『人はどこまで合理的か 下』より 非合理を減らすために私たちができることとは?
『人はどこまで合理的か 下』より、今回でやっと最後章に到達。「なぜ人間は非合理なのか」「社会から非合理をなくすために私たちができることとは何か?」について。
■なぜ人間は非合理なのか?
とはいえ「世界の脱魔術化」は、まだまだ浸透していません。いまだに多く人が魔術に取り憑かれたままです。
ただし過去のブログでも紹介したように、私自身は魔術(ピンカー自身は「神話のマインドセット」と表現)を全否定しているわけではありません。「政治・経済や自然科学・社会科学などの世界に魔術は持ち込むな」ということで、文学やアートといった芸術・文化、宗教などの世界では魔術に取り憑かれたままの方が幸福なのは知っておいた方がいいと思います(きっと、この辺りはピンカーも同じ考えではと思う)。
結論的には上のブログで紹介したように、わたしたちは近代西洋社会以前は、現実世界(現実ゾーン)以外の世界(神話ゾーン)については「神話、宗教の教義、伝承、物語」などで世界を理解しており、合理的思考で理解しているのは現実世界のみ。
つまり本能的に人間は神話ゾーンに合理的思考を持ち込むのは苦手なので、啓蒙時代以来、私たちは啓蒙主義に基づいた教育や意識的思考(行動経済学でいうシステム2」によって「世界の脱魔術化」を進めてきたのです。
それでもなかなか剥ぎ取れないのはなぜなのか?を以下整理。
⑴イデオロギーなどの内集団バイアスは魅力的だから
ここはもう説明不要かもしれません。特にアメリカの民主党バイアスと共和党バイアスの「党派」という「内集団」同士の戦いは、アメリカン人の非合理的思考の最たるものです。
内集団バイアスを「マイサイドバイアス」と称したピンカーはこれを嘆いて、これはもう「社会部族」というしかない、といっています。
そして「ウヨク」「サヨク」の存在(特にウヨクは、ピンカーが「国家神話」と紹介)。
日本でもこの内集団バイアスは強力で、バイアスに詳しい人でも「ウヨク」という魔術に取り憑かれるとなかなか脱会できないようですし、一方で著名な芥川賞作家も相当に強力な「サヨク」の魔術に取り憑かれているようです。
厄介なのはこの魔術は相当に魅力的で、内集団バイアスが強ければ強いほどセンセーショナルでストーリー性があって面白い。だから神話は語り継がれて何百年・何千年と続くのです。
したがって内集団は、各種SNSのアクセスも増えて著作もベストセラー、というわけで、合理的思考をすると不人気になる、というのが現実。これもよく理解できます。なぜなら
合意的思考はつまらないですから。これも非合理的思考が蔓延るポイントです。
私たち人間は社会的動物です。ホモ・サピエンスが誕生した30万年前の原始狩猟採集社会以来、私たちは内集団バイアスが強固だからこそ生き残ってきたともいえるのです。
とはいえ現代社会では、内集団バイアスが強すぎると、他の考えの存在を認めず、排除するような輩が増えてしまい、選挙にも影響して政治が健全な民主主義から、ポピュリズムが蔓延る衆愚政治に陥ってしまう可能性が高いので、本当に怖いと思います。
⑵過去から当たり前にあった陰謀論は、情報革命とともに拡散した
陰謀論は、最近誕生した新しい思考ではありません。狩猟採集社会では、部族間の衝突でも最も死者が大量に出るのは全面対決ではなく、待ち伏せ攻撃や夜明け前の奇襲攻撃だったので、信号検出理論でいえば、本当の陰謀論を見逃すコストの方が、陰謀論を信じてしまうコストの方よりも大きかったので、陰謀論はまずは信じよう、という風に進化してきたからです。
直近のアメリカでの調査でも陰謀論がSNSが普及したこの10年で増えたわけではないといいます。
派手な噂話や迷信、突拍子もないデマが流布してしまうのは、私たち人間の本能からくるものであり、私たちの大好物なのです。
そして情報革命とともに、デマの広がり方が、急激に広く速くなったのがSNSが普及した現代社会というわけです。
⑶擬似科学・超常現象は人間の最も深いところに働きかける
狩猟採集民の社会以来、神話ゾーンの世界で存在していた疑似科学や超常現象は、原則的には現実ゾーンの世界に侵食することはなかったのですが、たまにその境界線を超えて「現実ゾーン」に入り、悲劇的な結果を生みます(病気を呪文で治すとか、天に向かって雨乞いをするとか・・・)。
オウム真理教などのカルト教団、各種占い、上述の陰謀論まで、これらは人間の心の最も深いところにある認知直感の一部に働きかけるのです。
ピンカーは、神秘主義が現代社会でも浸透しているのは宗教心や科学に対する不勉強がもたらしたものだ、というのですが、個人的には、そういうことよりも、これらは一種のカテゴリーミステイクの問題として取り扱うべきで、教育でも別々のカテゴリーとして分ければいいだけです。
例えば「アッラーがいるかどうか」は、イスラーム教の世界では「いる」に決まっています。なのに科学的にアッラーがいるかどうか、を問うカテゴリーミステイク。神の存在は、科学の領域の存在ではないからです。
実は『利己的な遺伝子』で有名な生物学者リチャード・ドーキンスもカテゴリーミステイクの過ちを犯しています。昔『神は妄想である』という本を読んだのですが、科学的にいかにキリスト教の神様がいないか、とうとうとドーキンスが説明しているのですが、こんな馬鹿げた話はありません。キリスト教の神は科学の領域で扱う概念ではないからです。
むしろ問題なのは、宗教や神話などの神話のマインドセットが、合理的思考の啓蒙主義で制御された科学や政治経済の領域にその境界を越えて侵攻してくることです。
コーランや聖書の教義はもちろん、占いや神のお告げで政治が左右されたら、まともな現代人にとっては、たまったものではありませんから(ちなみにイスラーム国家では、イスラーム原理主義のタリバン含め、コーランを自分達の都合のいいように解釈して教義を無力化している)。
■社会から非合理をなくすために私たちができることとは何か?
これはなんといっても積極的柔軟性(オープンマインド)です。ジョン・メイナード・ケインズ曰く
「事実が変われば、私は考えを変えます。あなたはどうですか?」
つまり、信念や価値観を「絶対」にしないことです。時代が変われば信念も価値観も変わる、場所が変わっても信念や価値観は変わる、のです。
積極的柔軟性の大切さを訴えた心理学者フィリップ・テトリックの研究によると、専門家よりも将来の出来事を推測するのが得意な「超予測者」は、信念よりも事実を重視します。
自分の信念(仮説)で商売している専門家は容易に自分の信念を変えることはできません。しかし超予測者は自分の信念は絶対ではないので、
ベイズ推定を使ってまずはできるだけ多くの事実にあたり、基準率を把握してから将来を予測し、新しい事実を得たら、またベイズ更新していくことで、その確度を上げていきます。つまり超予測者は典型的なベイジアンなのです。
「ベイジアンになる」ということは「事実が変われば考え方を変える」ということです(超予測者の詳細については以下著作をお勧めします)。
そして教育。日本的にいうとまずは教育は「読み・書き・そろばん・合理性」という感じでしょうか。
■合理性は本当に社会の役に立つのか
ここまで読んできた方は、この項目は不要かもしれません。以下批判的思考を広める活動をしているティム・ファーリーの調査結果では、いかに多くの損害が非合理的思考によってもたらされているか、という記録です。
私たちもこのホームページを閲覧することが可能です。
そして合理的思考は、
以上、ここまでスティーブン・ピンカー著『人はどこまで合理的か』より7回にわたってブログ展開しましたが、少しでも興味を持った方は是非とも本書を手に取って読んで、さまざまな人にぜひ拡散してほしい。
そして子供達のためにも、少しでも世の中が真っ当な社会であるよう、願うばかりです。