子どものホンネ、おとなのココロ
子どもの頃、わたしは、どぅ~っしても父方の祖母が好きになれなかった
彼女はとても意地悪で、自分勝手で傲慢…そんな記憶しかない
とはいえわたしは、両親どちらの家にとっても初孫で、わたしが好きになれなかった彼女にとっても「思い入れのある」子どもではあった
わたしは祖母が大キライだったけれど、彼女がわたしをキライだったかは定かではない。まぁ、いい子ではなかったけれどね・・・・
女だからといって子どもが好きなわけではない
なにがいちばん嫌だったのか…祖母が亡くなってから10年以上も経つと、そんな恨み言も薄れていくものだが、なにより彼女は子どもが苦手だったのだ。当時は「子どもが嫌い」だったと認識していたが、子どもが苦手な人=扱いが下手というのは祖母でなくてもあることなのだと今なら解る
それでも「好意を持たれていない」という感情は、猜疑心を与えるもので、加えて子どもは正直で、自分を嫌っている相手を決して「好き」にはなれないものだ
大正生まれの彼女は、まさにハイカラさんだった
記憶にある限り、彼女の箪笥の中身は隙間なく洋服で埋まっていた。出掛ける時はいつも、家では見たことのない新しい服が出てきた
当時「よごれおしゃらく(汚れお洒落 ⇐ 多分方言)」と呼んでいたが、客が来るとなれば着替え、出掛けるといえば着替えして、要はことある事に服を取っかえ引っ変えする。子どもの目にはただの「派手好き」に映っていたものだが、彼女の着る服に一切無地のものはなく、今思うにおそらくお洒落さんだったのだろうと思う
加えて、彼女の髪はいつも黒かった。顔はしわしわなのに、髪は黒々…とは気持ちが悪いものだったが、外見にもとても気を遣っていて、お出かけの際は、たとえ近所の集まりだろうと通院だろうとお化粧を施していた。それも当時は「色ばばぁ」だとバカにしていたけれど、いまなら「女」だったんだなぁと理解する
妻でも母でもなかった
驚くべきことに彼女は、お嬢様でもないのに、およそ昔の女性が当たり前にこなしてきたであろう「家事」「育児」の細かな作業がまったくできないひとだった
祖父の娘であるわたしの叔母は、学生時代は父親におさげをしてもらっていたという。祖父の息子であるわたしの父は、母親の料理を食べたことがないという。嫁いできたわたしの母は、義父に料理その他を教わったという。とにかく祖父はなんでも器用にこなし、祖母はなにも出来ない。祖母について話をする時、だれひとりとしていいことを言う人はいなかった。実の妹でさえ「ねぇちゃんが大キライ」と豪語し、お嫁に行ってからお葬式まで、一切会わないという強者もいた
ただ祖母は、働くことは好きだったらしい。朝早く、身綺麗にして自転車に乗る姿を覚えている
それでも孫はかわいい?
祖母はケチだったが、お金の使い方を知らないわけではなかった。自分の持ち物は常に新品だった。通勤に使う自転車も、お古を使っていたのはわたしの母だった。もっとも、母には自転車を買う余裕は無かったのだが…
祖母はそのピカピカの自転車に乗って、毎日わたしの母に作ってもらったお弁当を持って仕事に出ていた。そして、頻繁に外泊(旅行)もしていた。気づくとどこかに行っている。祖母のいない夜は決まって夜更かしができたものだ
旅行に行くと必ずお土産を買ってきた。年寄りだから「つまらない」ものかと思いきや、香りのいいポプリのついたお人形だったり、キレイなレースのハンカチだったり、大人っぽいネックレスだったり、さすがに「女」である祖母のお土産は、不思議と要らないものではなかった
こどものおもちゃはゴミ
綺麗好き…と言えば聞こえはいいかもしれないが、家事のできない祖母の掃除は「整頓」ではなく、隅に重ねて寄せるだけ
お絵描きしててもクレヨンの蓋を締められる。積み木を出そうものなら大騒ぎ。パズルのピースが無くなったのは、決してわたしたちが探せなかった訳では無いと思うのだ
わたしたちが遊んでいると、おもちゃをひとつしか持たせてくれない。手に持たないおもちゃは用済みと見なされ片付けられてしまう。だから「ままごと」や「お人形さんごっこ」が途端につまらないことになる。誕生日にぬいぐるみやお人形をねだると嫌がるが、アクセサリーは買ってくれた。子ども自分には訳が解らなかったが、そこに「女」が発動していたのだと思う
唯一の思い出
一度だけ祖母と出掛けたことがあった。祖母の娘であるわたしの叔母の家に、なにか事情があって数日滞在することになり、なぜかついて行ったようなのだ。その頃はまだ「好き嫌い」の分別がなかった頃かもしれない。だが、もともと彼女は子どもが苦手なわけだから、連れて行ってみたものの、わたしの扱いに困っているようだった
ふたりで新幹線に乗った。わたしと会話を持てない祖母は、とりあえずなにか「買い与えればいい」と思ったのか、母親だったら絶対に買ってはくれないようなものを売店や車内販売で買ってくれた。わたしは祖母のおかげで「甘え上手」になれたのかもしれない
爪の先まで真っ黒
祖母はいわゆる「意地悪ばあさん」だった。しかも無意識で(多分)悪気がない、始末の悪いヤツ。口から出てくる言葉はすべて皮肉か厭味でしかなかった。もしかして、本当は「賢いの?」と驚かされるほどポンポンと黒い言葉が出てくる。会話の途中でイライラさせられたのはわたしだけではなかったはず
外孫(わたしの従妹)がわたしの家に「ただいま」と帰ってくれば「自分の家でもないのに図々しい」といい(⇐孫なのに)、実子のお嫁さん(わたしの叔母)がちょっと顔を出せば「なんの用だ」という。だが、自分の息子(父以外の次男、三男)には甘々で、ここにも「女」が発動していた
だれにも好かれない人生
祖母の楽しみはなんだったのだろうと思うことがある。祖母が存命の頃は、我が家にくるお客様はみな、祖母の黒い言葉に玄関先で帰っていくこともしばしば。いなくなってからは、今まで来たことのない遠くの親戚までやってくるようになった
嫁いびりをしているつもりもなく(⇐多分)、母を縛り、監視し、母のやることなすことにケチをつけていた。それはどこにでもある話だとしても、孫に対しても容赦なかった。わたしを含め祖母には6人の孫がいる。だが、だれひとりとして「おばあちゃん子」ではなく、なんだったら幼少の子どもに「キライ」と言われてしまう筋金入りの意地悪ばあさんで、実子である叔母なんかはいつも、わたしの母を頼りにしていたくらいだった
死ぬまで「女」
子どもの頃、老人はただ「老人」なのだと思っていた。おじいさんも、おばあさんも、ひとくくりの「老人」でしかなかった。わたしもいい歳になり、老いを目の前に控え、それだけではないことを身をもって感じている
祖母は、若いうちに夫(わたしの祖父)を亡くしている。いくつだったかは定かではないが、今のわたしよりもずっと若い年齢だった。夫婦仲がどうだったのかはこの際触れないが、やっぱりさみしかったんだろうと思う。が、腐っても「女」の彼女は、祖父亡きあともちゃんと「恋」をしていた
これまた当時はね、無知な子どもだったから「年寄りのくせに」と思ってしまったわけだけれど、だって仕方ないよね? 物心ついた時から、祖母はわたしにとって「ばあちゃん」で、家で一番の「年寄り」だったんだもの。悪いとは思うけど、反面納得のいかないことは事実だ。2度も結婚しているわたしがいうのもなんだけどさ・・・・
ひ孫は違う?
子どもが苦手で自分の子どもの面倒もそこそこの祖母だったが、唯一面倒を見たのは、実はわたしの息子だけだった。離婚仕立てで子どもふたりを保育園に預けられなかった…ことが理由だったが、それまで見たこともない祖母の姿を見た。赤ちゃんの泣き声で「頭が痛くなる」といっていた彼女は、なんと息子のおしめ替えまでやってのけた。これにはわたしの母も、他のお嫁さんたちも本当に驚いていたものだ。まぁそれも、保育園に預けるまでの数ヶ月で、長くは続かなかったのだが…
おかげでわたしの息子は、小学校に上がるまで、変なイントネーションでしゃべる子どもだった
100まで生きて新聞に載る!
今どき、100歳まで生きたからといって新聞に取り上げて貰えるかは解らないが、祖母の夢は「100まで生きること」だった。これはわたしが直接聞いたわけではなく、わたしが不在の時に尋ねて来たわたしの友人に、悠々と語って聞かせた迷言だった
残念ながら、夢は叶えられなかったが、大往生といってもいいくらいは生きた。相変わらず、祖母の噂は「根性悪」だとか「嫌われ者」なんてことばかりだけれど、いなくなってしまえばみんな「かわいいひと」になる。わたしもようやっと、彼女もただの人間で、ただただ女だったんだなぁと理解できるようになった
しかし、随分と時間がかかったなぁ・・・・