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大坂の風土:泉州&熊野・紀州街道編

大阪は、摂津・河内・泉州を併せて「摂河泉」といわれますが、中でも紀州街道の舞台となった泉州の風土も特徴的でした。以下地図の南の方「和泉」というエリア。

 堺を拠点に自転車で旧紀州街道を使って、りんくうタウンの田尻橋まで遠征して、泉州のフィールドワーク。

(田尻スカイブリッジ。2021年10月撮影)

■熊野街道「熊野詣で」とは

紀州街道に並行して内陸を走る熊野街道は、中世より京に住む人たちの間で盛んだった熊野詣でで使用する街道として利用された街道(残念ながら熊野街道は紀州街道のように現代の街道として明確に残っていない模様)。

熊野詣では、中世の浄土信仰の一環で、疑似浄土を体験できる聖地として熊野が京の人に持て囃され、熊野に至る困難なルートとも相まって、その浄土信仰も深まったらしい。

熊野本宮大社(2021年5月撮影)

この時代は(明治の廃仏毀釈まで)、神仏習合といって神と仏は一体だったので、本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音の本地(なりかわり)として祀られていました。これら仏神が一体化した対象は総じて「熊野権現」とも称されています、

(戦後、明治の神仏分離令が解除されたのか、神仏習合の神宮として復活した熊野本宮)

中世は穢れ忌避の概念が生まれたので、煩悩に穢れた穢土(現世)からのがれ、死後の世界=浄土を体験できるというのは、当時の人にとってはまさに夢の場所、今でいえばディズニーリゾートに行くような感覚だったのかもしれません(道中の艱難辛苦はありませんが。。。)。

■紀州街道について

紀州街道は大阪高麗橋から、住吉・堺・岸和田城下を通り、和歌山に至る街道。近世以前では熊野街道が泉州地域の主要線道でしたが、海沿いの街が発展するにつれ沿岸部を結ぶ街道として別途、紀州街道が誕生。

 

(堺市の阪堺電鉄阪堺線の大通りから、本来の紀州街道らしい細道に入るその出発点。2021年10月撮影。以下同様)

もともと紀州徳川家は大和街道→伊勢松坂経由で参勤交代していましたが、第六代宗直以降、紀州街道→大坂→京経由にルート変更。これは紀州徳川家の威光を大坂や京などの大都市の庶民に誇示するためであったらしい。

(堺市内の道標)

今に残る街道は、空襲で焼かれた堺市内のように新道として戦後に拡幅された場所もありますが、

(堺中心街の阪堺線が敷設された紀州街道)

おおよそは堺中心街のようにはいかず、細い道。

 土地買収による費用や立退問題回避の問題からか、街道に並行して国道26号が整備されたため、細い1本道の街道は地元の人が主に利用する生活道路となっています。

街道沿いは、今でも古い家が軒を連ねる場所も多く、走っていても風情を感じられる最高のサイクリングロード(ゆっくり走りましょう)。

 ■岸和田市の風土

泉州における唯一の城下町が岸和田市。

(岸和田城)

 岸和田といえば「だんじり祭り」。もともとは牛頭天王を祀る祭りとして誕生。牛頭天王を祀るということは京都の祇園祭同様、穢れ忌避→疫病退散を目的とする祭りだったと思われます。

だんじり会館に展示してあった「だんじり」

 文化人類学者の中沢新一は、大阪アースダイバーにて、だんじり祭りは捕鯨を模して荒ぶる男の魂を鎮めるための祭りだったのでは、としていましたが、実際には大阪三郷の夏祭りの様子をみた岸和田の有力者(茶屋新右衛門)が牛頭天王社(今の岸城神社)の祭に献灯提灯を掲げたいとしたのが始まりだったらしい(岸城神社HPより。五穀豊穣の説もある=岸和田市HP)。

(岸和田城から、旧市街を望む)

前述の通り、日本の中世以降は「穢れ」を徹底的に忌避する文化で、疫病も穢れの一つとして忌避すべく「牛頭天王」が熱心に信仰されていました。

残念ながら牛頭天王は、牛頭天王の「天王」が、文字と発音が「天皇」に似ているからという理由で明治時代に徹底的に排除されたらしい神仏習合の仏神(「廃仏毀釈」畑中章宏著より)。天皇と似たような神格は、明治政府にとっては厄介な存在だったのでしょう。

だんじり会館というのが市内にあって、だんじり祭りの様子が体感できる施設となっています。

だんじり会館

 祭りを実際に観なくても祭りの雰囲気を味わいたい方にはおすすめ(本当の祭は9月の土日に開催。今はコロナで中止中)。会館の展示によれば江戸時代以降300年にわたって町内会がこれだけ大規模に長期間活動が継続しているのは日本中でも岸和田だけではないか、と謳っていました。

組織力こそ「だんじり」の力

 見せ場は、城下町特有のクランクの場所(敵の侵入防止策)で、ここで軒下を削りながら進む様が、荒ぶる男の魂を揺さぶるのかもしれません。

 ■江戸時代随一の大金持ちを擁した泉佐野

これはびっくりですが、江戸時代でトップクラスのお金持ち「食野家」は、泉佐野を拠点として繁栄。旧新川家住宅(ふるさと町屋館)で頂戴した当時の長者番付によれば、なんと東の大関。当時は横綱がなかったので、お金持ちランキングNo.1ということか。

 ところが食野家は、江戸の三井越後屋(西の小結)、大阪の住友(東の前頭)・加嶋家(東の小結)のようにはいかず、当主の放蕩もあって、明治維新の大名貸しの借金棒引などをきっかけにすっかり没落し、

 その跡地は小学校に。

この辺りはもともと、大阪の「富田林」や奈良の「今井町」のような寺内町と違い、漁師町がそのまま発展したために、区画が複雑で慣れていない人は完全な迷宮状態。

現地でも「迷宮都市さの町場」と呼ばれているらしい。

ガンバ大阪にいた食野亮太郎選手は、WIKIによると食野家の末裔らしい。確かに泉佐野出身だし、本当かもしれません。

ちなみに「泉佐野」「泉大津」の地名は、みな他の地方が名称を正式登録する際に先に同名を使われてしまったために致し方なくアタマに「泉」とつけて登録。一方の「岸和田」や「貝塚」「高石」の場合は、先の登録がなかったのでそのまま使用。したがって「泉貝塚」とは言わないようです。

 なので地元の方は「いずみ」とつけず「佐野では」「大津では」と呼んでいました。

この辺りは1年中気候も良く、海も山もあって自然豊かで、しかも大阪の中心にも南海電鉄ですぐにいけるし、大阪に住むならこの辺りが良さそう(りんくうタウンも関空も近いし)。私の住んでいる千葉県にも似た感じがします。

 泉州の名産も館内で紹介されてました。

*写真:五風荘より岸和田城を望む

 


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