正しさは「レイヤー構造」になっている
「何が正しいか」は哲学的には「様々な集団的言語ゲームの中でその都度生成される」と私は思っていますが、つまり「自分の様々なコミュニケーションの単位ごとに生まれるもの」だと思いますが、一方で正しさは「レイヤー構造」にもなっているんだな、と最近よく思います。
レイヤー構造の前提として、まずは「生きる」ということです。
「生きる」ことなくして何もありません。
生きなければ私たちは存在しませんから・・・・正しさを語る意味もありません。
そのうえで、最も普遍的な正しさは、誰もができるだけ自由に公正に生活できる、という意味での
近代市民社会の原理(民主主義的考え方の原理→詳細は以下)
「近代市民社会の原理」が底辺をくまなく行き渡る社会が人間社会の土台、というか「正しい」人間社会。
私たちの世界には、様々なコミュニケーションの単位で生成されている正しさがあり、それぞれの正しさが一致することは永遠にありません。
だからこそ、コミュニケーションの単位ごとに、生まれては消える様々な正しさができるだけ受け入れられるよう(=共存できるよう)、その底辺には近代市民社会の原理が必要なのです。
そしてこの原理を公正に維持するための法の支配によって具現化される。
そのうえで、私たちはそれぞれに所属するコミュニケーション集団の単位(家族、友人、仕事、趣味、宗教、ボランティア、ネットの個別世界など)ごとの正しさの中で生きている。
私たちは分人だから、それぞれの所属する集団ごとに無意識的に「何が正しいのか」を探りつつ会得しながら、生きているのです(詳細は以下)。
とはいえ、そもそも自分自身が持っている固有の正しさ、もあります。
「自分に正直に生きよう」というやつです。
自分自身にとって何が心地よいのか、何が不快なのか、どんな人と一緒にいると心地よいのか、不快なのか、どんな集団にいると心地よいのか、不快なのか、
つまり「自分の正しさ」をちゃんと自覚して生きると、気持ちよく生きられます。
自分とは何か?と考えるのではなく、自分が心地よい瞬間とはどんな時か、と考え、自覚するのです。
こうやって正しさは、生きることを前提に
普遍的な正しさ⇔集団ごとの正しさ⇔自分の正しさ
の「レイヤー構造になっているんだな」と最近思ってるんですね。
*写真:小田原市 江の浦測候所(2023年6月撮影)
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