南部縦貫鉄道の思い出
南部縦貫鉄道は、かつて青森県の七戸町から野辺地町までを結んでいた私鉄である。(見出し画像はwikipedia掲載画像より)
いわゆるレールバスと呼ばれるバス型の一両編成の車両が走っていた。
地元民はそんなかっこいい呼び方など知らず、ただ縮めて「じゅうかん(縦貫)」と呼んでいた。
昔々、自分が保育園への通園のため乗っていた。
多分、この路線で通勤や通学していた人はそう多くはないだろう。
そういう意味では貴重な思い出かも知れない。
それとも自分がそう思っているだけで使っている人も結構いたのかな?
当時の自宅近くの駅から保育園近くの駅まで1年(記憶が曖昧)くらい通った。
運賃は当初五円だったのを覚えている。途中で十円とかに値上がりしたように思う。
毎朝、五円玉を園児カバンの前ポケットに入れ「じゅうかん」に乗った。
時々、五円玉を忘れることがあったが、車掌さんは明日持って来れば良いよと言うだけで乗せてくれたっけ。
途中の「天間林」駅では、上下すれ違いのため停車した、そこでは例の輪っかの受け渡しの儀式をなんのためにやっているのか不思議な思いで眺めていた。
保育園の帰りにじゅうかんを待つ間、数人の園児と駅でわいわい騒いでいたのも良い思い出だ。
その駅はそこで叫ぶと山彦が帰ってくる場所にあって、待ち時間の格好の遊びになった。
また、自宅の駅付近は、近所のガキ共の遊び場の一つであった。
当時その周りは家が無くすぐ脇に神社があって、その神社の境内で虫を捕ったり、線路に耳をくっつけてレールバスが近づくのを待ったり、これは今だから白状するが(ごめんなさい)小銭を線路上に置いたりしていたずらしたやつもいたし、警笛を鳴らされてみんなで逃げたりもした。
そんな身近な存在の「じゅうかん」だったが、別の保育園に移ってからは乗る事はほとんど無くなった。
野辺地の親戚まで行くときに時々乗ったりもしたが、普段の足は父の自家用車であって回数として多くは無い。
その他に覚えている事と言えば、七戸駅から十和田市まで延伸の計画が進んでいた事である。
実際に工事も進んでいて国道4号線沿いに線路が引かれる場所に土が盛られたりしてコースもわかるようになってきていた。
それが、1968年の十勝沖地震(多数の犠牲者や建物、鉄道等の被害が出た)により計画が頓挫して、工事が途中のままの状態で放置された。
今でも覚えているがとても大きな地震だったので地元経済への影響は甚大だったのであろう。
延伸後の縦貫に乗るのを楽しみにしていたが、それは叶わなかった。
開通していたらまた違った景色も見られたに違いない。
マイカーが普及し公共交通機関はどんどん苦境に追い込まれた。
「じゅうかん」も真っ先にその影響を受け廃止となった。
スピードを上げた時の、あの酷い乗り心地も、やかましい音も、つぎはぎだらけのビニールのシートも今となっては懐かしい。
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