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「エジプトの風土」『古代エジプト全史』河合望著
<概要>
先史時代から古代ローマ帝国に至る、約3000年の歴史を網羅的に扱った、2021年著述=最新の古代エジプト全史。
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<コメント>
先日、9日間のエジプトツアーに行ってきたのですが、ツアーで観光した文化遺産は、ムハンマド・アリー王朝のムハンマド・アリー・モスク(1848年)、ナセル大統領のアスワン・ハイ・ダム(1970年)を除いては、3000年続いた古代エジプト時代:BC3000〜BC332の遺跡オンリーです。
*初期王朝(第1〜2)
→古王国(第3〜6)ピラミッド
→第1中間期(第7〜11)
→中王国(第11〜14)
→第2中間期(第15〜17)
→新王国(第18〜20)主な神殿・王家の谷
→第3中間期(第22→25)
→末期(第26〜31)
でも世界遺産第一号の、新王国時代の第19王朝ラムセス2世(BC1279-1213頃)によるアブシンベル神殿はじめ、どの遺跡も巨大で繊細で芸術的で一級品ばかり。しかもこの遺跡群が5000年前から3000年前のものだと思うと、ちょっと想像もできないぐらいの感動を覚えます。
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世界中の観光客をエジプトに集めるのも、これら世界最高峰の遺産を生んだ古代エジプト文明あってこそです。
その「古代エジプトってどんな文明だったのか」を最新の研究の成果を取り入れつつ紹介したのが本書。
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⒈ナイル川と砂漠が文明をうみ、現代に遺跡を残す
そして文明を育んだのは、世界最長の川、ナイル川あってこそ。そしてその周りを囲む砂漠があってこそ。
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つまり「ナイル川」と「砂漠」がエジプトの地において、世界最古・最大の古代文明を産んだと言えるのではないか、と思います。
私たちの日本列島含めて「文明」というか「国家の形成」は「穀物」栽培の文明=穀物国家であり、その穀物を必要以上にふんだんに実らせるのがナイル川が育んだ肥沃な土壌。
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小麦などの穀物は収穫日が同時期で運びやすく、長期保管可能なので、徴税官が農民から徴収しやすく、支配と被支配の構造が生まれやすいのです。
ふんだんな穀物は多くの人口を養い、人間に序列を作り、序列の頂点たるファラオが、余剰の人的資源を活用して、ファラオの権威を高めるためのあらゆる宗教的建造物を造成し、お宝を収集。
そして砂漠が営む乾燥した風土が、その文明を現代まで残させ、私たちは数千年前の遺産を見ることができる。
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湿気が多い気候では遺跡類は侵食・風化して残りにくいのです。ほとんど雨が降らない「砂漠気候あってこその世界遺産」ということです。
⒉古王国時代:神の化身たるファラオ
近代社会以前、エジプトは他の多くの地域と同様、宗教の時代。古代文明も宗教国家であって、穀物栽培を前提に権力者の権威を宗教が担保することによって成立するのが古代・中世国家の一般的な姿。
本書に加え、上の著作『古代エジプト文明』では、古代エジプト人の宗教観についてわかりやすく紹介してくれています。
『古代エジプト文明』著者大城道則によれば、一般的に宗教は、不可視の存在に畏怖の感覚を伴って向けられるものであり、そのことがイスラームにおける偶像崇拝の禁止という考え方にも結びついているといいます。
具象が無ければないほど神は神秘的な存在となり、神秘的な存在に対して我々人間は畏怖の念を持つのです。
ところが古代エジプト人の宗教感覚は違っていたという。
古代エジプト人にとって神々の存在する不可視の空間は、現に自分たちの目の前に広がっていることを認識していたというのです。空には太陽神ラーでいて、地下には冥界の神オシリスがいて、その地上にはホルス神がいて「ファラオはホルス神の化身=現人神」というわけです。
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したがって特に古王国時代(BC2686-2181頃)では現人神たるファラオが、秩序を持って世界を治める、という構図。
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古代エジプト国家としての虚構は、ホルス神の化身たるファラオの権威性によって成り立っており、それが古代エジプト世界をファラオが統制する根拠となっていたのです。そうやって庶民を納得させることで支配者としての立場を守っていたのでしょう。
したがって、宗教のテーマである現世と来世(冥界)の関係については、古代エジプト人は区別せず、常に現実にあるものとして認識していたらしい。だからこそミイラとなったのです(詳細は後述)。
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太陽神ラーの聖地であるヘリオポリス(現カイロ近郊)の創生神話によれば、世界は太陽神によって創造され、生命が与えられ、宇宙の秩序が保たれていたといいます。
つまりピラミッドは、ファラオとして現れた創造神である太陽神ラーの巨大な記念物であり、民衆は神の化身であるファラオへの祈りと感謝を込めて壮大な建設に参加したらしい。
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それにしてもピラミッドを構成する石灰岩を間近に見るとその巨大さに驚きます。第4王朝のクフ王(BC2589-2566頃)のピラミッドを例にすれば、ギザ台地で採掘された石灰岩がその躯体に用いられたといいますが、どうやって作ったかは今も諸説あり、謎のまま。
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日本人的には、大阪城の石垣にある各種の巨石と同じくらいの大きさの石灰岩がピラミッド上に山積みになっている、と言えばいいのか?
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とにかく間近に見るとどうやって運んで積み上げたのか、想像すらできません。
⒊新王国時代:神官とファラオ、聖俗のせめぎ合い
ところが時代が500年ほど下って新王国時代(BC1550-1069)になると首都はカイロ周辺のギザから、ナイル川中流域のテーベ(現ルクソール)へ。テーベではテーベのローカルな神アメン神が主役。
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カルナックのアメン大神殿を中心に、神官団とファラオとの権威をめぐる聖と俗の闘争が始まります。
日本でも聖の南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺のこと)と俗の宮家・公家&武家との権力闘争や、織田信長と比叡山&本願寺の戦争が有名ですが、これは古代エジプトにおいても同様だったのです(中世ヨーロッパでは教皇と皇帝・王&貴族の闘い)。
アメン神を祀る神官団は、ファラオとは別途、アメン神の権威を使って独自に穀物を農民から徴税したらしく、ファラオの富に伍する資産を保有。
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このような状況下、アメン神殿の神官の権威を貶めるべく、第18王朝のトトメス四世(BC1400-1390頃)が天空に輝く日輪に過ぎなかったアテンを神として祀りはじめます。そしてその孫アメンへテプ四世(BC1352-1336頃「アメン神は満足する」の意)つまりアクエンアテン(「アテン神の美はうるわしい」の意」)に至って、神はアテン神のみと宣言。つまり歴史上初めて一神教が誕生。
アマルナ宗教革命を断行することになるアクエンアテン(アメンへテプ四世)は、「悪しきこと」が祖父トトメス四世の治世に始まったと記している。この「悪しきこと」とは、王権に対するアメン神官団の影響力の増大である。このことを示唆するかのように、トトメス四世は従来のようにアメン神の信託により即位したのではなく、ギザの大スフィンクスの姿をした太陽神ラーの信託により即位したのである。
この辺りは、まるで、京都に拠点を置いた足利幕府が独自の権力を持った厄介な既存の仏教(南都六宗、真言宗や天台宗)を避けて臨済宗を重用したパターンとそっくりです。近代以前の穀物国家については、どの時代も徴税をめぐる「聖俗のせめぎ合い」がつきもののようです。
なお、このアテン神はエジプトの神々の中でも特殊な存在で、唯一動物や人間の姿をとらない神。つまり祭祀の対象は神像ではなく、天空に輝く太陽とその光=アテン神。
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そしてアクエンアテンは、テーベから北方のアケトアテンに遷都するのですが、結局彼が亡くなって以降、ツタンカーメン(BC1336-1327頃)の時代には、アテン神の信仰もアケトアテンの都も衰退し、元のアメン神&多神教の世界に戻ってしまうのです。
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この辺りは、秦の始皇帝や織田信長の宗教改革とも似ていて、一代の英雄が、従来の神を抹殺して新しい神=自分を創造しますが、結局一代限りで終わってしまう。結局あまりに急進的な改革は、まわりがついていけないからでしょう。
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その後、新王国はリビア、ヒッタイト(アナトリア地方)との闘いなどで領土拡大を目論み、第19王朝のラメセス二世(BC 1279-1213頃)、第20王朝のラメセス三世(BC1184-1153頃)が、再び大神殿を造営しますが、その遺跡たるや、恐ろしいまでに巨大で壮大で世界一の文化遺産と呼ばれるに相応しい遺跡。
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しかし一方で、すでに衰退期に入っていた王国は、各地で官僚の腐敗や職権濫用に悩まされ、アメン神官団の力も復活して、エジプトの全耕地の3分の1は神殿領になってしまっていたといいます。
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したがって、ラメセス朝(=第19王朝+第20王朝)は、古代エジプト王国の最後の徒花ともいうべき王朝だったのです。
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以降は、古代エジプトも衰退期を迎え、第27王朝以降はアケメネス朝ペルシャの支配を受け、その後はアレクサンダー大王に侵略されてマケドニア人によるプトレマイオス朝が成立し、プトレマイオス朝最後のトップ、クレオパトラ七世を最後に古代王国は消滅。
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その後は、前回ブログで紹介した通り、古代ローマ帝国の版図の一部となって以降、地中海世界を支配する帝国の一領土としての立場に陥るのです。
⒋古代エジプト人の死生観とミイラ
なぜ古代エジプト人はミイラを作るのでしょう。最初はファラオだけがミイラを作っていましたが、次第に庶民にもその風習が広がります(以下参照)。
というのも、ミイラになることによって身体を保存させ、将来の再生・復活を目指していたということです。死んでもミイラにしておけば、またいつかは生き返ると古代エジプト人は考えていたのですね。
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ただし、復活はホルス神の支配する現世で復活するのではなく、オシリス神の支配する冥界で復活すると考えられていたのです。
そのためにはミイラになるとともに「死者の書」も必要になりました(第2中間期末以降)。「死者の書」とは来世(冥界)において復活する為の200ほどの章=呪文から構成されていてパピルスの巻物に記され、墓に副葬されたといいます。
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ミイラ加工の過程で取り出される各種内蔵(肝臓、胃、肺、腸)は、カノポス容器に納められ副葬品として墓に入れられました。
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⒌近代の精神がもたらした発掘文化
最後に哲学的な視点でエジプトの文化遺産について考えると興味深い事実に気がつきます。
現代に生きる私たちは、近代の精神たる啓蒙主義が内面化され無意識しているので感じませんが、近代以前、つまり宗教の精神が内面化された中世人・古代人にとって遺跡そのものは、ただの廃墟に過ぎませんでしたし、何ら価値のあるものではありませんでした。
例えばローマのコロセウムも「遺跡としての文化的価値の高い大切な価値あるもの」という概念は、キリスト教の価値観が内面化されていた中世の西洋人には全く存在しませんでした。コロセウムは単なる便利な石材の集積場として建材の一部として使われてきたわけです。
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しかし、近代になると宗教的価値観から理性的価値観が支配する啓蒙主義の時代に転換し、歴史なるものを事実に基づいて検証しようとする動きが生まれます。
つまり考古学や歴史学の誕生です。
エジプトの遺跡も近代以降になって宗教とは別の価値観=啓蒙主義を伴って、フランス人ジャン・フランソワ・シャンポリオンによるヒエログリフの解読(1822年)やイギリス人ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発見(1922年)などの動きが生まれるのです。
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近代以前では、過去の遺物は、金銀財宝などの経済的価値や宗教と結びついた遺物に限ってその価値はありましたが、文化的価値としての遺物は無価値なものだったのです。つまり宗教としての重要性を失った異教徒たる古代エジプト人の遺跡については見向きもされなかったのです。
したがって、大英博物館やルーブル博物館は、エジプト人からみれば盗人の博物館、とまで言われていますが、実はこの辺りの理屈は微妙です。
当時、近代精神の宿っていなかったエジプトにおいて、先に近代化した英仏は、その遺跡の価値を考古学的な価値観として歴史上はじめて見出したわけで、当時のエジプト人にとっては、それらは厄介な遺物にしか過ぎなかったはずです。
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なぜなら当時のエジプト人のほとんどはイスラーム教徒であり、彼ら彼女らにとって異教徒の遺物に何ら価値はなかったからです。
エジプト人も後になってイスラーム教徒でありながらも、近代の精神を受容し「考古学」の概念に目覚め、自分たちの土地に存在する遺物の価値に初めて気がついたというわけです。
近代以前の宗教の時代には、エジプトの見事な文化遺産は、何の価値もないものだったのであって、私たちは哲学を勉強することで、そのこと(価値に絶対はない)に気づくことができるのです。
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*写真:大スフィンクスとカフラー王・クフ王のピラミッド(ギザ)