ハレービード~南インド、謎のリクシャ
インドを訪れて、一番の驚きは?
壮麗な宮殿? 精緻な石造寺院? 異色の風土? 果てしない人波?
実は、僕がまず驚いたのは、南インドの古都マイソールで初めて乗ったオートリクシャだった。東南アジアでトゥクトゥクとも呼ばれる三輪のタクシーだが、その豪快というか、大胆かつ無謀な走りは、他に比べるものがなかろう。
ドアのないリクシャに乗れば、この国の生き方みたいなものに、少しだけ触れることができる。
風を切る爽快感が欲しいなら、バイクに乗ればいい。
しかし、オートリクシャのすごさは、もう少し奥が深い。
信号はあまり見かけない渋滞の中を、我が物顔で走り回る厚かましさとでも言おうか。
ゾウのように巨体を揺するバスやトラック、ライバルの同業者はヌーの群さながらだ。そこにシマウマのように群れるバイクと乗用車、隙あらば横断しようとする歩行者や物売りたち。
こんな中を、リクシャはネコ科の動物のように駆け抜ける。
彼らは、虎視眈々と獲物を探す。場慣れしない観光客は何よりのごちそうだ。激しい交通渋滞のサバンナ。一瞬でも目を泳がせてひるんだ獲物を、はるか遠方から見つけ、あっという間に取り囲んで、値段交渉の駆け引きに引きずり込む。
時には、客を目的地に運んだはいいが、降り際の支払いで、わざとひと桁間違えて腹を満たす。釣り銭などは「何の冗談だ?」。「俺たちには俺たちのルールがある。ここは弱肉強食のサバンナだ」。
このように書いてしまうと、とんでもない交通手段のようになってしまうが、どうか誤解しないでください。インド旅行の魅力は、リクシャがないと成り立たないだろう。
もしメルセデスのタクシーと、リクシャのどちらかを選べ、と言われたら、僕は何の迷いもなくリクシャを選ぶ。
大渋滞でゴチゴチに固まった交差点ですら、リクシャの運転手はためらいなく突っ込んでいく。巨象に激しくクラクションを鳴らし、目を血走らせて10センチの隙間を50センチに広げ、前輪をねじ込み、怒鳴りながら通り抜ける。
インドの風に当たるには、ドアのないリクシャに乗るのが最も似つかわしい。
僕はハレービードという地方都市で、古い寺院回りに当地のリクシャを利用した。ハレービードは中世の昔、王朝の都として栄えた遺跡の町である。別の王朝の侵略を受けて街は廃墟となり、ハレービードという地名は「廃墟の町」という意味らしい(『地球の歩き方 南インド』)。
それ故か、にぎわう市街にもどこか気だるい空気を感じるのは、僕の考えすぎだろうか。
バスもあるが、観光客には分かりにくいので、リクシャが便利な足となる。リクシャ運転手の貪欲さは、都市の人口に比例するようだ。客の取り合いという競争を反映しているから当然だろうが、僕が乗ったリクシャの運転手は、不思議な感じの男だった。
上下ともカーキ色の服は、インドでは男性定番のスタイル。ちなみに「カーキ」は、ヒンディー語で土ぼこりを意味する(『広辞苑』)。ずばりそのものである。
男は30歳代半ばで、シャツの下でボタンを弾かんばかりの腹回りも、インド男性の定番。硬そうな黒い髪が黒い髭とつながって口元をごわごわ覆っている。これも定番だ。
どう見ても普通のリクシャドライバーなのだが、僕がどこか違うと思ったのは、その視線にあった。
大抵の運転手は、遠慮のない視線で客を値踏みするが、この男の視線は真っ直ぐ僕の網膜に突き刺さるのではなく、ちょっと逸らすように僕の額の数センチ斜め上に抜けていた。
どこか遠くを見ながら話すのだった。乗る前の値段交渉も、あっさり僕の言い値でOKとなった。普通なら「100ルピーだ」「いや50」「なら90」「だめだめ60」などとなるのだが、僕は拍子抜けしてしまったほどだった。
「近くの寺院でお祭りをやっている。珍しい祭りだ」
僕はホテルで聞いた情報を元に、運転手に寺院の名前を告げてリクシャの座席に落ち着いた。
凝って飾ったリクシャもあるが、この男のリクシャは、緑のボディーに黄色の幌を付けただけの、まったく素っ気ない車で、全インドで2億台あると言われるリクシャの半分と、この車を見分けることはできないだろう。
運転手の背もたれは、擦り切れてぼろぼろになっていたものの、僕は心地よい風を受けながらドライブを楽しみ、ヒンドゥー寺院に着いた。
数枚のルピー紙幣を運転手に渡しながら、僕は寺院前で違和感を感じていた。
祭り? 人出はぽつぽつ程度で、門前はむしろ閑散としていた。
「お祭りって、どこでやってるの?」
運転手に尋ねてみた。
「祭り? そんなのやってないよ」
「ホテルで聞いたんだが---」
「お客さんの聞き間違いでは。この寺の祭りは有名だけど、ちょうど1年前に終わっていますよ」
ホテルのレセプションの聞き取りにくいインド英語を呪いながらも、僕は自分の英語力を恥じるしかなかった。多分ホテルでは「有名な寺院で、(去年の今頃)珍しい祭りが開かれていた」と、話してくれたのを誤解してしまったのか。
運転手は少し気の毒そうな表情を見せて、僕の目を一瞬のぞき込んでから、再び視線を逸らした。
「まあ、仕方ないか。静かな寺院を参拝させてもらうよ」
ショルダーバッグを担いでリクシャを降りようとした僕に、男はちょっと間を置いてから思いがけないことを言った。
「あの---、お客さん、祭りなら見せられるよ」
「いや、ここでいい」
僕は男が、別の寺院の祭りへ連れて行こうと提案してきたと思った。
「この寺の祭りですよ」
「去年終わっているだろう」
「まあ、その祭りですよ。ほんのしばらく座席に座っていてください」
運転席から振り向いた男は、今度は目をそらさずに、じっと僕の目を見て話した。男の目は、黒く深い湖のように澄んでいた。
その目に、僕は降りるタイミングを失い、口を突いて出そうになった疑問を抑えてそのまま座ってしまった。
男は前を見てアクセルを握り、エンジンを吹かした。寺院入り口の前には、サラセン様式と思われる小さいが美しい塔を囲んで、ロータリーになっていた。
数台の車やバイクを擦り抜け、男のリクシャは僕を乗せたまま、ロータリーをぐるりと一回りした。
結構なスピードとあって、僕は座席にしがみつくようにして遠心力に耐え、一瞬目を閉じた――。
「着きましたよ、お客さん」
僕は、男の声に我に返ったようになって、男の背中を見た。
「着いた? どこに? ロータリーを回っただけじゃないか」
「ほら。祭りです」
「どうなっている!」
僕は回りを見渡して仰天した。
さっきと同じロータリーの塔を中心に、紅色の旗が運動会の万国旗みたいに風にはためいている。
ほんの数十秒前まで、静かだった門前は人出でごった返し、スイカの切り売りやバナナの房、ココナッツジュース売りなどの屋台が建ち並んでいる。鮮やかなサリーを翻した女性の列が、人混みの中でとりわけ目を引いた。
これは何かの手品か? 僕は男の背中に叫んだ。
「おい! 何をしたんだ!」
「去年に戻ったんです。ちょうど1年前に」
「ばかな。そんなことは不可能だ」
「私には出来るんです」
「トリックだな。よく出来ている。何かのアトラクションか」
男は振り返らず、前を向いたままだ。
「信じられないなら、ちょっと付いて来て下さい」
男はリクシャを止めて、歩き出した。僕は慌てて後を追い、新聞スタンドの前まで来た。
「日付を見て」。男は新聞を指差した。この地の公用語はカンナダ語といい、丸っこい輪っかを並べたような文字だ。僕はさっぱり分からないが、新聞題字の横に印刷された年月日は、西暦表示だった。
何と、1年前だ。念のために英字新聞も探して確認した。
もう一つ、決定的な確認方法に僕は気付いた。スマホの日時表示は、ポケットWi-Fiルーターを通して、現地時間に修正される。やはり、西暦は1年戻っている。間違いない。1年戻っている。
担がれているのか? 詐欺なのか? 現実なのか?
僕はスマホを再起動して、日時をもう一度確認した。やはり「今」はさっきまでの1年前だ。
僕は、寺院の祭りどころではなくなっていた。
「去年」の「今」、僕は日本の自宅か勤め先、またはその近くにいた、いや、「いた」ではなく、「いる」。時差からすると、今、日本は夕方だ。
確か、あのころ---、勤め先の会社が、取引先とのもめ事に巻き込まれ、僕は処理に追われていた。相当な金額を要求され、途方に暮れていた。
発端はちょっとした誤解で、数カ月ものやり取りを経て、ライバル会社の誤った情報が原因と分かり、取引先との関係は元に戻った。
――待てよ。このスマホで日本にいる僕に電話かメールをしたら、どうなる。あんな苦労せずに、トラブルをすぐに解決できる情報を教えることが出来るのだが。
しかし、同じスマホから同じスマホに電話したらどうなる? 話し中になるのではないか? 家の固定か会社になら---。
僕は「先月」、つまり「ハレービードの今」から11カ月「未来」に、手術をした友人を思い出した。「今」、つまり彼が病気と診断される11カ月前に早期発見しておれば、病気は軽くて済んだはずだ。彼に今、電話で知らせてやることは出来るはずだ。
彼は僕の学生時代からの数少ない友人で、手術後の検査に心労を使い果たしていた。
しかし、どう伝えるのだ。検診を促すのは、一般論としては出来るだろう。「君は病気の初期だから、早く検査しろ」と言えば、「お前はいつから予言者になったんだ」と返され、冗談みたいになってしまう。
いやいや、すぐ帰国して説得できないか---。もし、そんなことをすれば、出入国の日付がおかしくなって出国すら出来ないかも知れない---。つまり、1年先の未来に入国した僕が、「今」、インドの空港に現れたら---。
僕は湧き上がる雑念の海に沈み込んでいった。
この1年の経済動向、急に業績を伸ばした会社を思い出せ。その株を今買っておけば。いやいや、競馬のG1の結果を思い出せないか。
そんなことより、総選挙の結果と政局、メディアを騒がせた大事件---。マスコミに大スクープを提供することが出来る。
僕は、青ざめて汗びっしょりになっていた。何もかもがオーバーヒートし始めた。
僕は、傍らで心配そうな表情の運転手に気付いた。
「気分が悪いのか?」
「いや。こんなことが起こるなんて---。誰でもうろたえる」
「私もそうだったが、しばらくしたら落ち着く」
「ところで――」
僕はどうにか自分を取り戻しして、運転手に聞いた。
「も、戻れるんだろうな。もちろん、戻れるよな」
「大丈夫です。私は何度か時を行き来している」
彼は冷静に答えた。
「どうやるんだ?」
「よく分からないのですが、あのリクシャでロータリーを回れば、スピードとかハンドルの切り方で加減が分かるのです」
僕は男にもっと疑問をぶつけたかったが、不十分な英語力がもどかしいうえ、1年前のインドに「今」存在していることが怖くなってきた。「今」日本にも僕が存在する。
もうけ話とか、そんなことより、額を流れる冷や汗は、本能的な恐怖を感じているからだった。
とにかく、まずは一度元に戻って冷静になろう。この運転手とリクシャ、ハレービードのロータリーがあれば、また時間を越えられる。戻れるということは、未来へも行けることを意味するはずだ。
落ち着いてから、この奇跡の「使い方」を考えたらどうだ。
「分かった。ありがとう。とにかく一度戻ってくれないか」
「OK」
僕らはリクシャに乗り込み、運転手はエンジンをかけてロータリーに入った。スピードを上げて三分の一ほど回ったとき、プスプスという排気音を残してエンジンが止まった。
「ガス欠だ。大丈夫」
運転手は車を路肩に寄せて、ペットボトルから茶色いガソリンを注いだ。僕の汗は、被っていたキャップにまで染み出していた。
エンジンが掛かり、リクシャは再び勢いを付けてロータリーを回り始めたが、今度は床下からいやな金属音を響かせて止まってしまった。
後ろから激しいクラクションと罵声が押し寄せる。
運転手はリクシャを降りて、車を脇に押していった。男の背中のカーキ色のシャツに、黒い汗染みが広がっていった。
運転手は工具を取り出し、リクシャの横に寝そべって修理に取りかかった。僕は待つしかなかった。手持ちの水はとっくに飲み干していた。
「どんな具合だ?」
もう1時間近くも、運転手は悪態をつきながら作業を続けていた。しびれを切らした僕は、何度も問いかけた。
時折、近くで客待ちをしている同業者が、心配顔でのぞきこむものの、「これは難しい」などと言って、関わりになるのを避けるように自分の仕事に戻っていく。
男は工具を持ったまま立ち上がり、油だらけの手でスマホを取り出した。
このとき、男から、遠くを見るような表情は消え、焦りのために目は泳いでいた。
すぐに通話がつながって何やら話し始めたが、次第に声が大きくなり、相手と怒鳴りあいになって、彼はスマホを運転席に投げつけてしまった。
スマホの画面は汗と油で、ひどく汚れていた。
その日から1年と1週間後、日本の新聞に短い記事が出た。
「邦人、印で不明か」
通信社のニューデリー発の記事だった。