎上なんて言う昨今だが、無記名の雑論を恐れて言論の自由を放棄するつもりは全く無いので書かせてもらうと、愛で平和が保たれると信じているのは自衛隊の存在に反対するような平和ぼけした人間のすることなんだとつくづく思うのである。究極は「愛」があれば平和になると思うが、隣人が武器を持って土足で踏み込んでくると言うのは隣接した国境を持つ国では当たり前のことであるし、お隣韓国は未だに「戦時中」であるし、当然ながらその為に徴兵制もひいているのである。

今年もこの日が来ると、ジョンの死と真珠湾奇襲を重ねて思い出すのであった。



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