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0円で読める書評2・妹尾武治『僕という心理実験 うまくいかないのは、あなたのせいじゃない』


はじめに

 前著『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』(光文社新書)の続編(的な著作)だそうです。私はその前著を読んでいません。本屋で立ち読みをしたのですが、「むずかしそうだな」と思ってスルーしてしまいました(笑)。ただ、本書のなかにも前著の内容を紹介する部分があるので、前著を読んでいなくても本書を読むにはこまらないと思います。

内容の紹介

 「人間に自由意志など存在しない」ということは、脳科学や心理学ではほぼ定説となっているようです。自分で「〇〇しよう」と意志を抱く一瞬前に脳が運動を起こしていることは確かであり、要するに私たちの「意志」なるものは「すでに起こされている行動を追認して、つじつま合わせをするもの」だというのです。
 でもそれを大々的に主張してしまうと、「人間の自由意志」を前提としている現行の法制度や社会常識との整合性がとれなくなります。だからそのような「不都合な真実」については、学者のみなさんは「学問的にはそうだとしても、それで私たちの人生観や社会制度を変える必要はない」ということにしています。
 でも前著において著者は、「すくなくとも人生観については、変えてしまったほうがいい」と主張しています。ある種のエクスキューズとして、「自分の本は学術的著作ではない」と断ったうえで。
 
 本書では、なぜ著者は「すべては決まっており、自分の意志など存在しない」という「心理学的決定論」を唱えたのか、という動機がくり返し述べられています。それは「いまにも死んでしまいたいと思っているあなたに、愛を届けたかったから」。「心理学的決定論」が変えられない過去に苦しみ、救いの見えない未来に絶望している人(あなた)にとって慰めとなり得るから。もうすべてが決まっているなら、「それは私のせいじゃない」といえるわけです。
 この「あなた」とは他ならぬ著者自身のことでもあると、読み進めるうちに明らかになってきます。文章は個人的な色彩を帯び、読みようによってはポエムというか、祈りに近づいてきます。著者は自分がかつて勇気づけられ、愛を感じたことばを引用しつつ、「あなたは愛されている」「僕らはここにいていい」というメッセージをくり返し発します。引用数は空恐ろしいくらいに膨大です(巻末に一覧があります)。学術論文はもちろん、マンガ、アニメ、ゲーム、音楽、映画、ドラマ、プロレスなどなど。1980年代から1990年代に思春期または青春時代を送った人であれば、「ああ、あったなあ」と懐かしく思うものもあります。
 
 私自身は「死にたい」と思っているわけではありません。その点で、著者が想定している読者像からはズレがあると思います。
 でも、著者より6歳くらい年上の私は、就職氷河期を経て運良く30歳前ぐらいになんとか就職できはしたものの、一歩まちがえれば引きこもりになっていたなあ、と自分をかえりみて思わずにいられません。これから先、自分が心を病まずにやっていけるのだろうか、という不安もあります。そんな気持ちもあって、本書を読んだのだと思います。

著者について

 本書の著者は心理学者です。東京大学を出て、いまは九州大学の准教授だそうです。ふつうに考えれば知的エリートなのですが・・・。じつは希死念慮をかかえ、精神科に通院もしているし、わりと最近の時期でさえ自殺未遂をくり返しているそうです。
 第5章「僕のこと」に、著者のこれまでの人生が説明されています。「正確な表現ではない」としながらも、「教育虐待児」のようなものであろう、と。
 仕事にのめり込んで、家庭をかえりみない父親。専業主婦として、息子の教育を一手に引き受けなければならなかった母親。そして従順で、知的素質の高かった息子。となれば、起こることは予想がつきます。机にしがみついて勉強することを強いる母親と、愛されるためにそれを受け入れる子ども。著者は小学4年生の時点で、毎晩11時半まで勉強していたそうです。また勉強に時間を割くあまり、中高時代にほとんど友人もいなかったと。
 「これを虐待だとは思わない」「楽しい時間もあった」と著者は述べています。確かに愛されてはいました。お小遣いも潤沢にあたえられ、映画やゲームといった趣味も許されていました。しかし、心はすこしずつ歪められていった。
 東京大学に入って、はじめて恋人ができたとき、それが爆発します。著者はきわめて明確に、次のように表現しています。

自分の育った家庭への怒り、自分の取り戻せない時間への絶望。これに対して僕は狂ったのだと思う。Y(恋人のこと、引用者注)という窓口で「世間」というものを初めて知ったのだ。

本書374~375ページ

 自分は異常な家庭で育った、異常な存在なのだ。おそらく健やかに育ったYさんと出会うことで、「本当の自分」を知らされてしまった。その絶望と怒りがYさんに向かうことも、よくわかる話です。おそらく支配欲や暴力がYさんに集中してしまったのでしょう。ふたりの仲が破綻したとき、著者はついに精神疾患を発症してしまいます。

 つらい話です。私自身は、中学くらいまでは(勉強の面で)親に期待されていたと思いますが(もちろん東大などというレベルではありません)、高校生になって成績が落ちてきたら、「人なみに就職してくれたらいいや」というレベルの期待に格下げ(笑)されました。要するに親はあがこうとせず、私の「自己責任」にゆだねたわけです。ただ、それはそれで、家庭や私を崩壊させないための苦慮だったと、今となっては思います。

個人的感想

 本書にはいろんな論点がふくまれています。この書評では紹介しきれないくらいに。とりわけ私が腑におちたのは、「愛とは自己の情報を増やすことだ」という説です。
 遺伝子が情報であることが判明してから、生命とは情報ではないかとする理解が進んできました。すると私たちの繁殖欲なるものも、「自己の情報を残そうとする欲求」と解釈できるわけです。
 ただ、情報とは遺伝情報のみに限定されるわけではありません。たとえば新たなキャラクターを生み出すマンガ家も、自分のキャラクターが多くの読者に愛されることを願って、自己の情報を増やしているといえます。庭いじりをしているおじいさんは、自分の手が入ることで庭の植木や花がより健やかに育つことを願っていますが、これだって、おじいさんが自己の情報を増やそうとしているといえます。
 迷惑動画をアップしたり、SNSで否定的発言をくり返したりすることも、残念な例ではありますが、自己の情報を増やそうとしています。
 つまり、これらはすべて「愛」であり、私たちはどういう形であれ「愛する」ことを止められない。またこの説は、(社会的に許されない形はありますが)原則として「愛」は普遍的なものであり、「愛」の形に貴賤はないことも教えてくれます。何らかの事情があって結婚できない人、子どもができない人、あるいは恋愛できない人。そういう人に対しても、「人間どうしの愛がすべてじゃない、いろんな愛のかたちがあり得るじゃないか」と教えてくれているのです。
 「そんなのは言葉遊びじゃないか」という見解もあり得るでしょう。でも、私は視野が広がったと思っていますし、やりたいことが増えたようにも思います。「もっと愛したい」という気持ちが湧いてきました(笑)。私と同じように感じた方は、ぜひ本書を読んでみてください。


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