シモーヌVol.5 高井ゆと里さんの「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」を読んでの感想

最初に、この素晴らしいエッセイを無償で送ってくださった高井ゆと里さん、現代書館さん、ありがとうございます。私が頂いて良かったのか今でもちょっと疑問だったりするのですが、その分しっかりと拝読しました。


感想                                トランスジェンダーやクィアといった人たちは決して架空の存在ではなく、現実に存在していて必ず隣にいます。そして、その人たちが綴る文章には差別やデマ、陰謀論に対抗するだけの力を持っていると思います。しかし、実際にはネット上では当事者の実態を無視した差別発言、悪質なコラ画像、当事者を特権者扱いする陰謀論などが多く拡散され、「女性や子どもの安全を脅かす侵略者」として酷く描かれ続けています。そのせいで当事者はリアルでも追い詰められ、外出先でお手洗いに行くことさえままなりません。

そのようなGender Identity差別を無くす為には、当事者の経験や思いを伝えることが大切だと思います。当事者にとってその行為はとても負担が大きいので必ずそうすべきだとは限りませんが、当事者の声を聞くこと・発信することが差別撲滅の為に効果的だと思います。このエッセイには当事者のブログから多数の文章が引用されており、当事者の経験や考えが載っています。全当事者の意見が載っているわけではありませんが、当事者の「生」を直に伝えるこのエッセイは読んだ人に大きな良い影響を与えるはずです。


話は少し変わりますが、読んでいて特に共感を覚えた部分は性別移行を「旅」に例えていた部分です。私自身がトランス当事者なので重なる面が多々ありました。とは言っても私は地元から行き先不明の高速バスに飛び乗って知らない土地に引っ越したわけではありません。私は未成年で財力にも乏しいので小中学校時代の知り合いがいる地元で性別移行を始めるしかありませんでした。性別移行を始めた初期は小中学校時代の知り合いに出会ってしまわないか道を歩くだけでドキドキしていました。幸いにも私は早めに埋没することができたので、小中学校時代の知り合いとすれ違っても気づかれることはありませんでした。そうなると安心感と同時に寂寥感が募ってきます。小中学校時代の知り合いとは同じ時間軸で生きているはずなのに、自分だけ気付かれない、自分だけ時間軸が違うかのような錯覚に襲われます。でも、これは仕方ないことなのかもしれません。性別移行という名の旅を始める為には今までの過去を大気圏にぶん投げて、過去を持たない「透明人間」として生きる選択しか私にはなかったのです。

そう言えば「性別移行」だけではなく「人生そのもの」が旅に例えられることはよくあります。そうなると私は小中学校時代の知り合いとは明らかに違う旅プランを選んだことになります。周りは旅行会社の提案する「定番プラン」を選択したものの、私は旅行会社の提案する「定番プラン」では進むことができず私独自の旅プランを練って進む選択しかなかったのです。「定番プラン」以外の選択肢を取ることはとても険しい道のりが待っています。まず、一緒に旅をする仲間が居ません。経験や感情を共有する相手などいなく、常に孤独を抱えます。また、情報がありません。分からないことがあっても調べることができず、常に手探りです。保障や保険もありません。怪我をしても大きな損害を被っても自分で対処するしかありません。お金もかかります。助けてくれる人がいなければ危険な社会に飛び込むことでしかお金を得られません。その上、その困難を周囲から理解されず「お前だけ違う選択肢を選ぶなんてずるい。特権者だ」「理解できない。気持ち悪い。少数派の癖に」と責め立てられます。舗装が剥がれきった道を一歩進むだけで石を投げられ、心も身体もボロボロに朽ち果てました。時には自らの手でボロボロになった心身を更に傷つけて傷を誤魔化すことさえしました。


ですが、インターネットを通じて同じように苦しんでいる人や、応援してくれる人がいることを知ってからは少し心が軽くなりました。その人たちとSNSで繋がりを持てたことは私にとって大きな接点でした。このエッセイを読むことが出来たのもそうした繋がりがあったからだと思っています。また、インターネット上には性別移行に関する情報も多く載っています。私はそれらの情報をよく参考にします。性別移行という過酷な旅も決して孤独ではないということを知れたら少しは楽に歩を進めることができると思います。この言葉は私自身に対する鼓舞のようなものでもあります。性別移行はとても大変で、崖から飛び降りたくなる衝動に駆られる時が多々あるのですが「決して私は孤独じゃない」と思うと、その衝動も消えていくような気がするのです。この苦しみもいつかは「大変だったな~」なんて笑い飛ばせたらいいのですが、その日が訪れるのはかなり先でしょうか…。

そういえば先日、私はリトルガールという映画を観に行きました。内容はトランスジェンダーの少女についてのドキュメンタリーなのですが、その映画の感想にはその少女を応援し、差別的な社会を批判するコメントが多くついていました。これを見て私は、ネット上は必ずしも差別的や攻撃的な意見で溢れているわけではなく、差別に反対する声もあるのだと少し安心しました。私は悲観的な人間なので悪い予測ばかりしてしまうのですが、一方できっと良い未来(差別や抑圧、迫害がない未来)になる可能性もあるんじゃないかと期待しました。そう信じています。


このエッセイを読んでいて一番ショックだったのは夜のそらさんが自らの手で命を断たれたことです。周囲や社会からの抑圧、迫害のせいで当事者が自らの手で命を絶つほど追い込まれてしまう現状がとても辛く苦しいです。私自身、何度も自札未遂まで追い込まれたことがあります。「なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。これなら氏んでしまった方が楽だ…」とその辺にあったハンカチや縄で自分の首を絞めつけました。この時に氏にきれたら勇敢な人間だったかもしれません。私は非常に臆病な人間なのですぐにその手を緩めてしまったのです。でも、今となってはその臆病さも悪いものではなかったと思います。こうして、実際に生のある手で私は私自身の経験や思いを綴って吐き出せています。生きるということは大変で特にマイノリティは差別に直面しやすく、苦しみに苛まれやすいです。氏にたいと思うことも多いはずです。でも、その苦しみを綴って世の中に出せば、それを読んだ人たちが差別について考えてくれるかもしれません。そう思うと、抱えている苦しみもほんの少しは昇華できるのではないでしょうか。

私は自ら命を絶たれてしまった当事者の命を決して無駄にすることのないよう生きていきたいです。必ずしも生きることこそが正しい訳ではありませんが、抑圧、迫害のせいで自ら命を絶つ社会は明らかに間違っています。当事者がに苦しまず抑圧されず自然に生きられる社会になるよう、私自らがその支えとなりたいです。そして、そう思うことが私自身が生き延びることのできる杖となるはずです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。長い上に文章力も低く、読みづらい文章だったと思います。それでも最後まで読んでくださったのならとても嬉しいです。

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