ユダヤの風土:ユダヤを知るための二つの映画
ユダヤを知るには、さまざまな方法があると思いますが、ここでは二つの映画を紹介します。一つは、元々はミュージカル作品の「屋根の上のバイオリン弾き」、もう一つは「シンドラーのリスト」。
⒈屋根の上のバイオリン弾き
1971年に日本公開されたこの映画の舞台は「アナテフカ」というロシアの仮想のユダヤ人集落。一般にシュテーテルと呼ばれたもので、アナテフカを、ユダヤ人の典型的なシュテーテルとして想定。
時代は19世紀末なので、日本が明治時代に入ろうという時期。
当時のロシアは、1881年のアレクサンドル二世の暗殺を契機に、ロシア国内ではポグロム(ロシア語で「破壊」という意味=ユダヤ人大虐殺)が起こった時代。特にウクライナ内でポグロムが激しく、多くのユダヤ人がポグロムから逃れてアメリカなどに移民した時代。
そんな怒涛の時代は、ロシア自身も近代社会へと皇帝のトップダウンで転換しようとしてた時代であり、ロシアに点在したユダヤ人集落もその時代の渦に飲み込まれていくのです。
実際に私が映画を鑑賞して感じたのは「宗教」と「伝統」は一体、同じものなのか、別のものなのか?ということ。
この問いはイスラム教においても同様で、本来は宗教では禁止されていないにもかかわらず、昔からの伝統が宗教と一体化してしまっているので、伝統として続いていた禁止事項がそのまま宗教の教えとして理解されてしまっているのです。例えば「女性を教育しない」という社会規範は「神(アッラー)の前に万人が平等である」というイスラム教の根本教義に反した考え方で、イスラム教の教えとは何ら関係ない伝統的社会(世界中多くの社会で女性を教育しないという社会規範はスタンダード)の社会規範です。
ところが多くの原理主義的イスラム社会は、伝統と宗教が一体化してしまっているので「女性に教育させてはいけない」というイスラームの教えとは真逆の社会規範が、正しい社会規範になってしまっているのです(詳細は以下)。
「屋根の上のバイオリン弾き」を観る限り、ユダヤ教社会の場合も同じ構図です。
「シュテーテルで守られている昔ながらのユダヤの伝統」と「ユダヤ教の戒律」は、本来的には同じではないにもかかわらず、彼らアナテフアに暮らすユダヤの庶民にとっては「伝統」と「宗教」が同じものになってしまっているのです。
主人公のお父さんテヴィエとお母さんのゴルデとの間に生まれた五人の姉妹のうち、長女は幼馴染の仕立て屋と恋仲になります。
シュテーテルの伝統では、娘の結婚相手はお父さんが決めることになっているのですが、この伝統はユダヤ教の教義ではありません。
映画の中でもお父さんのテビエが、村の長老の宗教指導者(ラビ)に親の決めた相手と結婚する必要がるはずだ、と確認したところ「そんな教えは神の教えにはない」とラビが答えてしまう、という場面は、実は「伝統と宗教は別物だった」という格好の事例。
テビエが、ところどころ歌いあげる「トラディショーン!!(伝統)」という彼らの社会規範が、ユダヤの教えに沿ったものなのかどうか、は、ユダヤ教的にはその都度その伝統ごとに吟味する必要があるということなのです(もちろん割礼など、ユダヤ教の教えに基づく伝統も多い)。
そしてロシアの近代化が進むにつれて、五人の姉妹が恋愛結婚(長女)→革命家との結婚(次女)→異教徒との結婚(三女)というように伝統から離れてどんどんエスカレートしていくのが、当時の転換期の時代を象徴。
時代の転換期にあって、ロシア人からの迫害がどんどんひどくなる中、家族の絆を必死に守ろうとする家族の姿が、実に美しくて感動的。
変わっていくもの(時代とともに変わる価値観)、そして変わらないもの(血縁・地縁の絆)、その相剋が本作品を名作に仕立て上げているともいえそうです。
舞台で「屋根の上のバイオリン弾き」を900回演じたというテヴィエ役の森繁久彌(1913ー2009)は、
とインタビューで答えたそうです。そして同じくテヴィエ役を演じる市原正親(1949ー)は、
▪️シンドラーのリスト
こちらは1993年の作品で、アカデミー賞受賞作品なので多くの人が鑑賞しているであろう映画。私自身今回はじめてアマプラで鑑賞しましたが、そのあまりのリアルさに言葉を失ってしまいました。
そしてなぜこの映画がモノクロで撮影されたのか。個人的にはこの映画をカラーでみたら実際観るに耐えられなかったかもしれない。
ユダヤ人的には、ホロコースト(ヘブライ語では「ショアー」という)の実態を、生々しく映像で表現された、という点で、ホロコーストを「忘れえぬ記憶」として世界中の人の目に焼き付けた作品として、記念すべき作品だったかもしれません。
しかも根っからのユダヤ人であるスティーブン・スピルバーグ監督が、いつもの娯楽作品から一旦離れてこの深刻なドキュメンタリー的映画を作成したのですから。
そして「血に染まった金は貰えない」としてギャラの受け取りを拒否したスピルバーグ。
個人的にはこの映画の魅力は、ナチ党員だったオスカー・シンドラーの実業家にして成金らしい放蕩ぶりな暮らしをしつつ、自分の中の二つの自分(※)が、どんどん引き裂かれてしだいにユダヤ人たちに同乗せざるを得ない状況になっていくその葛藤と、自分の立場でしか彼らを救えないというその使命感。
平和しか知らない私たち戦後生まれの日本人が、自分A(=ユダヤ人に寄り添う)の方を選択するのは当たり前のように思ってしまいますが、実際には当時のほとんどのドイツ人が自分B(=ナチスに同調する)を選んでいるわけですから、人間はそう単純なものでもない。
以上どちらの映画も、長い間、地に足がつけられない”屋根の上のバイオリン弾き”としての不安定なユダヤ人たちの境遇と哀しい運命を、見事に描写した必見の映画だと思います。