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「モロッコの風土」モロッコの3つのタブーとは
モロッコには3つのタブーがあるといわれています。それは「アッラー(イスラーム教)」「ワタン(祖国→西サハラ領)」「マリク(国王)」。
最初のモロッコのタブー「アッラー(イスラーム教)」の事情については別途項目を立てる予定なので、今回は残りの二つのタブー「ワタン=西サハラ領問題」「マリク=国王独裁」について、以下紹介したいと思います。
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⒈ワタン:西サハラ領問題
私が小学校の時(1970年代)の地図には、確かアフリカ大陸の西北部分に独立していないエリアがあって「スペイン領西サハラ」となっていたと思いますが、その場所が今の西サハラ。
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モロッコは1912年フェス条約により、フランスとスペインの実質植民地になってしまいます(建前上はスルタンを傀儡とした保護領)。モロッコ中心部(カサブランカ、マラケシュ、フェスなど)はフランス保護領、その両脇はスペイン保護領。
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実はモロッコ区域内には、いまだスペイン領があって旧スペイン領の「セウタ」「メリリャ」はスペインに返還してもらっていません。この両都市は、もともと交通の要衝としてスペインが何世紀にもわたって長期間領有していたスペイン固有の領土だとしてスペインはモロッコに返還しなかったのです。
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同様にスペインは、西サハラもモロッコとは別の自治地域だとして返還を認めず。
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そのあと「ポリサリオ戦線」を中心とした西サハラ住民による政治運動が展開。1975年に事態の打開を図ったモロッコはモロッコ国民35万人を動員して西サハラを大行進(「緑の行進」という)。既成事実化によって西サハラを占拠しようと企図。
この結果1975年、スペイン、モロッコ、モーリタニアの三国間で協定締結。
スペイン軍の撤退とモロッコ・モーリタニア両国による分割統治が決定。一方でアルジェリアやリビアの支援を受けた「ポリサリオ戦線」によるサハラ・アラブ共和国独立の宣言。
ポリサリオ戦線による独立運動は武力闘争化し、この結果モーリタニアが独立戦線との和平協定のより撤退。ところがその撤退地にモロッコが侵入して、今現在はモロッコが西サハラの多くを実効支配。
国連は西サハラ住民が国民投票して西サハラの行く末を決めればよいとしたのですが、実効支配するモロッコはアルジェリアの息がかかったポリサリオ戦線主導の不当な選挙になるに違いないとして拒否。
なので「西サハラ問題」に触れることはモロッコにとって都合の悪い事実であり、この問題を語ることはタブーとされているのです。
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⒉マリク:国王による独裁国家モロッコ
今の国王はアラウィー家のムハンマド6世(在位1999年〜)。イスラーム教の創始者ムハンマドの血を引くシャリーフだとされています。
モロッコにムハンマドの血統を伝えたのは、モロッコ初のイスラーム国家「イドリース朝(789ー926年)」で、実質モロッコの国家文明はイスラームとともに誕生したといってもよい(先住民ベルベル人による国家体制の歴史はない)。
時は下り、アラウィー家は13世紀後半にアラビア半島からサハラの交易拠点シジルマサにやってきたという。
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シジルマサでアラウィー家は、先住民ベルベルの尊崇を受け、次第にリーダー格として勢力を伸ばし、アトラス山脈をこえてフェズを制圧し、さらにリーフ山脈を超えて地中海まで進出。そしてフェズを首都とするアラウィー朝創設(1631年)。
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19世紀以降はヨーロッパ列強に翻弄され、保護領化に至って傍系が傀儡になるも第二次世界大戦後の独立運動でリーダーとしてアラウィー家の首長ムハンマド・イブン・ユースフが国王ムハンマド五世(現国王の祖父)として即位し、モロッコを親政統治。
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政治体制は立憲君主制をとるも、政治の実権は独立以降アラウィー家の三代の国王=マリクが握っており、国王批判は御法度の国(憲法上の規定で国王への批判は不敬罪に問われる)。
この辺りはサウジアラビアやUAE、カタールなどの他アラブ湾岸諸国とほとんど変わらず。
王政独裁国家でありつつ新欧米路線をとることで王政独裁への批判を封じつつ、積極的に外資を導入して経済成長を促し、国民の批判をかわす政策。
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私たち民主主義の国からすると、王政独裁国家を批判したくもなりますが、優秀な国王が独裁的王政をとることで治安は安定し国は紆余曲折あるも一応発展。問題は世襲制でトップの能力が維持できるかどうか。
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そして長期政権は腐敗することも多い。
モロッコの王政独裁はそういった不確定要素を孕みながらも、下表の通り一人当たりの名目GDPは伸び続けているので、一応は順調であると言えるのかもしれません。
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*写真:テトゥアン旧市街