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建設的な討論とは?:不健全な「分断」を超えて

討論は何らかの課題に対して、討論参加者たちの知恵を出し合ってより精度の高い結論を導き出そうという方法。

にも関わらず、テレビで視聴するNHKの「日曜討論」や、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」などの討論番組では、討論者は自分の主張を補強するばかりで一向に議論が深まることはありませんし、当然合意に至ることもありません。

特に政党を背負った人たちの議論や、自分の学説を前提とした専門家たちの議論は、絶対に合意に至ることはありません。

なぜなら彼ら彼女らは、政治家であれば自分が公約した政策(=所属する政党の政策)、専門家(学者)であれば自分の主張している学説から逃れることはできないからです。

共産党の政治家はひたすら、共産党の主張を補強する形でしか発言しないし、自民党の政治家は、自民党の主張を補強する形でしか発言しない。

積極財政派の学者であれば、その立場でしか発言しないし、財政慎重派であればその立場でしか発言しない。学者は自分の学説を論文で発表して学生に教えてメシを食っているわけですから。

つまり哲学の世界でいう「信念補強」に終始して「共通了解」の方向に向かないのです。

大曽根俊輔作(2022年2月松本PARCO de 美術館にて撮影)

でもこれは当たり前のこと。

さまざまな政策的立場や学説の中身の説得力の水準の高さをお互い披露しあって、見る側の私たちは「どの主張により説得力があるのか」を判断する材料を提供されているに過ぎないから(むしろ、そのために私は視聴している)。

ディベートは、異なった考え方同士を戦わせて個別の主張のロジックの整合性の精度を引き出し合うツールなわけだから、その目的を全うしていると言えばそうかもしれない。

同上

しかし、このようなディベート形式の討論は一方で、分断を深くしてしまう「不毛な議論」ともいえるのではないか?

一方で今話題の成田悠介がいうように「多様性を求めているのに分断がネガティブなのはオカシイ」という議論もありますが、

今の分断が問題なのは、これまでの多様性を認めるという「健全な分断」ではなく、相手を論破しようとする、全否定しようとする多様性を認めない「不健全な分断」だから問題なのです。

例えば「健全な分断」が生きていた1980年代のアメリカでは、民主党・共和党両党の政治家が、お互いの信念は違っていても、お互いの違いを認めつつ建設的な議論ができたといいます(今は全然ダメらしい)。

一九八一年から八六年にかけての共和党のロナルド・レーガン大統領と民主党のトーマス・〝ティップ〟・オニールの関係がそうだ。双方とも百戦錬磨の政治家であり、強烈な個性があり、政治哲学においても政策にかかわるほぼすべての問題についても対立していた。それでも二人は互いに敬意を払い、憲法にもとづく互いの権威を認め、ルールに従って役割を果たしていた。・・・中略・・・レーガンとオニールとそれぞれの陣営は重要な法案の多くにおいて意見が対立していたが、それでも減税や連邦税法、移民政策、社会保障改革、非軍事費の削減、軍事費の増強などについて双方が歩み寄ることに成功した。

ジャレド・ダイアモンド著『危機と人類』第9章 政治の2極化
同上

むしろ私たちは自分のこれまでの主張から一旦離れて、本当により良い方向はどの方向なのか?もっとフラットに議論すべきではないか?

政党の政策・公約や、学者のこれまでの自分の学説から一旦離れて(哲学でいうエポケー)、今私たちが本当に取り組まなければいけない課題とは何か?その優先順位は何か?

それが現実的に難しいのであれば、お互いがお互いの顔を隠して自分の素性を隠したうえでの、シークレットな合意形成に向けた公開討論でもよい。

そうやってお互いが了解できる、より精度の高い結論を求めるべきではないのか?

同上

朝令暮改でもいいし、転向してもいい。

より説得力の高い考え方が生まれたり、出会ったりすれば、積極的に柔軟に自分の信念を変えてもいい。というか信念というのはその程度のものなんです。教条的に死守するものでもありません。

以上、竹田青嗣著『新・哲学入門』やスティーブン・ピンカー著『人はどこまで合理的か』を読んでいて、より強く感じたのでした。

ピンカー曰く

人々のあいだで信念というものの概念が変化してきているということだ。すなわち、ある考えが真実か偽りかという判断から離れて、個人の道徳的・文化的アイデンティティーの表現へと変化している。そしてそれはまた、学者や批評家が自分の仕事をどうとらえているかも変わりつつあるということで、真実を追求することから、社会正義やその他の道徳的・政治的対義を推進することへと変化している。


スティーブン・ピンカー著『人はどこまで合理的か』第3章

ちなみに「著名な学者が言っているからその主張は正しんだ」というのをピンカーは「権威に訴える論法」として否定していますが、私も深く同感したのであえて最後に引用させていただきました。


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