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社会は同一性と変化によって無根拠に形成される

「社会心理学講義」小坂井敏晶著 の社会編です。

<社会編の概要>

社会は、同一性を維持するしくみと変化をつけるしくみによって形成される。この社会のしくみは、無根拠に偶然性のなすがままに生成され、虚構という共通の価値観を構成員が内面化(著者は「隠蔽」と表現)して社会秩序が維持される。そして偶然的な少数者の影響によってその虚構は組み換わりつつ、また新しい虚構のもとに維持される。

「偶然の出来事が循環運動を開始し、構造や機能を形成する」(第14講:時間と社会)

「まさにその通り」だと納得です。

◼️同一性を維持するしくみ

まずは、なぜ同一性が維持されるのか、フェスティンガーの認知不協和理論を中心に紹介。

認知不共和理論とは、自分が何かしらの行動をした後にその行動に合わせて意志が形成されるという理論。行動に齟齬や矛盾があった場合、認知不協和が起きないよう(=齟齬がないよう、矛盾が起きないよう)、行動に合わせて意志を変えるという理論。

行動経済学でも、行動が先か意志が先かに関係なく、人間は因果律なしには生きられないから、行動と意志に矛盾が起きると、因果律が成立するように先に発生した行動(または意志)に合わせて安易に意志(または行動)を変えるという同じような理論があります。

因果律そのものの是非や妥当性は関係なくて「因果律が成り立つかどうか」だけが心の安定を生むというのです。そして実際にそのように意志決定するのが人間。

生物学でも、ホメオスタシスという主体のバランスが崩れる均衡状態に戻そうとする負のフィードバックが起きるといいます。

社会機能においても正常化させるシステムが働いて同一性を維持するということです。ただし著者の場合は行動が先で「行動に合わせて意志が変わる」というのがポイント。

したがって個人主義者ほど強制された行為を自己正当化しやすい(なぜなら、この行動は自分の意志だと勘違いしているから)。

*これは実用にも使える理論

たとえば、相手を説得したい場合に、この理論を応用できます。相手を説得する場合、まずは相手の考えは脇に置いておいて、自分の考えに合わせた行動を先にとってもらう。そのあとで説得すると説得しやすいということです(更に相手が個人主義者なら、なおさら説得しやすい)。

◼️変化のしくみ

一方で、社会は変化するしくみも備えています。これに関しては著者の師匠でもあるらしいモスコビッシというユダヤ人(フランス在住)の「少数者の影響理論」を紹介。

基本的に人間は、自分の価値観と違っていたとしても属する共同体の虚構に合わせて自分の価値観を形成します(情報的影響という)。そして自分が明らかに事実とは違っているとしても多数がそうだと思っていれば、多数の意見に合わせます(規範的影響という)。

つまりそれだけ同調圧力が強いのが社会という存在。しかしこれだけでは社会の同一性だけを説明しているにすぎず、社会の変化は説明できないとモスコビッシは主張します。

モスコビッシによれば、多数派よりも「少数派の強くて一貫性のある意見によって社会は変化する」といいます(個人単独でなく少数)。少数であっても複数の人間が同じ意見をひつこく強く主張し続ければ大衆は大きく影響されるというのです。

そして少数派はただ現状を批判するだけではダメで、現状に取って代わる強力な信念を積極的に主張するのがポイントですが、何がきっかけで変化が受容されるかどうかは、マルクス主義や社会ダーウィニズムなどの原理を紹介しつつ、最終的には根拠なく偶然に変容していくという結論。

*具体的事例として、イエス・キリストなどをリーダーとする宗教集団。マーティン・ルーサー・キングやマハトマ・ガンジーなどを中心とする社会活動家集団などを挙げています。

以上同一性と変化のしくみによって、社会は無根拠に無限に諸行無常に変化していく存在だと結論付けています。

最後に著者曰く

「社会システムが辿った具体的な成立経緯は検証できるかも知れません。しかし、そこに法則を見つけることは原理的に不可能です。世界の秩序には何ら内在的根拠がないからです。無根拠から出発しながらも、こうして社会秩序が誕生する(第14講 時間と社会)」。

そのほか、幾つか面白いエピソードがあったので以下メモります。

◼️重要な裁判ほど陪審員に判断させるのが欧米のやり方

近代民主主義社会では主権在民で、犯罪を裁く主体は国民であって裁判官ではないからだそう。結局法律というのは民主主義国家であれば国民が制定するもの。時代に合わなくなれば主権者たる国民が変えていけばよく、著者のいう通り法律に「絶対」はありません。

その法律の解釈も、裁判においては「主権者たる国民の代表=陪審員」が都度都度判断して裁けばよいというのは、至極もっともな考えだなと思います。

◼️犯罪は正常な社会現象

集団規範から逸脱する個人を含まない社会はあり得ません。社会規範から外れる行為の一つとして犯罪があるのであり、犯罪は必要悪。社会が正常に機能するから必然的に犯罪が起きる(第10講:少数派の力)。

性犯罪を事例に著者曰く

「性犯罪の後遺症としてその後、性関係を持てなくなる人もいる。しかしそれも性が特別な意味を持つ限りのことであり、性が完全解放された世界では精神的後遺症は生じなくなるが、今よりも軽減されるはず。つまり機能不全に陥るから性犯罪が生じるのではない。性犯罪は性タブーを持つ社会に必然的に起こる正常な現象(第10講:少数派の力)。

ボノボのように集団内で性が人間の握手同様の気軽なコミュニケーションの手段であるという社会規範であれば、深刻な犯罪にはならないでしょう。性犯罪は悪いから犯罪なのではなく、(多数派の)我々が避難する行為だから犯罪なわけです。

犯罪に関連したドゥルケム理論も面白い。

「犯罪は、共同体の新陳代謝で必然的に生ずる廃棄物を意味します。社会が維持される上で規範が成立し、そこから逸脱つまり多様性が生まれる。そして規範からの逸脱のうち肯定的評価を受ける要素は創造的価値として受け入れる一方で、否定的烙印を押された要素は悪として排除する」

◼️日本の西洋文化の受容

日本は支配されなかったにもかかわらず西洋化したのではない。逆に支配されなかったからこそ、西洋の価値を受け入れた。日本社会は閉ざされているのにもかかわらず文化が開くのではない。逆に社会が閉ざされるからこそ文化が開く(第13講:日本の西洋化)。

というのですが「想像の共同体」や「民族の創造」に基づくナショナリズムの原理からすると、そもそもまず「日本という共同体ありきの仮説」はちょっと違うかなという印象。

そもそも「日本」という共同体は、維新政府が作った「新しい共同体」なので、著者がいう「西洋化受容」の母体自体が存在しません。

維新政府は、欧米列強から支配されないよう、西洋発の公定ナショナリズムの概念に基づいて欧米列強と同じ形態の想像の共同体=近代国家を「創造」したのであって、西洋化という「変化を受容」したのではありません。

「日本」という「新しい伝統国家」はここからスタートし、欧米列強と同じ体制(言語形態、官僚・軍事などの統治機構、法律、教育制度、芸術、宗教=神道を活用した立憲主義)を確立することで、欧米列強からの支配を回避したのです。

「同一性を保ち続ける日本文化(著者)」は閉ざされていたわけでもなく開かれた(丸山真男)わけでもない。そもそも存在しなかったのです。

*写真:東京 根津神社 つつじ苑

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