【カレー小説】ヱンブレイス・キティ
猫を拾った
アパートの正面入口に差し掛かる塀の隅に、ひっそりと置かれた箱。そこにそいつは入って小さくなっていた。
何かの間違いか、はたまたどっきりかと思い辺りを見回したが、人の気配はない。この時間だ、大抵の人は眠っている。
昼間の暑さの名残りが地面から立ち昇り、湿気も手伝って俺の首筋に張り付く汗がじっとりと不快指数を上げる。
声をかけてみたものの、猫は俯いたままだった。
死んでるのではないかと、その黒い頭を触ったところ、そいつは小さくなった身を更に縮めた。しゃがみ込んで色々問いかけてみたが無反応のままだ。こうして話していても埒があかないし、何より早く飯を食って眠りたかった 俺はそのまま猫を部屋まで連れて帰ってきた。
猫はどこをどう歩いてきたのか、痩せたその体は汚れ、少しの力でぽきりと折れてしまいそうだった。
風呂に入れてやり、自室に座らせる。
卓袱台を挟んで俺が座るとようやくそいつは顔を上げ、小さくはあるが「ありがとう」と言葉を発した。
俺は驚かずにどこから来たのか、何故箱に入っていたのかを聞いたが、そいつはそれ以上発することもなく、ただ身を縮めながら俯いていた。
さてどうしたものか。そう思った時、卓袱台を挟んだ向こう側から威勢の良い腹の虫の声が聞こえた。猫は慌てて自分の腹を抑えた。なんだ、腹が減っていたのか。俺はそういうと手元に置いたコンビニ袋から弁当を取り出し、食うかと聞いた。猫はすっと顔を上げキラキラした目でこちらを見たものの、すぐに表情を曇らせ首を横に振った。
いいから。腹減ってんだろ。
俺は弁当の蓋を開けて彼女の目の前に置いた。
「いいの?」
そいつはぽつりと聞いた。俺が気にすんなというと、そいつは弁当を手繰り寄せガツガツと食べ始めた。誰も取らないからと俺の言葉も聞いていないのかその勢いは止まらず、あっという間に弁当は容器だけになってしまった。
そいつはふぅとため息をつきながら卓袱台に空の容器を置いた。
落ち着いたかと俺は聞いたが、猫は何も発さず。今度はそのまま卓袱台に突っ伏すと寝息を立ててしまった。なんと現金な奴なのだろう。そう思ってみたが、時計は0時台を半分越えようとしているのだから無理もない。俺も眠いし、明日聞き出せばいいか。そう思うが早いか俺もその場に倒れ、空腹で鳴く腹をそのままに目を閉じた。
朝日が昇り始めると外も内も気温を急上昇させ、俺はそんな暑さに起こされた。時計を見ると9時をとうに過ぎていた。暑いわけだ。今年は冷夏なんてテレビは言っていたのに意外と涼しくならないもんだな。そうぼやきながら起き上がった。
ふと俺は、卓袱台の向こうに眠っている筈の猫の姿がないことに気が付いた。あれはもしや夢だったのか。それとももう出て行ってしまったのか。ぼんやりと考えていると、襖の向こうにある流し台から水が勢いよく落ちる音が聞こえてきた。
ああ、いるのかと襖を開けると猫が器用に皿を洗ってやがる。
襖の音に気が付いたのか、猫はこちらを振り返った。
「あ、おはようござ……ぃやす」
か細く小さな声でそう言った。何をしているのかと聞くと
「い、イッシュクイッパンノオンでさぁ。散らかりすぎてたので……」
これまた小さく聞こえてきた。それはありがとう。
一通り流し周りを片付けた猫は部屋に戻ってくると膝を少し落とし、左手を左膝の上に乗せ、右腕を前にピンと伸ばして話した。
「えと、ごとうけの方おひけぇなすって。ボクは生まれはジョウシュウ? 育ちは……えと……同じ。クニからクニへの旅ガラス? その日暮らしをナリ……ナリヤイにしてる、通称……ミーコ……えーっと……ミーコ・パディントンってケチな奴でございます」
あ、自己紹介だ。多分どこかで知った仁義を切る真似をしているのだろうが、伸ばした腕の先は自信なくフニャフニャと曖昧に宙を漂っている。何より、なんだその名前は。とってつけたような……。しかし変な名前がまかり通っているこのご時世、実際にそんな名前かもしれないし、何より折角挨拶をしてくれたのだから変にツッコむのは良くないだろうと思った俺は、ご丁寧にどうもと返した。
「昨日は眠くてお腹がすいてて寝ちゃったけど、もう大丈夫でさァ。助かりやした。このご恩は……えっと、なんだっけ」
猫……ミーコはそう言いながら卓袱台の前に座布団を引き寄せてちょこんと座った。
俺は昨日聞きかけたことをミーコに聞いた。この辺に住んでいる猫なのか、何故段ボールの中に入っていたのか。
「それはですね。聞くも涙、語るも涙でして。聞いてくれますかい兄貴」
いつの間にか兄貴扱いされていた俺は、そのままつられて「うむ、話せ」と頷いた。
ミーコはキョロキョロと辺りを見まわし、付近に転がっていた未開封の割りばしを卓袱台に置いて話し出した。時折妙な節をつけ、卓袱台の隅に置いた箸を叩く姿は講談師の真似だ。しかしあくまでそれは真似事で、うまくないどころかちっとも話が進まず、要点が見えてこない。ひとしきり聴いた俺が要約するとこうなる。
『ミーコはある家の猫だった。飼い主は大変意地悪で、それは酷い扱いを受けていたそうだ。ろくに食べ物を与えず、嫌なことがあれば蹴とばす、叩く等は当たり前で、飼い主に新しい男ができた時は1週間家に戻らないなどザラだった。ミーコは家から出ることを禁じられていた。世界は散らかった部屋と、カーテンの隙間から微かに見える手の届かない風景。
それでもミーコは大人しくじっと主の帰りを待っていた。飼い主が上機嫌で帰ってきた時は、いいご飯を食べることができるし、可愛がってくれる。飼い主が苛々と何かに怒って帰ってくる日が殆どだったが、次はいつあるかわからないその幸せな時間一粒だけでも、ミーコは生きていけた。
ある日、知らない大人が何人も家にやってきた。その中のひとりが飼い主に、ギャクタイをしていると言い。またある人はケンリが云々と言った。ミーコにはこのいきなりやってきた大人たちが何を言っているのか分からなかった。飼い主が大人たちに怒鳴ったり喚いたりするのも理由が分からなかった。ただ怖くて部屋の隅で丸くなって様子を伺う事しかできなかった。
暫くすると飼い主は静かになった。その場に座り込んでブツブツと何かを呟く彼女を通り過ぎ、大人たちはミーコのところへやってくると「いっしょに行こう」とミーコをかかえて外へ連れ出した。ミーコにとってはこの涼しい風の吹く、あのずっと見るだけだった窓の向こうの世界に自分がいる事が不思議で仕方なかった。
ミーコは大きな建物に連れてこられた。
大人たちは「今日からここが新しい家だ」と言った。ミーコは飼い主はどこにいるのかと聞いたが、大人たちは「何も心配しなくていい」「怖かったね」としか答えてくれなかった。
灰色をした建物には、重たい扉が付いたケージがいくつもあり、そのうちのひとつにミーコは入れられた。ケージの中には既に別の猫が数匹いた。ミーコは戸惑ったが、自分と同じような形をしているその猫らに何となく親近感を覚えた。友達になれるかもと思った。しかしミーコは友達を知らなかった。友達という言葉は聞いたことがあっても、その言葉の先をどうすればいいのか判らなかった。
ケージにはそこを仕切っているボスがいた。ボスは他の猫たちに薄汚い新入りを可愛がるよう命じた。そこからは可愛がりという名の凄惨ないじめが始まった。
配られる飯は奪われ、僅かに手渡された私物を隠され、消灯時刻にもなれば枕を顔に当てられ目立たない部分に殴る蹴る引掻く等の暴行。それが何日も、何日も、ここに連れてきた大人たちの目の届かない位置で行われた。
ミーコは何もできず、ただ耐えるばかりで、あの家にいた頃よりも更にやつれていった。
ある日とうとう耐えきれなくなったミーコは、初めて勇気を振り絞り、大人たちに別のケージへ移動したいと訴えた。しかしミーコの願いは我儘とされ聞き入れてもらえなかった。
こんなことならば前にいた家に帰りたい、兎に角家に帰りたい。そう願っていたミーコはある日、大人が閉め忘れた外への扉を見つけ新しい家から逃げ出した。場所のわからない元の家に帰りたくて無我夢中で走っているうちに、ミーコはここまで辿り着いていた』
という事らしい。本当かどうかはさておき、ガリガリに痩せたその身体を見た以上、ちょっとは信じなければならないだろう。
そこまで話すとミーコは腹をぐぅと鳴らしす。俺は時計を見た。9時過ぎだったはずの時計の針は11時をとうに過ぎていた。
そこへ床に転がっていた俺のスマホが小さく振動する。それはメールでも電話でもなく、予定表アプリに記載した予定の時間が近くなっていることを知らせるアラームだった。画面には「陣中見舞い」と出ている。
もう少し掘り下げたいと思っていたがそろそろ出かける準備をしなければならない。俺はミーコにこれから出かけなければいけないし、お前もそろそろ元の所へ帰った方がいいと言って聞かせた。
「帰れる家はもうありませんや。ボクは最早、天涯孤独の身でして」
そうはいってもずっとここに置いておくのは色々と問題がある。困るのは俺だけじゃないか。面倒事は御免だ。
そう思った俺は、いいからすぐに出るんだとミーコを外につまみ出した。
「ちょっと兄貴、そりゃあ横暴じゃねぇですかぃ。ひとでなしー!」
か細い声がドアの向こうからカリカリとドアをひっかく音と共に届いていたが、暫くすると物音ひとつ聞こえなくなり、果たしてドアの向こうは無音になった。
変な奴だった。俺は思いながら身支度を済ませドアを開け、ため息をついた。その足元でミーコは小さくうずくまっていたのだ。
まだいたのかと言うと
「だって、本当に行く場所がねぇんです」
と、弱々しく呟き、その目が潤んだと思うと途端に先ほどまで聞こえなかった大音量でミーコは泣いた。流石にまずいと焦った俺は一度ミーコを連れて部屋へ戻り、タオルで顔を拭かせた。しかしいつまでもこうしているわけにもいかず、俺は考えた末にミーコを連れて行くことに決めた。道々こいつを都合よく引き取ってくれる先を探す――あるいは警察に引き渡すか――というのも含めて。とするならば、全体悪い考えではない。俺はミーコについてくるなら 早くしろと言い、部屋を後にした。
電車を乗り継ぎ、人混みを潜り抜け、どんどん俺は歩く。それを追うようにミーコは早足でついて歩く。当然ミーコの方が歩幅は小さい。距離は少しずつ広がるわけで、俺はできるならこのままはぐれでもしてくれないかと思い始めていた。その反面、何となく後ろを振り返ってミーコがそこについてきているかを確認する自分に気付き、また小さく溜息をついた。
夏のむせ返る空気はそんな俺のジレンマを背中からくすぐり、身震いを誘発させ、目的地までの道のりをとても遠く感じさせた。
心斎橋筋から外れた小さな芝居小屋。
今日は友人が加入している劇団の定期公演を見るのが目的だ。
「あ、お久しぶりですー!」
受付のテーブルに立つ若い女が大きく俺に手を振る。俺は小さくこんちわと返した。
「あれ……? 今日は可愛らしいお連れさんがいるんですね」
女は俺から視線を後ろに向ける。少しだけ振り返って入口を見ると、真後ろにある劇場のドア付近でミーコがこちらを見ている。
ああ、ちょっと事情がありまして。大丈夫ですかね。俺がそういうと女は「ちょっと団長に聞いてきます」と言い残し、STAFF ONLYと書かれた扉の奥へ入っていった。余計な手間を取らせてしまったと思ってると、女はすぐに出てきた。
「大きな声を出したり、暴れたりしなければ大丈夫だそうです」
俺は受付の女にお礼を言い、先程近くで買った小さな花束を友人宛と託け、ミーコを連れて劇場へと入った。
上演時間は90分。休憩なし。70人も入れば満席であろうその箱は所々席に空きがあった。演目は面白くもつまらなくもなく、内輪うけと時事ネタを織り交ぜすぎた喜劇は、どこかで見たような内容だった。低い天井から役者を照らす照明は外の日差しにも劣らず白く、それに照らされた数メートル先の芝居を見ながら、俺は昔のことを思い出していた。
もう何年も前、俺も関東の小さな劇団で台本を書いていた。暫くその劇団のお抱えとして胡坐をかいていたものの、内部と外部の急進派から責め立てられ、とうとう追い出されてしまった。
その当時転がり込んでいた女との関係も同じ時期に破たんし、そこへも居辛くなった俺はある日とうとう女の家を飛び出した。
そして各地を転々としながら何処へも宛のなかった俺は今、西の地でこうして暮らしている。
今舞台で声高らかに名乗りを上げている男は数少ない友人だ。あいつがいなかったら、きっとここでも俺は宿無しだっただろう。
仕事とねぐらを探してくれた友人は、一緒に劇団を大きくしていかないかと幾度となく誘ってきたものの、俺はそれを断り続けていた。この劇団はもう今いるメンバーでまとまってしまっているようだし、何より俺自身、イチから何かを作る気力が一向に湧いてこなかったのだ。
以前、一度だけ原稿用紙に向かってみたことがあった。しかしどうにも筆が進まない。いや、あれだけイメージしたものが指先を伝わり紙に落とし込めていたというその当然だった筈の一切が頭の中でズレを生じ、頭の中で描かれた絵は昔の様に動いてくれなかった。
そんなことを思い浮かべていた俺は自身を救ってくれた恩人が今しがた発した重要な台詞も聞き取れず、ただ呆けてみているしかなかった。
隣にちょこんと座るミーコは笑いもしなければ、鳴きもしなかった。ただ向こうに動く役者の群れを随分遠くにあるものの様に、じっと見つめていた。
長い長い妄想と回顧で埋め尽くされた90分。その終演後は退場の混雑を避けるため、最後の方までアンケートを書くふりをして待っていた。そこへ友人がやってきた。
「来てくれてありがとうな」
彼は俺の手を取り握手をすると、その掴んだ手をブンブンと力強く振った。
「そうだ。今日、夜の回が終わったら『反省会』やるんやけど、お前来いよ。皆に紹介したいし、それに今な、脚本書ける奴も募集して……」
そこまで彼が言ったところで俺は遮った。何度も言うが、俺はもう書けないから。それだけ伝えると、彼は寂しそうな顔をした。そんな顔をされても、できないものは仕方ないのだ。
「しゃーない。んじゃ、個人的にまた飯でも誘うわ。今日は連れもおるみたいやしな」
友人はミーコの頭を軽く撫でると受付前に並ぶ役者仲間のもとへと戻っていった。俺はその楽しそうな背中が劇場と受付を隔てる暖簾の向こうへ消えるまで眺めていた。
そう、そうだ友人。お前の言葉を借りるなら、しゃーないんだ。
「兄貴、ボクお腹すいた」
ミーコがそういったのは戎橋のアーケード前の信号を待っている時だった。この喧騒の中、あんなに小さな声を俺は不思議と聞き漏らさなかった。
何か食べて帰るか。何がいい? そう俺が聞くとミーコは少し俯き、ふと顔を上げた。
「カレーライス」
カレーライス。そうか、カレーか。俺はそう呟きながらカレー、カレーと独特なリズムとつけながら信号を渡るミーコを引き連れて人ごみの中へと足を踏み入れた。
大阪、とりわけ繁華街の中心に位置するこの場所は実に面白い。1本のメインストリートがあり、川や信号を区切りとして屋根がついた商店街が延々と続いている。地下には毛細血管のように小さな道が広がっているが、地上はこの長く列を成すアーケード群に集約されているといってもいいだろう。様々な店が軒を連ね、自転車と人でどこも溢れている。ここに住み始めた時はどこに何があるのか分からなかったし、通りの長さに辟易していた。しかし幾分か時間が流れた今、それらは大して苦にならなくなっていた。
元々人混みも苦手ではなかった。何か考え事をしたい時、これ位人がいる 場所に紛れている方が集中できる。それを話すと、仲間内では変な奴とよく笑われていた。けれど実際、今こうしている時も俺の心はあの小さくも澱んだ小劇場の中より澄み渡り、目的に向かって歯車を回しているのだ。
この辺でカレーライスなら……。そう考えながら、俺はさっきより速度を落として歩いた。
心斎橋筋から千日前通をまたぎ2本目の大きな通り。ビック通りなどと大層な名前のついたこの通りは、やはりアーチ状の屋根を乗せたアーケード商店街が続いている。その角を曲がったところが目的の店だ。
その店はとにかく看板や表示が多い。まず外壁に突き出しの電工看板、それに店先に置かれたランプが光る看板、入口の上にあるフード型のオーニング、そして入口に掲げられた紺色の暖簾。それぞれにこう書いてある
「名物 カレー 自由軒」
これだけ沢山の表記があっても情報量は変わらない。しかしこれだけあると遠目から見てもわかり易いのは確かだ。
昼の時間を少し過ぎたからか行列はできておらず、店内へはすぐに通された。
白く長いテーブルを2連結させた共同テーブルが中央を陣取り、4人掛けのテーブルが数台。それを連結した8人掛けが1台。店の両端には黒板と短冊で品書きが掲げられており、店の一番奥には写真の入った額縁が掲げられている。写真は男が1人映っており、そこには白い文字で両端にこう書かれている
「トラは死して皮を残す 織田作死してカレーライスを残す」
そんな文句が書かれているこの写真の男は、名前を織田作之助という明治の作家だ。夫婦善哉なら学生の頃に興味本位で読んだりしたものの、他の作品については読んだことがない。別に親戚でも何でもないしとりたてて好きな訳ではないが、カレーライスを残しているのなら、余程すごい人物だったのだろう位の感心はいつもしている。
共同テーブルの中央に通された俺とミーコはテーブルを挟まず並んで座った。ミーコはきょろきょろと見まわして感動している。一度カレーライスといったものの、ここには何でもある。ビフテキ、串カツ、オムライス。そのどれもが珍しく感じていたのかと思っていたが、それは違っていたようだ。
「兄貴、これなんて読むんですかぃ」
手近にあったメニュープレートを手に取ったミーコが指さしたのは「ビーフステーキ」だった。ミーコは字が読めなかった。猫だから仕方がないと片付けてしまえばいいが、俺はなんだかそれで終わりにしてはいけない気がしてきた。
「ボク、人が話すのは分かるんですがね、どうも読み書きそろばんてぇなるとからっきしでして……面目ねぇ。あでも、平仮名なら……」
俺はどれどれとプレートに態とらしく顔を近づけ、こりゃお前、ビーフステーキといってな、牛肉のステーキだと言って聞かせた。
「へぇ、なんだかわかんないけど、ご馳走には違いねぇ。で、カレーはどれなんで?」
カレーライスはこれと、これだと俺は2つを順番に指さす。気になるのがあればカレーでなくてもいいんだぞ。俺はそう付け加えた。
「冗談でしょう。一度言ったことは曲げないのがボクのやりかたでさぁ。ところで兄貴、なんでビーフステーキは1つしか書いてねぇのに、カレーは2つあるんで?」
理由は簡単だ。この店にはカレーライスが2種類ある。1つは「名物カレー」もうひとつは「別カレー」がある。その違いは壁にある短冊のメニュー表をよく見れば書いてある。別カレーには小さく「まざってない」とある。
俺は名物の方を頼むよ。とミーコに言うと、慌ててメニューやほかの客が食べているものを見渡して迷っているようだった。しかし先程自分が発したことを思い出したらしく「それならボクも同じのを」と言った。
カレーは注文してから暫くして運ばれてきた。
通常カレーライスは白いライスがあり、それの器半分の空いたスペース、またはライスの上からカレーがかかっているものを大抵は想像する。しかしここで名物と銘打たれたそれは違う。予備知識がなければ衝撃である。
まずカレーとライスが最初から混ぜられて出てくる。ルーらしさとか具のゴツゴツ感はもとより、白く丸い皿の中央、ドーム型、否、円形の火山の火口状に成形された黄色いやや水分を多く含んだ飯が出て来る。その飯の中央である窪みには生卵がでんと割られている。その存在感はカレーを混ぜてある飯のインパクトを視覚的に凌駕している。
「兄貴……これは何ですかぃ。ボクはカレーライスが食べたかったんですがね」
ミーコが思い通りの台詞を発してくれてよかった。
ここじゃこれが主流のカレーライス。混ざってないのは別カレーと呼ばれている方なんだと、俺は自分のものでもないのに得意になった。
「へぇ……なんだかこの土地は、変わったものが沢山あるんで」
ミーコはスプーンを右手に持ったまま、じっとカレーライスを眺めている。
この黄色の火山のような飯をどうやって食べるのか。それはこうだ。
まず手近に置かれた瓶を手に取る。瓶にはソースが入っている。それを黄色の飯に回しがける。何回でも構わない。1回でも3回でも構わない。気が済んだら、そのソースの黒色が外へ逃げ切らないうちに混ぜる。黄身が勿体ない等と言ってはならない。兎に角混ぜる。混ぜていくうちにカレーのスパイシーな匂いと、ソースの酸味を帯びた匂いが合体し、本来あるべき姿に変貌する。生卵にソース。向こうじゃ想像しなかったし、やってもみたくないと思っただろう。しかもそれを完全に混ぜて食べるなんて等と思っていたものだが、実際慣れるとありだ。いや、わざとこの作業を厨房で完成させてこない、客自身で完結させるという手法は中々面白いものだし、実際ソースと生卵を追加するというこちら側の文化には今でもいちいち感動してしまう。
味はもちろんカレーだ。そう辛くはない、けれども味がしっかり残るカレーは生卵にてまろやかさを生んでいるが、ソースの酸味、辛味がまろやかさに埋没させまいとカレーの風味を引き戻し、その均衡を保っている。カレーの黄金比率とでも名付けた方がいいこの手法。この店が元祖という謳い文句はさておき、実にうまい。俺は関西にきて日が浅い頃からこの衝撃を味わうために、事あるごとに訪れていた。
ミーコは不慣れな手つきでカレーをかき回している。それをスプーンで口に運んでいるがどうにもスプーンの持ち方がぎこちない。しかし零さない。それをヒヤヒヤしてみていても一向に進まないので、俺は自分の皿の上を片付けることにした。
ライスの量は普通のカレーよりも若干少なめ。それはこの店の両端に貼られているほかのメニューと併せる為だ。例えば「焼肉」なんて単品メニューにカレーをつけると、この店では「焼肉 カレー付」と表記されている。名物であるはずのカレーは名実共にいったん隅っこに追いやられる。しかしいいのだ。おそらくそうやって定食の片隅で輝く満月を携えた火山という位置に据えられることで、本当の威力を発揮できる代物なのだ。
しかし今日はそんな気力も財布の中身もないのでカレーだけ。今度給料が入ったらいろいろつけてみたい等と俺は思っていた。ミーコは口の周りを黄色くしながらうまいうまいと食べている。昨晩のようなガツガツ感はなくなっていた。やはりあの時は本当に腹が減っていたのだろうか。俺はカレーを食う猫を横目で気にしながらカレーを平らげた。
辛いものを追い求めると物足りないが、辛さも分量も実はこの位が丁度いいのかもしれないと自分に言い聞かせ、俺はミーコが食べ終わるのをじっと眺めていた。
食べ終わって外に出ると、クーラーのきいた店内から出るにはちょっとした勇気がいるという誰かの言葉を俺は思い出した。汗が噴き出しては流れていく。俺は暑っちぃと騒ぐ猫を引き連れ、駅へと歩いた。自転車も人も一様に足早で、日よけのアーケードの中を泳ぐ鰯のような群と化し、俺たちもいつしかそこに溶け込んでいった。
昼間のうちに地面にしみ込んだ熱は夜になって噴き出し、今夜も一帯を暴れまわる。
俺が風呂から上がると、ミーコは部屋の隅にある勉強机の前に座っていた。机の上は片付けていたはずだが、随分と散らかっていた。どうやらミーコが何かを見つけてそれを取ろうとしたところ、つられて引っ張られた左右の資料やノートが雪崩を起こしたようだ。何か探しているのかと俺が声をかけると、ミーコは肩を大きく竦めながら振り返った。
こちらを見たミーコの眼は、昼間あのカレーを不思議そうに見ていた時のキラキラしたものではなかったし、単に驚いたという表情ではなかった。何かこう他の、どうしようもない絶望感と自分自身の至らなさに対しての嫌悪感が交じって映っているような、そんな色をしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」
ミーコは夕べより小さく、震える声で何度も何度も呟くように謝っている。
俺はミーコの頭を撫でた。机周りの片づけよりも先にこの震えている猫をなんとかしなければと思った。ミーコを抱きしめ、大丈夫だから落ち着けと 優しく言い聞かせた後、卓袱台の前に座らせ、冷蔵庫から牛乳を取り出すと2人分コップに注いでそれぞれの前に置いた。しかしミーコも俺もそのコップに手を伸ばすことはなく、どちらも声も物音も発しなかった。どこかの部屋のベランダに吊るされている風鈴の音が、網戸から吹く外の涼風と共にキンと耳に入ってきた。
お互い黙ったままの状態で夜が明けるのではという心配をし始めた頃、ミーコはぽつりと話し始めた。
「覚えのあるものを見つけたんでさ」
覚えのあるもの。何を見つけたのと俺は聞いた。
するとミーコは立ち上がり、机の上を探ると、それを掴んで卓袱台の前に座った。それは1冊の本だった。どこで買ったか……いや、貰ったんだったか忘れてしまう位古ぼけた本。表紙には「山月抄」と書かれている。本には値段も商用のバーコードもない。どこかの誰かが自費出版したものだ。
それが見覚えあったのかと聞くと、ミーコは少し俯いてかぶりを振った。
「違った。違いました。昔、飼い主の父親にあたる人が訪ねてきたとき、これと似た色の本を買ってくれたんでさ。絵が多かったそれをその人は読んでくれましてね、この字もコトバも満足に知らないボクにですよ。嬉しかったなぁ。その人のうちに転がり込んでた時期がありましてね、その時あの人はずっとレコードを聴いてました。何を言ってるか分からないけど、誰かがずっとしゃべり続けるレコード。それを耳にするうち、こんなボクでも話せるようになりまして……あの人が動かなくなった時、飼い主はボクをつれて元の家に帰りました。それっきりあの人とは会ってませんや。これを見た時、兄貴。ボクはなんだか随分昔を思い出して、これを開いたらまたあの人が……あの人がね、ひょっこり帰ってくるんじゃぁねぇかって……」
ミーコはゆっくりか細い声で、言葉を思い出しながら俺に話す。俺は聞きたいことがあってもただこの小さな猫が話にピリオドを打つのを待った。怯えた目をしたミーコはそこにはおらず、ただ内にあった「あの人」の話を睡魔が襲うまで俺に話してくれた。
その晩、俺とミーコは1つの布団で眠った。1人で暗い中眠るのは怖いと睡魔と闘いながらいうミーコに従った結果だった。この部屋に自分以外の熱を帯びた生き物がいるのは引越してきてから初めてだった。窓から涼風が吹くとはいえ、真夏の夜だ。暑いに決まっている。それなのに、2人とも互いを離すことはしなかった。この俺の中で丸くなるこいつを抱いて目を瞑っていると、そこから伝わってくる熱が俺に昔の夢を見せた。今の季節とは真逆の寒い夜。どこへ行くのか自分でも分からなくなった時、両腕に灰色の小さな猫を抱いてただ歩いていた。息は白く、空は高く、すれ違う人も皆寒そうにしている。こうしてあるいて、あの後何を食べたんだっけかな。
俺が呟くと、腕の中にいた灰色のケモノは顔を上げて言った。
「カレーライス」
俺が目を覚ましたのは昼前だった。
布団とシャツを湿らせ張り付いている不快な汗をぬぐおうとした俺は、ミーコがいない事に気が付いた。俺は起き上がると部屋中を探し回った。流しから部屋を振り返ると、夕べ片付け忘れていた勉強机が片付いており、そこには紙切れが1枚落ちていた。拾い上げると鉛筆で落書きされた線がその身をくねらせて不均衡な列を形成していた。それらの線が平仮名だと気が付くのに沢山の時間は不要だった。
「あにき
やはり ほくわ
とせにんで あいすません
ごめわく かかつてごめんください
でてきます
かれえの おりしいこと
ありがとござんす
みいこ 」
猫を拾った。小さく愛らしい、痩せがまんも華よと言いながら生きてそうなメスの猫だ。
蝉の声に交じってどこかで猫の鳴く声がした。俺はふと窓を見るが、そんなわけはないなと呟き、紙切れをたたむと卓袱台に置かれた「山月抄」の中に挟み込んだ。
〈おわり〉
(初出:2016年12月)