結露のためいき
仕事帰りに時々、夫が缶ビールを買ってくる。
夫はお酒を飲まない。だからその缶ビールは私のためのモノだ。いつからか、そうするようになった。
だからと言って買ってきたその日に飲まなければいけないわけではない。冷蔵庫にストックがないわけでもない。
それでも時々、夫は私のために缶ビールを買ってくる。それは私たち夫婦の会話のようなもの、無言のルール。
夫はお酒を飲まない。だから私のための缶ビールは、夫のアピールであり、意思表示。
時折、寝室に向かう夫が、無言でテーブルに缶ビールを置いていくことがある。寡黙な夫の「風呂上がりに飲んで」というささやかなアピール、密かな企み。
「ねぇこれ、緋色にあげてもいい?」
夫を見返すでもなく、じわじわと汗をかいていく缶ビールを見つめながら、なんでもないことのように無表情で返事を待つ。
一瞬動きを止めた夫は「どうでもいい」という態度で立ち去る。
(あ、拗ねた…)
そんな姿にほくそ笑む。
「なんか言えばいいのに」
小さくぼやく。
この頃夫は返事すらしなくなった。
結婚して20年。お互いもういい年だ。出会ったころこそくだらない話で夜更かしもできたが、子どもの成長に伴い、もともと寡黙な夫との会話はいつしか相槌だけになり、ベッドに入る時間も違えていった。
若い頃は、熟年夫婦の阿吽の呼吸のようなものに憧れていたものだが、実際にその時を迎えてみると張り合いのないものだ。咳払いや歩き方で機嫌が解る仲、それがいいと思うこともある。だが、そこに落ち着くほどの年齢でもなければ、そんな関係に満足するほどお互い心は枯れちゃいないのだと思う。いや、思いたい。
だからたまにこんないたずらをする。
「緋色にあげてもいい?」
「え?」
「さっき、飲みたいって言ってたから」
緋色はまもなく20歳になる私たちの愛の結晶。親ばかだがなかなかのイケメンだ。この頃、出会ったころの夫によく似てきた。
「帰ったのか…」
「うん」
私との会話がないくらいだから、大人になった息子と夫との間に会話なんてありはしない。シャワーの音で存在を確認する程度の距離間で、むしろ接触を避けているようにすら思える。
「いいよ。おまえに買ってきたビールだから、どうしようと」
そう言って寝室に吸い込まれていく夫の背中を眺めながら、私はいつも「にやり」としてしまう。背中には見えない夫の顔色が、つまらなそうにしているだろうことが想像ができるから、ついつい口元が歪んでしまうのだ。
(かわいいやつめ…)
それがヤキモチなのかは定かではないが、成長して逞しくなっていく息子の肢体に、かつては自分のものだった活力を感じ思うところはあるのかもしれない。もしくは、本当に無関心なだけなのか…私的には前者であってほしいところだが、本当のところは解らない。
夫婦だからと、なんでも手に取るように解るわけではない。現に、私がこの缶ビールに対し、僅かな期待や憤りを感じていることすら夫には通じていないだろう。
これでも私たちは社内恋愛だった。夫は2つ年下だったが、専門学校卒で、だから私たちは同期だ。無責任で、わがままな、なにもかもを楽しみに感じていた時期に出会ったふたりは、距離を縮めるのにそう時間はかからなかった。盲目であったとは思いたくないが、若さは時に真実に目隠しをする。
「あれ、親父は?」
風呂場でゴキブリ退治でもしていたのかというような音を立て、大げさなリアクションで出て来た息子は、パンツ一丁で頭にタオル。夫がいたなら「ズボンくらい履け」と不機嫌にいうだろう。
「寝たよ」
「あ~ね。オレとは顔合わせたくないっていうね…」
加えてこちらも多感な時期ゆえ母に遠慮はなく、本音をこぼす。
「もう少し静かにできないの?」
「なにが?」
若さとは、有り余る力を無意識に誇示すること。
「いいわ。これ、あげる」
目線だけで目の前のビールを示す。
「お、さんきゅ」
なぜそこに置かれているのか、疑問も持たずに喉を鳴らす息子に、
「お父さんに確認したから。緋色にあげていいかって」
途端にいやな顔をする。
「なんでわざわざ言わなくてもいいこと言うの?」
(まぁそうなるよね)
でも母は、息子のそのなんとも言えない臭い顔が好きなのだ。だからやめられない。
「ごめんね」
「思ってもないくせに」
(お見通し)
なかなかこちらの思惑通りには行かなくなってきた。
「そうだね」
子どもの時間はめまぐるしく、同じところに留まっていてはくれない。成長は喜びで、大人になった姿は頼もしいけれどもつまらない…我が子と言えど、ずっと腕の中に納まっているわけではないということだ。いつまでも手がかかるのも面倒だが、母は息子と駆け引きを楽しみたいわけでもない。
緋色という名前は夫がつけた。出会った日の夕焼けが「忘れられないから」だと言っていたが、本当だろうか。私の記憶の中にそんな素晴らしい夕焼けがあったなら、まして好いた男と見ていたのなら、忘れるはずはないのに。
男はロマンチストだな。
「そんなこと言ったら、親父が機嫌悪くなるのわかるじゃん」
「そう?」
「オレも気分悪いわ」
「そうか、ごめんね」
でも、やめられない。
基本母親は、子どもにイタズラを仕掛けたいものだ。最近では相手にされないことも多いが、思い通りの反応が返ってくると安心する。いつまでも「特別」でいたいのは、女の本能だろうか。
「親父機嫌悪いと、金くれなくなるからやめてくんね? 合宿も始まるし、遠征費なんかバイトで賄えない」
「それはごめん」
なんだか謝ってばかりだ。
「まったく。もっとやさしくしてやれば?」
「なんで?」
「そうして欲しいのかもしれないじゃん」
もっとやさしく…最近息子に、よくこの言葉を言われるようになった。
「お父さんがやさしくしてくれたらねー」
私はいつも同じ答えを返す。
「無理じゃん、あのカタブツ…」
「そうかもね」
「だいたいやさしい時なんてあったのかすら知らんわ」
「あったのよ~。この缶ビールだって、そういうことじゃない?」
「なら、一方通行じゃねーか」
最近のこの、どっちが夫でどっちが息子なのか解らなくなるような会話も嫌いではない。
「だって、やきもち妬いてほしいじゃん」
「今さら?」
「今さらじゃないよ。女はいつでもやきもち妬いてほしいの」
「夫婦なのに? そんなんでやきもち妬くの? 機嫌悪くなるだけじゃん」
「それでもいいの」
反応が楽しい…と言ったら、やっぱりただの悪ふざけになってしまうだろうか。でも、なにも反応しなくなったら、その時こそ諦める時。
「わけわかんね」
大学生になったばかりの息子には当たり前に彼女がいて、時々愚痴をこぼすようにもなった。なかなかに気の強い彼女らしく、おそらくその彼女にでも「もっとやさしくして」と言われているのだろうと推測する。
「あたしにも、ひとくちちょうだい」
飲み切る前に、いつもひとくち。
「もうあと全部飲んでいいよ。明日早いから寝るわ」
飲みかけをテーブルに置いて部屋に向かう。
そのセリフ、夫も昔よく言ってた。「明日早いから寝る」なんのいいわけなのか、その続きのない、こちらをシャットアウトしてくるセリフに少し微笑む。
「あ~あれだね。やきもち妬かせたいとか、おかあさんもかわいいじゃん」
彼女ができると、母親に「かわいい」と言える余裕ができるのか。また、それもうれしい誤算。
「まぁね…」
「おやすみ」
本当にひとくち程度しか残っていない。でもそれで充分。ビールの香りがあればいい。私はそれを一気に口に含み、わざと溢れるような飲み方をしてゆっくりと喉に泡を流し込んだ。
キッチンに立ち、朝食の準備の音を立ててから電気を落とす。会話のない夫婦にはこの音が大事な時もある。
寝室に入ると背を向けて横になっている夫のふくらみと、その向こうで私を待っているシェードの灯り。
夫はしばしば就寝前に本を読む。そしていつも灯りはつけたまま。あとからくる私のためにつけられているのだろうけれど、別に夫が自分で消してもいいのだ。でもそうしない。
静かに布団をめくって潜り込み、夫の頭の上からランプの明かりを消す。この「夫の上から」というのが大事な条件。お酒を飲まない夫にはたったひとくちのビールでさえも香るはずだから。
「おやすみ」と小さくつぶやき、灯りを落とす。
するすると気遣うように、または焦らすようにしてベッドに潜り込むと、既に暖かくなっている夫の方に足を忍ばせる。そうすると、起きていれば眠そうにこちらを向いて腕枕をしてくれる。これがいつものルーティン。そして…
「飲んだの?」
「うん。緋色、明日早いからいらないって」
小さな嘘をつく。 あなたが私のために買ったビールは、ちゃんと「私が飲みました」という主張。
「ふぅん」
そう言ってもう一方の腕を腰に回してくる。
「お酒臭い?」
ますます近くなった夫の顔に上目遣いで話しかけると、眠そうに薄目を開けて私を見、腰に回した手に力を込めて私にくちづける。
「そんなことないよ…」
言い終わらないうちにその手はするりとパジャマの中の背中を目指す。
「ふふ…くすぐったい」
そんなことを言いながら私の心は笑顔で満ちる。
そんなことないよ…
(しってる…)
夫はほろ酔いの私が好きだから。
ほろ酔いの高揚した私の顔や、アルコール交じりの私の吐息がたまらなく好きだから、本のひとくち分の香りでもその気にさせられる。そして、やきもちを妬いた後はいつも力強くて「俺のものだ」という主張が感じられ、そんな風に抱かれるのが、私は好きだ。
ベッドの中では夫婦もただの男と女。会話はなくても、愛にまみれることはできる。それを会話と捉えられては存外だが、丸め込まれてやれるくらいの余裕は私の中にもまだある。つまりは「愛している」ということ。
私たちは夫婦だから、恋人同士のような甘いささやきも、ほの暗い灯りも、素敵な音楽も、なにも余計なものは必要ないのかもしれない。長年連れ添った夫婦が「空気のようだ」と例えるように、そこにあって当たり前の存在。でも、だからと言っておざなりでいいわけではない。 むしろ一番気を使ってしかるべき他人なのだ。
寝返りを打てば加齢臭、耳を塞いでも聞こえてくる決して寝息じゃない騒音も、ここまでくればスパイスだ。会話の成り立たないお互いの怠惰な愛情も夫婦の軌跡・・・・カッコつけてもお互い様。
風呂上がりにパンツ一丁で出てくる息子の鍛えられた肉体に過去の自分を思い出し、私になれなれしく話しかけるあどけない笑顔の消えた青年になった息子に嫉妬する夫が今は愛しい。そんな夫がかわいいと思う。
そうして自分の方が「勝っている」のだと、力強い腕で抱き寄せ、中年になり脂ののった躰で重くのしかかり、私に最上の愛を施す。「俺の方が知っている」「俺の方が愛している」と、使い古された馴染みのある手管で私を高みに昇らせてくれるのだ。
よそに女のひとを作る男性の意見のひとつに「家族だから妻を誘えない」だとか「お母さんだから抱けない」っていうのがあったっけ。でも、遡ればふたりは恋人。子どもがいてもいなくても、寝室のベッドの隣りに寝ているのは「奥さん」でもなければ「子どものお母さん」でもない「女」。それはかつて自分が愛し望んだ「女」であり、自分のものにしようと必死に口説いたであろう好みの「女」のはずなのだ。
こちらにとってみれば、かつてのたくましい肢体が見受けられなくても、自分を「しあわせにする」と誓ってくれた唯一の「男」。そしてだれになんと言われようとも「ついていこう」と決めた「男」が、ちょっと年季が入って鼻息荒くなっただけ。
ただひとつだけ変わらないのは、毒を吐いたり、文句を言ったりしていても、いつまでもキャッキャしてたいんだよね、女は。