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アート界の巨匠クリストは政府の偉い役人も小学生も同じ説明するという逸話に目からウロコポロリ

今朝、クリストが亡くなったことを知って、悲しい気持ちになりました。84歳だったんですね。ご冥福をお祈りします。

この記事のタイトルの「各地の名所をラッピング」という言葉だと、クリストのことをよく知らない人には、その凄さは伝わらないんじゃないかなぁ。


ぼくとクリストとの出会いは、おそらく1982年。

出会いと言っても実際に会った訳ではなく、高校生だったぼくは、その当時からデザインだけでなく現代美術にも興味を持っていて、生意気に『美術手帖』なんかも読んでいました。

1982年の4月号の『美術手帖』の特集「クリスト[未発表インタビュー]クリスト自作を語る」を見て、クリストのことを初めて知ったんだと思います。この表紙、よく覚えています。

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その当時は、現代美術に興味を持っていたと言っても、アンディー・ウォーホルキース・ヘリングくらいしか知らなくて、この『美術手帖』もたぶん表紙の「ウォーホル」に惹かれて買ったんだと思います。

表紙の島のようなものをピンクの何かで囲っているのって、絵だよね?  ということはクリストって人は、こういう絵を描く画家なのかな? 当時のぼくはこの表紙を見て多分そんな感じで思っていたんでしょう。

そして、『美術手帖』の特集ページをめくっていくごとに、スケールが大きすぎるクリストの作品にクリビツギョーテンしたんです。あの表紙のは構想のためのドローイングで、本当に「地球を包む」ことを実現しちゃうアーティストなんだ!と。

それ以降、何かの雑誌でクリストの作品を見るたびに、引き込まれて行きました。

『美術手帖』の表紙のドローイングは、【囲まれた島々】というマイアミの島をピンクの布で囲んだ作品で、その翌年の1983年に実施された写真を何かの雑誌で見たのですが、青や緑と言った自然の色とピンクの組み合わせが衝撃で、ぼくがピンク色を好きになったきっかけは、この作品だったんじゃないかと、今この文章を書きながら思っています。

【ヴァレー・カーテン】という1970年〜1972年にアメリカのコロラド州の山と山の谷間に幅381メートルのオレンジの色の巨大なカーテンを下げた作品にも衝撃を受けました。当時この写真を見た時に、自然の中に人工的な色と素材のモノが突如現れる( しかも超巨大な )ことによって、理屈じゃなくて、なんだか脳がムズムズする感覚を覚えました。


若い頃のぼくは、アート界の大巨匠のクリストともなると、こんなに壮大なプロジェクトにお金を出してくれる大富豪のパトロンがいるんだろうなぁ、羨ましいなぁ。。。と思っていました。


2017年の『美術手帖』のインタビューで、クリストはこう話しています。

私たちの作品は2〜3週間程度しか存在しませんが、実現には長い時間がかかります。『包まれたライヒスターク、ベルリン、1971-95』は25年、『ゲーツ、ニューヨーク市、セントラルパーク、1979-2005』は26年かかりました。
この50年で23のプロジェクトを実現しましたが、その裏では36が実現しませんでした。
1970年代初頭に、法律家と相談して会社を設立しました。私のオリジナル作品を売って資金を集め、プロジェクトを円滑に進めるためです。

クリストが時間に縛られず自らの意志でプロジェクトを進められるのは、莫大な資金をすべて自前で調達しているためということで、プロジェクトにお金を出してくれる大富豪のパトロンがいて良いな〜なんて思っていた、浅はかな脳味噌の俺のバカ、バカ、バカ。


今朝、亡くなったことを知ってから、クリストについていろいろ検索していたら、なんと、糸井重里さんが2011年に『ほぼ日』でクリストと対談しているじゃないですか!その当時見逃してた!

『ほぼ日』の「クリストさんとの短い対話。」は、それまで読んだいろんなインタビューや作品評のどれよりも、クリストさんの人柄が伝わってくる素晴らしいものでした。聞き手によって、引出される言葉が優しくて愛を感じます。( 先ほど書いたクリストの【ランニング・フェンス】などの作品もここで見れます↓ )

この糸井さんとの対談の中でクリストは、

どのプロジェクトにも共通するのですが、
いちばん大変なのは
常に「許可を得る」という仕事です。

例として、

イバラキ(茨城)にたくさんの傘を立てたときは
地権者の同意を得るために
一軒一軒の家を訪ねたのですが、
そこで出された6000杯の緑茶を飲みました。

6000杯というのは、誇張とのことですが、そこまでして説得して許可を得る努力をしていることがよく伝わってくるエピソードです。

この『ほぼ日』の連載の中の「クリストとジャンヌ=クロードを間近で見てきた柳正彦さんに訊く」というコラムも面白かった(ちなみに、1994年になって過去の多くの作品に共同制作者としてジャンヌ=クロードさんの名を追加したそうです。そして、なんと、クリストさんとジャンヌ=クロードさんは、2人とも全く同じ、1935年6月13日生まれなんですって。運命を感じちゃいますね)。

そのコラムの中にクリストの言葉として、こんな一節があります。

相手が政府の役人でも住民でも、
人を説得するには
自分で話をするしかないと思ってるのです。
自分たちの芸術を理解してもらうためには
交渉を代理人に任せるのではなく、
実際に現地へ足を運び
自分自身の言葉で説明するということが
いちばん大事なんだ、と。
そして、それも芸術の一部だと思っている。


そして、柳正彦さんがクリストとジャンヌ=クロードのことを、こう言っています。

おもしろいのは
政府のえらい役人に説明するときにも、
日本の小学生に説明するときにも、
彼ら、まったく同じ調子で説明するんです。
私たちは、
アメリカに住んでいるアーティストで
これこれこういうことをやりたくて‥‥と。
子どもに対しても、まったく端折らない。
すごく丁寧に、
情熱を持って説明をするんです。

目からウロコポロリ


これを読んで、ショックでした。

クリストは84歳で亡くなるまで、説明することまで芸術の一部と考えて作品を創り続け、しかも、子どもにも情熱を持って偉い役人にするのと同じように説明していたということですよね。

ぼくは今、54歳で、広告を制作するスタッフの中でも年齢はいちばん上の方。どの現場でもほぼほぼそうなんです。何かを創り上げるために、若いスタッフに説得や説明を任せていて、今の自分は、「許可を得る」仕事をサボっているんじゃないのか

自分で説明するにしても、決裁権のある人にはしっかりと、そうじゃない人には簡単に説明していたんじゃないのか。と、自問自答。

20代の頃は、仕事をしたい人に自分から猛烈に説得しに行っていました。

これからの自分の仕事の仕方を改めて考えるきっかけになりました。


亡くなる前のクリストは、【包装された凱旋門】という作品を構想中だったそうで、このプロジェクトはクリストの遺志によって2021年9月に発表されるそうなので、ぼくは実際のクリスト作品を見たことがないので、ぜひ見にパリに行きたい!

誰か一緒に、生クリストしに行きませんか?






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