「京都の風土」西芳寺(苔寺)の二面性とは
▪️はじめに
この数ヶ月京都の風土を勉強してきましたが、そんな中で知ったのが夢窓疎石(夢窓国師)といいう鎌倉から室町時代にかけて活躍したお坊さん。
すでに夢窓に関する紹介もしましたが、
以下実際に夢窓が作庭したという庭園をみるべく、事前予約して西芳寺へお伺いしたのですが、結局その庭はみることはできませんでした。
実は西芳寺には、これまで私が勉強した「夢窓疎石の私寺」としての側面を持つ一方、「苔寺と呼ばれる観光寺」としての側面もある、というわけです。
もちろんお寺側にはそんなつもりはさらさらないでしょうし、その証拠として苔庭の拝観者にも写経を求めるなど、宗教としての西芳寺の性格を少しでも体験してもらおうと取り組んではいます。
でも拝観者のほとんどの目的は、美しい苔庭の拝観であって夢窓の思想を体験するためではありません。
そして肝心の夢窓が作庭したという上段の枯山水は拝観できないのです(もちろん安全に拝観してもらうための準備が未整備で、拝観者の存在に伴う維持管理の困難さ、というのもその理由とのこと)。
その前にまずは西芳寺の拝観方法について。
⒈西芳寺の拝観方法
西芳寺を拝観するためには事前にサイトで予約し、一人当たり4000円支払う必要があります。
西芳寺は「檀家がいない寺」とのことで実際にこの拝観料で運営していると思われ、1日100名拝観で受け入れて年間300日拝観してもらうとすると、おおよそ年間1億2000万円ほどの収入。
そして別途西芳会なる有料制の会(というか新しいカタチの檀家制度か)があってこの収入が別途あるので、相当な収入ではないかと思われますが、これだけの規模の伽藍と庭園を運営するためにはこの程度の費用は必要でしょう。
そして実際にお伺いすると半分以上は外国人観光客で、これは本寺に足繁く通っていたというスティーブ・ジョブスの影響も大きいかもしれません。
⒉観光としての苔庭「池泉回遊式庭園」
先述の通り、われわれが4,000円払って事前予約して拝観できる庭は実は下段の庭のみです。
西芳寺の庭は上下の2層になっていて、下の池泉回遊式庭園がいわゆる苔寺としての苔庭。夢窓が亡くなって以降、他の寺と同様に応仁の乱などで京都は荒れ果て、西芳寺も例にもれず、ほったらかしにされたことでこの地特有の自然環境もあって数十種類の苔が自然に繁茂したといいます。
その苔の繫茂の具合は、実際に行ってみると本当にびっくりするぐらいの繁茂状況。広大な庭園一面を緑の絨毯が覆っているかのよう。
しかしもともとは、意図的に庭を美しくするために苔を植えたのではなく自然に繁茂したわけで、このあたりはほったらかしにされたからこその怪我の功名というやつです(当然、今はこの苔を維持するために意図的に相当な費用が掛かっていると思われる)。
⒊宗教としての枯山水
慈照寺銀閣の庭園は西芳寺の庭を模して作られたといいます。
西芳寺は女人禁制だったので、将軍足利義政が自分の母だったか妻だったかに西芳寺の庭を見せたかったのですが見せられず。
なので義政は銀閣を創建して女性でも西芳寺のような美しい庭を見てもらえるようにしたとか。
しかし残念ながら、義政が女人に見せたかったという西芳寺の庭は、世界的に有名な苔寺と名付けられた私たちが今拝観できる苔庭(池泉回遊式庭園)のことを言っているのではありません。
上段、の夢窓が一から作庭したという、日本最古の枯山水のことを言っているのです。
この庭は日本全国にある枯山水の庭の源流と言われていて、この庭を見るためには、まずは会費をお支払いして西芳会会員にならなければなりません。そしてさらに別途1万円以上のお布施が必要(写真撮影禁止)。
まさに禁断の庭となっているのです。
以上、拝観するのに手間もお金もかかる西芳寺ですが、私たちが拝観できる下段の庭も拝観するに値する見事な苔庭であることには間違いありません。
念のため、ここで書き留めておきたいのは、ピュアに「芸術を愉しむ」という視点でいえば、唯一無比のこの苔庭の拝観は必須です。夢窓の枯山水が拝観できないからといって西芳寺を訪れる必要はない、とはまったく思っていません。
⒋西芳寺の由縁
以下、引用を中心に西芳寺の由縁について紹介します。
西芳寺は奈良時代、聖武天皇の在位中に、行基菩薩が近畿地区に開いた四十九寺のなかのひとつに始まるといいます。行基は全国各地で橋をかけ、池を掘り、道路を作り、貧しい人びとに施しをして回ります。
そして、その功績により、聖武天皇より大僧正の位を授けられた最初の受位となる(『夢想疎石 日本庭園を極めた禅僧』61頁より)。
西芳寺は1339年、夢窓65歳の時、思いがけなく松尾大社宮司の藤原親秀によって与えられた寺であり、いわば夢窓の私寺。
とすれば、夢窓は公寺である天龍寺より私寺である西芳寺において、庭造りをより大胆に行ったに違いないと思われます(梅原猛著『京都発見8』より)。
間違いなく事実として認められるのは、ここに、跡に鎌倉幕府の評定衆もつとめた中原師員が浄土の信仰を起こして西方寺、穢土寺という二つの寺を建てたこと。
寺の名から言って西方寺は阿弥陀信仰の寺で、穢土寺はここが鳥辺山と同じように人間の死骸の捨て場であったことを考えれば、祀る人のいない無数の餓鬼を供養する寺であったに違いありません。
この二つの寺を建てた中原師員の四代の孫と言われる藤原親秀は夢窓の評判を聞いて、この寺を夢窓に寄進(同 29頁より)
夢窓は西芳寺を「祖師西来、五葉聯芳」という言葉から西芳寺と改め、池の北にあった阿弥陀仏を祀る本堂を西来堂とします。
そしてもともとあった極楽浄土の池を黄金池と名づけ、湘南亭や潭北亭をつくり、西来堂の少し南西に建物を建て、1階を瑠璃殿といい、2階を無縫塔と呼ぶ。無縫塔には彼自身をはじめ多くの生きとし生けるものを祀る寿塔を建てました。(同 32頁より)
夢窓が新たに造ったのは下の庭と称せられるこの庭ではなく、上の庭と称せられるもの。
この下の庭から上の庭に登るところに向上関という門があり、
そこから通宵路という石段を登り指東庵に至りますが、その右手に枯山水の石組みがあります。そして左手に座禅石という石があり、夢窓はその石に座って、枯山水の石組みを見ながら座禅をしたらしい。この枯山水の庭が夢想が新たに造った庭(同 32頁より)。
この西芳寺の庭を作庭するにあたって、多くの大名たちは争って寄付。なぜなら足利尊氏の最も尊崇する夢窓の意を迎えようと媚を売りたいから。
しかし庭を造ったのは戦乱で職を失った差別された人たち。夢想が死んだとき、そのような人たちが押しかけて困った話が公家に日記に見えているらしい。夢窓は天皇は将軍ばかりでなく、差別された民からも親の如く慕われていたお坊さんだったのです(同上)。
⒌夢窓国師の現代性
上のブログで紹介したように、夢窓国師は臨済宗のお坊さんであるとはいうものの、その思想は折衷的で間口が広く、貴賎問わず宗派問わず、現代の啓蒙主義にも通じる思想でとても共感が持てます。
「人間の目指すべき幸福は皆一緒だけれども、その手段は人それぞれで良い」
という思想だから、それぞれの人々が自分の納得のいく方法で幸せを見つけてほしい、そんな願いを庭にして表現したのが、夢窓国師の枯山水。
庭を観ながら自分自身に問いかけ、本当に自分にとっての幸せってどういうことなんだろう、と問いかけし、そして自分にあった方法で幸せになればいい。
もし夢窓国師が現代に生きていたなら、きっとそう言ってくれるような気がします。