臆病者、カレーライブで歌う

毎月第1木曜日。僕は定期的にライブでステージに立つ。
ただのライブではない。カレーライブだ。
ちょっと書きたくなったので、したためたい。

高円寺駅から阿佐ヶ谷方面へ向かう高架下。電車の通過する度にレールが一定のリズムを刻むその下、通称「高円寺ストリート」の6番街。そこにある無力無善寺というライブハウス--若しくは芝居小屋か--が会場だ。
立って30、座って20名の客席。フラットで、やり方によっては全体を巻き込めるステージ。トイレはそのステージの斜め後ろに位置する。照明は常にカラフルな蛍光色。入口に対面したソファは破れていて、座ると思っている以上に深く沈む。
ライブハウスだという先入観で来た人は、まず面食らう。中には話題に出すと「あー、あそこね」と嘲笑する人もいる。

反面、そこに感銘を受けたり、或いはなんとなくだけど引っかかるものがあった人は、次も足を運ぶ。そしていつしかステージから客席を臨む側に立っていというのも、珍しい話ではない。無力無善寺とはそれが容易にできる、けれど複雑で、緻密で、無意識の自己を持った者だけが挑める実験室であり、工房であり、おもちゃ箱だと思う。

そんな無力無善寺に僕が立ったのは、2010年の11月。現・カレーライブのレギュラーメンバー、川上テルヒサ氏(以下、テルさん)が開催した職場のイベントだった。
同年の7月にギターを弾き始めた僕は、オープンコードどころか、パワーコードも知らなかった。たまの休みにじゃかじゃか鳴らしては、近所から「最近賑やかね」と皮肉られて終わる程度の初心者だった。
イベントの演目はオケを流し、皆が作ってくれたエフェクターの音で、ギターを鳴らすというもの。水樹奈々の「Bring it on!」、けいおん!の「ふわふわタイム」、サザンの「私の世紀末カルテ」。
客も演者も知ってる人ばかりとはいえ、手も声も小さく震えた。うまくできるどころか、聴いてくれた人に申し訳ない位、訳の分からない事をやっていた。
けれど、そこで辞める事なく、翌年には2月に1度程度だがステージに立っていた。「ライブ幼児教室」というタイトルだった。ギターも歌も一向に上達せず、ライブ後はきまって、高架下にある居酒屋で毎回反省会だった。
当たり前だが、先のイベントの様に知ってる聴衆はいない。友人ひとり来なかった。来る人はテルさんはじめ、他の演者目当ての人だけだった。趣味でやっているとはいえ、惨めだった。

2012年の暮れ。不始末から一時、身体の自由が効かない事態となった。
ライブどころではなかった。
記録的な大雪を見る事なく病室で春を迎え、久しぶりに病院から外に出ると自宅療養が始まった。
満足に動けない苛立ちは我儘に変わり、自分でも分かるくらい、僕は粗暴になっていた。当時付き合っていた女性は、我儘になった僕に愛想を尽かし出て行き、夏前に勤め先の会社はなくなっていた。
現実逃避のため、部屋から出ずにゲームに没頭し、昼と夜の境は曖昧になり、SNSを触れば余計な事ばかりを世間にぶちまけていた。
時間は何も言わず、ただ通り過ぎていった。

少しだけ外を自由に歩ける様になった頃、気紛れで無善寺へ行った。いつも出ていたライブのタイトルは「扶養家族 猫一匹」に変わっていた。
その時の演者に感化されたわけではないが、僕はまた、歌を歌いたくなった。マスターの無善法師(以下、法師)に頼んで出演を決めた。
時間はとにかくあった。だから毎月出た。
ギターも歌も一向に上手くならなかったが、それでも続けた。
仕事が新しく決まり、身体も大分自由が利きだしたので、気分は少しだけ軽くなったのを覚えている。

ある日「先生。先生は、来月からレギュラーね」と法師から言われた。僕を先生と呼ぶのは、法師が僕を尊敬してくれている訳でもなく、また茶化しでも皮肉でもない。法師は名前が出てこない人の事を先生と呼ぶのだ。
名前はちっとも覚えて貰えないでいたものの、僕は無善寺のレギュラーメンバーになった。ちょっと嬉しかった。
だからといって急にお客が増えるわけでも、上手くなるでもなく、寧ろ客足は遠のいた。その枠によく出ていた演者も、環境が変わって来れなくなった人もいた。
あまりにも客や演者が集まらないので、ある日とうとうライブタイトルが「一番人気のない日」になった。
その名の通り、誰も来なかった。酷い時には、僕、法師、テルさんしかいない日もあった。それでも毎月第1木曜。ただただ30分間、僕はギターを弾いて歌った。

2016年6月。
仕事が繁忙を極めており、僕は無善寺に楽器を持ち込む暇すらなかった。
お客は3人。演者は5人。一番人気のない日にしてみれば上出来な客入の日。
僕は自分の出番になると、ステージに1脚置いた椅子にかけ、何よりも大好きなカレーライスについて話した。
観ている側から面白半分に野次が飛んできた。それにレスポンスしながらも、カレーの話をやめなかった。とにかく今、一番聞いて欲しいカレーの話を30分間話続けた。
「カレーやろうよ、カレー」と誰かが言った。誰かの適当で無責任な一言がはじまりだった。皆思いのままに企画を挙げ、ステージに立ったままの僕はそれをまとめた。
その日で「一番人気のない日」は終わり、次の月からタイトルは「恋するカレー」に差し変わった。
タイトルはカレーを作ってくれる女の子が来ると良いねという意味も含めて、テルさんがつけた。

それから毎月、僕は30分あるうちの半分をカレーの話に費やした。一番人気のない日の延長だった木曜、相変わらず集客は芳しくなかった。演者が遅れてくるのは当たり前。入って来て、リハと称して音を少し出した後「バイトがあるのを思い出しました!」と帰ってしまう人もいた。

11月。「恋するカレー」は祝日にかぶった。前々から「カレー出そうよ」という話があった。都度はぐらかしてきていたものの、今回は時間があった。これはカレーを出すべきだと、僕は思った。
けれど僕は料理が得意でなかったし、下手な物を出して食中毒なんて事になれば、目も当てられない。
だから僕は家の棚に入りきらないレトルトカレーと、パックのご飯を無善寺に持ち込んだ。
テーブルも出さず、低い腰掛けに布を敷き、プラスチックの容器に入れたカレーをその上に置いた。来た人にパックのご飯を渡し、それをよそわせるという貧相なものだった。
それでも次の月もカレーを同じ様に出した。

その年末。無善寺レギュラーメンバーだけが呼ばれる忘年会に参加した。
法師が女性と話していた。
「あ、これ。この先生ね…カレー出してる人」
かなり雑な紹介だったが、女性は何となく理解したようだった。
女性の名前は、じゅんじゅんといった。
彼女はカレーの日に興味があったという事で、僕とテルさんで出演を依頼した。何しろその頃はカレーを作る女子どころか、女性演者ゼロだったのだ。これは誘わねばと思った故の勧誘だった。
じゅんじゅんは2つ返事で了承した。
こうして翌1月からじゅんじゅんが加わり、2月にはカレーライブのレギュラーメンバーになっていた。なんと彼女は、僕が及び腰になっていた「自作カレー」を自慢の料理スキルを駆使して作ってきたのだ。先を越されて悔しい……でもカレーは美味かった。畜生。

カレーを出し始めたので、皆がカレーを食べるライブという意味で、タイトルは「恋するカレーパーティーライブ」に変わった。
「じゅんじゅんが作るなら……」
2017年夏。法師はそう言ってオリジナルのカレーを出した。
無善カレーと僕が名付けたそれは、スープ系カレーにレモン、スイカ、たい焼きという、非常に奇抜過ぎるものだった。一見ヤバい見た目にも関わらず、無善カレーは美味かった。
以降、暫くはじゅんじゅんと法師のオリジナルカレーに、僕が好きなレトルトカレーを出すというイベントへと成長した。
じゅんじゅん効果もあり、カレーライブは少しずつ客足が増えてきた。

2018年1月。
前年やって割りかし好評だった餅焼きを、カレーの日に開催した。とはいえ、料理の苦手な僕は餅の大半を焦がしてしまっていた。
見かねた1人が、僕に変わって焼いてくれた。
彼女は名前を初咲里奈といい、じゅんじゅんを観に来たと話した。聞けば、芸能関係を色々渡っているらしい。
終演後、またもや僕とテルさんで出演の勧誘をした。
その2月後、袴姿の彼女は無善寺のステージに立っていた。
そんな彼女を一目見ようと集まった彼女のファン達は、静かな情熱の火を秘め、彼女を応援した。時折、そんなファンからカレーの差し入れをいただいたり、出演予約も2ヶ月先まで取れないくらい、カレーライブは大きくなった。


本来なら手放しで喜ぶところだろう。
しかし、僕は精神的に行き詰まっていた。
もうひとつの趣味である文筆も進まず、仕事も停滞し、交友関係も上手くいっていなかった。何をやっても楽しめなくなり、寝ても醒めても落ち着かなかった。
そうして追い詰められて至ったのは、ライブのきっかけになったあの職場イベント。そして見聞きしていた色々な誕生日ライブ。それを自分自身でやろう。やりたい事を兎に角やって、それで終わったら誰もいないトコで死のうという選択だった。

実際イベントを興すというのは、思っていたより大変だった。人に声掛けし、宣伝のチラシを依頼し、あちこちに声をかけて挨拶にまわり、時間はどうする、出演順はどうするべきか……。勿論、金だってかかる。時間の差し迫る中、本来の仕事の傍らで奔走するうち、死ぬなんて選択肢は、いつの間にか影を潜めていた。

12月。イベントは思っていた以上に成功した。僕は心も財布の中も空っぽになっていた。空っぽになったまま実家に帰り、これまでを思い出しては再び頭に詰め込む作業をしていた。
心にはまだ、消えてしまいたい気持ちが静かに燻っていたので、外から入り込む海鳴りに不安を感じながらの作業だった。
それは、東京に帰る前の夜までかかった。

もう少しだけ、続けてみよう。
それだけが答えとして出てきた。

僕は人に勝るものは何もない。未だにギターも歌もトークも下手のままだ。言わなきゃいけない時に自信をもって発信する事も得意じゃない。
でもやりたい事を、続ける事だけはできる。
だから僕は来月も歌う。 臆病者だからできるカレーライブで、来月も歌う。
そんな奇妙な臆病者のいるライブを、話の種にでも観に来て貰えたら嬉しく思う。

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