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「学問としてのオリンピック」 書評

<概要>
高度に商業化した今日のオリンピックを、古代オリンピック、近代オリンピック双方の思想・歴史を主に、教養としての知の文脈の中で捉え直した著作。

<コメント>
オリンピックボランティアとして参画したTOKYO2020ですが、そもそもオリンピックってどんなイベントなのか、その由来を知りたくて本書を手に取りました。

ボランティア研修でよく聞かされた「オリンピズム」だとか「オリンピックムーブメント」といった概念は、正直いって「上滑り状態」でそんなの理解して活動してる人いるんだろうか、と思っていましたが、実際そうですが、本書を読んで「なるほど、そういうことだったのか」と納得。

私の解釈するオリンピックの現実は、

①世界規模のスポーツイベントによる感動の創出
②スポーツの感動が醸成するナショナルアイデンティティの発揚
③スポーツの商業化によるスポーツ界全体の発展・育成

ですが、古代・近代双方のオリンピックは以下のような由来や理念に基づくスポーツイベント。

■古代オリンピック

古代オリンピックは、ギリシア神話の神「ゼウス」に捧げる宗教儀礼で、聖地オリンピアにおいて5日間開催されました。

ギリシアでは複数のポリスに分裂していたのですが、それではギリシア人のギリシア人たる所以は何かといったら「ギリシア語を話し、ギリシアの神々を信仰する人々」となります。ギリシア世界が共有するギリシア神話の神々、その神々の王「ゼウス」を祀るのがオリンピックだったのです。

ゼウス含むギリシアの神々を祀るにあたっては、演劇、生贄による儀式など、さまざまな宗教儀礼がありますが、古代ギリシア人にとって、運動競技もこの宗教儀礼の一つ。運動競技は、神々だけでなく死者の霊をも慰めるものと考えられていたので、人の葬儀にも盛んに運動競技を催したといいます。

古代ギリシア人は、ポリス間で絶えることなく戦争していたという事例が示すとおり、争いごと・競争が大好きな民族。これは芸術・学問も同様で、劇のコンクール、弁論大会などなど様々な競争(アゴンと呼ばれた)をイベントとして開催。

なお、平和の祭典と言われるオリンピックは、オリンピック3ヶ月前からオリンピックが終了するまで、オリンピック開催に影響する戦争は休戦されていました(影響しない戦争は除く)。

オリンピックの勝者は、聖なる力を持ったものとして賞賛され、自国における貴族としての地位を高めることにつながるとともに経済的にも恩恵が多かったらしい。

一方でソクラテスによれば、

オリンピックの優勝者は、国の誇りとなり国民を熱狂させて「幸せであると思わせてくれる」、つまり幸せな気分にさせてくれる。だが、真正に「幸せである」とはどういうことか、それが、哲学が問いかけ、私たちを夢から醒めさせて真の生き方に向かわせる哲学的吟味である(81頁)

という側面もあり、優勝者を無条件に賞賛すると「善く生きる」という観点においては、その本質を見失うことになる、とソクラテスは警告しています。

とはいえ、運動はプラトンが「国家」で言及している通り、哲人を養成する重要な要素「文芸(ムシケ)・体育(ギュムナシケ)」として重要視されていたわけで、その価値が貶められることはありませんでした。

■近代オリンピック

近代オリンピックの生みの親、フランスの貴族クーベルタン男爵(1863年−1937年)の理念はオリンピック憲章として言語化されています。

オリンピズムは肉体と意志と精神の全ての資質を高め、バランスよく和合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする(58頁)

(1)貴族の勲功としてのスポーツ教育

クーベルタンは近代市民社会とその結果としての近代国家が成立しつつある時代(19世紀〜)、没落する一方の貴族の端くれとして貴族たるその存在意義を問うていました。そしてその存在意義とは

 私利私欲を廃し公益のために勲功を成し遂げること

と彼は考えました。

そこで彼が目をつけたのがスポーツだったのです。英国のパブリックスクールでみたスポーツを教育に取り入れることで道徳的・倫理的素養が身につけられる。だから「スポーツを教育の一環として普及させることが自身の勲功となる」と考えたのです。

(2)古代ギリシア精神(ヘレニズム)の活用

同時に、この時代はシュリーマンのトロイア遺跡発掘(1870年-1873年)を契機にした古代ギリシア文明発掘ブームのさなかで、1875年ドイツ調査団がオリンピア遺跡を発掘。

クーベルタンは、スポーツによる人間育成普及の一環として、古代オリンピックを手本に世界的なスポーツ祭典を実現しようと動きます。そして古代ギリシアの精神=ヘレニズムは、人間肯定の精神。スポーツを通じて身体はもちろん精神の育成によって更なる人間性の発揮が望めるという考えたのです。

(3)新興国家ギリシア王国の思惑

新興国家ギリシアは、古代ギリシアから続く国家ではありません。長い間古代ローマ帝国やオスマン帝国に支配を受けた後、オスマン衰弱に乗じて近代民族国家独立の一環として独立し、王をヨーロッパ王族の中から戴き成立した国家。

日本の近代化と似ていて、日本は神祇信仰をベースに皇統を復活させつつ新しい神道を創造してこれをナショナルアイデンティティとしましたが、ギリシア王国は、権威(王権)をヨーロッパ王族から調達(はじめはドイツ系)しつつ、ナショナルアイデンティティに古代ギリシア精神(ヘレニズム)を活用しようと考えました。

この流れが、クーベルタンの思惑と一致し、1896年にアテネにおいて近代オリンピックが開催される運びとなったのです。

以降、近代オリンピックは、世界の近代国家の国威発揚(ナショナルアイデンティティ醸成)とスポーツを通じた普遍的な倫理的価値観醸成の二つの要素を混在しつつ今に至るという流れです。

(4)近代オリンピックの理想像

なので表向きは「オリンピックムーブメント」と称してオリンピックというスポーツイベントを通して、スポーツによる倫理的価値観を推進しようというのがオリンピックの理念であり、その運動が「オリンピックムーブメント」ということになります。

確かに今風の倫理的価値観としての「多様性を重視しよう」「差別をなくそう」という動きは、私のボランティア活動の中でも感じられたことは間違いないのですが、一方でナショナリズムを顕在化させるような国家を背負った側面は、おおよそオリンピックムーブメントとは関係ありません

したがってクーベルタンが提唱したオリンピズムに則るのであれば、近代オリンピックは、国家の枠組みを取っ払い、アスリート個人の活躍をベースにしたイベントとなるのが本来の姿。

団体戦も国別対抗ではなく、任意の団体別だとかに変えるべきでしょう。もちろん任意の団体には国家が含まれてもいいかなとは思います。

例えばサッカーの場合だったら、カタルーニャ代表、ACミラン、日本代表、筑波大学などが混在した競技にすればよい。そうすれば国の概念が関係なくなり、より平和な祭典に近づくのではと思います。

我々も日本人だけを応援するのではなく、国籍はもちろん、人種・民族・性差などにとらわれず、ピュアにスポーツの感動をアスリートから受け取れば良いのであって、日本代表に執着することなど不要でしょう。それが本当のオリンピズムです(そうすると商業的に開催が無理になるかな?)。

もし、世界的スポーツイベントとしての国別対抗戦を楽しみたいのなら、オリンピックの名を冠する必要はありません。

サッカーのワールドカップみたいにすれば良い。むしろこの方がスッキリしていていいかもしれません。

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