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「兵庫の風土」六甲山が生んだ奇跡の良港:神戸港

神戸と神戸を取り巻く摂津エリアは、六甲山の存在が大きくその風土に影響しています。

六甲山。2024年5月撮影。以下同様

ポートアイランドなどの埋立地も六甲山の土だし、

というか、平地が狭隘な神戸では住宅エリアを広げるために山を崩してその崩した土を埋め立てに活用した、と言った方がいいのか。

「須磨浦山上遊園」から神戸市垂水区のニュータウンを望む

そしてどこに行っても神戸は坂ばかり。坂を登れば六甲山、坂を下れば大阪湾、なのが神戸(含む兵庫県の摂津エリア)なのです。

外国人居留地から外国人雑居地の北野へ

それでは個別に六甲山が育んだ神戸の風土について以下整理。

六甲山系の断層は、ブラタモリで紹介された通り、須磨浦山上遊園にロープウェイで登るとよくわかります。ここは六甲山の最西端で、六甲山の山並みに沿って神戸の街が形成されているのがよくわかるのです。

須磨浦山上遊園からの六甲山地と神戸

この断層が1995年兵庫県南部地震を引き起こした六甲・淡路島断層帯。この断層によって、地上では標高千メートルにも及ぶ急峻な六甲山を生み、海面下には急峻な崖を形成しているため土砂が海底に堆積せず、に大きな船でも港に停泊できる良港を生んだのです。

須磨浦山上遊園から淡路島と明石海峡を望む

この断層は、それまで北向きに移動していたフィリピン海プレートが、太平洋プレートとのせめぎ合いの結果、約300万年前に北西に方向転換したことで、中央構造線を境に日本列島が横ずれ。この結果列島にシワが発生して、シワの山は小豆島などの「島」や六甲山などの「山」に、シワの谷は播磨灘などの「海」になったのです。六甲山系が列島の東西軸に対して斜めに形成されたのは、フィリピン海プレートの方向転換によってもたらされたものというわけ。

巽好幸著『美食地質学入門』第4章より

⒈神戸港は明治時代に開発された新しい港

実は神戸港は、平清盛などが利用していた古くからのこのエリアの港「兵庫港」(=大輪田泊)と同じではありません。

「兵庫県立兵庫の津ミュージアム」の展示より

明治時代に開港したのは「兵庫港」ではなく、その東側に隣接する神戸(港)村の沿岸だったのです。

なぜならこの付近の大部分が畑だったので外国人居留地を建設しやすかったし、旧幕府の海軍操練所跡やその附属施設である舟入場が近かったので、それらの有効利用を考えたから(『兵庫県の歴史』284頁より)。

幕末期の神戸村には兵庫開港後、主要な輸出品となった茶などの廻送に用いられていた猪牙舟(猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟)や貿易品の売り込み、買受けをする商人がすでに存在しており、外国貿易を受け入れる条件がある程度備わっていました。こうした事情が兵庫港に変わって神戸港を開港する要因の一つになったらしい(『兵庫県の歴史』286頁より)。

同上

⒉波を静かにする断層の傾き

上述したようにフィリピン海プレート方向転換の結果、六甲・淡路島断層帯は、明石海峡を挟んでちょうど斜めに、東北東に向かって内陸に向かっているがために、神戸港を偏西風から守る地形になっているのです。六甲山のおかげで、神戸港は波も静かで、停泊しやすい、船乗りにとって優しい港に。

『ブラタモリ12』52頁

⒊明石海峡の潮流を抑える和田岬のでっぱり

ちょうど、下の写真を見ていただくと、和田岬が出っ張っていることによって明石海峡からの速い潮流から神戸港が守られていることがよくわかります。

船の停泊にとって大事なのは、深い水深と波の穏やかさや潮の流れですが、ちょうど和田岬があることによって波も静かで潮流も穏やかになり、港の立地としては最適な場所。

⒋赤道を越えても腐らない水

神戸の水は、世界の船乗りに愛されたという”赤道を越えても腐らない水”。六甲山地を水源とするこの水は、明治から昭和にかけて公開中の生活用水として重宝。

腐らない水の布引貯水池

当時、灼熱の赤道を超える船にとって”腐らない水”はなによりありがたかったのです。急峻な六甲山に降る雨水は、そのまま海に向かって高速で流れていくので、微生物などにも影響されず、岩石に含まれるミネラル(カルシウム&マグネシウムなど)なども含まずにそのまま流れてしまうので、有機物やミネラルを含まない、つまり腐らなくて美味しい軟水となるのです。

貯水池から流れる「布引の滝」含む遊歩道は、外国人にも人気のスポット

なので、神戸港に立ち寄れば、腐らなくて美味しい水を積むことができたのです。

⒌雑居地が醸成した外国人に寛容な神戸市民

幕末に誕生した貿易港、横浜や長崎などは外国人専用の居住地「外国人居留地」を整備して、外国人専用の住宅街を形成しました。

外国人居留地の中心にある大丸神戸店

ところが神戸の場合は、急いで居留地を整備しようとしたために場所が十分に確保できない。

都会的センスある旧外国人居留地の街並み

そこでもともと段々畑で日本人が住んでいた六甲山麓の北野のあたりを雑居地として外国人も日本人も住めるエリアを確保したのです。

ちなみに「北野」という名称は、平安時代に平清盛が創建した「北野天満宮」の「北野」のことで、その当時からこのあたりに日本人が住んでいたらしい。

平清盛も最強の怨霊「菅原道真公」を福原京の北に配して魔除け効果を狙った

このように開港当時から外国人に慣れ親しんだ神戸市民は、外国人にもすっかり慣れ、港に押し寄せる多様な船乗りたちを受け入れる土壌があったのです。

神戸港に停泊する北欧船籍のクルーズ船=ポートライナーに直結!!


以上、「阪神・淡路大震災とその復興」に続く。

*写真:神戸布引ハーブ園より神戸港を望む

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