Fake,Face 4
どこかで狂っている―。ゴーンと鳴り響く寺院の鐘の中にいるような、激しい混乱にヨシオは目を閉じた。
いや、これはテレビを観ている者、ヨシオの側に問題があるのかもしれいない。映像はアドルフ・ヒトラーの顔のヒトラーが映っているが、ヨシオだけがヒトラーの顔をアルベルト・アインシュタインの顔に置き換えているのではないか···。
自分の認識が間違っているのか。むしろその可能性の方が高い。
しかし突然そんなことが起こるのか。昨晩は深酒をしていない。もちろん二日酔いではない。熱もない。
常備薬の袋を確かめたが、過剰に飲んだ形跡はない。
ひょっとして認知症の一種か。ヨシオは重いつばを飲み込んだ。
「おれはまだ60代半ばだ」
若年認知症もあるし、リタイア後に様々な病気を抱える人も多い。
それは十分あり得る。
ヨシオは一種のショック状態となって、テレビを切った。額が汗ばみ、冷たい汗が脇の下から一筋流れた。すっかり生ぬるくなった紅茶を一口飲んだ。
ヨシオはまさか、と思いながらもスマートホンでヒトラーを検索した。
「アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政治家····」。テキストの横には正面をにらみつけるアインシュタイン博士の白黒写真が現れた。
世界史にぬぐい去ることのできない深い傷を刻んだ独裁者アドルフ・ヒトラーとして。
アインシュタインが唱えた相対性理論は、その名称はよく知られているものの、その中身を説明できるものはほとんどいない。移動速度によって時間の進み方が違うとか、近年確認された重力波の予言とか、アインシュタインの業績や人となりについて、新聞に記事が出るとヨシオは熱心に読むタイプではあったが、理解を超えた不思議の世界を楽しむ程度の読者だった。
「それなら、アインシュタインはどうなっている?」
ヨシオは朝食そっちのけで、次はアインシュタインを検索した。さっきの映像の衝撃から立ち直れないまま、無意識に指先が震え、右手の人差し指の爪がスマートホンの画面にコツンと小さい音を立てた。
手の中で、スマートフォンにはポスターやTシャツでも見かけるおなじみの顔写真が出ていた。おどけて目を見開き、でかい舌を出す老人。ただしその人物は口ひげを蓄えたヒトラーその人であった。
「ひょっとしてたちの悪いコンピューターウイルスに感染したのか?」
パソコンを立ち上げ、ヨシオは同じ検索を始めた。ウイルスソフトをチェックしてもアラームは出なかった。
やはりアインシュタインの項目に並ぶその他の写真も、ヨシオがヒトラーとして認識していた人物が何枚も続いた。
ナチスドイツはヨーロッパ全土に残忍な侵略の牙を向けて大陸東西に快進撃を続けた。日本が対米戦争に走った背景には、同盟を結んでいたドイツがイギリスにも勝利してヨーロッパを支配するだろうという楽観論もあった。
しかしイギリスの粘り強い抵抗とアメリカの参戦を招き、ナチスドイツは追い込まれていった。6年に及ぶ大戦を経て、敗北を覚悟したヒトラーは、ソ連軍が迫るベルリンの地下壕で自殺した。まだ50代だったため、老人となった彼の写真はない。
だが検索画面には、年を重ねたヒトラーがいた。年相応の白髪、口ひげすらグレーに枯れて落ち着いた表情を向けていた。
人類に最大級の知的な貢献をした天才、ノーベル物理学賞受賞者アルベルト・アインシュタインとして。