一萬一秒物語🌟🌛#2
【14:59】から【15:00】へ。
一階のラウンジのフリップ時計がパタパタと音を立てて変わった。
シルバーの土台に、黒の文字盤。黒の上に映える数字は太めの白いゴシック体である。
「この時計ってどこで買える?」
初めて尋ねてきたのはドイツ人のゲストだった。
「えっと……どこだったけ」
すぐに答えられずにいると、
「何ていう名前の時計? ドイツに帰った時に調べて、同じようなのを買いたいんだ」
スマホを手に取り、ネットの検索画面を見つめる私。さて、どうしよう。
一度、目線を右上に逸らす。ゲストが期待を込めた目でこちらを見ている。
とりあえず、微笑んでおく。
時計から得られるビジュアル的情報と自分の中にある語彙とを照らし合わせる。
“パタパタと数字が落ちる時計”
不完全ながら最大限の表現で検索をした。
結果は、〈パタパタ時計〉〈フリップクロック〉とある。
――そのまんまやん!
性である。この方言がどうしても活きてしまうのは、絶妙な間合いでツッコミが生じる時だと思う。
“flip clock”
と、メモ用紙に書いてゲストに手渡した。
これまでにそんなやり取りが何度かあった。
この時計は萬家の中でも秘かに人気があるインテリアのひとつなのだ。
改めて時計を見る。午後三時。
午後四時に新しいゲストのチェックインが始まるまでの一時間。
連泊中のゲストはたいてい自分の部屋にいるか出かけているし、早く到着した新しいゲストも先に荷物を置いて出かけていたりする。
時折、地域の人や訪問客が来てくれたりするが、一人で過ごすことが多い時間だ。
入り口側の壁は全面、アシンメトリーの木枠で仕切られた窓ガラスと扉で、そこから昼下がりの陽光がゆらゆらと差し込んでくる。
館内の全ての清掃が終わった直後の爽やかさと、昼から夕方へ向かう穏やかさとが混じり合うこの時間が一日の中でも特に好きだったりする。
珈琲があればなお、と思いお湯を沸かす。
神戸の珈琲は美味しい。日本で初めて喫茶店で珈琲を販売したのも神戸と言われている。
萬家にも欠かせない地域の珈琲がある。
萩原珈琲〈ハギハラコーヒー〉だ。
創業は1928年(昭和3)、日本で初めて炭火焙煎を考案し作り上げた会社である。
萬家の近くにコーヒースタジオがあり、いつも丁寧に新鮮な豆を届けてくれる。
ゲストハウス萬家で提供しているのは「摩耶ブレンド」。
萬家以外で手に入るのは、萩原珈琲本社直売所と摩耶山上Monte702だけという、貴重なものである。
萩原珈琲が二年前に創業90周年を迎えた際に作られた特別な珈琲なのだ。
摩耶ブレンドを淹れる準備をしていると、階段の方から足音が近づいてきた。
下りてきたのはパクさんだった。
「車掌さんも手を振り返してくれたよ」
あれからしばらく屋上で過ごしていたらしい。
「今ちょうど珈琲淹れようと思って。パクさんもどうですか?」
「いいですね」
お湯の沸く音が一回り大きくなった。
透明なサーバーにしずしずと落ちていく珈琲の滴。
溜まっていく滴に窓から差し込む陽光が反射し、こげ茶色の液体がつやつやと煌めく。
珈琲の香りは午後三時のラウンジの空間に漂う爽やかさと穏やかさの中に程好い加減で溶け込み、より幸せな時間へと私を導いていくのだ。
〈続く〉