旅の記録−1(仮)

 拝啓、兄さん。
 僕が旅に出てもう半年だね。
 そっちは変わったことは無い?
 常夏の国と違って、こっちの海はとても寒い。でも船に乗り前にしっかり準備をしてきたから大丈夫。
 船員の人たちとも仲良くなれたよ。色々な国を渡ってきただけあって、面白い話も沢山聞けた。早く兄さんやミシェリア様にも聞かせてあげたい。本当に信じられないようなことばかりなんだ。
 そろそろ、この航海も終わるみたいだ。
 今までにないぐらい(ずっと同じこと言ってるね)、期待してることがあるんだ。
 この国でどうしても見たいものがある。
 それは、まだ内緒にしておくね。
 それじゃあ、また。

「ふぅ、ちょっと字が曲がったけど、この出来で我慢しよう」
 火薬や香辛料など様々な匂いが詰められた船倉で、書き終えた葉書を鞄にしまい込む。
 見慣れた部屋は、木箱や麻袋で隙間という隙間を埋め尽くしたような決して心地良いと思えるものでは無かったが、路銀に余裕を持たせられる身ではない彼にとっては妥当な所であった。甲板へ出れば空と海がある。渡り鳥やカモメが居ることもあれば、手の空いた船員から話を聞いて回った。
 寝床が狭く少しぐらい不自由な場所であっても、この後に待ち受ける自由と冒険に比べれば苦にさえ思わない。
「よし、忘れ物は無いな。行こう」
 一時前から船内は慌ただしい。上の方から重々しい駆け足が部屋の空気を揺らしている。そして、けたたましく鳴らされる鐘の音。着港を船員に通達し港へ合図を送っているのだ。

「船速をもっと下げろ! まだ早い!」
「ラーファンのように遅くだ、体毛モジャモジャのな」
 甲板では船長であるフロージアが勇ましい口調で指示を飛ばしていたーーその姿は颯爽としており紺色の服と一本の結い髪を堂々と風に靡かせている。即座に伝令管を伝って全船に伝令が通達される。
「ラーファンの毛皮に包まりてぇなぁ、すっかり冷えてきたぜ」「俺は風呂がいい」「もうじきだ、早く陸で飲みてぇー、フプルルちゃん元氣かなー」船乗りたちの口々から機嫌の良さそうな調子が飛び交う。
「総員に告ぐ。こんなところで船を沈めてみろ、一生の恥者となると知れ!」
「ウェーイ!!」
 各所で船乗りたちが威勢良く船長へ声を返す。
「進路上に海氷あり!」
 後部マストから灯を片手に持った女性の声が響く。狙撃手であるベリンダの姿があった。
「どうだ?」フロージアが操舵手に歩を詰め陸地の方へと目を凝らす。
「右側は漂流が早いようです、ああ……港が返してきましたね、左から行きましょう」
「うむ、そうしてくれるか」
 舵が切られ船体がやや左に傾く。
 振り向いたフロージアの視線の先にオルトスは立っていた。
「おや、オルトス殿、騒がしくてすまない。見えるだろう、もうじきだ」
「うん」
「ああ」所在無げという訳でなく、呆然とした彼に対し、彼女はどこか納得したように笑った。
「氷海では海氷の船体への衝突や圧力が厄介でな。特に着港の時が最も慎重になる。とは言え、安心してくれ。私が責任を持って君をあの陸地まで送り届けると約束しよう」
「うん、その……ありがとう」
 力強い視線が彼に送られる。彼は、船員がこの気さくな船長に全幅の信頼を寄せる理由が分かった氣がした。
「みんなで、こうして力を合わせて、この船だけじゃなくて港の方まで。すごいと思った」
 女船長はそれを聞いてハハッと笑う。
「初めは苦難ばかりだった。でも皆のお陰でこうして帰ってこれるようになった。世界の様々なものを皆に届けることができる」
「僕の国には大人数の乗り物もなく、ほとんどの都市で交易もない。それに水は崇拝の象徴にはなるけど、抵抗なんて考えもしないよ。ただ恩恵を受けるだけだった」
「ここは水と氷ばかりの島国。空に浮遊する都市群から来たそなたには、確かに驚くだろうな」
 手すりに留まっていた白い鳥が音を立てて飛び立つ。その向かう先は真っ白に染まった陸。港と思しき場所の其処彼処で光が見える。
 空は青い。凍てつくような風を受けて船は進む。
「空の国か、わたしもいつか行って見たい」
「旅行に?」
「商人として、もあるが、オルトス殿の話を聞いて一度聖都にも行ってみたいと思ったよ」
「それは正直、苦労しそうだけど、でも、叶うといいね」
 天に座す唯一神を崇拝信仰する空の民。基本思想として、翼と天輪が神より与えられた天使族のみが住むことを許される国。
「今はまだそのつもりはない。でもやるからにはやり遂げてみせるさ。さて、悪いがまた後でゆっくり話をしよう。ああ、よければ共に酒でもーーそなたにはまだ早かったかな?」
「あはは、うん、お酒の味はまだ知らないでおこうかな」
「そうか、まぁうちは若い者も多いからな、よければ歓迎するぞ」
 朗らかに笑いながら仕事に戻る若き女船長の背を見つめ、天使の格好をした少年は、度々胸中に訪れるまだ自分の足では届かない断崖の向こうを見つめるような思いがした。

 頭に光輪を宿すものの翼を持たずに生まれたオルトスは、翼を落とされた罪人が幽閉される塔で一人、世と隔離され、長きーー生後16年に渡りそこで生きていた。それは聖都を守護する聖宮守護団の長である、兄ラヴィオルの計によるものだった。
 ラヴィオルは弟が負う謂れなき原罪から守る為、ただの一人で団長の職務と共に彼を育て上げた。ラヴィオルにとって16年の間で一つだけ後悔したことがあった。それは愛すべき弟の誕生日を、当日に一度も祝ってやれなかったことだ。
 不足無くただ守られるだけの生活だった。塔から見下ろす世界では、整然とされた白き建造物と植物の緑、そして水面に反射する光が、悠々とひるがえされる白き翼に反射した光が、煌々とまるで都とそこに生きる全てのものが一体となったように美しく輝くのだ。
 自分もそこで生きたかった。どんなに日々が充実したものであろうかと。翼さえあればと、翼さえあればと、幾度願っただろうか。
 そして、彼は翼を得ることができた。
 最も神に近しき存在とされる聖女ミシェリアが、最も神より遠きとされる翼無き少年に、自身の持つ翼の半分を分け与えたのだ。
 そう、生涯求め続けた自由、今彼には翼がある。
 そのきっかけは、聖都に訪れたある少年であった。人を襲う凶暴なモンスターの心を癒し、本来の性質へ戻すことができる類稀な力を持つ癒術士と呼ばれる存在。
 王国から仕事でやってきた彼はひょんなことからオルトスと同じ棟へ放り込まれ、共にそこを脱し、ミシェリアの元へ辿り着いた。
 彼が与えてくれた布を傷跡に巻いてくれたこと、誕生日を祝ってくれたこと、翼がなくとも同じ心を持った人間であることを教えてくれたこと。忘れぬことなど有りはしない。
 彼が突風に巻き込まれ、落下していく様を見たオルトスは、空を飛ぶこと出来ぬ体で彼の後を追って飛び降りた。
 その時、奇跡と呼ぶものがあるとすれば、それはそうだったのかもしれない。
 ミシェリアの落翼の儀がまさに完了し、翼を得たオルトスが彼の手を掴んだ。
 例え汚れた地上の者と触れ合い罪に犯されようとも、彼を救うことに躊躇いは無かった。

 初めてひとと触れ合った手の感触を覚えている。
「やり遂げる、か」
 彼の胸中には聖都の兄や翼を与えてくれた聖女の姿が浮かんだ。そして、あの少年のことが。
「僕にはやりたいことがある。そしてきっとキミに追いついてみせるよ、ユウ。キミを守れるぐらい強くなるさ」
 手には聖宮守護団長である兄と同じ意匠の槍を。背には聖女より与えられた翼を。槍の口金にはいつかの布を。
「いよいよだ。あれが、雪の国」
 いつか届くように。羽ばたく翼はもうここにある。

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