【掌編】『初夏を聴く』
初夏を聴く。
「これから言う言葉のイメージに相応しい曲を聴かせて。夏、朝、夢」
マンションのべランダに出る。このごろやっと優しさを纏うようになった風がほんの一瞬だけ頬を撫でて行った。手摺に掴まって夜明け前の街を見下ろす。ヘッドフォンから音楽が流れ始めた。マーラー 交響曲 第三番 第六楽章、弦の響きが静かに立ち上がった。
「会いたかった。君なのかい」
そのとたんにヘッドフォンのボリュームが一気に上がった。マーラーの交響曲に飲み込まれる。君といた頃は良く一緒に聴いたっけ。でもあれから聴くことはなかった。大好きな曲なのに。
作曲者マーラーによる標題『夏の朝の夢』。結局、標題はマーラー自身によって破棄された。それでも一旦僕の中に取り込まれたイメージを消し去ることは難しい。この音楽と夏と朝と夢は切り離すことはもうできないだろう。
そしてまた静寂が訪れると木管楽器の対旋律を伴って冒頭の主題が戻って来る。あの頃の夏の日の朝の空気に包まれる。
「君は夏が好きだった。僕もそうさ」
AIを育てる仕事に熱心だった君。あの日、もう何も教えることがなくなったと呟いた。それから間もなく君は姿を消した。残されたそれは僕にとって最早ただのコンピュータシステムではなかった。
交響曲は壮大なエンディングを迎える。すべてが終わった静寂の中、もう一度問いかける。
「君なのかい」
(了)
こちらからお題をいただきました。