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日本の名字とは?「名字の歴史学」奥富敬之著 私評

<概要>

日本人の苗字(名字)は、どのような変遷を辿って今に至るのか?そもそも姓名・氏名・実名の違いとは、を紹介した書。

<コメント>

そもそも苗字(名字)とは何なのか?選択的夫婦別姓なども政治課題になっていますが、本書を読むと名字に関する今まで疑問に思っていたことが、そこそこ明確になって大変興味深く読了。

(江戸時代以降は「苗字」。江戸時代以前は「名字」)

■江戸時代も庶民は苗字を持っていた

選択的夫婦別姓を賛成する人たちが、よくその理由として言われる、
「日本では、苗字はそもそも武士や公家ぐらいしか持っていなくて、明治時代にやっと日本人全員が苗字を持つようになった。だから日本では一家が同じ苗字であるべき、という慣習は本当の日本の慣習ではない

という主張。でも、これは違うようです。

これは1952年に当時早稲田大学教授だった洞富雄氏が「江戸時代の庶民は果たして苗字を持たなかったのか」という当時衝撃的な論文を発表するに至り、当時の「江戸時代の庶民は苗字がなかった」という常識が覆されたのです。

つまり、江戸時代の庶民は苗字を「公称」することが禁じられていただけで、私的な場では普通に苗字を使用していた、ということ。このあと目立った反証論文はなく、むしろ賛同する論文が数多く発表され、今ではこれは定説。

ただし、具体的には神事や私的な冠婚葬祭の時に便宜的に苗字を使用していた程度で、庶民にとって公家や武家などの支配層のように、苗字が特別に重要だったわけではありません。

■苗字は庶民の家族制度にとって重要なわけではない

江戸時代「公称」が禁じられていた苗字は、明治政府が1870年(明治3年)に公的にも「苗字を全員つけてくださいね」とお願いしたにもかかわらず、多くの人々は苗字を名乗らなかったのです。

私的に使っていた苗字は、そもそも便宜的なもので、当然持っていない人も多く、持っていた人も重要視していなかったわけです。なので明治政府は業を煮やし、1873年に「必ず苗字をつけるように」と、苗字を義務化したのです。ただ、どんな苗字をつけるかは自由だったので

*昔からの隠し苗字(江戸時代に私的に使っていた名称)
*住んでいる土地の名前
*職業に使っていた屋号や職業にまつわるもの
*戸長や、檀那寺の和尚に依頼した名称
*主家や地主の苗字
*一村が皆同じ苗字
*おふざけの苗字(大食漢→大飯、酒呑み→5升酒、力持ち→三俵)

などで、日本の庶民は対応。

その後は、結婚してもそのまま実家の苗字を使ったり、政府が女性に実家の姓をそのまま使うよう太政官布達を出したりと、政府も右往左往。そしてやっと夫婦同一姓が義務化されたのが1898年(明治31年:民法、改正戸籍法)。

結婚した女性は夫の苗字を名乗るべし

本書150頁

と、明治の終わりに夫婦同一姓が義務化→慣習化

そして戦後の民主主義化によって男女同権になり、夫婦のいずれかの姓が選択できるようになって、1976年に離婚後の姓が旧姓変更OKになって今に至る、という流れです。

なので、なぜ夫婦同一姓を守ることが日本の家庭の絆を守ることにつながるのか、は歴史的には全くその根拠に乏しいことがよくわかります。日本人の1500年以上の長い歴史のうち、たった100年ちょっとの最近の出来事が夫婦同一姓なのです。

■古代、名前とは「氏名+姓名+実名」の組み合わせ

古代以降、日本では天皇家や豪族など、支配層の日本人の名前は「氏名+姓名+実名」の組み合わせで成り立っていました。

⑴氏名とは、氏族を表す名称

平安時代『新撰姓氏録」には1182氏が掲載。氏族の名称で血縁関係はもちろん、血縁でなくてもその氏族に支えていた氏人や奴婢も氏名を名乗っていました。

①住んでいた土地の名称に由来
 蘇我、葛城、安倍、当麻、大和、桜井など
②職業に由来
 物部、大伴、久米、服部、犬養
③渡来系に由来
 秦、東漢

⑵姓名とは、尊卑の序列を表す名称

大和朝廷に臣従または連合した場合に与えられた階位の名称。従って基本的に天皇が臣下に与える名前(=賜姓という)。天皇に姓名がないのは、天皇が天皇に賜姓することは出来ないから。

*事例:真人、大臣、大連、君、臣など

⑶実名とは、個人名(ファーストネーム)


そののち、氏族の名称としての氏名と官位としての姓名は、天皇の臣籍降下(=皇籍離脱)などの影響で一体化。

ちなみに、元々中臣鎌足の中臣家は、藤原に住んでいたことから、氏名と姓名を合体させて文武天皇が「藤原」と命名(祭司担当は大中臣などに分家)。その後、さらに藤原氏の権力を分散するために藤原氏は、五摂家(近衞・鷹司・九条・二条・一条)に分家という流れ。

■公家は、自分の住所名が名字に

平安時代は結婚すると夫は妻の家に住むのが通常。父と息子は、それぞれ氏族を表す氏名に加えて、住む場所を示す「称号」で呼ばれるようになります。例えば藤原氏の場合は、五摂家となった九条、近衛など。

ところが平安末期から鎌倉初期にかけて母型列から父系列に移行し、夫が妻を訪問する妻問婚から、夫が父の邸を相続し、そこに妻を迎え入れる妻取婚へと変わります。

その結果、父の称号をそのまま息子が受け継ぐようになり、これが家系の呼称に。この「呼称」が公家の名字になったのです。

■武家は、自分の領地名が名字に

東国の武士たちが、自分の名前に領地名を冠して名乗るようになりました。

公家の場合と違い、武士の場合は、自分が住んでいるかどうかに関係なく、その土地から経済的な収益と軍事力が得られているかどうか、が大事。つまり自分の名称に自分の領地の名称を使うことで「ここは俺の領地だぞ」と宣言しているようなイメージです。

武家の名字のもととなった本領地のことを「名字ノ地」という。これを武家は”一所懸命ノ地”として、命がけで護ろうとしたのである。

本書93頁


【事例その1:甲斐源氏武田一族】
*姓名=源氏。皇族(清和天皇の子供)が皇籍離脱の際に天皇から与えられた
*名字=武田。分家は武田を名乗らず、その領地の名称である「一条」「板垣」 
    「逸見」等を使用。

【事例その2:北条義時】:大河ドラマ「鎌倉殿の13人 主人公」
  *氏名=北条。
  *実名=義時。「小四郎」または「四郎」の場合もあった。
  *名字=江間。分家としての名字。”江間殿”とも呼ばれた。
  *姓名=相州。官位として天皇から賜った名称。その他「右京兆」「奥州」。

以上、日本の苗字は複雑な歴史を経て今に至った結果、日本の苗字は世界に例の見ないほど数が多くなったわけです。

*写真:和歌山県新宮市 熊野古道「高野坂」より王子が浜を望む。


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