和歌山県の風土:「高野聖」と高野山
■高野山について
高野山は、名著「高野聖」を著した宗教民俗学者にして高野山大学の教授でもあった「五来重」が
そして
と表現。
⑴自然環境
高野山は標高800-850メートルの山に囲まれた日本最大級の菩提所として、日本全国から死霊が集積する独特の空間なのです。実際にいってみると、紀の川エリアから高野山へは、車で20kmほどの奥にあり、その山深さを実感できます。
標高800−850メートルということは、100m標高が高くなるごとに気温は0.65℃低くなるので、平地よりも5℃以上低い気温。実際和歌山市の年間平均気温17度にたいして高野町は11度と、6℃低い気候。年間降水量は2,000mmで、和歌山市(同1,725mm)と田辺市(同2,025mm)の中間ぐらい。
ただし年間日照時間は1,585時間と、和歌山市の1,725時間と比較しても短く、北陸地方並みの少なさで、どんよりとしたあの雰囲気は、五来のいう墓原の広大さとあいまって、日照時間の少なさからくるのかもしれません。
地質的には日高川層群と一部三波川帯に属し砂岩や頁岩で構成。三波川帯は変成岩で、中世に一隻五輪塔の石材として活用。
⑵人口構成&産業
高野町の人口は、3,352人(2015年)でしかもその過疎化は悲劇的で10年前から△30%と大幅減(2005年比)。総人口の40%は高齢者で、しかも子供は242人しかいません。
その多くは仏教施設としての高野山関連の方なのか、といっても下述のように現代仏教は、その経済が「観光」によって成り立つ部分も大きいので、宿坊=仏教旅館としての宗教的観光業がその中心かもしれません。実際、第三次産業の人口構成は84.4%でかつての主要産業だった林業は衰退(第一次産業1980年14%→2015年3%)。
観光業は、50 年ごとに開催される「高野山開創」及び「弘法大師入定」のそれぞれ二つの大法会の開催年に観光客が増大。加えて2004年世界遺産登録、2009年ミシュランで最高評価の影響か。
特徴的なのはインバウンド(外国人観光客)に関して熊野古道同様、中国人等のアジア人は極めて少なく、その多くは西洋人(欧州、米国、豪州など)であること。
*高野町歴史的風致維持向上計画、2015年国勢調査、気象庁データ参照
■高野山の歴史
日本の宗教的聖域は原始山岳にあり、祖先信仰を主とする日本列島の住人は、人は死ぬと山岳を通じて天に上るといわれていることから、その霊山の代表格の一つが高野山。
数ある山岳信仰の中でも高野山は空海が丹生津比売からその地を譲り受け、密教の根本道場としての一大拠点としたところが、高野山ならではの魅力を醸し出しているのかもしれません。
⑴概要
古代 :高野山の山神=丹生津比売を地主神とする山岳霊場
816年 :空海=密教(真言宗)による開山(嵯峨天皇より下賜)
994年〜 :大火→有力武家の僧供料横領&荘園顛倒で衰退→僧不在
1016年〜:祈親上人定誉による再興
1070年 :奈良興福寺の教懐、奥の院の燈籠をともす
1114年〜:覚鑁の台頭→伝法院の開山
1140年 :覚鑁、金剛峯寺の襲撃に遭い下山(錐鑽の乱)→根来寺へ
鎌倉時代 :明遍・重源・覚心など従来の密教に加え念仏・禅の混在
高野聖による総菩提所として高野浄土の流布
室町時代 :念仏の徒=時宗による復興(高野聖の時宗化)
戦国時代 :信長の侵攻→木食応其による秀吉への説得で武装解除→寺領復活
江戸時代 :念仏の抹殺と弘法大師信仰→真言宗への回帰(寺領は維持)
→高野聖の消失
近現代 :寺領没収&女人禁制解除→俗化で一般町家形成&寺院宿坊化
⑵仏教経済史と高野山
五来によると、経済面で日本仏教を時系列で整理すると以下のようになる、というのが面白い。特に現代仏教は「観光経済」だというのは「信仰」によって今の仏教が成立しているのではなく「観光」によって今の仏教が成立している、というのは本当にそうだなと思ってしまいます。
古代仏教 :荘園経済(律令国家の保護による広大な寺領と荘園)
中世仏教 :勧進経済(重源、一遍等、仏教の聖人は全員絶大な営業力の持ち主)
近世仏教 :檀家経済(江戸幕府が強制した戸籍代わりの檀家制度)
近現代仏教:観光経済(神仏分離による衰退→観光による復興:少し諷刺的に)
816年に開山した高野山をこれに当てはめると、弘法大師が開山以降、高野聖の営業活動によって諸国から集金するとともに、高野聖の代表格ともいえる教懐、明遍、覚鑁や重源などの尽力により権力者から寺領を日本全国から寄進。
その寺領からの徴税によって維持。明治政府から多くの領地を取り上げられるも高野聖の残した遺産を受け継ぎ、日本全国からの納骨や観光としての宿坊によって現代までその聖地としての立場を維持。
今の高野山を経済面で支えている数多の宿坊は、高野聖が全国を遊行する中で高野山の宗教的権威を浸透させつつ、遺髪や分骨などによって納骨をさせるなど、その営業力の賜物。
これによって日本全国の遺族は、菩提所としての高野山を定期的に訪問するとともに彼ら彼女らを受け入れる宿坊の伝統を残したのです。
■高野聖(ひじり)とは
泉鏡花の小説「高野聖」で有名な高野聖ですが、今では、ほんとうの「高野聖」についてはほとんど「忘却の彼方」といった感じです。
高野聖とは、主に中世(鎌倉時代→室町時代)において一般に半僧半俗の修行僧&遊行僧で、日本全国を廻って、高野山の伽藍建立&維持管理やお坊さんたちの生活費などの費用を集金していた人たちです(「勧進」という)。
高野山の他にも善光寺・熊野・東大寺など、さまざまな宗教団体が「聖」を活用して勧進しており、高野山だけが特別なわけではありませんが、高野聖の力は相当だったようで高野山が「日本最大級の菩提所」となったのも、高野聖の勧進力なくしてはあり得なかったらしい。
彼らは宗教専属の営業マンみたいな存在なので、高野山のお坊さんたちからは見下され、卑下されていましたが、高野聖がいなければ高野山の経済は成り立たなかったわけで、必要不可欠な存在だったのですが「お金」にまつわる活動は、一般に宗教者は関わりたくないので、致し方ありません。
庶民が何の見返りもなく、その信仰心だけで高野山に寄進してくれるわけではありません。高野聖は「勧進帳」を高野山所属の聖の証明書として携行しつつ、今風にいえば地方周りの巧みな宣伝活動によって日本全国の庶民から勧進してもらいます。
聖は、艱難辛苦の修行によって験力を保持したといわれ、日本人全ての不幸の原因といわれた「罪と穢れ」を滅することができると信じられていたのです。各地を廻って先祖や死者の供養をしたり、病気を治したり、呪術したり、納骨を請け負ったり、面白い話やありがたい話を披露したり(唱導という)などして、勧進したもらったわけです。
一方、庶民に寄り添い、庶民への関心を引かなければならないという宿命もあって、高野聖は半僧半俗の立ち位置で、僧侶と異なって飲食・肉食・妻帯などの破戒的世俗性は許されていました。しかし室町時代末期には俗に染まって退廃した高野聖も多くなり、しだいに権力者はもちろん庶民からの信仰も薄れていったといいます(江戸時代にほぼ消滅)。
■高野山の宿坊について
高野山では「恵光院」の宿坊に宿泊。お風呂とトイレが室内にある部屋を選んだので1名当たり21,000円とちょっと高めの設定でした。
⑴阿字観による瞑想
「人は皆自身のなかに仏の心と智慧を持っている」という弘法大師の教えに基づき、瞑想によって宇宙と自分の一体感を味わうことが目的です。大切なのは呼吸で呼吸を整えることで宇宙との一体感を感じるというのがポイントのようです。
弘法大師の教えは、プラトン、カント、孟子など「我々自身は、本来的には善である」という考えと共通していて、やはり人間の本質への我々の志向性(関心の行き先、というか「そうありたい」という思い)は、同じ方向に向かうのかなとも思います。
そして「宇宙と一体化したい」という願望も、古今東西によく見られる汎神論の類型ではあります(儒教、スピノザ、西田幾多郎など)
体験した感じでは、個人的にピラティスをやっているのでその感覚に近く、「心が落ち着く」体験でした。
⑵奥之院ナイトツアー
夕食後、幻想的な夜の奥之院を訪れます。
これは恵光院さんならではで、ちょうど奥之院参道の近くにあるので、そのまま徒歩で奥之院まで歩くことができるのです。20名前後の参加者がお坊さんガイドに従い、奥之院に至る参道の墓石&供養塔にまつわる貴重なお話をお伺いするとともに、夜の奥之院での静寂なる霊気を感じることができます(ムササビの鳴き声も)。
⑶護摩焚き
早朝の、イケメンお坊さんレーサーのご住職「近藤説秀」さんによる護摩焚きにも参加。これは必見でした。思いを護摩符に記入して奉納すればよかったなとちょっと後悔しています。スゴイ迫力でした。
お坊さんによる護摩炊きはいかにも神聖な行いで、厳しい修行をくぐり抜けたお坊さんにこうやって祈ってもらえば、本当に自分の願いが叶いそうな気分がしてくるのは間違いありません。
偽薬「プラセボ」が有効なのと同様、護摩焚きしてもらうことによって「こころのありよう」が変わってくれば、これにともなって願いが叶うこともあるかもしれませんし、自分のモチベーションの変化によって「世界の見え方」が変わってくる可能性も高いのでは、と思います。
まさに「信じるものは救われる」というセオリーですね。
以上、こうやってみると現代に生きる高野山では、高野聖は跡形もなく消え去ってしまったものの、現代仏教では妻帯もOKで半僧半俗化し、1000年以上ずっと女人禁制だった高野山にも女性観光客は多く訪れ、南海電鉄が高野線を敷設して更に世界遺産登録で来訪者は増加して一大観光地化し、ある意味「高野山自身が高野聖そのものの世界」になったのかもしれません。
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