大和八木エレジィ
38年の人生における、前半19年における最重要な街。それが大和八木という駅であり、主要な舞台は近鉄百貨店だったんです。
物心ついた時に家族で出かける場所といえば大和八木の近鉄百貨店。人混みに紛れないように、父親と手を繋ごうとして知らない大人の手を繋いで大泣きした地下道。
家族で外食した1番古い記憶は、近鉄百貨店の7階の中華レストラン。お子様セットを頼むともらえるおもちゃが嬉しかったあの店はもうなかった。
おかんと兄貴と3人で近鉄に買い物に行くと、必ずオカンが連れて行ってくれた一階の化粧品売り場の隅にあったアイスクリーム屋さん。兄はいつもバニラで、俺はいつもストロベリーやった。硬い木のベンチに兄と2人でアイスを食べながらおかんの買い物が済むのを待っていた。
四階にはおもちゃ売り場があり、地べたに転がり泣き叫びおもちゃをねだるよその子を尻目に、「あんなんしてお父さんとお母さんを困らせたらあかん」と思っていた。
小学校に入り、向かいの家の幼馴染親娘と、おかんと俺で近鉄百貨店に行くようになると待ち時間の間に100円を渡されて、幼馴染とよくやったコインゲームはとっくの昔になくなっていた。
高校に入り、高校最寄りの駅が大和八木だった事もあり6階の楽器屋とCDショップにはよく通った。買いもしないギターを眺め、楽譜を立ち読みし、CDコーナーで流行りのメロコアの試聴をした。
同じ六階にはプリクラコーナーがあり、同級生の男の子とプリクラを撮ろうと並んでいたら、ブースから出てきたのは1週間前に別れたばかりの別の高校の元カノで、すでに違う男を連れていて「アッ!」ってお互い声に出た。
その六階の楽器屋もCDショップもプリクラも無くなっていた。
地下一階のいわゆるデパ地下も大きく様変わりをしていた。親父とばあちゃんが好きでよくお土産に買って帰ってきた御座候は微妙に場所が変わっていた。
さっきの話に出た元カノとは違う元カノが好きでたまに食べに行っていたタコ焼きのくくるはそのままでそれだけなんかホッとした。
小さい時からずっと好きだった回るおもちゃ売り場はマイナーチェンジをしたがまだあったのもなんか泣きそうになった。
思い出の場所から、少し歩くと初めて友達とお酒を飲んだ八剣伝があるはずだった。学ランの上にノースフェイスの中綿ジャケットをチャックを1番上まで閉めて、パンチサワーと軟骨の唐揚げに感動したあの店もとっくの昔になくなっていた。
お金がない高校生がたむろしていた駅前のうどんつくし。
学割うどんってのがあって315円でうどん2玉と、刻んだ揚げが入っていたのをみんな頼んでいた。量が多くて飽きるから、エグいくらい天かすを入れたり、醤油を足して味変したりしていたのは懐かしい話。まだあったけど、お腹いっぱいだったのでまた今度。
そこからまた少しいったところにある、ミスタードーナツ横には「八木の主」と言われるホームレスと、たまに弾き語りをしている奴がいた。
十津川村の歌と鯉のぼりのうたを歌うストリートミュージシャンがいて、友達と3人で座りながら聞いていた。鯉のぼりの歌に歌を聞いて初めて涙を流したけど、あの人は今何をしてるのか。
また少し歩くと、高校生の時1番長く付き合った彼女と初めてのデートで行ったシネマアークという映画館があったはずなんだけど、そこももうなかった。
今の自分にこの八木って街が及ぼした影響って実はほぼほぼないと思うんだけど、でも自分と言う人間の骨組み、土台の硬い外側の中にあるとっても柔らかい部分に、この街はギュッと詰まってる。
家族との思い出とか、初恋だとか、今はもう連絡すら取らない友達との思い出とか。
土台の土に埋まってる、なんの役にも立たないけど、掘り出したら捨てられないものがこの街には多くあって、なくなったものを思い出す時の言葉に出来ない感情とかを大事にしていこうと思う。
なんかちょっと悲しいけど、胸にグッと来る大和八木エレジィ。また来よう。
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