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結果論
ほんの小さな子どもの頃、
それはまだ物心ついて間もない幼少期
他人の容姿を羨み、自分の見た目を卑下する
そんな承認欲求すらもちあわせていない頃のこと
身内である大人に顔の造形について非難された
初めはなにをいわれているのか解らなかった
が、相手の様子から褒められた訳では無いと悟った
わたしのそれは理想的ではない、と言う
端的に言えば醜い、ということだ
まだ傷つくという感情のカテゴリーが備わってない
無邪気で無防備なココロに嫌悪感を覚えた
鼻ぺちゃだとか、そばかすだとか、
それまでも似たような指摘はあった
だがのちのちまで違和感を引きずったのには
その言葉に悪意があったからなのだと思う
恐らくわたしは、嫌われていたのだ
子どもは無条件に「かわいい」を待っている
そしてそれをくれる大人に信頼を寄せる
かわいいはいわゆる安全装置の意味合いも持つのだ
けれど、わたしの記憶の中に
それをくれる大人はいなかったように思う
なんにでも「かわいい」を発するようになったのは
そのあとの文化だからだろうか?
ぶすとかでぶとかちびとかいった形容動詞が
最もこころを揺さぶる時限装置だろうと思いきや、
直接的ではなくても、具体的な言葉には
それを使う人間の感情も孕んでいるものだと知った
たとえ一部であろうとも、顔がダメだと言われたら
それを持つ個人を否定したようなものだ
そんなことがあったからなのか、
わたしは幼いころからあきらめが早かった
なぜならわたしは「欠陥品」で
なにをするにも他に相応しい人がいると思うからだ
ひねくれたり拗ねたり、
そんな芸当も知らずにただただ素直に受けいれた
成長するにつれ、随分とこじらせたなと思う
それによって損したこともあるだろうが、
あえて「試練だった」としておこう
願わくば、
自分の行く末がそんな大人でなければいい
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