奈良の風土:奈良府民になった「奈良北部の近現代」
関西には三都といって、大阪・京都・神戸という大都市がありますが、奈良北部は、北に隣接する京都との繋がりはあまり強くなく、むしろ西に隣接する大阪圏の一部として、そのありようを特徴付けました。
(矢田丘陵より生駒山を望む。2021年5月。以下同様)
■近畿日本鉄道(近鉄)が創造したベッドタウン
私自身は「千葉都民」といわれている市川市在住の千葉県民なので、奈良県北部在住の方は「奈良府民」といってもよいかもしれません。下表の通り、昼に他都道府県に流出している人口の多い順番は、
1位:埼玉県、2位:奈良県、3位:千葉県
なので、奈良県は関西圏でも屈指のベッドタウン。続いて
4位:神奈川県、5位:兵庫県
となるので、多分、神戸市と横浜市が、一部は東京都内・大阪府内に流れる一方で、同県内での就業・就学も多いという性格。
*奈良県庁HP:平成27年国勢調査 従業地・通学地集計結果(奈良県)より
千葉都民は、上り電車(東京駅方面)には乗っても、下り電車(千葉駅・茨城県取手駅方面)にはあまり乗らないのですが、奈良府民も上り(難波・阿倍野方面)には乗っても、下り電車(奈良駅・吉野駅方面?)にはあまり乗らないのではないでしょうか?
(近鉄奈良線 生駒駅)
ただし、千葉県(埼玉県も)の場合は江戸川(荒川)に橋を通せば東京に辿り着けますが、奈良県の場合は大阪との県境に生駒山地や葛城山系があり、山を避けての迂回路線(=古代から続く大和川ルート)でないと鉄道を通すことができません。直結させるためには生駒山にトンネルを通す必要があります。
この生駒山トンネル問題を解決したのが近畿日本鉄道(大正時代のトンネル開通当時は前身の大阪電気軌道)。生駒トンネルを開通させ、奈良と大阪を直結する路線を開拓(今のトンネルは1964年に開通した新トンネル)。ところが当初はお天気電車と呼ばれて奈良への行楽のみにしか利用されない大赤字路線だったそう(奈良のトリセツ46頁)。
(生駒山宝山寺:大阪軌道は、生駒トンネル掘削に伴う金欠で宝山寺の賽銭も借りたそう)
そこで近鉄は「西の阪急・東の東急」を見習ったのか、沿線の都市開発を推進。なので奈良のベッドタウン化は近鉄の経営そのものだったともいえます。奈良県内に路線を拡張する一方、デベロッパーとなって駅周辺を開発→ベッドタウン化。同時に近鉄百貨店などの商業施設やホテル関連施設をターミナル駅に開業させることで、(最近よく使用される)「人流」を増やし、鉄道による収入はもちろん、不動産・小売業の収入も増やしました。
(近鉄奈良線 富雄駅近隣)
特に近鉄奈良線の「学園前駅」は戦後1950年より開発され、今話題の渋沢栄一が1918年に、パリ凱旋門周辺の放射線上の区画を参考にした「田園調布駅(東急東横線)」をベンチマークしたのか、駅北口の区画は田園調布駅とそっくり。
「大学的奈良ガイド」:「学園前」の侵略28頁では、この放射線状の区画は、英国郊外の街づくり、エベネザー・ハワードの「田園都市構想」を範にしたという説を紹介。
(Googleマップを編集:双方とも駅から放射線状に駅前道路を設置)
(近鉄奈良線 学園前駅北口前通り)
下表の通り、近鉄の有価証券報告書のセグメント別の営業収益・利益・資産(コロナ前の2019年度84頁)をみると、運輸部門(鉄道&バス&タクシー)が利益の半分を叩き出しつつ、不動産などの関連事業で補完するという鉄道グループならではのセグメント構成。
■実際、奈良県民はかつて大阪府民だった
奈良県は、奈良出身の有志が必死に中央政府を説得して誕生した県で、お上がつくった県ではありません(富山・佐賀・宮崎も同様)。
千葉県の場合は廃藩置県によって、ざっくり2つ(印旛県と木更津県)ぐらいに分かれていた地域が合併して今の千葉県になり、東京都民だったことはありませんが、奈良県は一時期、本当に大阪府民でした。
1871年(明治4年)、一旦奈良県が設置されたものの、明治政府は各府県の財政難を解消する一環として 奈良県を堺県に編入(1876年)。そして堺県は、そのまま 大阪府に編入(1881年)されてしまいました。本当に奈良県民はこの時点で大阪府民になったのです。
奈良県の再設置ニーズに関しては、堺県に編入されて以降、大阪エリアの開発が優先され、奈良エリアの開発は後回しにされたことが大きな要因だったようです。これに歯車をかけたのが地価修正に伴う税額の改正で、奈良地域だけが改正されず税率を重くされたままとなり、一旦沈静化していた独立運動が再燃。伊藤博文や山縣有朋などの政府重鎮の承諾を得て、1887年晴れて奈良県再設置となったのです(奈良県の歴史第2版345頁)。
郊外再開発については以下書籍も参照。
なお、近現代については「明治維新政府による神道国境化の影響」についても大きかったので、別途「その2」として展開します。
*写真:奈良市高畑の志賀直哉旧居。直哉はここを自ら設計し、終の住処にしたかったようですが子供の教育のために致し方なく東京に引っ越したそう。