「エジプトの風土」『エジプト近現代史』山口直彦著 読了
<概要>
エジプトの近現代史を学ぶには最良の著書。啓蒙主義の価値観をベースにしつつ、日本などと比較もしつつの客観的かつ論理的に歴史の事象を時系列に従って記述されている点などは非常に好感が持てる。
<コメント>
イスラーム教勉強の流れで、昨年11月のカタール、今年5月のトルコに続き、同じイスラーム圏の国家エジプトツアー参加にあたり、エジプト関連著作をいくつか通読中。
中でも本書はエジプトの近現代史を理解するには最良の著作でした。
本書のあとがきが、2011年の「アラブの春」の時期に書かれたということもあって、ムバーラク政権後のエジプトの動静が、インドネシアでのスカルノ政権の事例のように民主化を達成し「今後アラブの民主化のモデルになるかも」との希望的観測が書かれています。
しかし残念ながら現時点(2023年11月)、民主的選挙で選ばれた(日本がテロ組織と指定してる)ムスリム同胞団支持のムルシー大統領は、その「イスラームによりすぎた」などの政策の失敗もあって「軍事クーデター」という、世界中の発展途上国にありがちな、いつものパターンで失脚。
そして新しい軍事独裁としての「シシ大統領誕生」という戦後エジプト共和国が歩んだ開発独裁の道に再び戻ることになってしまったのは、(衣食住充足という前提つきではありますが)民主主義を信奉する私としてはちょっと残念ではあります。
⒈近代以前のエジプトのコスモポリタン性
さて「エジプトってどんな地域か」というと、あらゆる人種が支配したコスモポリタンな地域。
ちょっと日本人には想像もできませんが、エジプトは実は紀元前3000年から続く古代王国が紀元前500年前後にペルシャ人(アケイメネス朝)に侵略されて以降、2500年間、他地域出身者がずっと支配してきた地域なのです。
ペルシャ人が支配した後は、マケドニアからアレキサンダー大王がやってきて、マケドニア人によるプトレマイオス朝になり(クレオパトラはマケドニア人)、その後が、ご存じ史上最強の古代ローマ帝国による支配。
そして、ムハンマドが7世紀にアラビア半島で誕生すると、イスラーム帝国が怒涛の如くエジプトにやってきて、あっという間にイスラーム帝国の一部に。
イスラーム帝国は、改宗含むムスリム(イスラーム教徒)であれば、皆同じ扱いなので、生物学的にはこの間、長期にわたって遺伝的交雑が進み、ここに至って元祖エジプト人は、ほぼ消滅してアラブ人に包含されたのではと思われます。
1250年にエジプトの地に誕生したマムルーク(※)朝も、トルコ系・クルド系やチェルケス(コーカサス地方)系などの奴隷出身の支配者による王朝。
以上、オスマン帝国に例えると「イェニチェリ」的組織がそのまま政治権力を握ったのが「マムルーク朝」ということになりますが、オスマン支配後もエジプトではマムルークたちが官僚として残存し、それなりの権力を維持していたといいます。
そしてマムルーク朝(1250年〜)がオスマン帝国セリム一世(在位1511ー1520)によって滅ぼされて以降は、オスマン帝国の領土になり、ここから約400年間、トルコ系(といってもスルタンは、ほとんど遺伝的にはロシア系)の支配者による占領が続く。
そして、エジプトは1805年、アルバニアからやってきた軍人のムハンマド・アリー(1770頃ー1849)が軍の中で権力を掌握し、アルバニア人が王族として君臨する近代王朝国家「アリー朝」に。
その後英国の直接統治、間接統治を経ながらも1953年のエジプト革命までアリー朝は続くのです。
⒉日本より百年早かったアリー朝の近代化
ムハンマド・アリー統治下の経済開発体制は、オスマンから独立を勝ち取ったその実績に基づき、アリーが強力な指導力を発揮して、有能な官僚を創成し、官僚たちの作成した国家戦略に基づいて、起業家、労働者、経営資源を育成し、動員して経済成長に結び付けます。この間人口も倍増(250万→450万。ちなみに今は1.1億!)。
この手法は、日本の明治維新のほか、第二次世界大戦後に独立した中国などの共産主義国家含むアジア諸国の「権威主義開発体制」の先駆をなすもの。
しかし残念ながら、日本含むアジア諸国のようには成功しなかったのです。その要因は人材不足、専売制による民業圧迫、鉱物資源の不足など、いくつかの理由があったものの最大の要因は「英国」の干渉と支配。
英国は、エジプト国内産業を守ってきた関税を撤廃させ、エジプト国産よりも安くて品質の良い製品をエジプトに輸出。これによってエジプト国内産業は大打撃を受け、英国に原材料(綿花など)を輸出する経済的植民地国家に陥ってしまうのです。
日本の場合は、1980年代のプラザ合意による円高や日米貿易摩擦で米国から干渉を受け、その後バブル崩壊を経て成長が止まってしまったものの、当時のエジプトに対する英国の仕打ちに比べたら、米国の仕打ちは可愛いものだったかもしれません。
⒊日本にとって「他山の石」だったエジプトの失政
このように、エジプトの歴史に鑑みると近現代エジプトの不幸は、地理的にヨーロッパ列強に近い地だったことです(その反面、ナイルの賜物を享受)。
仮に日本がエジプトの地にあったなら西欧列強の餌食となるのは必定で、もしかしたらエジプトと同じ運命を辿ったかもしれません。
そして、スエズ運河の開削がエジプトの運命を大きく変えます。ムハンマド・アリーの息子サイードの元家庭教師でサイードが懇意にしていたフレンチバスク人「レセップス」がサイードをそそのかしてスエズ運河開削を実現させます。著者曰く、
とのように、スエズ運河の開削は近代エジプト王朝の破綻を招きます。労働力の無償提供という国民への過酷な負荷と過剰な対外債務が、欧州列強、特に英国の進出を招いたのです。
まるで中国からの過剰債務でデフォルトし、ハンバントタ港を乗っ取られたスリランカのようです。
このように西欧列強の食い物にされたエジプトの状況は、オスマン帝国への欧州列強の干渉と合わせて日本が学んだ先例。日露戦争における対外債務もエジプトの失敗を見習って過剰債務にならないよう、十分な配慮がされたと言います。
ちなみに、欧州列強の一角ロシアを非欧州国「日本」が勝利した日露戦争は、トルコ、インドはじめ、エジプト人に与えた影響も大きかったらしい。
⒊イスラエル建国を阻止しようとしたエジプト
英国によるパレスチナ信託統治が終了してイスラエルが建国された1948年5月、エジプトはじめ周辺アラブ五カ国はイスラエルを潰すべく、イスラエルに宣戦布告(パレスチナ戦争=第1次中東戦争)。
しかし、イスラエルの猛反撃を喰らって逆にイスラエルがエジプト領内、シナイ半島まで侵攻。ところが「エジプト民族主義の敵」だった英国がイスラエルを脅し、停戦してエジプトは救われる。
この敗戦の要因は、腐敗したエジプト王政による各種補給不足・兵器不足によるもので、軍部の政治結社「自由将校団」がクーデターを起こす遠因となります。
このようにイスラエルが今あるのも、彼らの保有する強力な軍事力があってこそで、軍事力なくして今のイスラエルの存在はありませんでした。
これは悲しい現実ですが、現在のウクライナ侵攻やハマス&イスラエル戦を見ていても、いつの時代にあっても「軍事力」(とそれを支える経済力)がなければ国家としてその存在を脅かされる、という現実は今も続いているのです。
⒋東西冷戦に翻弄された「軍事独裁国家」エジプト
1952年、軍の政治結社「自由将校団」によるエジプト革命(というか軍事クーデター)によって、アリー朝が消滅し、自由将校団トップの独裁となったのがエジプト共和国。つまり「共和国」とは名ばかりで実際は軍事政権トップによる独裁国家。原則としてこの体制は今も軍人、シシ大統領の政権として続いています。
⑴「政治は非同盟」「経済は社会主義」のナセル大統領
①政治は「非同盟」
エジプト革命を経てエジプトの独裁者になった自由将校団のトップ、ナセル大統領(1918−1970)は、強いリーダーシップでエジプトを再建。
西側諸国がソ連に対抗してアラブ諸国を味方にすべく「バクダッド条約機構」を形成しようと動きますが、ナセルは拒否。1955年チェコスロバキアからソ連製の兵器を購入するに至り、安易に西側に与することはしないという姿勢を見せます。
そしてアスワンハイダム建設においても、西側諸国だけでなくソ連からの投資も受け入れる態度を示し、東西両睨みの非同盟政策を取ります。すると英仏はこれに反対してダム資金から撤退。ナセルはこれに反発してスエズ運河を国有化。
強引なナセル大統領に怒った英仏は、イスラエルをけしかけて戦争を起こさせ、イスラエルはエジプトのシナイ半島を再び占領。これがスエズ動乱(第2次中東戦争)。
シナイ半島は、その後国連監視軍の駐留する中立地帯になりますが、ナセル大統領は今のハマスの先制攻撃と同じ理屈でイスラエルに戦争を仕掛けます。つまり戦争を仕掛けて国際社会の関心を喚起し、領土回復に向けた政治的解決を図ろうとしたのです(第3次中東戦争)。
ところが、エジプトが軍を動かすと、あっさり国連監視軍はシナイ半島から撤退。その空白をついてイスラエルが再びシナイ半島を攻略。この結果エジプト軍はイスラエル軍と正面衝突し、ガザとシナイ半島を失い、空軍は壊滅し、戦死者は1万人を超えるなど惨敗。
戦争による経済的負担や後述の経済失政と合わせてナセル政権凋落の決定打となってしまうのです。
②経済は「アラブ社会主義」
アラブ社会主義とは、共産主義の無神論と階級闘争を回避し、国家主導の計画経済を柱とする政策のこと。
民営企業の国有化や国家主導の重化学工業の振興など、ソ連の社会主義に範をとった経済政策は、見事に失敗。
エジプト経済は典型的なハイコストエコノミーとなり、外貨不足→輸入引き締め→資材不足→低生産(生産設備の遊休化)や、低投資→消費財の不足と輸入拡大、そして外貨不足といった負のスパイラルに陥ります。
⑵政治も経済も「西側」に阿ったサダト&ムバーラク大統領
ナセルが1970年に心臓麻痺で急死すると、副大統領の地位にあったサダト(1918−1981)が大統領を引き継ぎます。
サダト大統領は、ナセルの政策失墜・経済失策を受け、親ソ連派の閣僚を追放しソ連から派遣された軍事顧問や技術者を追放する一方、経済の自由化を打ち出して西側諸国への接近を強めるなど、大胆な政策転換を図ります。
著者曰く「政権掌握後のサダトの歩みは、旧ソ連のゴルバチョフ元大統領とも共通している・・・だが海外(主に西側諸国)での名声の高まりと反比例して、国内では急速に支持を失っていった」とのように、あまりにも西側により過ぎてしまった政策が国民の反感を生んでしまったのかもしれません。
日本のような(いい意味での)日和見主義と違って、ムスリムが大半のエジプト国民にとっては、西側に極端に傾いた政策には納得しかねたのかもしれません。
①西側諸国におもねったサダト&ムバーラク大統領
サダト大統領は1973年、イスラエルに戦争を仕掛け、はじめてイスラエル軍を押し返してシナイ半島を奪還するなど、緒戦において優位な立場に立ちます(第4次中東戦争)。
この後米国支援もあってイスラエル軍は押し返しますが、国連仲介の停戦によってエジプトはシナイ半島を回復するなど大成功。
その後、1977年サダト大統領はイスラエルを電撃訪問し、1978年には米国カーター大統領の仲介でキャンプ・デービッド合意が成立して両国間で平和条約締結。
一方で、このような西側&イスラエルにおもねった政策は他アラブ諸国の反エジプト感情を醸成。サダト大統領の暗殺の要因の一つにつながってしまうのです。
そして副大統領だったムバーラク(1928-2020)が政権を引き継ぎます。
「鈍牛」に喩えられて国民からは期待されていなかったムバーラクですが、アラブ諸国との関係改善を図り、1984年にはアラブ穏健派のモロッコ&ヨルダンと国交回復。続いて1989年アラブ急進派のシリア、イラクとの関係改善するなど、外交において画期的な成功を収めます。
1990年に始まった湾岸戦争を経て、アラブにおけるエジプトの地位はアラブの盟主の立場を確立し、西側諸国との調停役ともなってアラブ世界の安定を実現させます。
②社会主義から資本主義への転換
サダト大統領は、ナセルのアラブ社会主義から転換し、ソ連のペレストロイカ、中共 鄧小平による開放政策に先んじて、「インフィターハ(門戸開放政策)」と称する改革開放政策を導入します。
具体的には民間活力の活性化や外資の積極的な導入による経済活性化策。同時にスエズ運河の再開、シナイ半島の油田開発とオイルショックによる石油価格の高騰などにより、経済成長率が年5%から8−9%に上昇。
一方でこの間、人口爆発によって食料品&消費財の輸入増大、開放路線に伴う消費ブーム、投資に伴う各種資材の輸入増大などにより、貿易収支が急速に悪化すると同時にその赤字補填のために財政赤字増大。そして財政赤字は通貨供給によって穴埋めしようとした結果、通貨の価値が暴落してインフレが加速。
さらにはアリー朝以来の悪しき官僚主義や脆弱なインフラなどによって、格差拡大や失業率の増加などの負の側面も表面化。
このような過剰債務の状況下、サダトを引き継いだムバーラクはその卓越した外交手腕によって過剰債務を解消させます。湾岸戦争で西側&湾岸産油国に加担することで合計約133億ドルの債務免除。さらに主要国債権国会議(パリ・クラブ)との間で約200億ドルの免除を勝ち取ったのです。
これに合わせた各種規制緩和や複数あった為替レート統一などの改革によって財政赤字は急減し、インフレも2桁台から2%程度までに収まるなど、その成果は絶大に。
⒌総括
このように、サダト&ムバーラク大統領の外交努力と改革によってエジプトはアラブの盟主としての立場を堅持。
一方で独裁者による長期政権は、腐敗も生みます。どんな立派な人も私利私欲の誘惑に負けてしまうし、大統領周辺の血縁者は蠅のようにたむろして私利私欲を貪るのはエジプトも同じ。
このような「法の支配」の脆弱さは、不公正な社会を蔓延らせ、縁故主義と賄賂問題を深刻化させます。
いわゆる「正直者が馬鹿をみる」社会。
さらに経済成長と高等教育の推進で人口は増大するとともに若年エリート層はもっと増大し、限られた雇用の受け口にあぶれた若者が、不平不満をかかえます。
更にこの間採用された緩やかな政治的自由が、若者の不平不満を増幅。
この不平不満が「負のエネルギー」に変換するとサダト大統領の暗殺を引き起こし、「正のエネルギー」に変換するとムバーラクの失脚を引き起こしたのです(アラブの春)。
*写真:ムハンマド・アリー・モスク(カイロ。2023年12月撮影)